SRについて思うところ(その2)

1985 年という年
 この年辺りからオートバイ関係の諸経費が大きく高騰し始めました。とりわけ自賠責保険の上昇は凄まじいものでした。
 若干の違いがありますが、高速道路の通行料金は自動二輪車と軽4自動車同じ料金というのも納得がいきません。二輪の場合は占有率も道路の被損耗率も軽四 輪に比べて低いものです。
 そして、このオートバイが私の心からオートバイを遠ざけた、と言っても過言ではありません。
それは、ヤマハ スポーツ RZV 500の出現


 シャクですが、ライダースクラブでもアルミフレームに輸出向けエンジンのテストでしたので、根本 健さんも大きく取り上げなかったのかもしれません。今 でもエンスーはいらっしゃるでしょうけど、そう取り立ててYZRを追い求めるわけにはいきません。
 したがって、1985年以降、私の自動二輪は車検切れを静かに待つのみになりました。合わせて車庫の問題も浮上し、湿気の多い場所に置かざるを得なかっ たので、トライアンフはこの後再始動する段において結構苦労したところです。
 が、RD250を買い戻したため、乗れるオートバイはこれ1台になりました。まさか、ほぼ8年間ほどこのオートバイを愛用するなど考えもしなかったとこ ろです。

自動二輪復活の兆し
 復活ののろしが上がったのは1992年、1年車検をよしとしてトライアンフの車検を受けることとしたのです。イギリスのローバック・モーターサイクルか らパーツを仕入れたりして、楽しいひと時を過ごしました。
 初めてシリンダーヘッドを外して整備するなど、整備性の高いオートバイには、非常な喜びを感じていました。カーボン取りとバルブの摺り合わせのみでした が、パフォーマンスが上がった後、少しばかりたじろぐことになるのですが、その後のオートバイの2年車検の確定、保険料の引き下げなどから、当面はトライ アンフの使用ばかりになりました。

 さて、問題が起こったのが1996年の5月頃ではなかったか、と思います。息子は高校生、私は45歳を迎えようとしていた時でした。
 ホームページでも記載していると思いますが、この年の夏に徳島へ出向かなければならない用事ができて、列車で高知へ出かけた時と同様に、予讃線〜高徳線 と出向く徳島へも苦痛を伴ったことを思い出すと、列車では上手くないな、と思いました。また、雨の日になると、トライアンフでは少しばかり心もとない状況 であったのです。
 出かけるのは8月ですから、それまでに対策を取ることは十分に間に合うのですが、当時の状況として仕事を終えてオートバイを触るには難しい時代になって いました。これらのことを考えると、安心して乗れる大きいオートバイが必要であったわけですね。

 先に出したRZV500のリリースでもおわかりのように、すでに国産車でも100万円クラスに届くような価格のものも存在します。排気量も上限の設定は なくなっていましたが、私の経済状況から数年間にわたってローンを組んで、これらのオートバイに乗り続けるのは不可能だったのです。
 ほぼ、5月の終わりごろから2週間ほど、どの新車にするかを真剣に考えました。インラインフォーのエンジンにするか、価格はどうか、サポート体制はどう か... などなど。
 まずは、オートバイを専門にやっているところが無いスズキは除外せざるを得ませんでした。カワサキは車種は該 当するものがあったのですが、格好から大きさを判断できないZZRシリーズぐらい。が、使用目的に沿いません。 
 ホンダはホンダとしてオートバイに精通したショップがない。というところから、私の使用目的とローンを組む予算と期間からは該当するところが少ない、と 判断しました。
 当然、ヤマハからとしてもSR400/500、FJ1200などが候補にあがります。が、通常使用できるオートバイとすると、手軽な750まで、となり ます。
 再び、セレクトの枠を増やしますと、最終段ではパーツ供給の関係と長年親しんだヤマハからSR400/500に的を絞りました。
 2011年の今ではXJR1300ぐらいが一般でしょうけど、当時はようやくオーバー750が一般化しそう、という時期だったのですからいたしかたない 判断であった、と後悔はしておりません。

誰が乗るか
 次なる問題点は400にするのか500にするのか、であります。前述のとおり、息子は高校生、妻は中型二輪免許があります。一家に一台のオートバイとす る夢のファミリービッグバイクライフを夢見ていました。
 8月の徳島出張の一件とはずいぶんと考えが変わっていますが、フッとそういったところまで考えを張り巡らせていました。
 しかし、すでにオートバイに乗っているのは私だけになっていますし、息子も2年後にはこの地から離れそうですので、結局私自身のためだけしかないオート バイであることに気付きました。
 しかし、SR400の完成度に比べてSR500はやはり難しい。いくらBST34のキャブで18インチのフロントであっても気がかりなところは変化がな いであろう、と推察できましたので、一気にSR500でOKとはならなかったのです。

 実は1996年当時まで、私はチョイ乗り程度でもSR400に乗ったことは一切ないのです。 
 ウッソー?!とおっしゃるかも知れませんが、事実です。このことは、これからのことに重要な問題を含んでいたのですが、この時は頭の中に一切なかったこ とでした。

 大阪のテーマというショップがホワイトブロスのスーパートラップを格安で販売していた広告をオートバイ雑誌で見つけたのもその頃です。
 この件を含めて、私の頭の中には次々に悪い計画が浮かんできます。まったくバカげていますが、木を見て森を知らずの例え通り、SR500の特性を無視し て机上の空論で計画が進行します。
 もし、この時点でSR400に乗っていれば... 。ところが、SRブームも一段落していた時期ですし、この地方で今さら古臭いオートバイにあえて乗ろうとする人もめっきり少なくなってきた時期ですから、 私としても重要なチャンスを逃した、といえるでしょう。

 こんなことがあって、SR500かSR400かの選択問題は一時棚上げになりました。ようやく盛んになりだしたインターネットのホームページ関係でも、 まだまだエンスー好みのサイトなどありません。カタログスペックなどくそくらえです。ところが、ひとつの広告が目に入りました。
 それは二番煎じになりますが、WMの廿枝代表の「SR400は日本を代表するオートバイ」ということばでした。

 なぜ、SR400が日本を代表するようなオートバイなのだろうか?。逆にいうと、SR400は石部金吉のような状況になっているのではないか、とも感じ 始めました。ちょうど最初の750ccオートバイであるホンダのCB750が市販されてしばらくのとき、石部金吉が言われました。2011年の今、EFI の SR400はそうなりつつありますが... 。

 しからば、こんな片田舎のオーナーでもやることはやったれ〜、とSR500にするぞ、と決めたわけです。ちょうど45歳の誕生プレゼントでもあったわけ で(笑)

 即座に、労働金庫へ資金の算段をした後、内田自転車商会へSR500を発注しました。
 通常ですと、売れていないSR500のこと、全国から引いてくるのが当たり前でしたが、当時の内田さんが南予のヤマハ総代理店でしたので、生産時期が最 近のものを出すようヤマハ四国へ申し入れをしたとのことでした。

 1996年6月、6月生産分のSR500が届きました。以下、ホームページに記したSick'n SRを何とかするに結び付くことになるのですが、そう簡単に改造した効果がもたらせられるものではありません。

 これまでが、私の愛用オートバイとなった1996年モデルのSR500の序章です。これからは、Sick'n SRを何とかするまでのことを少しずつ記載したいと思いますが、重複する部分はお許しを。



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