T-140Vというトライアンフを購入するまで

 残念ながら僕は650(T-120かな)のトライアンフに乗ったことは な いため、何とも750との比較のしようがない。そこから「650のツインはどんなオートバイ?」という疑問、「本当に雑誌などで紹介されているような走り 方をするの だろうか?」という素朴な疑問が生じてくるのだけれど、こんな疑問は各々のユーザーなり評論家にまかせておきたい。
 別項のテクニカルな面とは別に、僕のT-140Vを購入するところから始めてみたい、と感じてこの項を起こしてみた。

いきさつ
 今まで明かす必要もない、と感じていたのだが、1970年当時、XS650Eに乗っていた僕には、トライアンフの650ツインの良さはさっぱり分からな かった。フレームが一部改良されたXSのこともあって、その時のトライアンフはフレームがシングルクレードルだからXSよりは弱い、と感じていた。しか し、このオートバイは全体のバランスがすばらしくいいんだろう、そのために当時の世界の名だたるオートバイの一つになり得たのだろう、と思っていた。それ に、この方式は間もなく歴史の隅に追いやられる、と感じていた。

 全てはホンダのCB-750が出現した時点から大きく流れが変わった。僕らは全くリアルタイムでそのことを感じていたわけである。いくらトライデントT -150とかBSAのロケット3でも太刀打ちできなかった高性能市販車がいとも簡単に一般に入手できる、この現実は今とは較べものにならないほど凄まじい ものだったのである。
 今では信じられないだろうが、当時は現実に125ccで自動二輪免許を取得し、その日の内にCB-750に乗っている連中もずいぶんと多かったのだ。

 しばらく後にそれを上回る高性能と高品質のオートバイが出現した。カワサキZ1である。この辺から想像を絶するオートバイの世界へ世界が突入する事とな るのである。現に750ccを超えるオートバイは国内販売しない、という自粛規制や、高校生の免許取得が出来なくなってしまったこと、125、400、そ れ以上よいう免許のカテゴリー、逆輸入車、俗に言う「刀狩り」というスズキの刀のハンドルバー問題などなど、規制がひどくなり、自賠責保険が高くなり、 オートバイの環境は悪くなるばかりであった。今のようなオーナーの自主性が問われる状況になったのはごく最近のことである。

 僕がCB-750に乗らなかった最大のポイントは、持つこと、ライディングすることのステータスが数年ごとに変わっていくことが十分に予想されたから だ。数か月後にはサイドカバーが丸くなったし、テールランプが大きくなったし、メカニカルのイズが減ったし、相当にモデルチェンジが行われてきたのは周知 の事実だ。

再び意識する
 そんな中ではあったが、トライアンフ ボンネヴィル650の全く新しいモデルが1971年にリリースされた。僕は日本へ輸入されたシャンペンゴールドイ エローにブラックのタンクトリミングされた対米仕様のこのオートバイのことが頭の中から離れなかった。残念ながら価格も上がったし、ますます購入しづらく なったが、オイルベアリングフレーム、というオイルタンクをフレームのメインチューブを利用した高剛性のフレーム、それに信頼性のあるエンジン。これが僕 をこのオートバイに注目させ、意識を維持させてきたた最大の要因である。
 このオートバイのことが記載された雑誌は今でも持っている。

回り道かな...
 そうするうちにTX750で大きい失敗をしたヤマハが76年にとんでもないオートバイ GX750をリリースしてしまった。このオートバイは今でも持っている。気が向けば再整備して車検を取れば走れる状態になっている。
 僕のXS650はTX650 IIになっていた。雑誌でのインプレッションは好評だったが、フレームから何から重くなりすぎていた。XSを売るんじゃな かった、と感じたが後の祭り。こういったことがあってから後、僕は無闇に「もの」を売却をしなくなったのではないだろうか。

購入へ向けて
 為替が変動相場制に移行してドルが安くなったのもこの頃だ。多くのトライアンフディーラーへ中古の71年モデルを問い合わしてはみたものの、全くなかっ た。こ の頃はTX650がメインで、メグロのS3と併用していた頃だ。TX650を売却しGX750を先に購入した。S3は77年頃だったろうか、九州の熱烈な ファンの方へ嫁いでいった。今でも乗られているのではないだろうか。
 幸か不幸か、1976年の春、故  堀ヒロコさんがホームモデルのT-140Vに乗っていらっしゃることを知り、資料を取り寄せた。
 僕のおかしな考えだが、前後のブレーキは同一仕様に限る、と決めていたので、初期型のT-140Vではリアブレーキがドラムだったし、僕はこれをヨシと しなかったのである。
 堀ヒロコさんが乗ってらっしたのは前後ともディスクブレーキが装着されていたから、俄然熱が入った。現実に入手するには今しかないのではないか、と考え 宇和島 市内の銀行へ「外国のオートバイを購入したいのだが、何とか融資の道はないか」と問い合わせたが、愛媛相互(現 愛媛)銀行のみが真面目に受け付けてくれた。ヤマハマリン関連からボートを1艇購入することとし、オリエントファイナンスを利用して48回ローンを組める ことが確認できた。
 早速、当時の総代理店であった、東京の村山モータースに電話をするとゼネラルマネージャーの川名氏より、次の入荷が10月(1976年)下旬になる。残 り1台の割り当てがある。その次の入荷は一切未定である、との報を受けてT-140Vの新車を購入することになったのである。
 が、一向に入荷の見通しが立たない、という村山側の返答にがっくりするばかりの日々であった。回りからは将来が判らないメーカーのオートバイなんて止め た方がいい、とも言われる始末。こんな悶々の日々であった。
 11月の中旬、入荷の予定が分かった、との連絡が入る。整備と車検で12月20日以降に引き渡し、高知へサンフラワーの無人貨物で送る、という。返答と して12月 26日という日を指定した。

受け取り
 高知へ荷物を受け取りに行く日は雨であった。今と違って陸送には絶対に安全策を講じなければならないし、ましてや全く知らない外国のオートバイを自走さ せて運ぶわけだから、国道56号線の往復とする。相棒は宇和のT君のカローラバン、仕事の関係から午後から高知へ向けて出発する。
 新車の納車には相応しくないような雨天時走行であり、往路から何とも嫌な気分がつきまとう。ほぼ3時間半の行程の後、午後4時過ぎに高知港へ到着。荷物 置き場にピカピカに輝くT-140Vが僕を待っていた。
 興奮気味の気持ちを抑えることが出来ず、5,000円の輸送料金を支払って、ハンドブックなどを車に託して、ペトタップをオンにしてティクラーを押して キャブをオーバーフローさせる。チョークを引きキーをオンにしてキックを踏み下ろした。ババババ〜と始動して5分、夕暮れ迫る高知市内でガソリン補給して 帰宅することとする。時に1976年12月26日午後6時であった。
 中村市、宿毛市を過ぎる頃、すでに僕の心は全くT-140Vに順応してる。何から何までが堅い。雨のせいもあろうけど、想像以上によく走るオートバイで ある、と確信できた。
 時速は50km/h近辺で、これより回転を上げることが出来ない。まさしく、この面に対しては旧態依然の古いオートバイのエンジンだ。幸いにも冬にして は暖かい雨だったため、ずぶ濡れになりながらも無事に陸送できて午後10時近くに帰宅した。
 オートバイのトライアンフとの出会いはないけど、意識を高め、机上の勉強で知識を蓄え、メグロで右足のシフトを身につけ、XS650でツインの味を感じ て のT-140Vのいきなりの購入。それから26年間大過無く今に至っているし、想像以上に今を生き抜くことが出来るようだ。




[もどる]


inserted by FC2 system