赤松遊園地とモロモロ

 今はもう秋、船をたたむ頃...
 ふと、いつもの10月頃だと、この歌を知らない間にハミングする。ホンの休日の午後、息子とともに自転車でポタリングを楽しむ。住吉小学校からの道を掘 りきりを通らずに下の道を行く。大浦湾を左手に、九島が見えだす。青々したテッペン松も今はない。段々畑も遠い過去、流行った温州みかんの木も荒れ放題 だ。
 赤松のバス停。昔は便数の少ない宇和島自動車のエンジとシルバーのボンネットバスが凸凹の地道をここまでで終わった。赤松へは船の便が第一であった。一 般人には自動車など高嶺の花... 。

 父はチヂミの半袖シャツとズボン下。黒のゴム長に麦わら帽子。水月道のパンを買ってくるなど用意万端だ。母はいつものこととして、無視している。僕はど うでもいいと思いつつ、海でのことがどうなるのか、と期待が無いわけでもなかった。
 盛運桟橋からは「はまちどり」の小型船。格好はいいが焼き玉エンジンで振動が大きい。その割には愛らしい船で僕は好きだ。20分も乗るだろうか。赤松遊 園地。竜宮城の門を通って入場となる。園内の人出も多く、ラジオ放送とも何とも判断がつかないものが拡声器から流れている。
 着替えをして、父から賃貸しのタイヤチューブの浮き輪を与えられる。泳げない僕は「コレは大きすぎる」という勇気が出ない。
 裏の砂浜へ下りる。足の指間からヌルリと砂が盛り上がる。「イヤダ〜」ヌルヌルなんて大嫌い。細かい黄色い砂は公園の砂場の川砂の感触とは違いすぎる。 早く水の中へ... 。
 「こらっ!、ゆっくり行け」と父。一刻も早く水に入りたい。気持ちの悪いところから逃れたい。身体に不似合いの大きな浮き輪に身を入れて、必死になって 両手でかかえて水に入る。多くの人に見られてるなどの恥ずかしい気持ちは起きない。とにかく水へ入りたい。ヌルヌルから逃れたい... 。
 バシャッ!。いきなり自分の足で散った水が跳ね返る。「辛い」。ヌルヌルの後は辛い。再び嫌な気分が支配する。恥ずかしい話だが、海水が塩辛いなどは教 えられていない。必死の重乗。足をばたつかせようが何をしようが大きい浮き輪がジャマをする。
 父ちゃんは?。父ちゃんが居ない。緩いながらも潮流がある。僕は身体の自由が浮き輪に阻害されていても潮流で大きく迂回されて元に戻されていた。散々疲 れ果てて足が砂に届く。再び浮き輪を持ってヌルヌル... 。
 あれ?、硬いところもあるんだ。海水が引いて直ぐのところはヌルヌル。それ以外はサラサラ。ナーンダ、そういうことか。子供心に感じた海の初体験であっ た。
 「どうであったか?」の父の問いに、自分の小ささに気付いた僕は何も言えなかった。ほんの十数分が何時間にも感じられた。
 陸に上がり、浮き輪を返して正面側へ。宇和島の方を向いてしゃがんでいる。緑色の毛糸の海水パンツから滴がぽたぽた落ちる。腕の海水が乾いて白くなって いる。足の指はシワシワが残っている。海のこと、泳げないことを初めて知った。
 ドボーン。僕より少し大きく真っ黒に日焼けした男の子が板飛び込みから2mほど下の海に飛び込んでいる。おそるおそる飛び込み台へ近づく。海を覗くと怖 い。ギー、ギー、ドボーン。ブランコからも飛び込んでいる。ガイナなー。驚きとも何ともつかない気分。真っ黒い男の子達の中に白い身体の僕が置かれている にもかかわらず、怖くはなかった。「どっから(どこから)来たんぞ?」と声こそかけられなかったが、彼らから見下げた目で見られず違和感がなかったのは僕 がハダカの上に、父がつきまとわっていなかったからだろうか。
 途端にお腹が空いてきた。売店では色んな物を売ってる。無理とはいえ、父にねだる。即座に「帰ってからだ。セーピス(カルピス)もサイダーも帰ってから だ」と。「ホレ!」と水月堂のパンと持参の番茶が... 。
 いつの日か僕一人で来て飛び込み台から飛び込んでやる... 。

 「お父さん、もう帰ろう」と息子が声をかけてくる。息子は幼稚園の頃より銭湯で泳いでいた。一度お湯を飲んで恐怖を感じていたが、それを乗り越えるとコ ツをつかんだ。小学生の今、平泳ぎが得意なのは妻の遺伝子が入っているからだろうか。
 ン、帰ろうか。二人は自転車にまたがった。間もなく冬の季節が来る。
(ペーパーベースのGridから抜粋加筆)




赤松遊園地の覗き岩

 あれから半世紀の時が過ぎた2008年10月。この冷え込んだ地、この地から再び何かを出すには、という大それたものをやることはない。NHK総合テレ ビで出ていたのは三重県のと、ある町で「何もな いが何かある」とかいう合言葉で町づくりをやっているところを見た。発端は子どもの引き受け、今で言う留学制度をアピールしてからだ。生活が苦しいのは 解っているが、全体がやっているから妙に明るいんだね。
 この番組を見て、この地、宇和島のやり方は大きな間違いをやっているその上に、手当たり次第で上っ面だけ をやって結果を得ようとしている。行政も一般もおんぶにだっこと強力な足引きが公然とまかり通る。
 パールデザイン、なぜ真珠なんだ。真珠の何をどうしようと言うんだろうか。山梨甲府のデザイン塾塾長の講演はよかったが、この街への参考にはならなかっ た。僕自身も「宇和島デザイン塾」という、県も絡んだやらせにおつきあいしたが、今回は遠慮した。

 カラー写真で紹介した覗き岩のある赤松遊園地は、旧宇和島市の海の玄関口に存在する。

 

 覗き岩も今から50年ほど前の姿はこういった状況だった。モノクロのため、ニュアン スが伝わりづらいかもしれないし、天候も曇っていた。

 

 上の右の写真は、その当時の赤松遊園地での海水浴姿はこういった状態。右は今。左の写真の右上の石垣は残っているが海の家はない。護岸は整備され、舗装 路 が走っている。 ブランコのみが残っている遊園地正面側にしても、その前面にある養殖イカダなどはなかったし、段落ちになった深い海で、もっと青々していたはずだ。
 海水浴場の人気もその後、高島遊園地へシフトし、南宇和郡の鹿島は高級遊園地となって、赤松遊園地は時代から取り残された。
 もう少し早くここまでの道路が整備されていたら...、とかいうことは止めるが、事実、この遊園地はその後客も少なくなり、今では泳ぐことすら困難な時 代になった、というわけだ。賑わっていた ころから 50年近くの時が経過した。

 話は変わって、いつもの同級生の集い。9月は近所のホテル屋上での芋炊き。そこで、以前から言われていたことだけど、10月は「水交園」で、昔のように 宴会をやっては いかがだろうか、という持ちかけ話が発端である。
 「水交園」一体どこにあるんだ?。津島町にはスッポンの養殖屋がある。これは今回の「水交亭」ではない。「水交亭よ。赤松遊園地の中に在るや ろ〜?」と宇神氏が言う。な〜んだあそこか。



 子どもの頃、ここはお金持ちが料理を取って宴会をやるところ。あるいは高級な海の家と思っていた。今はそこそこの面影しか残っていないが、下の写真は昔 あった一般の海の家(板の間にゴザを敷いただけの縁台)から眺めたのが水交亭である。



 この水交亭で本当に一杯やったのは、僕が教育委員会時代、保健体育課の職員が夏のレクリエーションの行事として、当時力を入れていた学校保健の関係から 幼稚園教諭とともに遊びがてら行ったときであった。今から32年も前のことだ。この時は昼間だったが、到着すると、釣りあり、ボートあり。中には勢い 余って(逆の)キレイな海に飛び込むものも居た。
 午後5時過ぎから宴会をやって、終りとなってタクシーを呼んで今の文化会館前で9時にはお開きという具合。結構楽しかったのを思い出す。

 その赤松遊園地へ再び目が向くようになったのは、別項(映画「南海の狼火」)で記載しているとおり、2006年の夏、お早うサイクリングで赤松遊園地へ 出向いた際、大塚真珠の邸宅を見て、気になっていた映画「南海の狼火」で出た風景は今どのようになったか、と思い立って少しずつ検証しようと始めたところ であった。

 話を再び50年ほど前に戻そう。
 当時、赤松遊園地へは通常、盛運桟橋から盛運汽船の由良丸や朝潮丸など中型の木造旅客船で出かける。当然、それらの船は遊子とか蒋淵へ回る船が行き帰り に止まる。
 しかし、僕と父は「はまちどり」という焼玉エンジンの15人乗り程度のボートに乗るのが常であった。この「はまちどり」は結構味のある船で、上下スライ ドの窓を備えていたし、速度も適当で振動を除いては、いい船旅であった。



 どうして、陸路を行かないんだ?と言われるだろうが、その頃は大浦の玉ケ月より向こうは未舗装道路で、大浦の終点から徒歩で行かなければならない。暑い 中500m程地道を歩くのは辛いのであった。



 船はここへ止まる。満ち潮の時は登り桟橋に渦が巻くし、補助の浮きイカダにおっかなびっくりで渡った後、竜宮場の門を通って入場するのである。当然有 料。



 着替えはここ。隣のシャワーは泳いだ後1〜2回使ったが、以後は塩水の身体を拭いた後着替えて少しばかりバリバリの体で帰って、水浴びか、少し待って銭 湯(今は無き宇和島温泉)へ出かけるのがパターンだ。帰宅してのこのパターンは母が担当した。



 着替えが終わって食堂を左に見て父と一緒に再び砂浜の方へ歩く。

 ボート係留のところで、タイヤチューブの浮き輪を借りる。最初は大きいのをあてがわれたが、後には体にフィットしたものを与えられた。大き目の浮き輪の 中に身をゆだねる。同じ年頃の子どもたちがビニル製の浮き輪でバチャバチャやってるのを見ると、どうして僕はこれなんだろう?と不思議に感じていた。自転 車さえ自転車屋で時間貸しの状態だったから。
 数回来ていると不思議なことも分る。同じ時間なのに、「前に来たときより砂浜が少ない」。この潮の干満は誰も教えてくれないし、聞くこともしない。知っ ているのが当然の状況だったのである。

 そうそう、僕は父から泳ぎを教えてもらうことはなかった。直接泳ぎと海で体が浮くことを教えてくれたのは藤江に住む従業員の「Nさん」からであった。そ ういえば、海(岸)釣りを学んだのも彼女からだった。水着ったってズロースにシミューズ程度。混紡の海水パンツの僕はイイトコの子で大半の男の子は海なら 黒のサポーター(今で言うT字のインナー)1枚か6尺褌だった。女の子は混紡の黒の水着か、幼い子は極細で編んだ毛糸の水着であったようだ。
 一度だけ、浮き輪の穴にお尻を入れて、流されついでに海の家近くまでになってしまったが、その時の父のあわてようは尋常ではなかった。今で言う背泳ぎ状 態で十分に泳いで帰ってきたけど...。



 子ども心に、いつかは表の飛び込みを...、と考えていたけど、これは後に高島海水浴場まで持ち越しとなった。



 ものの1時間程度であったけど、ものすごく時間が経過したように感じた。上がって食堂で休みたいが、父は許さなかった。物は三ツ矢サイダーぐらい。大瓶 1本を飲みきれない。腹は今は無くなった水月堂で買って持参したパン程度。これもクリームパン1個ぐらいだ。
 僕の性格からかしら、再び海に入りたいとは思わなかった。ことが達成された、と感じたときは、それ以上は求めないし、達成するまでも何度もトライすると い うのも好まない。が、一度興味を持つと、それに向かいつつ潮時が来ても完全にやめない、という僕の性格はこの頃からかもしれない。



 少し時間があると、ボートに乗った。ボート自体も1m程度の長さで一人乗りの子供用もあったが父は乗させてはくれなかった。
 2本オールで漕ぐボートでも、古いボートに当たるとアカ取りは僕お役目だ。附属の首無しヒシャクですくって捨てる行為を30回ほどやると疲れる。ボート を走らせると海水が 入ってくるものだから始末に悪い。
 一度漕がせてもらったが、前後逆ポジションの感覚に戸惑いを覚えつつ、どうして前へ漕ぐオールがないんだろう?、という素朴な疑問を抱いたりもした。そ れほど父の操 船は上手だった。
 この理由が分ったのはつい最近のことだ。戦時中、父はシチュウ班として鹿屋の海軍基地に勤務していた予備役の兵卒だが立派な海軍軍人だった。そのため泳 げたわけだし、敵の攻撃後は生きるための泳ぎだから、クロールなどは、わざと僕には泳ぎ方を教えなかったのかもしれない。

 そろそろ帰宅の時間、帰宅は盛運汽船の大きい船の方が早い。本当は「はまちどり」のはずなのだが、順番からすると、こちらの方が便利だし速い。ただし、 客が多いとのんびりは出来ないが。
 赤松の海岸から港内へ近づくにつれて、茶色が混ざった緑色の海水に変わる。ここで落ちたら汚いだろうな、と泳げもしない僕は考えてしまっていた。
 通常、到着は午後4時過ぎだ。そうか、盛運桟橋といっても今は陸地、丸之内パチンコのベイスポットが当時の桟橋であった。

 盛運汽船から帰って夕食時に近い時間だと、港町からの道を「ときわ食堂(今の和日輔)」へ回る。ステーキなど、いいものは食べさせてもらったが、僕に とっては家で出しているステーキの方 がはるかに美味かったのは何とも皮肉だ。
 余談だが、二○加のステーキは、ケチャップ仕上げで一見ドミグラスソースがかかっているかのような錯覚が起きる。父の考案だ。食中毒の関係からミディア ムより少し焼きを入れた肉に対して、肉汁が出てくる少々火が入っていない(ミディアムレア)部分が無いことへのクレームを逃がす策もあった次 第。
 ご家庭でやられるとお分かりだろうが、意外にも良い肉でステーキを焼くと、食べた感じでは、肉自体の美味さを引き出すことが出来ず、マズイが先に来るは ずだ。
 極普通のステーキ肉を1cm程度の厚さに切ってもらって、少し叩いて、筋切りと油縮みの切り目を入れ、塩コショーをして、フライパンに植物油を引いて片 面を焦げる寸前まで焼く。返して肉色が変わるとOK。そこへケチャップをお玉1杯を肉にかけ、両面を炒めるようにして焼きは完成。
 肉を皿に敷いて、その上から肉汁と油とが混ざったフライパン上のケチャップ(ソース)をかける。付け合せはキャベツの千切りと胡瓜のスライス。それにパ セリ。

 「ときわ」ではどうもぎこちない。父としても「寄ってみるか」と言うだけでのことであった。かといういと、普段でも「あづま」へは決して行くことがな かったし、当時から「とき わ」と対 峙していた「かどや」も同様に行かなかった。「丸水」や、今は無き「山水」などは個人が行くべき料理屋ではなかった時代であった。
 どうして、父は「あづま」や「かどや」へ行かなかったのか。幼い僕には不思議で仕方がなかったが、今になって中華料理屋で食べ慣れたチャーハンなどを食 べると、そ の味が店によって千差万別のため一 瞬ドキリとすることがある。今の僕と同様、父は決して其処のその味を真似て家の味の参考にはしなかった。その店のメインは、そこへ行けばそのモノホンにあ りつけるからだ。その味を参考にせよ、横取りしたってはじまらない。
 そのことを、 父は ずいぶんと知っていたのであろう。蕎麦?、というと即座に「菊屋」で鴨南蛮を食べるのである。子供心に旨いと思った。ただし、その当時の味を旨いと思った だけのこと。僕からすると今の菊屋は先代の菊屋の味は出していな いと思うが... 。
 菊屋同様に個別の名前を上げて申し訳ないが、野中のかまぼこを幼い僕は美味いと思わなかった。八幡浜の八水の普通のかまぼこの方が美味いと思っていた が、子どもにとってこれは事実だ。でなかれば、今の山小うどんなどは成立しない。
 もっとも、東京人は小田原のかまぼこを好むようだから、こちらでいう高級かまぼこは嫌われることになるのかもしれない。
 結婚して1年目、東京へ妻と出向 くとき、野中のかまぼこと皮てんぷらを持参したが、てんぷらの方が俄然人気のあったことで、このことが判った次第だ。
 しかし、田中のかまぼこと野中のかまぼこを同時に板付きで出され、かぶりついて食べたとき、子どもながらに「これほど違うのか」と感じたときがあった。 たしかに野中の方が味がある。
 今は無き「香川天光堂のカステラ」、「清水の唐饅頭」など、確かに美味かった。今でもその記憶がある。当時は菓子類は駄菓子に高級西洋菓子、そして和菓 子とだけカテゴリーが分かれていた程度。今のようにスイーツと一括してしまうほど、品目が多くはなかった世界である。その代わり、今の子どもたちと違って 味覚を主として、食べものが持つ感覚の面では全てが上回っていたと言っても過言ではなかろう。

 思い出話はこの程度として、2008年10月10日。
 金曜日というのに夜間の会議があったため、タクシーで水交亭へ出かける。少し遅れて到着。すでに多くのお仲間、ことに中学時代の同級生が来ている、本日 来ていない同級 生の息 子で僕の息子と同級生も来ている。
 幸いにも一番端の席。隣に座るMが雄弁に話をする。今夜は結構ご機嫌の様子。最近はどうも体調が思わしくない(夏風邪をこじらせてしまった)僕は、仲間 の話に入り込めない。その上に、中学時代の同級生っ たって、つき合いは少ないのだし、信じられないかもしれないが、当時は今と違って何かと引っ込み思案だった僕としては、その同級生達とはつき合わないこ ととしていたから一層芳しくない思いがわき上がってくる。致し方ないことだ。

  

 鯛の骨蒸しが出たときであった。遅れてきた手前、エビのフライからビールの肴としてやろうとしていた。何だ、つまんね〜な。確かにタルタルソースも何も ない。シラで食うのかよ。ムットした。すでに料理は冷えている。
 箸でエビの頭を取ったときであった。何だ、油の回りが少ないじゃないか。こいつ、モノホンの車エビだ。冷えているのに衣がビシャビシャしていない。何と ビール の大瓶1本が車エビのフライ一つで空いてしまった。テーブルには日本酒にフィットする物が多い。即座に趣向変更。
 賄いへ行ってお酒は何か?と聞くと「松竹梅」という。月は出ているがあいにくの曇天。日中は雨であった。「ヒヤで一杯お願いします」とコップ酒にした。 誰も日本酒を飲まない。膳の肴を見て日本酒をやらない奴の気分を知りたい。テメ〜も日本人だろうが。日本酒だと悪酔いするなどなど、言い分が多すぎる。 上っ面の西洋人は止めようぜ。ドイツレストランでドイツのビール飲んでみろってんだ。ヌル〜イしマズイというだろうさ。僕は麦の味やホップの苦さが判っ て旨いと思うけど。



 早速、鯛の骨蒸しをやる。「付けダレはこれね」とK婦人。ん。でも一口入れたとき付けダレなど必要なかった。酢醤油のそれは、付け合わせの溶けない春雨 とミツバだけに使った。目のゼラチンもグーであった。骨蒸しは骨とウロコの残り以外、全ていただいた。素晴らしかった。これで1合が空いた。
 次の1合が来るまで、烏賊の黄身味噌あえや「ふくめん」、「フカの湯ざらし」を摘みながら、鯛の刺身を食す準備をする。大根のケンと敷台の代わりにキャ ベツの千切り。適度な水分が必要 と言うところか らは、大根のケンだけだとビチャビチャになってしまうので、キャベツの方が鯛の切り身には相応しいかもしれない。
 若干の乾燥はあったものの旨い。醤油をそんなにつけなくてもOKである。キャベツを挟んで食べても醤油の塩分とキャベツの甘みと鯛の旨味が一緒になっ て、またしても1合が空いてしまった。
 最終段でサザエの壺焼き。これは残ったビールでいただいた。あらかじめ身を出して短冊に切ったものだったので、ビールにしたまで。こういった物はビール でもいい。ただし、ビールの風味と会わせるのであれば、先ほどと同様にビールがあまり冷えていない方がいいのは意外に知られていない。

 最終は伊勢エビの出汁と身入りの麦味噌の味噌汁と白飯。濃厚すぎる出汁とエビの甘さから、宇神氏が味噌メーカーを指定したが覆された。それほどの甘さが 加わる。素晴らしい。

 2時間ほどであったが、丁重な見送りを受けて帰宅の途に就いた。

 帰って二次会へ行くか、になったが僕は止めにした。
 満腹とは言えないが、何というか、イイものを久しぶりに味わった。職場でやる歓送迎会や忘年会などの懐石料理っていうのは何だろうか。単に7品目で飲み 放題 の2時間5千円。懐石の状況はできているが、何もかもが一定で、心などこもっていない。そこそこの料亭であっても同じだ。不思議なことに人数が少なくても 同じで状況だ。
 一体いつ頃からこんな状況になってしまったんだろう。昔はこういったことは全くなかった。少なくとも客が食べ終わる時間を見計らって、次の品物が出て、 その席が和やか な内に終わる。お酒を主としても、食の方は厳然として食べざるを得ないものを持っていて、酒が進むと食も進む、になっていた。それが料理人であり、席をイ イものにする仲居さんの実力 であったはずだ。
 今回の幹事役のK君が御当主に聞いた。何人程度がよろしいですか?と。御当主は「4〜5人程度ですね」とのことだった。そういえばそうだな。何か宴席の 在り方そのものも宇和島流なのを創らないといけないのではないか。

 水交亭。まだ宇和島にもこういったいい場所がある。 


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