映 画「南海の狼火」の...
/// 調査に当たって ///

のっ けから躓く
 最初のシーンは今は無き三浦丸が通常は航行しない宇和島運輸の別府航路から宇和島湾へ進入してくる。進行方向は画面の左、後ろに見えるのは九島だ。少し 引いて見受けられる九島は天辺松が青々しているが、今は段畑も天辺松も姿を消しているし、海沿いにあったみかんさえ衰退しているのが現状だ。
 掲載している写真を見ればすぐに解るのだが、映画のシーンと比べられれば一目瞭然だろう。
 が、そのときは解っているものの、しばらくすると... 。ましてや、あれから47年も過ぎている。このことが、場所を見つけ出す困難さに一層拍車を掛けることになるのだが... 。

三浦丸について少し...
 この船は木造船だ。焼玉(グロー)エンジンを搭載した当時の最新鋭機種で、主に三浦航路に就航していた。と記載しても今の40歳代より年下の人には「ど この三浦だ?」と疑問に思うだろう。
 紛れも無く無月の峠を降りて宇和海の下波までの三浦地区を巡航する船だったのである。今では自動車で30分もかかるかどうかの距離でしかないが、当時は 船が主流だった。
 この三浦丸の特徴は速力はあるものの、その波がすごい。で、周囲からは結構嫌われた船なのである。
 最終は高山(現 西予市)航路を走っていたが、昭和55年か56年頃に処分になったと同時に高山航路も廃止になった。
 余談だが、三浦丸の写真をお持ちの方がいらっしゃれば連絡をお願いしたい。

 三浦丸が進入してくる映画の風景はお題目の写真と大差がないであろう。撮影季節(6月下旬)が映画と違うし、画角が異なるため若干違いはあるが、ニュア ンスは捉えていると思う。



 桟橋に到着し、乗客が降りるが、映画の中でのここは宇和島運輸の桟橋だ。辺り一面当時とは全く異なっている。
 その後の桟橋のシーンは項を改めて記載するとして、その後、闘牛を難なく野村(小林旭)がトラックに載せるシーン。バックの倉庫に「宇」の字が見える が、あれが宇和島運輸の桟橋の倉庫で、隣(スクリーンでは奥側)の建物が別府航路の待合室になる。
 建物は壊され整地されているが、ここまでは、おぼろげながら当時のシーンを今の場所に当てはめることができる。

 そう、2〜3回映画を見れば、僕ぐらいの年代の「ネイティブウワジマン」なら、こういう説明をすれば「あ〜、そうそう」と思い描くことができるはずだ。
 この調子なら、数日間で今の状態をカメラに収めることは簡単だ。な〜んだ、結構残っているじゃないか、と安心したのもつかの間、予想だにしなかったこと が発生した。

 ロケに対しての記載をひとまず置いておいて、念仏の政が現れる最初のシーンは何処であったか?。結構苦労したが、7月に入る頃、ようやくにしてその場所 が 解ってきた。その場所が解るきっかけは、実のところ意外なところからであった。
 今回はその下りを少し... 。

当時の新聞からの抜粋一覧
 6月16日(土)午後4時、ダメモトで図書館へ出かける。当時の新聞から何かヒントが感じ取られるかもしれない。新聞というと、当時は胴だったのだろう か。朧気でもない記憶から浮かび上がるのは、南海タイムス、夕刊宇和島日々、南予時事、新愛媛といったところが地元紙だ。愛媛新聞は当時から県紙と勝手に 言ってたようだから除外。中でも近年まで刊行していたのは「新愛媛」と「夕刊宇和島日々」がメインだろうということが直ぐさま浮かんだ。
 早速市立図書館へ。受付でこの期間の2紙を閲覧させてくれ、との要求にすぐさm応えていただいた。それから1時間近く、僕自身立ったままで紙面を斜め読 みにしながら、当時へ思いをはせた。
 この件は項を新たにして記載するけど、概略は以下のとおりだ。

7月24日  7月21日現在、これまで日活の新規制 作映画の撮影のため、ロケハンを呼ぶために150万円が必要になる。商工会議所と宇和島市へ宣伝費として支出してはどうか、と持ちかけるも応じる気配が感 じられない状態であった。
 そうした折、中畑県議が仲介役的な役割として、「丸常用品店」と「丸串衣料品店」が各々30万円ずつ支出することで合意。
 ロケ終了日以降の8月上旬に大宮ホールで開催のオールスター招待芸能大会への客寄せで、両店で商品購入500円毎に1枚の補助券を出すことになった。
夕刊宇和島日々
7月28日
 7月28日に市産業化へロケについて、 8月6日にロケ本体が宇和島入りするとの連絡が入ったとのこと。
 和霊大祭では牛鬼のシーンのみの撮影とするため、他の日に他の出し物について、出演の依頼があった。
夕刊宇和島日々
8月6日
 8月7日からのロケは7時30分から闘 牛場でのシーンから開始される。
 夜、瀬戸で小林 旭、監督 ほか18人が来宇。
夕刊宇和島日々
新愛媛
8月7日
監督談話
 今回の映画に相応しいとして、山の緑と海の青が見事に調和しているこの地を選んだ。
 景色の大半は三浦地区を手とするが、滑床、城山、鹿野川、法華津なども加味して地域性豊かな画面としたい。
 現在は、映画も新しい道を見つける必要がある。リアルなカメラアイを主とする映画づくりも必要であろうが、日本にはびこっている鬱々たる感情を吹き飛ば すような痛快な娯楽映画も映画作りの一つである、と確信している。
新愛媛
8月9日
 白木マリほか50人のロケメンバーが来 宇
新愛媛
8月12日
 恵美須町臨港道路で婦人会による宇和島 音頭のおどり撮影
夕刊宇和島日々

  これより他に、浅丘ルリ子さんへのワンピースのプレゼントの話、浅丘ルリ子さんが吉田で下車してタクシーで宇和島入りしたことなどがある が、これはいずれ記載したい。

監督談話が示すもの
 小一時間立ったままで我を忘れて、新聞を見つつ、記事を抜粋していたが閉館時間が近くなってしまったため、この日の作業は終わりとした。
 帰り道、気になったのは監督談話での場所の提示であった。「三浦を主としたい」。となると、念仏の政が現れるシーンは三浦のどこかではないのか?。
 家で再びDVDを見る。ナンセンスなことをしている、と我ながら感じるところだが、すでに宇和島運輸と名がつくフェリーも宇和島発着便は一切無い。内港 は埋め立てられて、かつての岸壁などみじんの欠片も残っていない。自画自賛であろうが、そういった中で47年前の映画のロケシーンの今はどうなっているの だろう、と比較する行為はそう捨てたものではない。
 そんなことを考えつつ、「もしかしてあそこではないか?!」突然頭の中のシーンが今に重なり始めたのだが、これは次回に。






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