宇和島の進取の気鋭は...
2004年2月8日、西江寺の「えんま様」の最終日、この日の午後は久
々の晴天。風はまだ寒いが、手頃な気分転換としてカメラ片手にブラリと出かけた。
ま、最終日だし、六兵衛坂手前の旧大手通の商店主達が以前は出店など出していたが、有名店も店じまいしたし、今では六兵衛坂の頂上付近、真教寺からしか
露天商が並んでいない。すでに、多くの子供達は近代の遊びとかスポーツ活動にいそしんでかしら、こういった伝統ある祭り、行事には見向きもされなくなって
来だしたようだ。おまけの昨今の不景気が災いしてか、閻魔大王の前に行っても前世の金が大きくものを言って来るのではないか、と不謹慎なことを思ったりも
した。事実、勝ち組だけが生き残るような経済状態だものな〜。
一通り堂内を一巡し、辰野川沿いを下ることとした。辰野川は丸穂の一部を通り、新町と錦町(旧龍光院前)を通って宇和島湾に抜ける。ご城下では外堀の一
部として川を利用していた。
辰野川にかかる、いつもの五色に塗り分けられた小さい橋をやり過ごして、右折して丸穂の方へ入っていく。
別段大意はないのだが、この近辺は新田様をお祭りしてあるのだが、国道320号線のバイパス部分にかかってしまい、大きく迂回しなければそこへお参りで
きない。
以前の場所は刀剣を趣味にしていた父がよくお参りしていた。そこへ行く途中に下の写真の家がある。路上観察学会でも取り上げられたかもしれない。若干軒
下の板が剥がれ、ベレー帽から前髪が下がったようになっているが、以前は下の樹木が茂っていて口ひげを生やしたようにも感じられたものだ。
「すみません、サイコウジはどこですか?」というドライバーの声に「サイコウジ?」。「西に入江のエと書くお寺なんですがね」。「あ〜、それはセイゴウ
ジ
ですね、この道を真っ直ぐ進んで、突き当たりを右折して、次の川沿いの通りを左折してください。」と応えた。
こいつらは「えんま様」を知らない奴らだ。こっち(西江寺側)がアピールする前に、自分たちであらかじめ「えんま様」のことを勉強してから来い!、と心
の中でつぶやいた。このお祭りに自動車で来たって風情など一切味わえない。
反転し、再び辰野川沿いを下ると、「山小うどん」の前に出る。ここから左折して進むと戦前の内港の岸になる場所へ導かれるのだが、既にその面影はどこを
探してもない。
気を取り直して、川沿いに写真の場所を見つけるはずだ。宇和島藩における高野長英の隠れ家だ。
文化元年・1804年に現在の岩手県で生まれた長英は天保10年・1839年の「蛮社の獄」の大弾圧で永牢の身となったが、弘化元年・1844年伝馬町
獄舎の火
事を利用し逃走、1848年4月には宇和島藩主伊達宗城に招かれ来宇、軍事関係の蘭書を翻訳したり、現在陸地になっているが、樺崎に砲台を築い
たりした。当然、藩主に時の欧米の状況などをレクチャーしたのではないか、と地元の歴史家は語る。
その隠れ家から順に宇和島城までの道をたどろうというものだ。
その前に史跡の碑の奥は個人所有の建物だし、中を垣間見ることができない。後ろ側のたたずまいを紹介しておくのでご覧あれ。そうそう、この家屋自体が
100年以上経っているのだ。
写真の向こうに見える橋が穂積橋だ。これはまた後で紹介することとして、おそらく面相も名前も変えた長英が、隠れ家を一歩出て、港の方へ歩き始める、と
はいかない。ご存知のように、高野長英はお尋ね者だからだ。
その彼が、殿のお住まいである「浜御殿」まで出かけるには、右上の写真の辰野川沿いに小舟で下って、以前の内港、当時の堀を伝って行ったのではないだろ
うか。浜御殿は現在の天赦園野球場付近にあった、と推測される。
堀の一部を川と港(海)として天然の防備を施していた宇和島ならではの街づくりであったはずだし、辰野川の流量も今より多いし、堀も今の商店街の中
まで入り込んでいたのである。
現在では川伝いに宇和島港まで出ることは不可能に近いため、陸路を通ることしかできない。
話は前後するが、現在の「ほづみ亭」の下手で辰野川にかかる有名な橋が穂積橋である。由緒文にあるものを要約すると、法学博士であり、後輩を育て、郷土
愛も強かった彼の偉業を称
え、銅像を建てようという気分になったが、彼は銅像となって仰ぎ見られることをよしとせず、人に踏まれることにより「橋」として名を忘れないものを望むと
して建設された橋だ。
その穂積陳重、彼こそが同郷の出身でロシア国皇太子を斬りつけ、国体の状況などから断罪の声が大きく上がった民意に対し、真に被告の
罪を重視し無期懲役とした「大津事件」を裁いた、大先輩の児島惟謙より意見を求められ、頑として法の精神を貫くよう申し述べた本人である。
児島惟謙は堀端の税務署の横に生誕の地の碑文があるし、銅像は南予護国神社横、城山の上り立ち門の前の広場に立っている。奇しくも、穂積重陳の生家は児
島惟謙の生家より山側へ通りを二つ隔てた広小路だ。そこに八束の梅という木が洋館風の家とともに存在していたが、近年の失火による家屋火災で焼失した。
話を戻して、穂積も児島も長英とは実際のところ関わり合いはない。江戸末期、明治初頭の気風と社会情勢がどういった
ものか、今のところ、その実際は知るよしもない。
この宇和島の同じようなところに、これら当時の重要人物の存在を物語るものが残っていることの事実を別にして、多くのものは先の戦争でで消失したし、江
戸末
期から戦前まで宇和島に住んでいた方々は、他界したか、この地を離れたか
ら、一般人が文献、写真、伝承などから過去に遡ることは難しい。
隠れ家から出て、途中に出くわすのが金融の融通所だ。現在は偶然にも伊予銀行宇和島市店がそこに在る。回りは商店街アーケード。以前は内港の縁を通りな
がら、宇和島城への道だったはずだ。
こんな道を通るのだから、当時でも指名手配で一発の所だろうし、小舟で出かけたのは事実ではなかったか、ということが理解できる。殿の養護の下に置かれ
る
ことはなかったはずだ。
しばらく行くと、下の写真にある御茶撰(おちゃより)橋の横の通りから国道56号線に出る。かつての海だから内港の縁を通る手前を数十メートル左へ曲が
り、写真のビルの手前にかかっていたであろう橋を渡ると宇和島城へ入ることになる。写真のビルの下側までは海であった。当然国道は旧内港へ通じる海=堀に
なっていたわけである。
辰野川から内港へ出て、浜御殿へ到着した高野長英は殿にどういったレクチャーを行ったのだろうか。
多くの小説の中で見受けられることを頼りにすると、彼一流の論理でもって、この藩の防備の重要性を説き、日本
がどうな
るか、諸外国の状況などをまくし立てたのではないだろうか。後年、これらのことがあって、大君の何とかとして、アーネスト・サトー達がこの地を訪れたので
あろう、と推測するのだが... 。
これほどの進取の気鋭があったネイティヴ・ウワジマン達の子孫、そう、今の人たちの頭の中身、シナプスの一本一本からこの
気分は本当に抜け去ってしまったのだろうか?。明治以後、ご当主がいなくなったからダメになった、ということからだろうか。
否、そう感じるのは現在では都会とこっちとのタイムディレーが少なくなったからだろう。今の2〜3年は時代の中では未だに小さな時間なのかもしれない。
その足で、ちょいと忘れ物をした休日の職場へ向かう。辰野川の隣に廿枝川が流れている。この川の末路は川をふさがれて天を仰がずに宇和島湾へ注ぐ。水面
が見えない川はどことなくむなしい。
その塞がれた川の上にはNHKのドーモくんの家が建っている。これも時代になせる技... 、いや、単なる偶然だろう。
街中を歩きながら考えを巡らせると、時には養殖漁業が、時には真珠がメイン...
ではあっても、メジャーで継続し続ける努力というか伝統というか、そんなものが育たない。ましてや新しいものを取り入れてこの地のものとして生かすなど
は、金銭動向がメインになって手も足も出せない。あるいは... 。
最近はあがけばあがくほど、ますます窮地に落ち込んでいってしまうような、宇和島がこれほどまでに急落下した街になるとは、誰も予想できなかったこと
だったのかもしれない。
(この項おわり)