2000. 4. 1〜6.23の日記


2000年 4月 1日()はれ
 温が20℃まで上昇したそうな。陽は十分に高くなって時間がずいぶんと過ぎている。昨日までは大変な日々だったから、ぐっすり眠ったようだ。それでも、お腹は少々おかしい。
 今日はSR500に乾式クラッチを装着するのだけど、バイクに乗る手前、厚着のままで出かける。昨夜もう一度目を通した雑誌の記事を思い出しながら、装着するときにどういったことに注意するのか、を確認するため、1時間程度の散歩だ。
 散歩の後、午前10時前から、午後3時前まで、昼食を挟んでじっくりと取り組んで、乾式クラッチを装着した。装着そのものは比較的簡単だったのだが、ブレーキ関係が装着しているものではフィットしないから、バックステップにするのに多くの時間を必要としたまでだ。
 4時前から確認走行に入る。「ウ〜、すばらしい。何とも言えない気分」だ。降りたくない、というのが本音だ。南方面ばかりでなく、そこかしこを走り回った。 帰宅して、本来なら酒道場にて祝杯を上げるところだが、どうにもお腹の調子が悪いので、静かに成功をかみしめ、www/Gridへの掲載文章をタイプした。
 明日は伊能ウォークに参加することにしたい。

2000年4月 6日(木)はれ
 が付くと午前5時、窓を開けると「春は曙、ようよう白きなりゆきし山際....」と同じ、鬼が城(おにがじょう)手前の通称「尻割れ山」の近辺はもやがかかっている。年度始めはこの天候のように僕の心は気分よくない。このweb日記もつぎつぎと記載できない。しようにもできない状況だったのだ。
 そういえば、昨日は夕刻一寝入りしてしまった。よほど疲れていたのであろう。ものの30分程度であったが、効果はあったように感じる。ようやく平常に戻り始めた。
 さて、徐々に気分がよくなると同時に、様々なことが同時進行から解放される。先ほどまで職場から直接出席した(それほど忙しいんです!)自治会の総会に出席して、気分のいいひとときを過ごしてきた。結構呑んでいるのだが、こうやって日記を書いて、メールの確認して、とPower Quadra700を立ち上げている。僕自身のかなり金を入れた改造マシンだから愛着もひとしおだが、そろそろ現役から退かせなければならないかな、とも考えている。そのことはいずれ本編にて申し述べることにするが。
 土曜日は、小豆島へBritish Runのミーティングに出かける。Triumphで出かけるのが本筋であろうが、SR500も調子がいいので、この期に及んでいまだ機種を決定できない、うれしい選択肢である。小豆島は2年目2度目だ。高松までの距離がいつも気分悪い。しかも西条まで。今後このペースで大洲から高速に乗るとなると、いい雰囲気ではないな。早く対向車線の高速(自動車道)を止めてほしいところだ。
 
2000年4月 7日(金)はれ
 ともいい陽気。僕は職場の窓から外の桜の開花状況を見ている。海は穏やかだし、九島の桜も日曜日には満開だろう。仲間内で明日は花見をやるので、とお誘いを受けたが、こっちは小豆島でのバイクミーティングだ。残念ながらお断りした。
 さて、この期に及んで、まだ車種選択ができていない。午後6時半にトライアンフを走らそう、と内田自転車商会から乗車するが、エンジンそのものの調子がよくない。家に帰ってプラグを変えるとなおった。明日の朝までSRにするかどうか。
 本来なら、今日は午後から休暇を取って整備しているはずだったのだが、どうしても休むことができなかった。日頃の整備ができるようにガレージなど建築しておいてしかるべきなのだが、遅きに失した。どのくらいまでバイクに乗れるかどうか分からないけど、退職後に建築するかな〜。
 この小豆島への必要経費を捻出するのに今日は一苦労だ。残高(当然マイナス)が限度一杯だ。最低線、つまりフェリー代、高速通行料、昼食代、ガソリン代のみ遣える金額だ。まるで不渡り出す寸前みたいな状況である。早く来い来い給料日(18日)というところだ。この日には臨時収入もある。
 考えると、SRの乾式クラッチをのぞいても、トライアンフには車検、シートの張り替え、フロントフォーク交換、など10万円程度出費してしまった。それでも国産車の同年代のバイクよりパーツ代は安く上がるのはどうしてだろう。バイクそのものもそうだが、機械に対する姿勢が日本人とは違うのだろう、と感じる。
 ま、とりあえずはERを見ておねんねするとしよう。小豆島までの往復路程が無事でありますよう。

2000年 4月 9日()はれ後くもり
 昨日小豆島へ行って、今日はもう我が家で夕食を摂っている。2日間が一体何だったのだろう、とつい考えてしまう。昨日は小豆島でいつものパターン、島の分教場へ出かける。ロケセットは行きたくなかったんだが、壺井栄記念館がどうしても忘れられず、出かけた。そこでおもしろい質問をしていたバス観光の客が居たので失礼ながら紹介しておく。
 「大石先生のことはどこに展示してありますか?」受付嬢曰く「大石先生は小説の中に出てくる先生の名前で、実在はしません。しかし、そのモデルとなった方は確かに存在しました。」と。イメージ付けはよくない。しかし、これほどの人物になると実在の人物としてもいいような感じがしてきた。
 それにしても、ロケセットの施設はあれだけの人物が訪れる。それに引き替え、実際の分教場はいつものままで存在している。僕はこのことが妙にうれしく感じた。本当の意味で内海町の歴史資産物として、いつまでも手入れをして保存していただきたいものだ。
 さて、愛車はトライアンフだったのだが、すこぶる快調で、数カ所改善すればもっとよくなる、というところまでになった。まさしく、古女房のように、そそくさと僕の意のままに動いてくれる。家に帰ってSRを動かすと、どうも運転しづらい。どうしてだろうか、しばらく考えた後、バックステップに戻してライディングポジションそのものを再構築しなければならないように感じてきた。ハンドルバーから始まって、シートまで、ありとあらゆるものを煮詰め直さなければならないように感じた。
 じゃ、トライアンフがそれほどいいのか、と確かにいわれるのは分かっている。SRはダメなのではない。あくまで素材の部分が多すぎる。ちまたを走っているSRが一台として同じものが存在しないのだ。ミーティング参加のKさんがカワサキW650を修正したバイク(別冊モーターサイクリスト誌に出ていたもの)で来られていたが、未だにSRのようなアフターマーケットと、そこが作るなかなかいいパーツのようなものが存在しない。こういった点でもSRの方がいいように思う。それもあって、僕のSRのライディングポジションをもう少し何とかしなければならない、と考えている。

2000年 4月10日(月)雨後くもり
 日の今日なのに、仕事の忙しさと、ちょっとした後処理の関係で一日がアッという間に過ぎてしまった。外は雨と風で桜の花も一気に散ってしまったようだ。今年は花見もしなかった。
 疲れもあったが、酒も呑む気にもならない。最近では妙なことにMacもとんとご無沙汰である。最新機種の一つ前の新品のPowerBookがまぁまぁの値段で発売されているが、あの大きさからすると、どう考えても設置する意欲がなくボツにしてしまっている。かといって、過去の逸品の2400は小さすぎて使う気にはならない。酒もとんと飲めなくなってしまった。どういった理由かは分からないのだが。そういったことで、今日もさっさと帰ってきた。NHKテレビのニュース10の天気予報で新宿の映像が出ていたが、午後11時前で仕事帰りの人が云々、といっていたが、こりゃ今の時間が仕事帰り、ってことは、こいつらのあさは何時から始まるのだろうか、といらぬ心配をする。僕の考えはそうではない。こいつらは健康なことはない。みんな不健康だ。病院とか保険やが儲かるのが分かるような気がする。
 少しのところがまとまらず、www/Gridの更新が遅れてしまっている。まじで、これは近日中にやらないといけない。とにかく、休みが取れないんだ。深夜に及んでしまって、妙に雑誌社の入稿間際のような感じがしてきた。(笑)

2000年 4月13日(木)
 日はwww/Gridを更新した。これだけで精一杯だった。SR Web Linkで知り合ったお酒の好きなOchaさんからのメールに返事をしたかったけど、もう上の瞼としたの瞼がジッパーで結んだようになってしまった始末だ。
 今日は今日で、仕事では一人のお客に肩すかしを食らうし、連続出場している四国マスターズ陸上の申し込みなどで、さんざんあわててしまった。疲れのピークは過ぎたようだ。唇のできものは潰れてしまった。こういったときだが、この月曜日からランニングを開始した。数年前の気分が久しぶりに戻ってきた。しかし、身体は精神以上に退化している。電柱間2本単位で、RanとWalkを繰り返してお城山を一周するのだが、シューズが良いせいかしら、ついついオーバーしそうになる。ここで成り行きに任せるとダメになることはよく分かっているからストップさせている。金曜日あたりは10分間走をやってみたい。
 夜、妻が当直勤務なもので息子が炊飯をしてくれた。夕食時に少し話をしたが、そろそろ広島へ単身で引っ越すらしい。どうも、広島の方が自分の性に合っているらしい。もっとも他の土地で過ごしたことはないのだけど。そして、広島在住の友人と自ら何かを興したい、という。僕とは全く考えの違う、子供時代からは比べものにならない成人した我が子を見ると、親ばかもあるが、うれしいやら悲しいやら、の気分だ。確実に彼は彼の道を歩み始めているように感じた。

2000年 4月15日() 雨後くもり
 SRのライディングポジションが相当気になっていたんで、午後から曇天の中、交換をする。誤解がないように願いたいのだが、ハーディーのバーが悪いのではない。フォワードステップならこのバーも素晴らしい。しかし、バックステップになると純正のバックステップのモデルに装着してあるバーでもダメなんだ。仮に身長が180cm以上あるヨーロッパの人ならこれでもいいが、日本の人だと、どうしてもグリップエンドが下がったようなものが好ましい。
 そういったところで、屋上の倉庫から"341"と"1T4"のハンドルバーを引っ張り出した。前者はTX750、後者はGX750のいずれもヨーロッパ向けの短いものだ。特に後者はバーエンドに重りを入れて振動軽減が施してある。本来は"360" のXS650のものが良かったが、見つからなかった。
 考えたあげく、XJ750Eと同じようなポジションをとるから、1T4にしたが、大正解であった。スタイルが間抜けのようになってしまうが、これは、BSAのハイマウントのランプステーを装着すればいい。しかもチャックボックスのものを。
 テスト走行を兼ねて、近所を50kmほど走り回った。本当に不思議だがうれしいぐらいに走り回った。このせいにしたくないが、自らの足では走らなかった。この辺は「大人の余裕さ」って、本当は朝霧湖マラソンまでの時間のなさに危機的状況なのに。

2000年 4月17日(月)はれ
 日は一日中SRに乗っていた。おかげでというか、心地よい疲れ以上の疲れで、バタンキューとなって、今朝を迎えたのだが、7時25分の出勤にもかかわらず、お客が一人待っている。「なんたるこった」。いくら仕事とはいえ、始業の45分も前だし、僕も頭に来る。ムッとした気分を禁じ得ないまま応対し、かけずり回って処理した。最初からこんな調子だから、ペースをつかんだのは午後になってからだ。
 気を取り直して、帰宅してランを行う。当然時分の足で。身体は重くないのだが、足が動かない。ピッチもペースもいいのに、何となく遅い。こういったときに焦ってしまって、すべてがダメになるのをよく知っているので、今日は10分間走にとどめる。今日は1km8分のペースであった。朝霧湖マラソンまで17日。いずれにしても1kmを6分のペースで走ればいいのだ。気にすることでもない。(土曜日は気にしていたくせに)
 意識はしていないのだが、どうしてもSRのことが気になって仕方がない。やはり、乾式クラッチを装着したインパクトが持続している。バイクに対してこんな気分は久々のことである。昔はTX650の最初のオイル交換にあと少しの距離で事足りる、というときに、朝の5時から大洲の新谷までの往復をこなして出勤したこともあった。
 ランニングと乾式クラッチの副産物もある。それはめっきりお酒の量が減ったことだ。いつものペースで呑むと冒頭のようにアッという間にバタンキューになってしまうのだ。
 こんな調子の時に今週は飲酒の機会が飛び石で出てくる。したがって、この日記もしばし記載できなくなるのはいうまでもない。ネオンの海で溺れないよう、お金の準備もしておかなくてはならない。またもや後で気づくのだが、この費用でコンピューターとかバイクの部品を購入した方がよほどいいのに、と思う。最近では人の輪を作るためにお酒がかかせない、という御仁が少なくなってしまったから、僕もセコイ考えになってしまったのかもしれない。

2000年 4月20日(木)くもり後時々はれ
 前4時過ぎ、ラジオ深夜便で種田山頭火のことを大山澄太氏がしゃべっていらっしたのを聞きながら左の親指に痛みを感じた。思わず飛び起きたのだが、どうも、昨夜の新規採用職員歓迎会で呑みすぎて無意識の間に、布団の縁に浮きかけていたこの左足の親指の爪を引っかけたようだ。
 電灯をつけて確認すると内出血している。それから眠れず、職場でも「痛〜!」がジワリとやってくるので、仕事どころではない。サンダル履きだが、しばらく治まって席を立つと、また「痛〜!」がやってくる。何とか業務をこなして、帰るときに靴に履き替えると最後の「痛〜!」がやってくる。
 ようやく落ち着いたのが夜になってから。内出血したものが一部分出血している。高校時代に数回指を詰めて、こういった爪をはがすのに似たことの後遺症かもしれないが、何とか5月3日の朝霧湖マラソンを走りきらないとならない。それに、バイクのシフトにも一苦労、という始末。
 不始末といえばそうだろうが、とんと意識がないから弱ってしまう。ま、自業自得として養生します。とはいいながら、ランニングもしないとならないのだよな、トホホ....。

2000年 4月22日()はれ
 からのぽかぽか陽気。今日はSRの乾式クラッチの初期点検のためクラッチ部分だけを分解、再組み立てを行う。結果は良好な状態であった。再組み付けに当たってフリクションプレートは、ほんの小さい凸部分(0.5mm)を揃えた。同様にクラッチプレートも刻印を統一した。少しであったが、カスはエアーコンプレッサーで吹き飛ばした。
 次にレバー操作がどうもしっくりこないので、再びハーディーのハンドルバーに換装した。わずかに手前に引くようにして装着を完了。
 テストランは旧松尾坂から三浦へ出るコースだ。すこぶる快調で、コーナーは挑みかかるように体重移動をやっているのがおかしくなってしまった。しかし、大きい右のコーナーはセンタースタンドを接地してしまった。完璧だ。
 このような僕の整備では商売にならんだろうな。しかし、こういった整備をやってくれるようなバイク屋が少なくなったのが今の状態だろう。こんなんでよかったら僕はバイク屋やってもいいが、費用は高価だ。むしろ、自分のバイクだから自分でバイクをさわれるように指導をするだろうな。それに、バイクの車種も限定するだろうと思う。しかし、迂闊なバイク持ってきたりすると、バイクは憎くないけど、突っぱねるだろうな。
 ま、レポートっぽくなったけど、こうやって一日が過ぎるのは僕にとってのリフレッシュだ。

2000年 4月23日()はれ
 夜ちょっとテレビの再放送を見ていたので、目覚めが少し遅くなった。一日中のんびりできたのだが、翻ってみると、これが普通の休日だろうか?、と考えてしまった。
 今日は和霊神社の春祭りだ。午後から恒例のこども神輿が出る。いつものパターンなんだが、たまたま今日は日曜日、少ない子供が一層少ない。少ない氏子の子供の数に加えて、全体が「個」になりつつある社会だから、この状況は致し方のないことかもしれない。
 穴の開いたスラックスに見切りをつけ、息子と共にUNI QLOでチノパンツとボタンダウンシャツを購入する。これでスリッポンかオイルスキンのデッキシューズ、それに紺の夏物のブレザーがあればアメリカントラディショナルスタイルになる。僕の職場ならビシっとは必要ない。それより普遍である僕流のスタイルの方が好ましい、と勝手に決めている。
 夜は昨日通知した「とべない沈黙」の上映会。確かに映画は難解だった。しかし、僕はすごく簡単なことを当時の回りくどい表現をしたまで、と感じる。バックにある原爆症、安保、やくざの抗争など、当時の世相をある程度理解できないとならないが、ナガサキアゲハが一人の少年によって北海道で捕獲され標本にされる。その象徴が加賀まりこさんなんだが、少年が訴えるそのことを学識者は相手にしない。デパートで少年が見た標本が消えている。で、そのルーツが長崎から話がはじまり、香港にアゲハの幼虫がいった辺りからややこしくなるが、さなぎになって北海道に帰って、羽化した後、同じ少年に捕獲される。そこで映画は終演。
 僕は映画が作られたこの時代は中学の2年生だ。東京オリンピックの後なのに、日本の各地では依然として貧しい生活状況だ。ここから数年後に高度成長期を迎えるのだが、こういった時代を生きていないとこの映画はわかりゃしないだろうな。
 今日の昼食まで、息子と行動を共にしたが、この映画を見て、思い出してみるとずいぶんと昔に戻ったような妙な気分になった。つまり、僕の父は昭和43年に他界した。僕の高校2年生の時だ。父が僕にしてくれなかった世界を、そのときの僕より年が上の息子に対して、僕が父として接している今の世界は何だろうって、真剣に考えてしまった。

2000年 4月26日(水)雨後くもり
 休を前にしてだが、朝早くから夕刻まで仕事漬けの日々が続く。週休二日制は分かるが、今年のように5月1,2日の月初め、それに週明けにしか仕事ができない、となると、うれしいよりはつらい。自主的にサービス残業でもやらないと期限までに追いつかないことになりそうだ。これはいけないことなんだけれど。
 おかしいもので、これぐらい疲れると少量の糧でも美味である。精神面も肉体面も張りつめているようだけど、酒さえ呑む気にならない。こういったことは初めてのように思う。現実には4月1日から本日まで有給休暇は取得していない。取得しようにもできないんだ。よく体が持ちこたえているものだ。
 唯一の息抜きはインターネットのメール確認ぐらいかな。そろそろ、PowerQuadra 700もパワーアップをしてやらないとならない。ひたすら、こういった古いモデルを今の時代に動かせるようにして使ってやってる。たとえは悪いが、最近あったことで、近所の田園風景豊かな直線道をトライアンフで法定速度より少し速いところで走っていて、前の自動車に追いつきパスする。後ろから来た1リッタークラスのレーサーレプリカバイクが一気に右側通行して行ってしまう。そう、150km/hぐらいかな。僕のバイクは24年も前のバイクだけど、高速道路を走ることもできる。もちろん、気になるところは手を入れているのはこのwww/Gridで紹介している。10年後、僕を抜いたバイクは同じユーザーに愛用されているだろうか。
 決してひがみでもないよ。事実、iBookの購入をもくろんでもいるし。でも、このPowerQuadra 700は捨てきれないんだ。ちょっとさわってやればいいんだから。
 久しぶりのお湿りだった。しかし、完全に休めるのは30日と5月4日ぐらいだろうか。考えれば考えるほど罪作りな連休だ。

2000年 4月29日(みどりの日 はれ
 妙なことに、こんなんで思う存分走れた、というのはおかしいことかもしれない。今日は県オリエンテーリング協会の役員会が松山で開かれる日だ。JRで行くほどの会議ではないから、SR500で出かける。とはいえ、午前6時30分の出発だから、調子が狂う。
 案の定、往路は宇和と大洲のすごい霧に遭遇する。往復を通して、下手な運転の上にシートベルトをしていない軽四輪の老人、携帯電話に集中している男性ドライバー、片手運転に加えて、左手で助手席の人に説明し、自分もそちらを向いて話しながらの女性。ハンドルを抱きかかえるようにして、ダッシュボードに地図を開いて見ながら走る女性。こういった数台の自動車に遭遇する。こいつらをいかにパスするかを考えながら走らないとならない。運転に気を使うのではない。相手に気を使うのだ。バカげている。
 帰りは宇和町での「れんげまつり」の車を避けて田園風景の広がる裏道を走り、友人のK君宅で少し話をして帰宅した。
 僕はインラインフォーのバイクにはどうしても乗れないな、と今日は感じてしまった。そういえばCB750が出た1968年にそれこそ必死になって免許を取得しようとしていたはずだ。が、そうはならなかった。逆にヤマハのXS-1が出たときは妙に心が動いたし、後に本当にそれに乗ってしまった。したがって、ある程度は自分の手が入れられるバイク、いつもすっと相手できる、燃費もいいような、そういった日常で使えるスポーツバイク、というものが心の奥底に小さい頃からあったのだろう。CB750、XS-1の頃、僕はメグロのS-3に乗っていた。
 もちろん、大きいインラインフォーのCB1300とか、XJR1300なんかは十分に乗れる。しかし、乗ってみても、それだけのものに感じてしまう。各気筒のアンバランスなど、精密計器が必要なんざぁ、オートバイではない。ツインなら、ちょっとおかしいかな?と思っても、四発では気にもならずに走れる。こういった人間が入り込む余地を後から作り出すようなバイクはどうも性に合わないようなんだ。
 帰路、どうもマフラーから出る排気音が気に入らなくなったな〜、と感じ始めた。セラミックウールの消音材を詰め替えすればいいのだろうけど、もう少し音質まろやかなマフラーがほしいところだ。というところで、SRウェブリングの「松さん」のページで質問をしてみた。
 帰ってから、クラッチの取り付けボルトを再確認する。今度は3日に野村町へ、このSRで出かける予定だから。自分の脚・足も快調になり始めた。当日はいかがなりますか。

2000年 5月 1日(月)はれ時々くもり
 日は雨の降る前にいろいろなことをこなす。早朝から、和尚に言われていたお墓の掃除(草抜き)を行う。次いで散髪。夜は夜で、Shop Schneiderの開店文書作成と忙しかった。この名前が将来は「二○加」の再興になるのかな。
 今日も仕事に加えて、メーデーのこと、お城祭りのことなど、朝から気が休まるときがない。いい加減にしてくれ、といいたい。昼間はニコンF2をメインに撮影をしたし、メーデーは要項の原稿が届かずイライラしたり。しかし、一番多い参加者でデモ行進もできたし、メーデーの慰労会も十分に酔えて帰宅した。帰宅したものの自分のことはほとんどできないまま。
 Caravan YuのQuadra950も売れてしまっていたし、本当に忙しさだけが残った一日であった。
 メーデー、について一言いいたい。
 みんなは信じられないかもしれないが、自由の国アメリカで、長労働時間に対して労働者が立ち上がった。現在まで続く8時間労働が初めて制定される日に対して労働者が立ち上がった日なんだ。それがいつの間にか、マルクス・レーニン主義の世界に多くが用いられて、こういった赤旗を振りかざす関係者に「禁」の旗印の下、STOPをかけさせられる方向に向かわせられる。いまや共産主義が世の中で修正を加えられている現状を見ても、これは間違いなんだ。
 少なくとも宇和島市内で働く者のうち、どれだけの人たちが真に労働の代価としての正当な賃金を受け取っているか?、これを見極めるのが非常に難しい。ま、こういったことも含めてのメーデーだ。決してSOSがメーデー・メーデーに代わったのではない、ことは十分にご承知あれ。
 さて、Shop Schneiderはいかがだったろう。おいおい申し述べるが、僕自身はこう言う方向付けで自由な商売をやってみたい、と考えている。現在の職を退職してからになるだろうけど、一度開いてみたい、と感じている。考えただけでも楽しいじゃないか。インターネットで情報をやって、時には料理人、同時にバイクの修理が入る。それをテキパキとこなしてやるなんざぁー、ホントにおもしろいことだ、と思っている。モチ、機械油でまみれた手で料理を作りはしないが。

2000年 5月 3日(水)憲法記念日 はれ
 霧湖マラソンに出場するために早起きをする。スタート時間に合わせて逆算し、きっちりと7時30分に出る。空気がひんやりとして初夏だなー、と感じてしまう。いつものようにパドックは野村町の古くからのバイク仲間のT君宅だ。8時15分に到着。
 受付など済ませて、本日の服装をランニングパンツに決定して、黙々とウォーミングアップを行う。身体は軽いのだが、しばらくするとズシリ、と体重の負担がやってくる。これを後に持ってくるような走り方を覚えさせて、身体を冷えないようにして、いざスタート地点へ。
 今回のレースはいつもと少々異なっていた。異常にペースが速いのだ。僕もポジション取りにスピードを上げる。ところが、2kmを過ぎた辺りから鼻からの呼吸が出来なくなり始めた。空気をいっぱい吸えない。口だけの呼吸、つらい状態が続く。おまけに汗が出ない。妙なことだが疲労困憊。上り坂の途中と最後の1.5kmの一部で歩かざるを得なかった。幸いなことに、ランナーであるご主人の付き添いであろう女性がランニングしていたので、そのペースを拝借、彼女に声をかけられ、気を取り直したが、這々の体でゴールインした。
 ゴールした後、未だ経験していないような身体変化に見回れる。不思議なことだが、体中から塩分の濃い汗がジワリと出る。本来なら汗が吹き出るはずなんだ。おまけに、頻繁にくしゃみが出て、「鼻の穴から汗が出る」のである。決して鼻汁のような粘り気のあるものではない。レース後、ほぼ1リッターの水分補給をとった。身体が火照るのに汗が出ない状態が続く苦しい経験であった。
 今回で5回目の出場。確かに5kmのレースはきつい。10kmの方がずいぶんと楽だ。今回など5kmのトップは16分台だ。僕は結局30分もかかってしまった。もし、歩かなければ26分台でゴールインしていたはずだ。
 参加料は3000円。しかし、来年もやはりこの大会に出たい。今回は飛び賞で3000円相当の特産アイスクリームとヨーグルトの詰め合わせをゲットできたし、いつもながら素晴らしいタオルの参加賞、製作者の記名入りの完走賞、どれをとっても損得なしでいいものだ。僕のようなランナーでも分け隔てなく受け入れてくれる。これだから止められないのだ。
 クーリングダウンのために少し歩いて、これまた恒例になった会場近くの渡辺書店でMac Fan誌の5月15日号を購入して満載の荷物をリヤシートに積載し帰路に就いた。

2000年 5月 5日(金)こどもの日 はれ
 れほどつまらない、意味不明のお祭りってあっただろうか。自分は協力は惜しまない方ではあるが、最初にこの企画を耳にしたときは、絶対に協力なんかしてやるか、と決めていた。幸い協力依頼は来なかったが。
 それにしても、こんなイヴェントを一回こっきりで終わらせていいものかどうか、ひじょうな疑問を感じる。第一に築城400年祭そのものが祭になるものかどうか、僕は今でも止めた方がいい、という感じは今日の午後4時まで続いた。更埴、岩出山の方々もいらっしてたようだけど、宇和島の人間が乗っ取ったような格好になっての商店街でのテナント、自由な雰囲気は後にされたのではないだろうか。
 いずれにしても、400年ということを全面に出しての祭りではないような気がしてきた。
 僕は反論があれば受けて立つが、午前中に繋がれた闘牛が、モノホンではありながら、その闘牛としての猛々しさは皆無であった。むしろ通りすがりの人間様を畏敬のまなざしで見ていたように感じてならないのである。
 午後4時近く、恵比寿町の関所前では市の職員が黙々と掃除をしていた。これがボランティアという名の下に帳消しにしてしまうような今の市政は、はっきりいって間違っている。これは勤労奉仕だ。仮装の役所についた職員も同様である。宇和島市はやらせの張本人でありながらゼニを使わなかった。おそらく、これは事実だろう。それまでしてこういった年間を通じた、間延びした400年祭などやる必要は一切ないんだ。どうか、みなさんの考えで、本当に今日を含めた400年祭のイヴェント自体が納得できるものかどうか、を主催者の市民の一人として考えていただきたいものだ、と考える次第だ。

2000年 5月 6日()はれ
 は連休だが高校生以下は学業で登校だ。僕も本来の土曜日だけど、これから7月までは祝日がない、ということからも、家の中で静かにしていた。
 そもそも、張り替えをしたTriumphのシートが雨水を吸っている。これが分かったのが昨日。今日は一日中陽に干していたが後一息の時で夕暮れを迎えた。およそコップ2杯分の水を出すのに苦労する。これからシートのカバーをした後シートカバーをすることになる。
 ガソリンが少ないので、思い切って不調のペトタップ(ガソリンコック)を新品に交換した。23年前のバイクが今の製品を装着して元気なのは驚異だ。SRともども元気で僕より長生きするのだろうな、と思ってしまう。そういえば、ずっと以前、トライアンフのキックを踏めなくなったらバイクを下りる、といっていたが、どうやらそれはSRのキックが踏み下ろせなくなったら、バイクを下りるときかもしれない。でも、そこまでになると、SRのクラッチレバーが引けるかどうか、問題が出てくる。アサバスペシャルのクラッチスプリングが入っているトラの方がクラッチが軽いのは当然のことではあるが。

2000年 5月10日(水)はれ後くもり
 うやく仕事も忙しい時期を終了した、と感じたが、それでも人員減は堪える。ちょうど連休が終わった後のような気分である。
 昨日来SRに関して悶々状態が続いている。感覚としては、高度に完成の域に達している現行モデルの心臓部、特に吸排気系に手を加えるのはどうだろう、と再び考え始めた。確かに、ハマルことは間違いがないが、本当にパフォーマンス上そうであるかどうか疑問に感じて来だした。ま、これは、ノーマルに戻してみればすぐに分かるが、400ccモデルでは500ccモデルとは少し感じ方が異なる。少数派の500ccオーナーがもう少し奮起してくれればいいのになー、とweb上でもお願いしているところだ。まずはシリンダーヘッドからして微妙に違うのだから。
 さて、昨日のNHKプロジェクトXは実にわくわくした。あのようなことで新幹線が誕生したというのは多くの方々が知らないことであろう。特に車体のディザイン主任の方がご自身で設計に携わった戦闘機で、銀河を挙げられたのは僕としては少し唖然とした。すなわち、車体(機体)そのものはこういった方向で完成してもそれに伴うものが完成していないとダメなのではないか。新幹線では車体、台車の懸架装置、そして自動列車停止装置、ここまでやって一気に250km/hを出す。それに10数年かかった結果、という事実。今、こういったことをできるかどうか。
 先に申したヤマハのSR400/500がこれに当たるのではないか、と考えているからだ。確かに壊れないエンジンに車体、極端に言うと23年前のSRも多くの点では変更がない。エンジンだって載せ換えできる。車体に至っては補強が加わった程度である。そこを見極めて、手をかけてほしいものだ、と感じた次第だ。

2000年 5月15日(月)くもり一時雨
 日、日中のサイクリングに古いプジョーで参加したためか体中が痛く、夕刻うとうとしてしまい、夜は眠れなくなってしまった。たまたま、NHK総合テレビのアーカイブスで放映されていた1963年のテレビドラマを見てしまった。
 そこには、昭和38年当時の東京の下町の風景がバックにあったし、当時の僕の生活からしても都会とこの辺ではずいぶんと違う、と感じた。連作だったんで、次の翌年の今度は都心のビル街のできる直前のドキュメンタリーは見る気がしなかった。
 そういったことで、これまた早朝に目覚めてしまい、布団の中で「ドラマの主人公は小学6年生だから....、あれ、今の僕と同じ歳ではないか。」と突然閃いたのは「翌年の東京オリンピックの後、都会との格差がますます広がり、少しずつ地方も良くなってはきたが、それから10年も経たないうちに、一気にマイナス面が表面化するのだからな〜、今は大変な世の中なんだ、真の豊かさなんか無い、それが表面化しないだけだ。」ということであった。原田氏の写真展を見ていたし、九島一周のサイクリングで段々畑の後も十分に見たから、一層感覚が高ぶっていたのかもしれない。
 今日、ようやくにして8年越しの借財を返済した。市中銀行からの借財であったが、借換など消費者有利な方法は決して教えてはくれない。コンビニで入出金ができる世の中なんだから、市中銀行といえども、自分とこの利益を第一に考えるはずだ。ヤマハのXJR1300が買える程度の借金だが、今日の踏ん切りがつくまでの道のりで支払った利息はその1/3にもなる。日々の生活費など、ベースアップが皆無に等しい給料体系では月々の返済金額と利息の関係もバカにならない。その商品を見つけだすのも一苦労なのである。

2000年 5月17日(水)雨後くもり時々はれ
 日から終工程を行っていたトライアンフのシート修正を終える。簡易防水加工を施してあるのに雨水が進入する不思議さに閉口し、水が抜けきらないのでシート皮をはぎ取り乾燥を行っていたものの修理だ。その作業には有に二週間もかかってしまった。原因はオイルタンクキャップ部分に被さるシート最前部の防水が完全でなかったためであった。
 ここで分かったことは、元の圧縮ウレタンチップが非常に強固であること、750に650のシート皮を使う場合は、1971年モデル以降のオイルベアリングフレームにフィットさせたものが必要、ということであった。最前部の接着はセメダインスーパーXを使用した。この接着剤のすさまじさには仰天する。その他の貼りあわせ部分の接着剤は合成ゴム系のものだが、今回コニシのボンドG-17を使用する。両方の接着面に塗布後、充分乾燥させて貼りあわせれば、市販のものでもその効力が発揮できることが分かった。
 これはこれで成功したが、先日から僕の体が言うことを聞かない。倦怠感とも疲れとも違う。思い当たるのは右の腰に近い背中の辺りがおかしいので、肝機能が少しばかりダメかな、と感じている。
 少し元気が出たのは、昨日のNHK総合テレビ「プロジェクトX」でカール・ルイスのスパイクシューズの開発秘話を見たことであった。僕が持っているadidasの古いシューズなど、このHPに先に登場させるのではなかった、と残念(また掲載しようか)に思ったり。ま、今回も含めてなかなかおもしろい番組に思う。何しろ事前に話をしているとは思うが、ミズノ、アシックスなどのメーカー名をNHKで出さざるを得ないところなど、今までとは少しばかり変化している点も見落とせないからだ。そういえば前々回もホンダというメーカーがないと、番組が成立しなかったんだから。

2000年 5月19日(金)くもりのち雨
 末を迎えたというのに全くうれしい思いもしない。日曜日がうれしい気分はずっと昔に過ぎ去っている。土曜日こそ今の僕にはいろいろなことができるので有益なのだが、最近は土曜日自体も休めない。日曜日は社会の多くが休日だから、自分のことができない。
 そういった思いでの金曜日の今日、朝のトップニュースはスポーツ用品のインターネット販売をやっていたヨーロッパのboo.com社が破産、というニュースだった。何でもアニメーションなど、動くグラフィックを多用した商品説明のため、一般のお客さんがアクセスするのに数十分かかる、会社の方もページ更新に多額の費用がかかったことがダメになった理由らしい。
 僕の持ってるような非力なマシン、ましてや1バイト圏の英語多用諸国でこの有り様だから、そういわれてみると、僕も重いホームページにはあまりアクセスしていないのが現状だし、僕んとこも写真を掲載するのにも注意を払うのは毎回の更新につきまとう。おまけに割り当て容量の関係もあるから。
 (インターネットビジネスでもビジネスの基本は同じですよ、という)こういったトップニュースから始まったんで、仕事でもちょいと言われるとすぐアッタマにくるようなことが多かった。こんなもんだから、冒頭の表現が一層強くなってしまうのだろう。そういえば明日は松山で会議が二つもある。もういい加減にしていただきたい。
 幸い僕のは本業以外の業務でのことだが、これが仕事のこととなると、こんなのが重なって過労自殺する人も出るのだろうか。カウンセリング体系も万全ではなく、仕事などでの行き詰まりによって、自分自身を追い込んでいってしまうだけで、そこから逃れる方法、発散させる方法を知らない今の日本人。
 あるいは日本人の人間性、日本社会の仕組みなどから、本人に言い様のない不安がつきまとい、それから逃れるために死を選ぶのかもしれない。
 かといえば、ある程度の企業などでは、多額の負債を抱えて倒産しても、代表者は大見得張って個人資産であろうけど、高級輸入車を乗り回したり、しばらくするとまた会社を興しているなど、妙な気分になってしまうのである。
 ここ数年は、こういったことが多くなるのではないだろうか、とも思えてしまう。

2000年5月21日()はれ
 日は大変な量をこなした。といっても、会議が二つだが、松山往復と会場の移動時間だけでも4時間が潰れる。この間の時間がいつになく負担として大きくのしかかってきた。そして同級生達との会合で久々に呑んだから、このことも加算されて、今日一日はいやはや、動物のような生活であった。
 朝気が付くともう7時を過ぎているので、お早うサイクリングには行けなかった。昨日出来なかった全国一斉オリエンテーリングのお知らせの原稿をタイプして、アップロード。
 タイプしながら、朝の夢を思い出していた。父が幼少の頃の浴衣姿の僕に話かけているシーン、小さい僕が見上げたとき、その目に見えたのは今の僕であった、という不思議な夢であった。
 昼ご飯はちょべり具のカツ丼、こいつが一番いい。最近の日曜日の昼食はいつもこのパターンだ。何でも鑑定団を見た後、急に眠気がやってきて、お昼寝。不思議なもので2時間ほど眠っていた。4時頃から明屋(はるや)書店へ出向き、オーディオ関係の本をチラリと立ち読みする。
 数年前から、たかが家庭でレコード再生するのにゼニかけるのはアホらしいものに思えるようになった。そういえば、僕の真空管アンプもいい時期に購入したものだ、と思える。何を追求するのかによってオーディオというものは変わってくるだろうけど、少なくとも「オーディオ道」なんていう輩は僕ぁ嫌いだ。同じようにコーヒーを入れるのにもったいぶったように「珈琲を点てる」、などというのと同じようなもので、はアホくささを通り越しているように思う。それと同じことがレコード再生において、まことしやかにはびこっている。そして、そういった数百万単位のシステムで聞くところの音楽がハイエンドのオーディオっていうわけだ。本当にそうだろうかな。
 この疑問が一向に解けないから、僕はオーディオに入れ込むことができなくなった。ましてや、外タレのCDは生産国によって音が異なるってことが分かったからと、再生装置の進歩が速すぎることから手を引かざるを得なくなった、というのが本当のところである。
 夕方、日光も陰ったところで、修正したトライアンフのシートを装着、SRの点火コイルにはプラグコードを交換したことにより、フェライトコアの大きいものを装着した。
 夕食を摂りながら電灯をつけず、暮れなずむ外を見ていた。朝の夢が再び思い起こされた。

2000年5月26日(金)くもり後雨
 たたまれなくなって午後から休暇を取る。肝心要の時に休むのもいかがか、と感じるが、パニック状態になってからでは遅いのだ。ま、ここは長年のカンというところで容赦願おう。明日もそうだが、休暇がない、取れないということが、個人にとって日常業務でいかに大きいペナルティーになるか、というのは多くの場で分かり切っている。こういった意味からも休暇というのは重要なポジションを占めているのだ。
 市民はすぐさま、○○の職員は、って僕らを名指しするけど、みなさんの付託に沿うように仕事を進めている我々にとっては、みなさん方の意識の低さに唖然とする。加えて、職場のトップレベルの意識の低さに閉口する。職員は「職場のために働いているのではない」ということを、もっと認識すべきだ。こういったことが確立されていないために、先日の愛媛新聞の記事を真に受けた市民が「職員減らし」推進へ邁進するのだろうな。そうなった結果、住民サービスは確実に低下することは明白なのに。
 話変わってSUDCO MIKUNIのキャブの件でブリティッシュ・ビートさんへ電話する。セッティングのノウハウを親切に教えていただいた。早速パーツの発注をした次第だ。それにしても多くのモデルが売れない、排ガス規制の対象になって消え去ろうとしているのに、多くの燃料と多くの空気を必要としてエンジンを作動させるかつてのバイクは省みないでいいのだろうか。いたずらなように放出するCo2、Noxだけに注目してはならない。フロンガスのように確実にその物質がダメというのではなく、いかに効率よくエンジンを回す、という命題だから難しい面もあるのも事実だが。

2000年 5月27日()雨
 日の今日、天候は悪い。週末はこんな状態で、おまけに休みが取れない。今日も仕事外の用務で松山だ。振り返ってみると今月は3回も松山へ行っている。往復JRで2時間40分。さすがに嫌になる。
 そうそう、先日来Newton MP-130が日本語表記をしなくなり、今日も気になっていたからか、松山行く前、午前5時頃からすったもんだやって、日本語表記のパッチがブッ飛んでたのを見つけた。いざ修正して気が付いたらNamesなど多くのものが消滅して、痛い思いをした。バックアップを取っていなかったから、こういったことになった次第、自業自得か。それでもこいつを捨て去る気にならないのは、やはり感性というか、僕には「イイ秘書」なのだ。
 今日は列車の中で30分ほど眠っていた。最近の身体の変化から、ついつい「死」というものをマジで考えてしまった。恐れとかそんなものではない「死」というそのものについてだ。
 俳優のマイケル・J・フォックスが筋萎縮症である、というのは知られている、と思うが、あの元気者がホンダの「かっこインテグラ」のCMをした当時からどれほどの年が過ぎただろうか。僕も目が覚めたら体が動かなくなっていた、なんて本当に考えてしまうのである。
 身体変化は本当にあるんだ。右手に出来ていた多くのイボが消えて来始めたのは申したか。右の眼球が遠視になりはじめている。微妙だが、僕はそれに対峙して右斜めに見るような格好を最近取っているな、と自覚する。酒もあまり飲めなくなった。
 これまた昨日のテレビerでもあったように「休養」が必要なんだ。けれど、仕事外の様々な職をもっている僕は休めやしない。
 後10年勤めて、「もう来なくていいよ」と今の職場を去ってもイライラがつのって、急に逝くんじゃないかって、マジで感じてる。そのころの宇和島は人口40,000人程度で爺婆ばかりの町になってたりするのじゃじゃないだろうか。合併なんて隣がしたくないだろうしな。
 そういえば復古調の誰かさんの発言ではないが、遠く明治の御代に、東郷日本連合艦隊がバルチック艦隊を日本海で破った日、海軍記念日だ。おまけに他界した母の誕生日だ。こういったことも影響しているのかもしれない。
 明日雨なら、本当に休まないと。が、気分は心と違う方向にSRで走りだそう、としているこの性は、死ぬまで治らないようだ、嗚呼....。

2000年 5月28日()はれ時々くもり
 らない。雨は降らない。午前中に職場へ出向きやり残しのケリをつける。これだけやっておけば明日が楽だ。
 昼前からトライアンフにかかる。特製のエスロンパイプアダプターを装着してエンジンを回す。ン、なかなかいい。今までとはまるで違う感覚だ。5分程度で落ちつく。アイドリングを少し高めにして、一応おいておく。
 簡単な昼食の後、ハワイからの「のど自慢」の同時中継を見る。日系の方でも英語しかしゃべれないのに、こぶしを効かせた艶唄を唱われると思わず涙が出てしまう。おまけに日系の一世などが受けた迫害などを理解すると一層のことだ。首相の発言など復古調とはいえ、あの当時の真の事実を国民に知らさないまま、当時を回顧するなどはまかりならないことだ。それにしてもとんでもないことを50余年前に起こしたものだ。
 午後からトライアンフを動かす。いい感じだ。もう少し考えて、煮詰めを行おう。次いでSRを引っぱり出す。これもいい調子になってはいるが、どうも落ちつかない。そろそろ、排気系を元に戻すべきではないか、と考えている。バカげているとはいえ、こういった改造を行って、行き着くところまで行けば元に戻して最初からやるっていうのも一興ではないだろうか。
 夜はちょいとネットの確認をやって、今日はオヤスミ。でも、明日は仕事に行きたくない気分ではある。が、辛いながらも行かないとならんのだろうな。

2000年 5月30日(火)はれ後時々雨
 は昨日から続く。昨日注文していたSR500の輸出用のシートが来たのだが、信じられなかった点として、シートベースが樹脂製なのだ。そのため、国内では入手できないパーツが必要になってくる。どうしようかって思うと、SRに関しては、いつものとおりオレンジブルバードさんへ電話。早速返答いただいて、パーツを発送するとのこと。が、うれしいのもここまで。外はポツリポツリと雨が落ちてきた。青空工房ではシートの交換など出来ない。明日の天気がどうなるか、不安がつのる。
 前の職場では日曜日の野外の行事が多かったから、前日は辛かった。参加者はまるで僕が天気を悪くしたような顔をしていた。こういった経験があって、今の職場でも、ちょっとのことで気に病んだりするのだろうか。特に電話での見えない相手は嫌だ。電話での発言と直接来訪したときの発言のギャップがひどすぎるから。相手を叱りつけたりすることできない職種だから、一層つのる問題かもしれない。
 そういった日々の中、逆に頭脳も身体もよく動くせいかしら、夕食が美味しい。妻もこちらのことを察して(加えて金がないため)か、ごく簡素にしてくれている。このことがことのほかうれしい。その夕食を摂りながらテレビニュースで元ブルコメ井上忠夫氏が自殺した、の報道があった。一瞬「リーダーのジャッキー吉川さんとしては、考えの中で、もうブルーコメッツとして活動はしないだろう」という思いがよぎった。それだけのこと、といえばそれまでだが、グループ解散後も作曲活動されて、ヒット曲も多く出したことがあるのに....。あの頃を知る者としては残念なことだ。僕が最初にCDを購入したのがこのジャッキー吉川とブルーコメッツのベスト盤だったから。
 Newton MP-130Action Namesをインストールした。PalmシリーズがPDAではブレークしているけど、僕にはやはりこの130が一番フィットしている。本当は2100ぐらいを中古で購入しているはずなんだが、どうしてもこの秘書を必要としているんだ、ホント不思議なぐらいに。でも、中古市場に出ると、とんでもない金額が待っている。開発中止となってから30,000円ぐらいだったのに、その倍は有にする。バカにしているようでならない。

2000年 6月 4日(日)くもり後はれ
 日から職員団体のスポーツ祭典で重信町に出向いて、本日帰って来た。我がチームは野球は平行ゲームの軟式野球は一回戦敗退、しかも昨年対戦して勝ったチームに負けた。レクバレーは優勝をねらっていたが、これまた昨年の決勝と同じ対戦相手に惜敗した。
 先に申しておくが、重信町のツインドームっていう体育館だが、これが実にイイ。宇和島市の中途半端な体育館とは比べものにならない。しばし、宇和島の体育館は何であったのか、情報公開が叫ばれている中、市民の有識者は一つ国際試合が出来る体育館はどういったものか、担当者に質問して返答を求めてはいかがだろう。少なくとも、体育館に舞台があるのは片腹痛いところと気づくであろう。それに中途半端な時間割にも。ま、質問する人も少ないだろうし、そのことを知る人も少なかろう。
 3日はSR500に装着した乾式クラッチの雨天走行時におけるテストと相成ってしまった。メーカーのダイシンさんの言うとおり、全く心配ない。1000km走行時に整備をしたが、それ以降はオイルの汚れも少ないし、後2300kmほど走行すれば明白になるだろう。

2000年 6月 6日(火)はれ
 週も明日から週末にかけて休暇が取れない。今日は運良くお天気ということもあって、午後から有給休暇をとる。やることは一つ、トライアンフのキャブ調整だ。詳しくはいずれ本編で申し上げることとして午後から3時間、キャブの分解組み立てとテスト走行をそれぞれ4回。結構大変だった。
 メインジェットをそのまま#230にして、パイロットジェットを#22.5に下げた。この組み合わせが良かったんで、寄松(よりまつ)から無月(むずき)のトンネルを通って、小池、石応(こくぼ)を回ってのコースだったんだが、「バスッ、バスッ」という音がし始めて回転が上がらなくなった。てっきりスクリウ調整と思って何度もやったんだが、アイドリングからの回転はいいのに走り出すと次がだめだ。
 必死の思いで帰ってきて、「まさか?」、と同じ症状になったときのことを思い出し、点火プラグを交換する。ウッ、快調ではないか。スクリウはゼーンゼン触らなくてよかった。本当にOKかどうか、確認のためいつもの三間(みま)・広見のコースを走らせる。「いい」。80km/h程度は簡単に出る。が、今度はクラッチの滑りがひどい。またゼニがいる。でも、現状ではいい感じになった。
 それにしても、23年も僕の相棒であって、いまだに矍鑠として走る。気分がいいよな。先の話になるが、10月は花園村へ、このトライアンフとともに行こう。それまでに悪いところを整備しないとならない。報告文書をタイプした後は淡麗生で乾杯だ〜。

2000年 6月11日()雨時々くもり
 わただしい一日であったが気分は爽快であった。朝は、昨日の残りがあって少々寝坊をしてしまった。そういった中、自分なりにSRをまとめようとして階下に下りたが、
SR500の乾式クラッチも濡れていない。
 南楽園には13時40分に到着した。ま、期待はしていなかったが「一人」であった。予定通りのことをやって松野のおさかな館へ到着。我ながら時間が予定と一定しているのは不気味な感じがする。
 仮に、懇親会でもすればってところで、酒道場で一杯やった。何か不思議なことのように感じてしまった。
 考えてみれば、この辺でインターネットやっている人たちの少なさ、ましてや、SRに絞ったところで、完全にマイナーを教えられた。
 しかし、僕は止めません。次は保内町は「平家谷」へそうめんを食べに出かけましょう。SRだけでっていうのがカッコイイじゃありませんか。

2000年 6月15日(木)はれ
 けんじゃね〜。気分はいいんだけど、眠い。「今何時?そうね大体ね」、もう7時?。脳神経に薬注入して、オールエンジンラニング。SRのエンジン回してご出勤だ〜。
 夢か現か幻か?。トライアンフのインマニの一件が閃いて早朝から職場でノートにまとめる。実は知恵の輪みたいなもので、簡単な解決策が見つかったんだ。ただし、一般にはできない。(これの詳しいことは次号で)
 それにしても、一人っきりの職場での朝の1時間。月曜日からの多忙さにうんざりする。とにかく、前の村山総理ではないが、私人としての昼休みさえ今はとれない。夜は夜で、関係団体の会議。12日から今日までこのパターンがずっと続いている。現実には11日の日曜日をのぞいて、7日から続いてしまった。
 今日はそういったことから解放されて、帰宅しすぐに酒道場で思いっきり酒を喰らった、と思ったんだが、今度はすぐに酔っぱらう。たまたま知人が同席していたものだから時間は喰らったが、酒は思いの外喰らわなかった。
 帰宅してがっくり来て1時間ほど眠ってしまい、気が付くとNHKのクローズアップ現代ヒューレット・パッカードカーリー・フィオリーナ女史のインタビューをやってる。彼女のような感覚に温故知新の感覚が加われば鬼に金棒かもしれない。だって、僕もデスクライターのプリンター持ってるし、今でもMac関係のOSに対応しているし、ドライバーの更新なんかもやってくれている。インキにしたって十分フォローしてくれてる。(本当は逆だが)こういった庶民の製品に加えて、メインの大きいコンピュータも扱ってる、ってところがアメリカの良心かもしれない。彼女自体はどう思っているか分からないが。
 夜は夜でトップランナーで漫画家の井上雄彦氏が出ていた。僕にはうれしいよな。話の中で、スラムダンクの最終回が僕の考えと同じだったんで。この漫画では、第一に「インターハイに行こう」が最初の目標だったんだから。しかし、今の世の中はこういった気分を許さないだろう。結末は完璧でないとならない。僕自身はこち亀両津さんの気分だ。そういえば、この作者は僕と同じぐらいの歳だろう。いずれ申し述べるがビッグコミック誌のビッグウイングに今はくびったけだ。こんな場面が本当に少なくなった。
 そんなもんで、僕のような人物は今の一般社会には受け入れられる場面は少ないだろうと思う。でも、僕は死ぬまで生きるんだ。
 それにしても、今日一日がむなしい気分のうちに終わるようでならん。窓から夜の街をチラリと見るとネオンの海に泳ぐ人も少ない。明日の朝までしばしの安らぎの時を....。今夜は音の速いバイクや車がほとんど居ない。

2000年 6月11日()雨時々くもり
 わただしい一日であったが気分は爽快であった。朝は、昨日の残りがあって少々寝坊をしてしまった。そういった中、自分なりにSRをまとめようとして階下に下りたが、
SR500の乾式クラッチも濡れていない。
 南楽園には13時40分に到着した。ま、期待はしていなかったが「一人」であった。予定通りのことをやって松野のおさかな館へ到着。我ながら時間が予定と一定しているのは不気味な感じがする。
 仮に、懇親会でもすればってところで、酒道場で一杯やった。何か不思議なことのように感じてしまった。
 考えてみれば、この辺でインターネットやっている人たちの少なさ、ましてや、SRに絞ったところで、完全にマイナーを教えられた。
 しかし、僕は止めません。次は保内町は「平家谷」へそうめんを食べに出かけましょう。SRだけでっていうのがカッコイイじゃありませんか。

2000年 6月15日(木)はれ
 けんじゃね〜。気分はいいんだけど、眠い。「今何時?そうね大体ね」、もう7時?。脳神経に薬注入して、オールエンジンラニング。SRのエンジン回してご出勤だ〜。
 夢か現か幻か?。トライアンフのインマニの一件が閃いて早朝から職場でノートにまとめる。実は知恵の輪みたいなもので、簡単な解決策が見つかったんだ。ただし、一般にはできない。(これの詳しいことは次号で)
 それにしても、一人っきりの職場での朝の1時間。月曜日からの多忙さにうんざりする。とにかく、前の村山総理ではないが、私人としての昼休みさえ今はとれない。夜は夜で、関係団体の会議。12日から今日までこのパターンがずっと続いている。現実には11日の日曜日をのぞいて、7日から続いてしまった。
 今日はそういったことから解放されて、帰宅しすぐに酒道場で思いっきり酒を喰らった、と思ったんだが、今度はすぐに酔っぱらう。たまたま知人が同席していたものだから時間は喰らったが、酒は思いの外喰らわなかった。
 帰宅してがっくり来て1時間ほど眠ってしまい、気が付くとNHKのクローズアップ現代ヒューレット・パッカードカーリー・フィオリーナ女史のインタビューをやってる。彼女のような感覚に温故知新の感覚が加われば鬼に金棒かもしれない。だって、僕もデスクライターのプリンター持ってるし、今でもMac関係のOSに対応しているし、ドライバーの更新なんかもやってくれている。インキにしたって十分フォローしてくれてる。(本当は逆だが)こういった庶民の製品に加えて、メインの大きいコンピュータも扱ってる、ってところがアメリカの良心かもしれない。彼女自体はどう思っているか分からないが。
 夜は夜でトップランナーで漫画家の井上雄彦氏が出ていた。僕にはうれしいよな。話の中で、スラムダンクの最終回が僕の考えと同じだったんで。この漫画では、第一に「インターハイに行こう」が最初の目標だったんだから。しかし、今の世の中はこういった気分を許さないだろう。結末は完璧でないとならない。僕自身はこち亀両津さんの気分だ。そういえば、この作者は僕と同じぐらいの歳だろう。いずれ申し述べるがビッグコミック誌のビッグウイングに今はくびったけだ。こんな場面が本当に少なくなった。
 そんなもんで、僕のような人物は今の一般社会には受け入れられる場面は少ないだろうと思う。でも、僕は死ぬまで生きるんだ。
 それにしても、今日一日がむなしい気分のうちに終わるようでならん。窓から夜の街をチラリと見るとネオンの海に泳ぐ人も少ない。明日の朝までしばしの安らぎの時を....。今夜は音の速いバイクや車がほとんど居ない。

2000年 6月19日(月)はれ後くもり
 んごとない用務で午後から休暇を取る。実のところ、こういった用務で休暇を取るというのはやりきれないのだ。結局準備に1時間、実作業に2時間半。終わってみれば仲間の退庁と同じ時間になってしまう。おまけに日中人目に付く場所で用務をやらねばならず変な目で見られるし、おまけに宣教師には数回呼び止められるし。特に最近の宣教師は母国のアメリカの考え方かしら、手当たり次第に日本語で迫ってくる。今日は帰宅途中に一度、用務遂行中に一度、しかも同じ人物にだ。いい加減、商店街をはじめ、主要な道を通るのに嫌気がさす。
 流れる汗をものともせず、用務完遂。その後、トライアンフのキャブに僕が考えに考えた末の「考え」を施す。もう今日しかない。このチャンスを逃したら作業は2週間後になってしまう。用務も終わったんだ。やろう!。
 実は、昨日広見までのテスト走行を終えて一応の成果を得ていたから、やることは簡単なことだ。とりあえずは自転車で宇和島船具さんへ出向き、内径32mmのシンチュウパイプを20mmの長さに2個切断してもらう。おもしろいことに、シンチュウは長さではなく目方で金額が決まるんだ。
 一度帰宅した後、内田自転車商会さんへトライアンフで出向く。まずは先ほどのシンチュウパイプをきっちり20mmに整形する。そして昨日キャブのアダプターに装着した外径32mmのパイプを5mmカットして再び装着。アダプターから出たアルミパイプにシンチュウパイプを装着して再びキャブレターを装着した。実は外径32mm、内径32mm、外径38mmという関係が最近までなかなか見つからなかったんだ。これらの寸法のパイプが見つかってからはトントン拍子に事が進んだ。今日もこれら一連の作業は40分で終了した。
 エンジン始動。すでに暖まっているが、ちょいと回転が重い。ま、気にせずゆるゆるアクセル操作をしながら南へテスト走行。時は午後6時が近い。保田へ入って車の列が無くなると鞭が入る。俄然調子が上がる。「これだ、これだ」。股ぐらの下を見回してもキャブは振動していない。この点はシンチュウのパイプが効いている。残念なるかな時間の関係で、旧松尾坂から農免道路、三浦から無月を通って帰ってきた。
 いつまでも乗っていたい気分になってしまう。SRだと、まだこのようにはいかない。トライアンフゆえ出来ることかもしれない。650のエンジンより少し重々しくてドロドロ回る、いつものT-140Vが帰ってきた。これがベストのセットとは言えないが、ベターであることは間違いがない。
 僕の誕生日も結婚記念日も、昨日の父の日も誰も祝ってはくれなかった。しかし、今日のことが僕への僕自身による最高のプレゼントのような気がする。フロ上がり、簡単にキリンの淡麗「生」で乾杯をした。190円の楽しみである。しかし、缶ビールは横置き冷蔵に限る。一度やってごらんなさい。泡立ちがまるで違うから。

2000年 6月21日(水)くもり後はれ
 日、不気味な思いをした。本来は昨日の表記にすればよかったんだが、これは気分からしてできなかった。
 トライアンフのテスト走行を兼ねて宇和のT君宅へ出向き、その帰路、法華津峠のトンネルを抜け、何番目かの白浦トンネルの中でそのことは起こったんだ。時間にして午後6時40分頃、法華津トンネルからずっと、僕の前はトラック、トラックの前は初心者マークの旧型マーチ、僕の後ろには誰もいない。このシチュエーションで、その何番目かの白浦トンネルに入った。
 入ったとたん、後ろから猛烈なスピードで追い付いた四輪車がいる。これは後ろからのヘッドライトの照射でも分かったし、バックミラーでの確認もした。「えらいスピードだ、トラックとの間が開いたので少しスピード上げようか」とアクセルを開けて、トンネルを出た。「ちょっとセンターラインに寄ったかな?」と右カーブでバックミラーを確認したところ、四輪車の姿も形もない!。「事故ったかな?」とも思った。が、帰宅するまで救急車もパトカーにも対面しなかった。当然、トンネルを出ても脇道もない場所だったんで、余計に「幽霊」の感覚を強くしたわけだ。
 そういえば、もう20年前になるけど、高校卒業後すぐのサイクリング仲間がここで事故死したのを思い出した。そして、昨日はちょうど日吉村で交通事故死した知人の葬儀だった。帰宅すると、義父がF胃腸外科に体力低下で入院した、という知らせが届いていた。
 ま、この話はさておき、今日は僕のメインコンピューターを換える決心をした。いきなりの最新機種、9年間新品のAppleコンピューターMacintosh製品は購入していないことになる。
 とにかく現在使用しているMac達は処理が遅い。文章をタイプする程度ならいいが、それをインターネットで送ったりしていると、時間ばかりかかりすぎる。データベースにしても同様だ。第一にこれからのOSに対応していけないが分かっているからだ。それと信じられないローン金利が使えるので一気に加速した。
 まだOKだろうけど、間もなくすべてが一新されることになるな。

2000年 6月 23日(金)くもり時々はれ後一時雨
 用で松山へ。その前に、昨日は午前様に近かったんで、眠いの何の。しかしPowerBookのローンの申込書の記載もあって午前7時前に職場へ出向く。何とも蒸し暑い。何かあるんじゃないだろうか、と感じることしきりだ。
 そういえば今日は父の命日だ。あの日も熱かった。晴天であった。最後の脈は僕が確認した。高校2年生のときであった。今なら信号と音が一本になるので確認は容易だが、人の一生が終わる時、その瞬間まで本人に意識があると妙に「それじゃ行ってくる」という気分ではなく、「後をたのむぞ!」という気分を残して逝ってしまうような感じであった。男親が一人っ子の僕に残した最後の気持ちかもしれない。思い切って病院の屋上に上がったが、午後の陽光に向かいの教会の金色の十字架が輝いているのを見て、宗教は違うが、天に召された感じが強まった感じをもったものだ。もうあれから37年も過ぎてしまった。
 帰りの列車で高校生諸君が制服姿でタバコをふかす光景を目にする。いい悪いは言わない。しかし、この子達を育てた親は毎日あくせくして働いているのだろうな、と思うと高校生なんか本人が悪さやればもっとペナルティーを与えてやってもいい。時には教師は頑として退学させてもいいように思う。そのかわり、教師の教師たる何かを確実に身につけ、学校で寝泊まりするぐらいの考えでないとならないが。
 最近では義務教育の中学生でもタバコを吹かしている。どうぞおやんなさい、と僕は申し上げる。そのかわり、真剣にタバコを吸ってほしい。めまいがして吐いて、それでも「やれ」という大人が何人いらっしゃるだろう。タバコを経験していない者が子供達にタバコはダメですよ、といったところで焼け石に水だ。
 話は飛ぶがバスセンターの歩道橋の乗降口にY高校の生徒諸君が朝自転車を止める。一向に改善されない。これぐらいのこと、昔の教師なら宇和島まで来て指導していたし、生徒も各委員会があって月に一回ぐらいの話し合いなどしていた。今ではそういったこともないんだろう。何しろ生徒総会でさえ学校指導になっているんだから、義務教育高校っていうのは言い過ぎだろうか。


inserted by FC2 system