2000. 7. 2〜9.18の日記


2000年 7月 2日() はれ一時くもり
 気予報が全く当たらない。昨日初期調整不良で到着が遅れていたPowerBook400を今日も引き続いて使える状態に持っていく。快速快適なことこの上ない。今まで何をしていたのだろうか、という自責の念を感じるとともに、現在のビギナーが本当にコンピューターを理解しているのかどうか、こういった僕から言わせると高性能機を安い金額で購入できることがいいことかどうか、少しだけ不安になってくる。ま、OSのバージョンが上がっても、期間からいうとかなり長期にわたって使用できる高性能機が僕のオフィスにやってきた事実は間違いがない。残念ながら周辺機器が全く新しいものだから、旧機種も結構第2列でがんばることになるのは間違いがない。
 それにしても、選挙の前の週から夜の会議が多く、そのうえ宴会での酒の席も多く、食事の時間なり、日々の生活が知らぬ間に不規則になってしまって、自分自身の体調を崩してしまっていたようだ。先週末は強壮剤とそのものが入った食事、睡眠で少しはよくなった。前の日記から1週間、思い出すと相当に長い期間であったように感じた。

2000年 7月 3日(月) はれ
 日の日記をアップロードした後、とんでもないものをweb上で見つけて、自分の今の状況を省みずメールをしたためてしまった。すべては明日(つまり今日)ということにして、眠られなかったことから始まったんだ。
 ノー天気の僕だから、今日(本当の)は5時頃目が覚めてしまった。出勤前にメールの確認をしていれば(もうG3のノートで確認ができることさえ忘れてる)事はあわてなくてもよかったのに、出勤していらいらが募る。
 おーっと忘れていた。このことはいずれMacの項で記載するつもりだが、見つけたものはPowerBook100なのである。すでに2台所有しているのだが、どれひとつとして完動品がない。実のところ最初のものは完璧に現代風になってしまい、もう1台はハードディスクの不良から(薄いのを見つけるのが難しい)そのままにしてある。で、触らなくてもいいモデルとして動く状態で保存できるものを探していたところだったのだ。すでに2台目を購入してから2年が経過している。探せばあるだろうが、いつものとおり、金銭面の折り合いがつかない。
 午前10時30分、ショップの開店と同時に電話。「出ちゃいました」一瞬声が出なかった。「......しばらく待ってください、替わりますから」「あ、宇和島の○○さんですか、先ほどはすみません、もちろん○○さんで予約しております。メールを入れておいたのですが」一瞬気が抜けてしまった。早速送付の手続きをして電話を切った。
 うれしかった。思わず「やった」のガッツポーズを取ってしまった。公衆電話の周りの人間はニヤケた中年の僕を見て「アホか」と思ったかもしれないな。
 メールの確認をしていれば、逆にこんな喜びは無かったかもしれない。そういえば、最近は友人に僕の手で手紙を書かないな。できれば緊急以外はメールなんてものは必要ないのかもしれない。となると、FAXで自筆の文章もいいかもしれない。が、ラブレターはいけないな。すべて開封だから、まるで太宰 治の小説のように、ラブレターをまき散らす一節になってしまう。
 今日はゆっくり眠れるぞ。

2000年 7月 5日(水) はれ
 PowerBook100がやってきた。開けてびっくり玉手箱!、かなりの上物。早速テストの電源を入れてみる。いつもどおりのフィーリング、前のオーナーはかなり気を遣って使用していたのではないか、と推測する。
 システムはOS7.1のようだが、どことなくおかしい。動くことが確認できたので、手持ちの8MBメモリーに乗せ換え、漢字トーク6.0.7.1のセットアップを試みる。まま上手くいったが、どうしても今の使用感覚からは好ましくない。Plusなどのキカイならいいのだけど、8MBのメモリーも搭載しているので漢字トーク7(7.1)にする。 このPB100はMC68000のCPUだが、僕の実験ではOS7.5.1でも気持ちよく作動した。実に不思議なキカイだ。
 先日PowerBook400という、とてつもないものを購入したが、僕がSE/30を購入した9年前に、このPB100が(ポータブルを除いて)Apple最初のPowerBookとしてリリースされた事実を知ると、妙な気分になってしまった。
 この100も150も発売当時からしばらくして「使い物にならない」といわれたものだが、今になって人気が出るっていうことが、とりもなおさず、当時から異彩を放っていたんだろう。Duoだっていまだに価格が下がらない。同じような5300csが298という金額で売られているのにもかかわらず。

2000年 7月 8日() はれ
 風一過のように梅雨が空けて、まるで一気に秋のような感じの一日であった。午前と夕方、PowerBook400の前に座って更新の方向付けをやった。
 外は上天気、どこへ行くにも最適だが、タイミングが悪く、そこら辺で暇つぶしだ。そこら辺とはいえ、結構な距離をSRで駆け抜ける。気分転換には最適だ。仕事で必要なシーンを見つけたが、デジカメを忘れてきているから明日にでも撮影を試みたい。でも、これって明日になると忘れてしまっている始末だろう。
 夜市と十日戎が一緒になっているが、商店街へ出たものの、人出の少なさにびっくりする。ほんの5年ほど前までは、近所の信用金庫まで人出の自転車の数があふれていたし、臨時運行の市内バスまで出ていたのに、だ。情けないを通り過ぎた気分であった。
 昭和30年代、あの頃は本当に夜店であって、商店街のいつもの場所では売っていないものを屋台に出して売っていた。その中に掘り出し物があったりしたものだ。今ではそういったことをする店も少なくなったし、どちらかというと「早く閉店したい」気分のところが多いのだろう。
 Fetchの調整ミスで、日付通り更新が深夜に及んだ。幸いPB400を使用し始めているから、ラクチンだ。こことここが間違ってる、としてもすぐさま対処できるから、ずいぶんと作業がはかどる。本当に優れものである。

2000年 7月12日(水)くもり一時雨後はれ
 日、滋賀のクラシックボックスへ発注しておいたPowerMac7100用のセカンドキャッシュが届いたんで、早速Power Quadra700に装着した。その結果から先にいうと、「わずか」に処理が早くなっている。「わずか」、という表現だが、「わずか」が僕にとっては「かなり」に感じる。
 (これまた)わずか1週間前からPowerBook400を使用しているので、この程度のわずかな変化では遅い、と感じるはずなのだが、セカンドキャッシュを装備したPower Quadra700がサクサクと変換する様子を目の当たりにすると、不思議なことに、この程度の「わずか」「速い」と感じるのだ。
 PPC601はPPC603以降のCPUとは構造が違うが、やはりPowerPC G3 、G4にはバックサイドキャッシュが必要なように、601にもセカンドキャッシュは必要、と感じた次第。そういえば、職場のIIciにキャッシュ付き40のアクセラレータを使用して、キャッシュのみに設定したときに感じた速さによく似ているのを思い出した。
 おかげで、写真の編集、当HPの編集など、一向にPower Quadra700が引退できない、といううれしい悲鳴を上げている。何しろ古いちゃぶ台の2/3を占有しているのだから。

2000年 7月14日(金)くもり時々はれ
 日のテレビニュースで内子作り物をやっていたんで、思いついて午後からSRで出向く。暑いの何のって、こっちは救急用の反射材ベストを着用しているが、これさえ脱ぎたくなる。この作り物を見に来たのはもう15年ほど前になる。そのときはたまたま休日と重なったんで家内のスバル360で出かけた。車内では息子がテレビアニメのカセットテープをずっとかけ回し、楽しいものであった。
 そういった感覚があって、今回も期待したんだが見事にうち砕かれた。以前の町並みではない。否、町並みは同じなんだが、どことなく違和感を感じる。六日町の通りがず〜っとまっすぐ通っていて両横の店々にその店に応じた作り物が出されていたのだが、目に付くものがないのだ。それに加えて妙にピン・キリの町という感じがして、以前の八日市の古い町並みがおかしい。
 確実に分かるのはここも過疎の町になってしまっている。しかし、秋田の角館ではそういった感覚は感じなかった。これら僕が感じた気分の原因が何であるかそのうち分かるであろうが、心に残るものはなかった。小学生が書いた願い事の灯籠の文字に「潤いよりもお金がもうかりますように」というのがえらく気になった。
 夕刻からは同級生の集まりを新町の更級でやる。しこたま呑んで内子で感じたこともあって、バタン・キューであった。

2000年 7月20日はれ 海の日
 「ヒューストン、ヒューストン、こちらアポロ....」1960年代の終わり、月面の靜の海に人類が降り立った時だ。「僕にとっては小さな一歩だが、人類にとっては....」の有名な言葉も後々胸を打った。僕は中学から帰ってきて、すぐさまお隣にテレビを見せてもらいにいき、無重力状態も大変だ、と思った。それより、冒頭の同時通訳って職業を初めて知ったという気分も大きかった。もうあれから多くの時間が経過した。
 今日、その海の日、丸山球場に高校野球の予選試合を見に行く。母校の宇和島南高校が最初もたもたして大丈夫か、と思われた試合が結果はコールドゲームで勝った。僕が気になったのは次の松山商業川之石のゲームだ。松山商業は伝統の名門校である。ネームバリューは今でも衰えない。応援団もすさまじいものだ。対戦する川之石高校のスタンドに僕はいたのだが、最初2点をとって、相手のツーランホームランで同点、その後追加点を1点ずつとって、8回の裏松山商業に屈した。しかし、結果は5対3であった。
 まさか、の好ゲームであった。松山商業も今ではノーシードだし、かつての猛者ぶりはない。今日など熱気とは別に薄氷を踏む思いをしての勝利だろう。川之石も名門を相手にこれだけのことができた、いや、これからも進歩するのかもしれない、と感じたことであろう。
 こっちは長袖長ズボンはよかったが美貌(笑)が紫外線にやられて、数日は「呑んどるんと違う?」と言われそうな顔になった。「お母さん、あの麦わら帽子、どこへ行ったんでしょうね?」より、今日はマジでサングラスだ。しかし、グラサンかけると今度はパンダになりかねない。やはり夏は大変だ。
 そして、明後日はGaiyaのオープニングでの和霊様のお祭りが始まる。もしかして、黒いオルフェになるかもしれないな。一雨ほしいところだ。

2000年 7月21日(金)はれ
 日暑い日が続く。冷房の職場から外へ出ると、真面目に体が溶けるんじゃないか、と考えてしまう。特にカラリが普通の人が感じる乾燥した暑さではない。これで常に風が吹いていれば、緑の木立があれば、と考えてしまうが、今の宇和島の市街地にはそういったものは無い。
 さて、急に思いついてうわじまおどり英語での振り付けをカナダからの教師S女史に手伝っていただいて完成させ、Shop Schuneiderに掲載した。作成しながら、日本語表記を英語に直すのには自然なものをそのまま表記するのが英語って感じた。残念ながら、今年は間に合わないかもしれないが。
 それにしても、本当にいつも通りの祭りなんだろうか。この静けさは一体何だろう。

2000年 7月27日(木)くもり一時雨
 祭りも最後に雨になって終わった。3日間は何だったのか、雨のためかしら、余韻も残らず、といったところで、僕としてはカメラに収めたものが写真になったときに、一つの記録として物語るのだろうな、という気分だ。
 昨日から香川の丸亀市へ出張。初めて丸亀城へ出向いた。見かけとはずいぶんと違う。はっきり言って宇和島城の方がよろしい。しかし、たたずまいは丸亀城の方がいいのである。僕が感じるのは大河ドラマの「城を壊すのは堀も埋める」の道理のとおり、宇和島城には堀がない。名古屋城も堀がある。もちろん宇和島城の大きい外堀は市内を流れる川にあるのだが、追手門も消失した今、内堀の周囲を国道56号線が走る状況では、たたずまい自体はどうすることもできないのが現状だろう。
 しかし、丸亀の方がどことなく明るいのは競艇で市が潤うものばかりではないように感じるのは、僕だけではないはずだ。来年2月の陣へ向け、秋口には次の宇和島城主の動きが見られるはずだ。宇和島伊達の旧藩主は菩提寺の墓の下で、この動きをどう感じていらっしゃるのであろうか。一つみなさん方も来年の想像を巡らされてはいかがだろう。

2000年 7月31日(月)雨
 うしてこうも多量の雨が降るんだろうか。こちとらが望んだのは適度なお湿りにちょいと毛の生えた程度の雨だったんだ。実のところ、この雨を全部松山近辺に分けてやりたい気がしている。
 今日も午後8時ごろまで会議で拘束される。お祭りから始まって、29日の土曜日も会議で松山出張だったし、本当に休みがとれない。とにかく何がどうのこうのは言わないが、のんびりと数日間バイクに触ったり、音楽聞いたり、好きなことをやって過ごしたい気分なのである。かといって、僕の部屋はクーラーは体調の関係から入れていないし、幸い、心地よい風を提供してくれる扇風機があるが、残念なるかな、家が非木造だから自然という観点からはちょいと離れる。が、石の家に住んでいるとすればOKとして、本当にのんびりと休みたい気分ではある。
 しかし、これが来週一杯はどうも休めそうにもない。どうしてこうも夏期に行事が多いのだろうか、改めて感じ入った次第だ。
 そういえば、間もなくあの暑い夏の2日がまたやってくる。もう55年も前のことになったが、広島・長崎の原爆投下の日だ。今もって、原爆が地上で爆発した、と感じられている方も多いかもしれないが、地上600mの地点で核分裂を起こさせるのだ。においも音もない数秒後にとんでもない世界に陥れる兵器だ。
 何も核兵器に限ったことではない。東海村でのことでもお分かりだろう。においもない、目にも見えないこの脅威を地球上から無くするまでは、地球上の生物は安全な営みはできないのであろうか。

2000年 8月 5日()はれ
 定は未定とはよくいったもので、ついつい昨日はERを見たついでに夜更かしをしてしまった。こんなんでへこたれてはいけないのだけど、歳とともに早起きしてしまう。やっぱりだめ。自分の文章の変更をやって、気が付くと8時過ぎ。ステファニーへ朝食のパンを購入しに出かけて、WANDAのロング缶とともに朝食。
 昼前に内田自転車商会さんへ。今日こそはトライアンフのトップブリッジをやっつけないとならない。こんな簡単なものに1か月かかるなんて信じられない。こういったところは早いとこ国産に変更すべきだろう。昼が近かったもので、昼食はラーメンハウスの中華つけ麺。こいつがシンプルでボリウムがあるから夏場はずいぶんと助かる。
 午後3時過ぎに出来上がる。早速試乗。いい、やはりいい。何がどうして、という気分はないが、僕の体の中にトライアンフというものがしっかり根付いているからだろうか。
 夕刻、宇和のT君宅へ。どうしても電気的なことを聞きたかったからだ。ここへはSRで出かけた。
 帰って酒道場でささやかな祝杯を上げる。明日は高知での四国マスターズ陸上競技選手権だ。SRで出かけることにする。ずいぶんと45歳になった若手に押し上げられて苦しい円盤投げだけど、ま、頑張るとしよう。
 夜、メールの確認をしたが、Mさんへ出したメールの返信が来ていた。氏もPowerBook400を購入された由、やはり、このキカイはなかなかのパフォーマンスを秘めているのではないか、と思った次第。
 今日はオランダおイネのドラマがある。ここんとこに宇和島が出ていたりすると、観光客の一人も呼び込めるかもしれないなんて、むなしい考えを起こしてしまった。
 明日も早い。ゆっくりお休みするとしようか。でも、まだ8時前だゼ。

2000年 8月 7日(日)はれ一時小雨
 てさて、本来は昨日に記載すべきことだったんだが、四国マスターズ陸上競技選手権は高知の「りょうまスタジアム」で開催された。ディフェンディングチャンピオンの僕は全くだめ。来年は50歳台になる。そこへ45〜46歳の人が来るとなれば負けるのは事実だ。久しぶりに無冠であった。しかし、100mはまだ14"台で走れる。もう少しトレーニングすればOKだろう。
 そのためかしら、今日は体中が痛い。日焼けも手伝って、いいようのない倦怠感が支配する。体内の水分が抜けてしまっているような感じがしてならない。PowerBook400を持って職場へ行き、朝のうちにwww/Gridをまとめる。夜17号をアップ。一安心する。何しろ、この週末からは酒とバラの日々だ。お盆の途中に高校同期の30周年同窓会をやるってものだから、この数時間のために休暇を取らねばならないなど、世話人はもう少し考えていただきたい。その次の週は長野へ出張だ。
 とにかく、この暑いときに行事が多すぎる。本来なら欧米のように、この暑い季節はのんびりするのが本当だろう。急に欧米化した日本ではできないことだろうな。そんな中、明日は甲子園だ。途中には太平洋戦争の終戦の日がやってくる。もう55年という月日が経過している。世界では地球規模での小競り合いが未だに絶えない。
 そういえば、今日は月遅れの七夕だ。我が家から見る星空も周りが明るすぎてはっきりとは見えない。年に一度のミーティングだ。靜にお休みとしよう。それにしてもイテテテテ〜....。

2000年 8月 8日(火)はれ一時雨
 用で1日休暇を取る。決して自分のためだけでない休暇なので、僕自身は今日1日自由な時間はない。この辺は残念なところだ。結局職場で過ごすのと同じ時間配分になってしまった。
 自分でやって修理完了になったTriumph T-140Vの愛車を受け取りに内田自転車商会さんへ宇和島自動車の市内バスで出かける。一停留所で10円なり20円なり違うのには弱る。そんなに利用客はいないのだし、市内バスは均一料金にしてもいいように思う。ただし、路線からわずかに離れて郊外バスの範囲に近いような場所は均一には入れられないが。それの方が顧客の数も上がると思うのだが、いかがだろうか。
 ほぼ1か月目に我が家の前にトライアンフが止まっている。何ともいえない気分だ。バイクには英語で話しかけてはいるが、どうしてこうも安堵感が漂うのだろうか。ちょっとしたMIKUNIキャブレターのクセ、滑るクラッチ、オイルコンサンプションのことなど、良くないことが多いのにどうして、我が家の前にトライアンフというバイクが止まっているだけで自分の心が安堵するのは何となく不思議な感じがする。
 何度も申し述べるがこのバイクは日本の我が家へ来て24年目を迎えようとしている。完璧とはいえないが不都合なく使用できている。基本的なことがセオリー通りになっているからだろう。じゃ、今の技術をつぎ込んだ最新マシンが悪いのか、といわれるが、そうではない。これもお叱りを受けるかもしれないが、「オートバイ」として、バイク、モーターサイクルを見たとき、今のモデルは大半がマシン=キカイ、としてしか受け入れる必要がないように感じてならないからだ。SRにしても同様である。
 明日も午後から所用で休暇を取らないとならない。いずれにしても、もう1日、お盆の準備に休暇を取る必要がありそうだ。よく考えれば、今年はまだ水泳なるものを行っていない。間もなく8月も中旬を迎える。何とかなりませんかね。

2000年 8月14日(月)はれ
 うやくにして同窓会という狂喜乱舞の世界が終わった。本当はうれしいはずなんだ。同窓会、特に高校同期の同窓会はいいもののはずだったんだ。しかし、ここいらのやりかたで、結局つぶしてしまったように感じてならない。あの会費なら一人ずつの懐石にしてみんなが膝をつき合わせて話をすることができたら、と考えを戻すことにとまどいを感じる。もう、50歳が近い卒業生がここに集まっているのだ。物故者も多い。
 結局2次会までは参加したが、いいようのない寂しさに包まれて、僕はそそくさと家路を急いだ。
 スタイルがどうのこうのいわない。僕の隣にいた旧姓Yさんも、当時こんなに話すとは知らなかった。かというと、昔のはにかみに輪をかけように話をしない人もいる。そういった多くの80人ほどの人たちを一同に動かすのは苦労が多い。でも、一次会が懐石だったら、もっと上手くいっていたように感じる。特に宇和島ではなおさらだ。
 お互い、本当に歳を取ってしまった。妙に、これが悪い方に思われてなかった。僕のようにバカやっていたり、K君のようにいつも店の利潤とお客様にいい商品を、って考えているようなヤツは、今の市政に絡んでくる。
 そう、こういった現実に宇和島での生活がないと、そしてそれをアピールできなければ、いつまでも宇和島はダメだ。帰ってきている奴らに対しても、在住のヤツは「宇和島は妙におかしい、本当にどうなっているんだ?」ということをもっと全面に出すべきだ。公な同窓会の席ではない、仲間内で集まっている席でだ。
 そういった流れを造る意味あいからでも、僕は今日の同窓会は失敗であったように思われる。
 これから5年後、10年後にお互いが会えるかどうか、もう次に顔を見られるかどうかさえ心配をするような年齢になって来始めている。避けようのない「老い」は確実に、そこにニンマリと笑って僕らをあざけているのだから。

2000年 8月17日(木)はれ時々くもり
 つも通りの出勤、天候があまりよろしくなくって傘を持って出かける。本来なら昨日にお盆のリザルトなど、僕流に記すところだったけど止めにした。15日の夕刻、夜の帳が降りようとしているとき「送り火」を炊いたわけだ。僕の家はどういう訳か「焙烙なべ」の上でおがらを炊く。聞くところによると関東の風習らしい。その後、仏壇の片づけなどをして一段落するのだが、こういった盆の送り火の風習もずいぶんと少なくなってしまった、と感じざるを得ない。その15日の夜、若い人たちがまだ早い時間に酔っぱらってたむろしたりするところを見たり、NHKテレビで若い人との討論で「戦争」のことをやっていたが、後半では妙に話が違う方向になって行っているのではないか、と思ったりで、太平洋戦争の云々を含めて今日(15日)は何だったんだろうか、と思ったことがずっと尾を引いてしまったからだ。
 母から、(55年前の)「8月15日は晴天でね、これまで八ツ面[やつおもて](丸穂町の山)の墓地まで、空襲を避けて逃げていたのもしなくていいし、夜が明るく過ごすことができる。終わったんだ、という気分は無かったけど、B29が飛んでこないだけでもうれしかった」と言っていたのを思い出した。
 そんなことなんかがずっと頭の中を巡っていて、ここに記すような気分ではなかったわけなんだ。NHKテレビの戦争討論の番組であのとき、もしも戦争が回避できていたなら....、という言葉を真剣に言ってくれる若者が一人でも居たら、と逆説を考えていた。いや、本当に戦争を回避していたら、今の日本とは違う日本が確かに存在していたはずだ。日華事変から数えると7〜8年の我々にとっての空白の時間を現実に想像することは未だにできそうにもない。
 ふと気づくと、もう8月も下旬になり始める。秋の気配が少しずつやってきて、夏の思い出のことなど思い出せないままに秋をむかえるのだろうかなー。生協のおネーさんが「今日は天気のスーパーマーケット」と言ってた。松山自動車道は雨のため一時通行止めになってしまったらしい。その雨を玉川ダムに運ぶことができれば....。

2000年 8月19日()くもり一時雨
 10時過ぎ、今日は松山へ所用のためトライアンフで行こう、としたのだ。いつものようにエンジンを回した。ここまではよかった。ところが跨った途端に左のシリンダーが死んだ。止まるときは全く同じ症状を示す。点火方式に関係なく起きる。当然、僕はプラグ交換するために、城山を1周して引き返す。途中少し息を吹き返してはいたが、松山までは持つことは考えられない。手持ちのプラグはNGKのB6EVX。後はBPR6ESのみ。B7ESもあるが、これは使いたくない。そうだ、B5ESが2本転がってるのを思い出した。
 あわてて装着をする。今度は点火系と燃焼系の関係でプラグが本当に死ぬかもしれない。ピストンに穴が開くことはないだろうけれども、半分は祈りに似た気分だ。エンジン始動。走行開始。あれれ、いつもと違ってスムースに吹け上がる。それでも不安だから満を持して一般路を通る。がら空きだ。こちらの方がいつになく速く着くことができた。不思議な現象だ。
 このトライアンフの快調な気分は、往復の路程で一切変わることはなかった。いつもと全く違うトライアンフがある。帰路、大洲道路で100km/hで走ることができたが、エンジンに異常はなかった。明日、再び確認の走行をいつものテストコースで行うようにしよう。いずれ、このことは本編にて。
 もう一つは、eMate300用にTOSHIBAの1200mAhのNi-MHバッテリーが入手できた。これも項を改めて記載することとしたい。
 トライアンフでの松山往復、途中途中で雨に遭遇した。幸い合羽を持っていたので事なきを得たが、雨天では制動能力が各段に落ちる初期のディスクブレーキの怖さを久々に思い出した。数回ブレーキ操作をして、プレートに残っている水幕を飛ばしてやらないと効かないの何のって、やはりこういったところは過去の経験しかないのだろうな。現在のバイクとは比べものにならないトライアンフT-140Vだけど、それでも僕を離さない魅力を持っているのは不思議なことだ。

2000年 8月25日(金)はれ
 ボっていたわけではないのだが、職員団体の定期大会で長野へ22日から出向いていたために、書き込みができなかったわけである。本年は役に就いていたわけでもないが、宿舎のある戸倉上山田温泉から、長野まで、そう、感覚としては宇和島から宇和町まで、狭い国道、県道を毎日往復、という生活だったもので、ちょっと散策、というわけには行かなかった。そういった合間を縫って、善光寺へ出向く。
 「運の鍵」に触ったような触らなかったような、そんな気分で戒壇を巡った。不思議なことに、背の高さは十分にクリアーしているが、自然と頭を下げて指示通りに右手で壁を触りながら進んでいる自分が情けなかったし、今の人にはこれがないから、人間教育が大切なんだな、とも思った次第。境内すべてソフィスティケートされてはいるが、妙にホッとするのは不思議な感覚であった。これが善光寺さんのなせる技かもしれない。
 長野新幹線に乗る前に、長野の駅前で「わたせせいぞうの世界展」を見る。なぜかしら、ここでもホッとする気分になってくる。出口で関連商品の販売がなければ、そのままの気分が長続きしたはずだが。
 けれども、善光寺さん同様に、僕が感じたのは、それだけ毎日が味気ない生活、余裕のない生活を僕自身が過ごしているのではないだろうか、とも感じた。
 本当に、戒壇を巡る時に感じる己の心の状態をみんなが持っていてくれれば、凶悪犯罪とか、人を殺してみたかった、などは無くなるような感じがするのはアマイ考えだろうか。
 そういえば、羽田のビッグウイングに1時間ほど時間待ちをしたが、喫煙コーナーが大きく取ってあったりして、ずいぶんと変わっていた。この喫煙コーナーが、「あ、あの人タバコ吸うんだ、いやネー」と見つめられる構造になっている、と僕には見受けられたが。
 当然のごとく、漫画の中の江頭主任も吉川久美子もビッグウイングにはいなかった。「わたせせいぞうの世界展」でトライアンフのバイクが取り上げられていたものもあった。僕は絵の中の男性より若い時期にそれに乗っているし、作者よりは過ごした時間のズレが5年ほど遅い。この差が作者が思う絵の中に描かれた若い人たちと少し感覚として違うのかもしれない。
 往復のANAでチーフアテンダントが同じ方であったのも、何かしら不思議な感覚がしてならない。この4日間宇和島から離れていたが、松山空港に着いて少し、宇和島駅に着いた途端に現実に引き戻された。深夜の言いようのない情けなさが再び僕を取り囲んだ。

2000年 8月27日()はれ
 くも長野から帰って2日という時間が経過してしまった。「しまった」という過去形だけでは片づけられることはない。僕の場合はもっと重要な2日間であった。僕は自治体に働く公務労働者という立場だから、極端に言うと単一の業務だけ、つまり公共サービス業、住民のみなさんの代行業という単一の仕事を精一杯やっているだけに過ぎないので、僕の半分仕事のような趣味は、仕事にたとえるとすさまじいほどの仕事量、ということになる。自負心だけではない。本当のことだ。残念なのは、こういった面が世間に生かされないことだろう。消防の職員の方にも、警察関係の職員の中にも多くいらっしゃるが、僕同様に、自らも周りも、それを生かす努力はしていないのが現実だろう。僕自身にしても、5〜6の資格は有しているのだから。
 このことはこのページでも見た人が僕にメールをくれるだろう(でもないか?)から別として、オートショップ ワタナベのご主人からeMate300用にTOSHIBAの1200mAhのNi-MHバッテリーをいただいていたのだが、昨日、完全に作動させることができた。やはりeMate 300用としてAppleが設定していたとおりの結果になったことに、非常に満足している。次号で詳しく報告しよう。
 これも昨日のこと、トライアンフのキャブレターを十分に調整して、今日は確認走行を行う。津島町北灘から下波を通って来る道のりだ。1時間程度のランである。キャブのエアフィルターはK&Nに変更した。道すがら赤潮の発生は確認できなかったが、お茶色の海を見入ると赤潮以前の人間のモラルを問う問題が実際には存在しているのではあるまいか。これは人間の自然を利用したゼニ儲けの方法に一撃を神は与えているのだろうけど、当事者の万物の霊長は我関せずだ。いずれ、もっとひどいことを味わうはずだ。この天候にしても、危機から6年も過ぎている。みんな忘れかかっていることだろう。
 夜間はようやく涼しくなったが、日中は30℃を越える毎日だ。この差が身体の状況を著しく狂わせる結果になる。明日、久々に職場に出向くのに躊躇してしまう。たかが4日間の空白が言いようのない重さになって返ってくる。それほど職員間の間も冷え切っているのが現実だろう。早いとこ宇和島市もホールドアップした方が傷が深くなるのを防げる、と思うのだが。

2000年 8月30日(水)はれ一時雨
 エッ!、もう30日、長野の疲れがどっと出てきてしまって、自分ではごく平気な顔をしていても、体の方は正直に「歳」を僕に知らせてくれる。休暇を取りたいのだけど、タイミングが悪く、同僚が先に休暇を取るから、僕は職場の留守番になってしまう。残念なことだ。
 今日は確認することがあって、PowerBook400を職場に持っていって、ついでに見せびらかしを十分に行った。みんな欲しそうな顔をするのだ。「どうですか?」と問うと「お金がない」という。今までは進めることもしていたけど、「あ、そー」、もう止めた。
 「これでもか」、っていうやつとか、「どうしても欲しい」という奴でないと、Macを購入して後々の面倒が見切れない。
 しかし、隣のM町で、職場のコンピューターが使い物にならないので、私物のMacを持ち込んで、みんなでLANを設定して使用しているのを見るに付け、僕の職場で管理職の何人が端末に向かって作業できるのだろうか、アンケート調査をしたくもなるし、もし端末の半数がMacだったら、もっと簡単に操作できていたのに、と考えるのだが。
 そのPB400が少々おかしな作動をし始めた。久々にフリーズしてしまったんで、原因を考えていたら、どうやらN先生のユーティリティーらしい。エクステンションはずしたら俄然調子が良くなった。はっきり言って、機能的にはVer.2.0辺りの状態のままで廉価にしてくれていた方が遙かに一般には有益だ。そろそろ、ディスクメンテナンスのユーティリティーソフトは変更しなければならないように感じて来だした。何しろN先生のは、マイナーアップでもダウンロードに数十分かかってしまうのだから、電話代考えるとバカらしくってならないのだ。

2000年 9月 4日(月)はれ
 さまじい4日間が終わろうとしている。ことは1日の金曜日から始まったんだ。その日の午前中に札幌のキュービックへMac用のPPC601アップグレードカードを発注し、午後はSRをバッテリーレス化するためのコンデンサーを装着して、夕方は会議を二つこなす。
 翌日は午前中にSRのコンデンサーの取り付け修正、午後からは宇和島市と姉妹都市とのシンポジウムに参加。実の所、ここで岩手県の岩出山町の状態に大インパクトを受け、少々フラフラ気味で帰ってきた。いやはや、町長自ら裃に身を包んでの参加。その上に独特の考え、町運営のあり方など、学ぶべき点が多かった。ことさら僕をの心に響いたものは「郷学」「家学」をしっかりやる、というところであった。その前の講演でジェームス三木氏が雑談混じりにしゃべったいくつかのキラリとした発言に加えて、この「ごうがく」と「かがく」はえらく宇和島人が忘れ去っていることではないだろうか、と考えざるを得ないこと、と感じた。
 次の日曜日は隣の三間町町民会館で若い人たちの劇団がやる「ようこそ天国へ」という芝居を見に出かける。トライアンフで出かけたのだが、道中、どうして三間町のホールで公演するのだろうか、と考えていた。
 芝居、そう、学生時代に演劇部でやっていたような、そんな気分にさせられる芝居であった。決して何がどうのこうの、というものではない。ごく普通の若い一般の人が稽古を重ね、舞台装置も手作りであれだけのことができた、内容も近未来のフィクションであり、忘れかけていた芝居という何かを思い起こさせられるものがあったように感じた。
 帰りがけ、SRの若者に「渋いッすネ....」とトライアンフと僕に声がかかったんで、「ごく普通のバイクですよ、乗ってみますか」というと、答えは「ノー」。理由は免許がないからだ、という。芝居同様、今はエンジンの形式から始まって、バイクの原点のようなものを忘れてしまっているのではないか、という気分が僕を支配した。ここで「こんなところ触ってます」といって、今まで僕が身につけた言葉で説明しても相手がチンプンカンプンのはずだから、その場はこれで置いておいて、ダムサイドを通って帰ってきた。
 帰ってすぐさまSRのテストを兼ねて再び先ほどと同じコースへ。コンデンサーの活性化が進んでくると、エンジン回転がなかなかスムースになる。5速2000回転で50km/hがキープできるようになってくる。思い出したように、ホールの疑問が解けてきた。宇和島には中ホールと呼べる専門なり複合の施設がないのだ。そうか、体育施設とか、文化施設も、もっと計画を立てて、これからの少子高齢化の中での世の中を生きるための方法を考えないとならないようだ。その点でも宇和島は大きな失敗をしているのだろうな、と感じた。
 そして、本日。来ました来ました。Apple純正PPC601アップグレードカードが。今後はQuadra 950に装着して確認を取りたい。しかし、すでにMacを取りまく環境はG4になっている。OSもX(10)のバージョンになろう、としている。少し前のPPC601マシン用にG3、G4のカードが発売されているが、MC68040マシンに今回入手したこのカードの発売がどうして短期間であったのか、その疑問が解けてきた。あのときでも、現行商品のMacは603、604のPPCを装着したものばかりだったし、その狭間で40マシンを生かすには、サーバーなどの限られた状況の使用だったからではないだろうか。その上、このカードを装備したマシンの保証関係、修理関係までも手が回せなかったからではないだろうか、と考えた。
 とにかく、すさまじい4日間であった。一日分で長文になってゴメン....。

2000年 9月 6日(水)はれ
 気分爽快、残暑は少々だが天気も爽快。実のところ午前1時近くまでの前3時間程度、QuadraにPPC601の純正アップグレードカードを装着してそのパフォーマンスと作動に少々驚いて、どんなものだろうか、と時間を忘れて動かし続けていた訳なのだ。そういったものだから、ピョコンと6時過ぎに飛び起きて7時過ぎには出勤するパターンでも苦にならないのだ。
 しかし、不思議な気分が支配する。どうしてこんな柔軟なカードを一般に広く出さなかったのだろうか。全く未知なるCPUに対してサードパーティーも二の足を踏んでいたのだろうか、などを考えてしまうのだ。事実高価だったから僕も買えなかったし、未知なるものへの不安もあったわけだ。それが5年後に思わぬ形でやってきたものだから、すさまじいな、と感じた次第だ。
 夜はNHKのその時歴史が動いたという、前畑秀子さんとベルリンオリンピックの番組を見た。最終シーンでゲネンゲルさんと再び泳がれたシーンが映し出されたとき、何ともいえないものを感じた。まもなく、シドニーでオリンピックが開催される。はたして1956年、メルボルンオリンピックで聖火最終ランナーを務め、その後、陸上長距離の王者だったロン・クラーク氏が開会式に何らかの形で出られるであろうか。
 開会式の日、折しも僕は砥部のトラックで愛媛マスターズ陸上に出場している。不思議な縁だな、と感じる、と同時に前畑さんには大学時代、瑞穂のプールで幼児グループの水泳教室のコーチとして実際にお目にかかっている。ちょうどその時、僕は南山YMCAの水泳教室のアルバイトコーチとして、一人の泳げない子を泳げるようにした瞬間でもあった。

2000年 9月 8日(金)はれ後雨
 夜というか未明にwww/GridのNo.18をアップロード。さすがに眠い。データベースの構築などど違って、表記、表現、誤字脱字など、ディスプレー上では分かりづらいところがあって、書面にしないと確認が取れない。そういった意味からもプリントアウトそのものは、まだまだ有効のようだ。いずれにしても、大部分が自分の楽しみを人様にも分かっていただきたい、など、自分主体のホームページだから、受け取り側の考えはなかなか伝わりづらいのがこの世界だろうか。
 ずいぶんと長く続いた好天も、台風の影響かしら、少しづつ悪くなり始めてきた。今日の日中は夏本番の蒸し暑さだったが、今度は一雨ごとにす涼しさが増してきだして、冬を迎えることになるわけだ。ここ南予の地は別にして、今夏の雨の少なさは異常だと言われるが、自然を狂わせるのも人間のすることなら、このことは無言の内に我々に何かのしっぺ返しをやってやろうとする自然の力かもしれない。本来は自然に優しくではなく、自然とともに、ではないか、と感じる。季節感がないのも人間のなせる技とすれば、地球はもっと大きなサイクルでの動きのため、まだまだしっぺ返しは続くのではないだろうかな。
 昨日は10月に花園村で開催される「英車を愛でる会」の参加料を振り込み、ブリティッシュビートへトライアンフ用のダイナコイルを発注。SUDCO MIKUNIのキャブレターのことで少々会話がはずんだ。コヴェントリーの清水さんにはリヤショックを探していただくよう依頼した。そろそろ、こちらの準備も始まる。いずれ、バイクのところで報告をしたい。
 かくいう僕も、この1週間は仕事が終わった後のんびりできるなど出来なかったんだ。必ずと言っていいほど、仕事以外の用務が待ちかまえていた。さすがに本日は午後から休暇をとったが、それでも午後6時からは会議が待っている、という状態だ。それが終わって、午後7時前から酒道場で一人の慰労会をやった。ほんの1時間だ。全くもって、この月曜日からは何だったんだろう?、とその方が先に浮かんできてしまって、自分自身が悶絶状態になってしまう。
 帰宅して、親戚知人に電話する。ついついしゃべりが止まらず、本来、僕は実際を前にしないとダメ、というのがよく分かった。それでも、会話が電話回線を通して出来るというのはうれしい限りだ。
 にもかかわらず、入浴して、「これがニューヨーク」なんて馬鹿なことはいわないまでも、どうも、この1週間は体内時計が狂いっぱなしだ。おかしなもので、歳相応のものかしら、常に早朝目が醒める。睡眠不足かというと、疲れというものがないから、実は熟睡しているのかもしれない。ところが、この結果が遅れてガクンとやってくるパターンだから、来週あたりはヤバイかもしれない。トレーニング不足は否めないが、来週の今日を目指して、体調を整えておかないとならない。

2000年 9月10日()くもり時々雨
 日から自然の成り行きに少々まいっている。ここと思えばまたあちら、雨がそこかしこに降ってくる。本日も天気予報では夜は雨になる、といっていたが、月明かりがわずかに天に在る。一件不思議な光景だが、僕が眠ってしまった後にドバー、っと雨がやってくるのかもしれない。あらゆる予知を司るところから、地方に行き渡るように、ケーブル埋設のため、現在国道筋を掘り返しているのは他ならない事実だ。ま、こういったことでも昨日は道路整理の警備員の制止を聞かずに死亡されたライダーがいらっしたが、僕は人様からよく顰蹙を買う自動者然とした走り方をするのだが、あくまで二輪の自家用自動車という考え方からのことで、市内に1台は見つけているBMW007に出たBMWなんかと同じようにドブ板走行などしていると、ライダーのプライドを問われるのと同じことだ。
 本日は少々ホームページのトップを変更した。いつも感じるのだが、このトップはHTMLそのもので書き込みをしなくてはならない。HyperCardを使用するとき、スクリプトを少々やったのだが、今になって、もう少し、僕ならAppleスクリプトをやっていればよかった、と感じている。どことなく、僕のトップページが変わっていることをご承知おき願いたい。
 来週はようやく一段落のはずだが、関係団体の仕事が一杯でどうしようもない。
 こういったときに限って、ダイナコイルが到着するし、本当に3日ほど休みを取って、トライアンフの整備をしたいのだが、これさえ出来そうにない。苦しいかもしれないが、一般職のほうが我々と違っていいように感じるのはヒガミかもしれない。

2000年 9月12日(火)雨一時くもり
 日はね、しかられるかもしれないけど、記載することにする。
 まずもって、明日の市議会開会日に市長自らが「次も出る」という声明は出さないであろう、というものである。憶測の域は出ないが、僕はN氏が当選してもよろしかろう、と思う。しかし、よくて二期だ。こうご期待を、というところか。
 こういった情勢の中、職員の採用試験についてであるが、一つだけ申し上げる。「この人をこういった部署で使うと能力を発揮する」、というたぐいの結果を出すのが第一次試験だ。かなり難しい試験というのは過去数回(年)受験して、ようやく合格した人から聞き及んでいる。
 残念ながら、決して一次試験をパスされても、二次試験如何ではどういったものになるか分からないのである。来年度からは、受験生が試験結果を要求すれば公表する、ということで「結果」は明確になるだろうけど。これによって、試験内容が明白になるのではない、と思う。憶測だが試験内容と結果が一層不透明になるかもしれない。
 しかし、消防署の職員を選ぶのに、学科(一般教養)試験の結果がよかっても、体力テストで懸垂が出来ないと、現在の建造物の消火には役立たずの職員(採用)となる。こういったことは誰にも理解できるだろう。
 間もなく、今年もいくらかの職員採用に対して、多くの人が採用試験に挑む。どうか受験する方は一生懸命ガンバッテ!ということしか僕からはいえない。
 それにしてもよく降る雨だ。やはり自然の力は偉大だ。仲秋の名月は南楽園の室内かもしれないな。少しだけでいい、宇和島市の現状を知った上で、宇和島の今後を考えていただいたい。やく万歳して保護を求めるのかどうか。そうしたとき、どれだけの努力をすれば今以上の宇和島市に戻れるか?。現実には将来の困難の一端はそれほど理解されていない、というのが事実だろう。

2000年 9月13日(水)くもり一時雨
 ういった表現をすればいいのか分からない天気だ。残念なことに明日の予定がまるで狂ってしまうことが分かったんで、急遽、午後から休暇を取った。やることは一つ、トライアンフにDYNA COILを装着する準備だ。
 大まかな計画はコイルを入手したときから決定していたので、軽い修正と、よりよい方法の模索だ。内田自転車商会さんへ搬送して、流れる汗をものともせずに作業を行う。DIYのショップに行けば店内改装で、元の位置しか知らないからグルグル回ってしまって、1時間程度無駄にした。もう一方では雨も気にしなくてはならない。時間との勝負だが、仮組を終え、土曜日に完全取り付けを行うことにする。願うは土曜日の天候だけだ。
 が、好き者だから、どうしても新しいコイルでエンジンを回してみたいのが人情だろう。さっさと配線をして、エンジン始動。すさまじい変化だ。結果はGOOD。すべての取り付けからインプレッションまでは次号のwww/Grid No.19で報告したい。
 台風が来つつあるのだが、昔のような台風一過なんてものはない。名古屋をはじめ愛知県、中部地方は散々な目に遭っている。僕は最近言われなくなったけど、これがノストラダムスの予言のように、天変地異がある(かもしれない)としたリザルトではないか、と感じてならない。火山の次は地震、そして大雨。まだ20世紀は数ヶ月残っている。冬になると、寒冷関係の困ったことがやってくるのではないだろうか。九月も半ばというのに、こういった天候なんだから。

2000年 9月15日(敬老の日 くもり一時雨
 媛マスターズ陸上競技大会、これが正式名称だ。本年で5年間出場している。妙に今年は行けるような気がしていた。一度早朝に家を出て、宇和、大洲の霧にさいなまれ、本番で脚の筋肉痙攣を経験しているので、それ以来前泊をしている。
 身体が軽い気分。ところが、改修のサブトラックも調子がよくなく、8月に行った高知の竜馬スタジアムに比べると雲泥の差がある。おまけに、メインスタジアムは1・2レーンのみの改修。僕の100mは3レーンだ。
 メンバーはいつもの人数だが、レース手口はほとんど分かっている。スターターとのタイミングも合ってる。これは行けるかもしれない。
 スタートして、30mまでは本当のリフトをやってる。もちろん力は無いが本当にやってる。フリーホイーリングという通常なら80m付近まで続く動作なのだが、これが60m付近でスロットルワイヤーが切れたようにダメになった。とにかく、意識は「前へ」なのだが、身体全体のバランスがまるで壊れてる。
 まとめのギャザーになるポイントが速くやってきた。すでに呼吸してる。で、フィニッシュ。60m付近までは7秒台後半のペースだったんだ。トップのNさんとは2mの差だったし、Nさんのタイムが12秒前半、結果は7mの差がつく。で、僕はまたしても15秒もかかってしまった。
 円盤は上手い具合にサブトラックに変更になっていて、1枚しかないGILLの円盤が使用できた。練習時、20mを越えた。が、試合直前から降り出した雨。4回の試技が終わるまで降り続けた。円盤のエッジの錆が浮き上がる。手のひらが当たる面が湿気のために当たりがしっくりこない。多くの選手がいつものとおりに投げてもファールばかりだ。今度は足下がハイドロプレーニング現象で滑り始める。20人ほどの中で、結局、2投目の18m後半の記録が残った。
 来年からは年代が上がって、円盤の重さが1.5kgになる。が、女子の55歳代に出ているW女子が「重さが変わるだけで、体力がそれ以上に落ちるの!、だから2kgの円盤で練習しないとならないのよ」と言ってくれた。なるほど。どうしても男子たるもの、永久に「2kgの円盤なんだ」と再確認した次第。
 結果はともあれ、久々に上手く調整できたがが、実練習に関しては、当日にしても雨、雨、雨、..... だったから、本当に何も出来なかった。
 が、本年は最終戦を11月5日のスポーツレクリェーション祭に持ってきた。ここまでの一月あまり、少しトレーニングに励んでみよう、と考えた。
 夜のシドニーオリンピック開会式はいいな、と思う反面、あまりに何かに傾いてしまって、つまらなくなってしまったようにも感じた。もう、メルボルンオリンピックから44年も経過しているのだから。

2000年 9月18日(月)はれ
 日からの好天が続く。本当なら休暇を取りたいのだけど、先に休暇を取っているのがいて、僕は渋々出て行かなくてはならない。おまけにNHKテレビ「二人のビッグショー」の録画で、多くの職員がサポートに出ているから、職場は閑散としている。こんな時に職場にお客がドットドット押し寄せるのを想像するとゾッとする。
 久々に別冊モーターサイクリスト誌を購入した。理由はなかなかいい洗車法が出ていたからだ。そしてBSAA10も。立ち読みついでにステレオサウンド誌を見るが、いつものとおりの内容で、今の僕には雲の上のコンポーネントオーディオになってしまった感がする。もっとゆったりしたアンプ、CDプレーヤーなどで音楽を楽しむべきではないか。こことここのパーツをこういったことにした技術、それをほめたりしている文章を見ると、メーカーから貰っているんじゃないか、ってつい思ってしまう。フィリップス・マランツがどうしてスイングアーム方式のCDプレーヤーのピックアップを辞めたのか。その本当の要因なんか報告がない。本全体にわたって、批評記事に批判が一切無いこと自体が僕にとっては不思議でならない。
 あるとすれば、「ここはこうして欲しかった」ぐらいだ。コンピューター関係の雑誌の方がよほどしっかりしている。バイク、自動車の雑誌のインプレッションも同じだ。完全モデルチェンジなら、テスターの個人の意見もどんどん採り入れるべきだ。結局、メーカーから貰っている、ってことになるんだろうけど(爆)。
 こういったことを含めて、コンピューター、自動車、バイクの関連雑誌は最近のところ無視しているのが現状だ。こんなことはコンピューター関連ならweb上で十分に情報を入手できるからだ。
 さ、早い内にこの間トライアンフに装着したDYNAコイルの取り付けを確実なものにしたいところだ。
 そうそう、女子柔道の日下部さんが敗者復活戦から3位になった。僕が思い出すのはスタイルから来ることもあろうけど、アニメのヤワラちゃんの友人で、最終は柔道をやってしまう彼女とオーバーラップしてしまって....。名前は「基栄」さん。あれはふじ子さんだったっけ....。でも、なんか似てるんだよな〜。



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