2001. 1. 1〜 3.29の日記
2001年 1月 1日()くもり後はれ

 のところ僕は今世紀の最初の時を道路の上で迎えた。いつも感じるのは00時00分から延々と続く時はどの程度の長さか?。未だに謎である。気がつくと数秒の流れが過ぎている。ま、新世紀の新年、最初の日にヨモダを言うつもりはないのだが、チト、考えてしまった。
 簡単なコンビニのおにぎり朝食の後、五社初詣サイクリングに参加する。ここ数年間はこのパターンである。が、いつになく人出は少ない。昨年の2/3程度に感じる。やはり不況なんだろうか。乾杯の後帰宅。昨夜からの酒浸りは今日ぐらいで断ち切りたいから。
 ほんの一日が経過しただけなんだが、何かずいぶんと変わったような気がしてならない。昨年からの何かを引っ張っているような気がしないでもない。周りが様変わりをしているのも事実だ。コンビニは別としても今までは「今日」開いている店を探すのは困難だったんだが、スーパーマーケットも電気店も本屋さんも店を開けているところがあることに少々驚いている。それが何だ、と言われるだろうけど、かなりの期間継続されている年中行事のようなものが消え去ることに、僕は一抹の不安を感じるのだ。「せめて元日ぐらい」という僕が古いのかもしれないが... 。
 今世紀最初の日が間もなく過去へ過ぎる。前進あるのみだろうか。

2001年 1月 3日(水)はれ時々くもり
 日と今日の箱根駅伝競走はなかなか楽しかった。というよりは、昨日の2区でリタイアした東海大学のランナーは明日どういった気分でその日を迎えるのだろう。彼を悪く言うつもりはない。事実、僕にも高校2年生のインターハイ県予選の400mリレー準決勝で3走を務めていた僕はバトンを落としたのだ。悔しいとかみんなに迷惑をかけたなど、そんなことは一切なかった。どうしても「あの時あのバトンパスが... 」という気分が明年の予選会まで続いた。不思議なものだった。こんなことがあるから、ついつい、昨日の彼のことを考えてしまうのだ。
 さて、所用で松野町まで行かねばならず、トライアンフを出す。始動も良好だ。ところが、光満(みつま)を過ぎた辺りから、グズりだす。どこも悪くない。アクセルを少し開けるとエンジンが付いてくる。何ともいえない不思議な感覚だった。とにかく1時間半ほどの往復だったが、気になって帰宅後点検をする。プラグなんか良好だし、アクセルを思いっきり引いて、パッと離して、キャブのピストンをストンと落としたとき、音がずれて聞こえた。あっ、先日フューエルパイプを交換したときだな、と思った。どうやら、ここんとこを知らぬ間に触ったようだ。
ワイヤーの取り廻しを確認して、Uターンの車でつかえてはいたが、再度走らせる。全く正常。ホッと胸をなで下ろす。
 ゑびす湯へ行って体を温めた後、夕食。「そして歌は誕生した」というNHKのテレビを見ながら、大関の大吟醸、大坂屋「長兵衛」をおせちの残り物でやっている。なかなかいいお酒だ。スッと入って、こくがある。ついつい飲み過ぎになりそうだ。
 明日からは仕事だ。まだまだ今年も始まったばかり。妙に時がゆっくりと流れているような気がしだした。誰かが言った、「6月までは上り坂、7月からは一気に下って大晦日」ってね。

2001年 1月 7日()雨一時くもり
 宇和島市では本日が成人を祝う日になっている。同時に一本松〜宇和島間の愛媛駅伝のトップランナーがゴールすることになる。外はあいにくの雨、昼間は止んだが、夕方から降り出した。
 愛媛駅伝はダントツで宇和島東高校であった。すでにクラレ、テイジンなどのチームは長距離ランナー自体が高齢化してしまっているからかもしれないし、企業自体が力を入れなくなってきているのかもしれない。もっとも、本日の東高校のランナーのうち、幾人かは箱根を走るのだろうし、企業に就職してランナーになるかもしれないが、愛媛県内で働く、という保証は一切ない。愛媛の多くの企業の実体はそんなにいい状態じゃないだろうから。
 このレースのゴール地点の女性の通告は振るっていた。「トップは宇和島東高校のようです。ゴールインは12時45分頃を予定していますと言うのである。どうだろう、おかしくはないだろうか?。12時45分には東高校がトップで入ってくることがほぼ決まっている。その時刻に来ないのはおかしい、と僕は感じたのだが。
 ここは「トップは宇和島東高校のようです。ゴールインは12時45分辺りになるのではないか、と思われますと言うべきではないだろうか。決して言葉のアヤで言っているのではない。東高校からわずかに遅れて八幡浜高校が入ってきた。東高校がブレーキやると順位が変わっていたかもしれない。通告している時は少なくとも伝統のある駅伝競走でレースを行っているのである。
 もう一方の「成人を祝うための会」、こんなのは止めた方がいいのではないか、と感じてしまった。風情が無くなった連休で、しかもその日を前取りした形で行われた。会場前で見かけた人数は昨年の2/3程度。いつの年も感じるのだが、開会前に自主的に会場に入るなどできていないし、会場直前に来ているのに、その時刻になっても入場しないなど、どうしてこうもきちっとした行動がとれないのか、なさけなくなってくる。
 1月15日の祝日が廃止された今、いっそう、お盆の時期にこの祝う式を行ってはどうだろう。(呉服屋さん、貸衣装屋さんからモンクが来るかもしれないが)お盆の時期の方が若い人も集まりやすくなるし、個々の経費も安上がりだ。少なくても10年スパンで「お盆にやる」考えなら、最初の困難さは気にすることはない。記念品も牛鬼のTシャツなんかが一番いい。1枚1,500円ぐらいでできる。バックに牛鬼、フロントは左の胸に西暦と宇和島市の市章などを入れる。シャツメーカーのタッグプリントをフロントの右に入れれば、メーカーから金が出る。このシャツを毎年集めるなんてできない。一生に一回しかない行事だ。今の記念品なんて、今日の参加者はみんな使うのだろうか。
 そうなんだ、旧態依然としたものはこの時代、そろそろ壊してもいいのではないだろうか、と僕は考えてしまった。

2001年 1月 8日()くもり後はれ
 昨日の日記は2000年として失礼した。その後の記述について、お隣の高知でも僕の考えていたことが実際に起こって、トップの高知県知事橋本君が舞台で怒鳴った様子が報道された。そしたら、口をつぐむんだよな、参加者で騒がしい奴は。そこを正しく、「橋本さん、これが実際なんです。そろそろ、この式典も考えませんか?」という奴が一切いない。
 まさしく、これが現実なんだ。日本中では警察官が出た会場もある。そこの所長が真に経験、とするなら、同じ20歳の警官を配置しているはずだ。こういったことも起こりはしない。
 ま、とんでもない成人式をやろうとするのなら、ここ10年ほどは、この式典を止めればいい。やってほしい連中からの声が大きくなるまで「しっかり」待てば金もいらないし、休みも取れるし、第一に、若い連中がどういった考えで動いているか?、が分かるはずだ。
 かくいう僕は、そういったことを考えながら、気持ちは交錯している。しかし、今後、こんな式典をやるのなら、宇和島でも、この「成人を祝う式」なんて止めればいい。はっきり申し上げる。成人式に参加した人のうち宇和島に残るのは一桁の正数人数であること。これは紛れもない事実だ。市がますます衰退していくのは目に見えているのだ。

2001年 1月10日(水)くもり後はれ
 まずはAppleのサイト。アッと一瞬叫んだ。そう、日本では無理と判断してapple.comに接続する。来ました来ました。G4PowerBookにはすさまじい変化を感じた。また、デスクトップのG4もなかなかのモデル。僕ならデスクトップを最初に購入するのは疑いのないところだ。それほどチェンジがすさまじいのだから。PowerBookも負けていない、と感じるだろうが、僕はそうは思わない。はっきり言って、SONYのバイオそのものではないか。あの美しい(と、まではいかない特徴的な)筐体ではない。スロットインのCD(DVD)-ROMドライブを装備しして、なおかつフラットで(あえて)タイタニアム(チタン)製の筐体を持ったPowerBookにすぎない。僕なそのように感じてしまった。
 が、先に言ったとおり、デスクトップ型の新型にははっきり言って心を打たれた。逆に言うと、スタイルは別として、デスクトップモデルは今後アップグレードで今のモデルに近づけることが確認できた。
 一方、純然たるPowerBoookはどうであろうか。バーチャルUからはオリジナルのキーボードの発売日通知が一切来ない。狐につままれたようなな感じがしてならないのである。
 しかし、そう、しかしである。僕はおそらく最後の合成樹脂筐体PowerBookとして、現在のPowerBook 400、500は歴史に残るであろう、と感じる。もちろん、少々のひがみはあるが、新しいタイタニアムのPowerBookをずーっと愛用できるかどうか、僕はユーザーが感じるそういったちっぽけなものが案外すごいことになるのではないか、と確信するのだ。今度のPowerBookは優しさは一切無い。Appleとしては、すばらしく保守の考え方をもった筐体に感じるのである。
 そうこうするうちに、雑誌の批評記事が出て、云々になるだろうけど、僕は現行のPowerBookの方がどことなくいいように感じる。今後、ユーザーも、ユーザーとなろう、としている方も決して石部金吉にならないようにお願いしたいわけである。

2001年 1月11日(木)はれ後くもり後一時雨
 実に不思議なことが起こった一日であった。職務で人様の家屋の調査を行う。出て来られた奥様の顔を見て「新 美矢子だ」と心底感じ入った。それほどしゃべりの内容も、まさしく私の叔母と同じ気分だったのだ。彼女に昼休みに銀行で出会う。職場に戻ると、本当に往年の新 美矢子(叔母のHatiuma)から職場に伝言が入っていた。内容は八ツ面(やつおもて)の墓所を生活の起点である大阪に移そう、というものであった。
 本当に最初から、内容に至るまで所、内容を変えての妙な一致に、一瞬青ざめてしなった次第だ。
 僕はれいかんなどあまり信じない世界なんだが、妙にこういった点が心の片隅に存在するようになら無ない。僕はこういったことがあるから人生が楽しい、と感じている。
 今日は本当に偶然だったのっかもしれない。しかし、あまりにシチュエーションが現実に近いことを考えると、何かしら心のざわめきを感じられるに他ならないのだ。
 血は水よりも濃し、というのは、どうやら本物らしい。

2001年 1月15日(月)雪後くもり
 来なら今日が成人の日になるのだ。松飾りもはずして、丸之内の和霊神社へ持参した。外は8時過ぎから雪が降り始めた。高光などは積雪で渋滞していたようだ。僕も仕事で、鶴島町から広小路まで歩いて出かけたが、商店街を通るにつけ、どうしてこういったときにアーケードの中を明るくしないのだろう?、と疑問に感じる。いつも帰ってくる答えは「電気代がムダだから、いたしかたない」というものだろう。人通りなどを考えることはない状態が現実だろう。
 昨日も南予マラソン大会が開催されたが、状況からして、「もし今日だったら」と思うとぞっとする。レース全体が中止になっていたかもしれないからである。本当に今日が昨日なら、この辺での現在の道路を使う陸上競技のレースでは、できそうもない天候(雪と積雪)だからである。
 そうそう、僕はずっと感じているんだけれど、雪の今日はそんなに寒いことはない。むしろ、昨日の午前中までの方が寒かったんだ。もし、雨であったら、そんなには寒くはないが。明日、ドピーカンに晴れてしまうと、注意を怠ると、路面の状態からいいようのない道路交通事故が生じるのは分かっている。
 久々の雪景色、当然のことかもしれないが、帰宅前、酒道場のマスターから頼まれた野暮用をこなすため、立ち寄る。不思議なことだが、どうしても生ビールから始まるのだ。とりもなおさず、職場の空気が乾燥しきっている。時に紙で指を切るほどだから、その状況はお分かりだろう。もちろん、ガス検知調査などしない上に喚起のため数度窓を開けるなどもしないので、シャツの襟などホコリとたばこの煙などで想像以上に汚れてしまうのである。その喉の渇きと、職場での知らない間に生ずる緊張感に生ビールは欠かせないのだ。後はお銚子2本ほどと肴を少々。これでほっと人心地。
 どうしてかしら、最近はこのままバタン・キューになってしまうのである。疲れているのであろうな。

2001年 1月16日(火)雪のちはれ
 は妙な光景に出くわした。昨日あれほど右往左往していた自動車が全く見かけられない。午前8時前後に再び雪が降り始めた。多くの自動車はチェーンを巻いているだろうけど、その脱着はミッドウェーの爆弾・魚雷の脱着の様子だろう。はずした自動車は巻いたままにしておいた方が良かった、と思われたはずだ。もっとも昨今のご時世だから、休暇を取得しているために自動車も出ていないのかもしれない。
 昼過ぎに大阪より元宝塚スターの身内(従姉妹)が所用のため到着。彼女の娘がスキーで使っていたスバル・インプレッサを運転して、昨日の真夜中に出てきたらしいので、ゆっくり来られたのかもしれない。時間設定ができないために、成り行きに任せて対応する。
 妻は夜勤だったが、息子はアルバイトの時間も終了して、僕と3人、酒道場で夕食をとって終了、とする。来客の意向を踏んだ上で、地元のいいものを、と考えては見たが、この天候では、魚もいいものが入っていないのは少し「通」なら分かるはずだ。したがって、酒道場に設定した次第だ。
 いずれにしても、生活のリズムが宇和島とでは、まるっきり違うし、雑談で給料のことになったが、大阪ではガソリンスタンドでのアルバイトでも16万円近い金額がGetできる。そういった日常の方々を相手しないとならないから、こっちも疲れる。彼女たちはいたって平気なんだから... 。
 さて、今朝の出勤時に

 僕の移動の後に僕の靴の跡
  冷たい白い雪の上に僕の移動の跡
   時間の経過が一瞬止まる
    振り返る余裕はない
     次の太陽が足跡を消すまでの軌跡

なんていう、一文を考えていた。これは夜になって一層激しさを増す。なんというのか、一文の中とは違い、空気も乾き、東の空にオリオンが見て取れる冬の晴天だから、明朝がどういったものになるか、僕は恐ろしい。交通事故はおそらく起きるもの、と思って間違いない。
 身内が宇和島にいた時間、僕も少しばかり肉親、というものを体験した。しかし、あっという間に現実を一人で生きなくてはならない。それはこの地に根を下ろそうとして、しっかり根を張る必要が僕の身に付いた性であろう。こういった状況を今の若い人たちのどれだけが宇和島在住が考えているか?、僕は疑問に感じてきた。
 と同時に、そういった若者が住み着く町づくりが未だにできていない、この町の現状以上のことを市民は知らなければならないのではないか、と考えてしまうのである。次の世代が来るまで、軌跡を残すためにも必要なことだ。

2001年 1月21日()はれ
 うなんだろう、この天気は。昨日は大変な大雨だった。その前、15日、16日はすさまじい雪だった。そう、つい2か月前まで、本当に冬の天候はやって来るのだろうか?、と思うほどの陽気だったはずだ。それが... 、といっても、もう過去のものになってしまった。
 今日は市長選挙と市議会議員補欠選挙の開始日だ。どういった結果になるのか、僕はこの際だから、言いたいのだけど、口で言うほど「厳しい」市財政の状況ではない。むしろ傷口は変化ないのだけれど、傷の深さはどうしようもない状況になっている。口で言っても、金額を一般の人が想像できないほどの金額なんだから。年末ジャンボで3億円が宇和の高校生の手に入った、ということだが、これとても市財政のマイナス補填にはちょっとの金額なんだ。そういった財政面をどうやって健全計画にもっていくか、市長候補者の方々が公約に掲げた美辞麗句なんぞで上手く行くようなものではないのだ。そこんとこを、有権者の市民のみなさんはよっく腹に据えておいていただきたい。この人が市長になったらどういったことになるのか、シミュレートして欲しい。
 久々のお天気、SRを走らせる。乾式クラッチといえども、ある程度使ってフリクションの一定さを維持していなくてはならないから、はっきりいってたまにでもエンジン回して走らせてやらないと、バイクには良くない、ということだ。本当だよ。人間様だって、ボスのコーヒーCMではないが、うごける体はある程度動かさないとならない。もっとも、頭の方が動かない場合が多くて、Macユーザーの僕でさえ、ちょっとついていけない場面も多々あるのだから。

2001年 1月24日(水)はれ後くもり
 事柄、今週は土日がないから、思い切って午後から休む。その前に、思いついたことがあって、それを実行に移すために休んだ、と言った方がいいかもしれない。昨日、壊れたのを発見したPowerBook 150のこともあったのだが、頭にひらめいたことを先にやっておいた方が気が楽になる。
 それはSR500のエアクリーナーの改修だ。以前に触っていたのだが、再度検討を加えて形状を変更した方がよろしかろう。それに伴ってキャブレターも少し触った。結果は良好。宣伝ではないが、このことは次号の本編で。
 ま、それより巷の市長選挙のこともあろうけど、最近は赤ちゃんを踏みつけて殺す母親がいたり、ダーティー・ハリーの犯人のように公衆電話を利用した犯罪(未遂)のようなことが起こったり、心がすさんでしまう。
 か、といえば、国家公務員なら会計検査は必要ないのか!、と言わんばかりの横領まがいのものが出たり。「地方公務員の悲哀を知れ、このバカタレが... 」と言いたくなってしまった。あのクラスなら給料は50万円以上だ。総理に伴って海外へ随行したら、こんなに手当が必要なのだろうか?。これって国民の税金だよな。
 そういえば、昨日は有明海の海苔がダメになったんで、諫早湾の遮蔽板を開けてでも原因を究明したい、という大臣発言。だったら、あれだけ反対したときに、どうして再考しなかったのか、またまた疑問になってくる。干からびた元の海底が、海水を入れて元に戻した上で海苔との因果関係を導き出すまでにどのくらいの時間が必要なのだろう?。そして解明したらまた遮蔽してしまうのだろうか。それとも... 。このばかげた行為に何をか況わんや、である。

2001年 1月27日(土)雨後くもり一時雨
 挙の準備を午前中にして、午後はのんびり、と行かなかった。昨日、高校の同級生との例会で、酒をたらふく飲んでしまって、腹が痛いのなんのってなかった。もちろん、ガスもたまっているし、日常のものになるのには、夜になってからだ。
 それでも、SRを触らないとならない、と思って内田自転車商会さんへ出向く。そのあと午後少し強い雨が降ってきて、また予定がずれてしまった。キャブレターのクリップ段数を下げて、対処した。成果はあったが、少しジェットを何とかする必要がある。このことはwww/Gridの23号で紹介しよう。
 選挙は午後8時前になると、アナウンスも悲痛な叫びになってくる候補がいらっしゃる。そりゃ大変だろうけど、当選するより落選した方が良かった、といわんばかりの膨大な市の激務が待っている、ことをを努々お忘れなきよう、と申し上げたい。
 久々に天候不順が続く。実のところ、僕はこれがこの地方の本当の冬だ、というものではないだろうか。本当に昔は相当に寒かったのである。何人かのお年寄りはこの世を去られるかもしれない。そうそう、生活があまりにも便利になりすぎると、人間というものは欲が出るものだ。それをどの辺りで止めるか?。アホくさいが、おそらく僕のようにあまり便利でないな生活をするようにしなければ、本当に早死にする人が多くなるのではないだろうか。

2001年 1月31日(水)はれ後くもり
 風吹き抜く寒い朝に、北風の中に呼ぼうよ春を... 、吉永小百合さんの歌の一節だ。風こそなかったが、ドピーカンの青空、ぐずついた天候ばかりだったんで、こういった歌の一節を思い出したまでだ。その天気も夕刻より悪くなる。長続きしない。
 朝のNHKニュース番組で成人式のあり方について、時間も短く若干纏めすぎたキライはあるが、大仁田 厚さんがなかなかいいことを発言されていた。明日は聴取者の意見に対しての報道がある。興味のある人は見ていただきたい。
 昨日、仕事を終えてSRを走らせる。実はエアクリーナーボックスのダクトを再び改造して、キャブのセッティングを一昨日から開始していた。そのテスト走行だ。どうしても4000rpm以上回せる場所が必要なために、松尾坂から三浦方面に向かう。なかなか良くなったが、あと一歩の所までこぎ着けることが出来た。このモヤモヤを後送りにしてはならない。すぐさま昼休みも使用して仕事のケリを付けて時間休暇。
 モトリベルティー(もうリバティーになってるかな?)にダイノジェットの件で電話をする。かなり詳しく説明をしていただいた。その結果、現在やることは、メインジェットに加工を施すことだ。
 昨日と同じコースを試走する。「いい」格段にいい。昨日よりメリハリがはっきりして、4000rpmでもたつくこともない。このことに関しての報告は後日本編で紹介したい。
 全くひょんなことからモデルカー誌の中にスロットレーシングのページを久々に見た。そこで、旧ストロンベッカーのリメーク版がリトル・ガレージというショップで発売中、価格は13,000円。即座に電話。すんでの所でシャパラルを購入できた。雑誌に出ると全国レベルだから、数十台あったのが僕のゲットした1台だけ、という状態になる。痛し痒しだ。ま、このことは、「とっておき」にでも紹介しよう。しかし、コッパズカシイったらありゃしない。ま、スロットレーシングをホビーとして、なおかつ自己満足として紹介するつもりだ。
 早いもので、本日で1月も終わった。振り返ると市長選挙などもあって、一時期ざわついたが、時間の流れは変わらないものの、感覚としては相当速いペースで過ぎたように感じてならない。

2001年 2月 4日()雨
 から寒い一日であった。僕も自宅での作業は無理と判断して、職場へ向かう。そういえば、昨日は県のオリエンテーリング協会の新年会で松山に居た。午後9時近くになっても、ごく一般の酔客、若者などいっぱい居て、何となく夜の町、という感覚であった。が、その足でJRで深夜に帰ってきて商店街を歩くと愕然とする。いまだにスケボーは姿を消さないし、明かりも200Vの蛍光灯が間引きでついている。こんなのを消灯すればいいんだ。そういったことも出来ないから、今でもつい、通りたくない道路になってしまう。
 それにしても日曜日毎にどうして天気が悪いのだろうか。朝のうちの小雨が雨になってしまった。午後5時の時点で、鬼ヶ城に積雪はないが、かなりの寒さだ。ま、
それにしても、ジジ・ババの世界は変わらないようだ。松山の同じ時間の商店街と比べると「何ともはや」の状況である。同様、本日も若い人々はほとんど居ない。居るのはジジ・ババと児童生徒達だけだ。日曜残業している企業もないのであろう。夜は金曜、土曜と違い雨の手伝って人っ子一人通らない。
 こういった現実を見極めた上で、現在の宇和島を考えないとならない。このページをご覧いただく日本各地の多くの方々が、僕のいうこういったことを戯れ言と決めつけないで、真の宇和島のためのグローバルな面での再建策を宇和島市のホームページに寄せていただきたい、と思っているのである。

2001年 2月 5日(月)くもり時々雨
 夜半にwww/Gridを更新した。僕としてはこの忙しい中、盛りだくさんなものをやった、同時にこのページも開設して2年になり、7000人以上の方々に訪問願った、と自画自賛している。何しろ年明けのこの1か月、数多のことが一度にやってきたので、こうなったまでのこと、次号が「な〜んもおまへん!」とならないようにしなくては... 。
 しかし、一部荒さが目立つし、もう少し何とか... 、もあるので、更新日だが、わずかばかり変更させていただいた。また、自分のPCで覗くのと、別のPCで覗くのとでは、ずいぶんと感じが変わる。この当たり前のことが、気がかりになっている。そうなると複数台のPCで確認なりの方法を採らなければならないのかもしれない。もっとも、そのうち割り当て容量上カットしないとならない場合がなきにしもあらず、となるだろうけど。
 そうそう、先日記載した1/24スケールのスロットレーシングマシン、ストロンベッカーシャパラルが到着した。すでにモノグラムの同じものを入手しているので、別段うれしくはないが、1967年ぐらいのものに一部リファインされたパーツが導入されてのリリースだから、すでに34年の年月を経てはいるが、アメリカからの新品が極東の我が家に来ている、ということになる。これでCOXのサイドワインダードライブのシャパラルがあれば、なかなかいいコレクションになる。不思議なものだが、こういった動くモデルはすぐさま作りたくなる。手持ちのニチモのホームサーキットでのランさせないとならない。できれば、松山のミルキーウェイのコースを走らせたいのである。このことは、"とっておき"にでも、そのうち記載をしたい。
 夕刻、ご近所の方の死亡通知が妻から職場に届く。シャパラルでうれしい思いをしていたのに、急激に悲しくなってくる。歳月時を待たず、というが、毎日のように顔を合わせていた方が、何の前触れもなく亡くなられるのは世の常とはいえ、少しずつ昔からのご近所が居なくなる、ということにむなしい感じがしてならない。ご冥福をお祈りしたい。

2001年 2月11日()はれ時々くもり
 来なら昨日皮肉たっぷりに記載していたはずだ。ハワイのオアフ島沖で宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」がアメリカ海軍の原子力潜水艦との接触事故で沈没し、行方不明者が9人出た、というものであった。はっきり申し上げて、その時、僕はこれは難しくなるぞ、と以前の「なだしお」と釣り船の一件を思い出した。原因も分からないまま1日が過ぎた。
 そして本日、早朝のラジオニュースで、僕の職場の同僚の息子が行方不明、というのを初めて知った。しかし、僕は松山に出張で出向かねばならない。つらい気分で出かけた。それまでにはテレビでもニュース番組を見ていたので、およその状況は把握していた。
 家に戻って、新聞なりニュース番組を見ながら気づいたことがある。その第一は、彼の国の状況と我が国とは違う、ということだ。人道的には同じだろう。海の男が同じことをする。ただ出来ないこともある。それは原子力潜水艦はアメリカ「軍」の所属、ということにある。ここだけは僕は見えない壁のようなものが存在する、と確信している。
 それにしても、アメリカのサイドはすごいことを行っている、と僕は感じる。日本国内なら本日は切り上げて、夜明けを待って再開、になるところを、今日など赤外線探査装置まで使用して24時間体制で行っている。しかも2日目だ。
 そして、アメリカ合衆国の国内トップのパウエル国務長官が早々と遺憾の意を申し述べている。ブッシュ大統領も休養先から遺憾の意を表明し、あらゆる捜索活動を行うよう、と命じている。
 ところが日本はどうだ。総理はゴルフをしている。その場から東京へ帰ろうとしない。自ら非を認め最大限の救助活動を約束しているアメリカに比べて、何たるざまだ、と憤りさえ感じる。
 こういったことを前提とすると、世界最強の国軍が過ちを認めたために行っていることも確かにあるはずだが、軍という立場を越え、これだけの規模の捜索隊を数日にわたって24時間体制で行っていることに対し、日本政府のトップは昨日はゴルフをしていて、今日の建国記念の日の式典に出席している。こういった態度を見るに付け、僕は「早く辞任しなさい」といいたい。アメリカ軍と日本の一般民間との争いになるかもしれない、下手をすると国策のペナルティーという非常に重要なことなど眼中にないようだ。
 日本政府から行方不明者の関係者にも公だって何の言葉もない。総理以上に市長、知事は活発に動いている。非を認め、活発にアメリカのトップが動いているのに、被害を受けた日本のトップは何にもしない。妙な感覚になってしまう。
 僕は非常に割り切れない気分になってしまうのである。本来なら、本日の日本時間の朝は「総理の記者会見」が行われているはずではないか。少なくとも外務大臣なりの会見は行われているはずだ。そういったものが一切ない。
 こんなのは主義主張でも何でもない。人間として、国のトップとしてどういった行動をとるべきか、そういった考えは今のイット総理には一切無いようだ。もちろん彼ばかりを責めてもいけないのかもしれない。というのも、本日の朝のワイドショウで、テレビ放映された我が子を見て、これ見よがしに助かった、と言った人がいたからだ。もちろん、その人の喜びは認める。が、人間とすれば、その時のえひめ丸の状況、生存している人の状況、近くにクルーがいない、探そうにも探せない、そういった状況が分からない外国からのニュース報道を、宇和島水産高校で関係者が集まってそれを見ている。周りにはマスコミ機関が数社いる中での発言としては、人道上逸脱していると言わざるを得ない。もしそのご子息が逆転している立場にいたらどうだろうか?。法律に詳しい人なら名誉毀損にまで、その言動は及ぶはずだ。
 僕自身もおぼれかけたことはいくらもある。僕自身は、今回の事故の概要がほぼ解明された時点で、事故自体、それに関する保証などのことが始まるのであって、現時点では、一刻も早く行方不明者の確認と、事故原因の究明に方向を向けるべきであろう。
 しかしながら、事故発生からすぐの時点でのアメリカと日本のトップ人(陣)の対応を比べると、「日本は何をしている」と言わざるを得ないし、言い回しが難しいが生存者と行方不明者の関係者に割り切れないものを感じてしまった。表面に出ないかもしれないが、一隻の船を動かすクルーの教育などは本当に行われていたのかまで、ことが進むのは今後のことであろう。また、クルーのみなさんは泳げたはずだ。泳げない人がいたかもしれない。こういったことは後日のこととしたい。
 以上は僕の思ったままを記載してだけだ。反論もあるのは事実だ。おそらくは、昨日までのことを考えると、僕の申した日本政府の対応の悪さは、クルーを取り巻く関係者以上にナサケナイ、と思わざるを得ないのである。

2001年 2月12日(月)くもり後一時雨
 い曇り空の一日であった。僕は朝からずっと昔を思い出していた。ちょうど丸之内の和霊神社の前の国道に砕石が規則正しく並べられ、そこで、赤胴鈴之介の胴衣をまとい、如何に早くそのごつごつの面を移動して、相手を斬るか。相手は数年上の上級生、僕はゼニの面だけで一人っ子を演じている。けれども、このチャンバラは数日間続いた。もちろん今の中央町などの子ども達を含めてのチャンバラごっこだった。こういったことを思い出しながら、この時期はヒヤイ(冷たい)という昔に思いを馳せていたのである。
 ニュースは相変わらず水産高校のことをやっている。僕がえらい、と感じるのは、この不幸があったにもかかわらず、明後日から平常の授業を再開するという決定である。この点は僕としては評価したいと思う。少々つらいのは分かる。しかし、最悪の時を迎えるには今の辺りから心の準備は必要である。
 夜、酒道場で、えひめ丸の建造に関与した人の話を直接聞いた。この内容は差し控えるが、事実を聞くと心が少しは安まる。実のところ、えひめ丸の状況は一切報道されない。えひめ丸がどういった船であったのか、は報道すべきではないだろうか。漁に使うのが主たる目的の船ではない。かといってキャビンを重視した船でもない。実はこういったところが過失はないにしろ、もしこういった設計になっていたら、と悪い方に解釈されるところが、このえひめ丸に対して、思われるところで出てくるはずなのである。これは事実だ。検査にはパスしていても、今後の実習船のあり方の課題として出てくることは確実だ。
 明日は全ての機関が連休明けで動き出す。様々なことが今以上に出て来るであろう。

2001年 2月13日(火)くもり一時雨
 しぶりにいい仕事をした。というか、僕の職の内容を説明したに過ぎないのだが、これがえらい相手を柔和にさせることが出来て、スムースに運んだ次第。妙にうれしかった。次は僕の年齢と風貌が一致しない様子に「歳はどこに隠したの?」といわれ、うれしい思いの反面、これだから僕のポジションが下げて見られるのかな?、とも感じられたが、ま、これはいい方に受け取っておこう。
 午後から休暇をとって、関係団体の民事訴訟の証人尋問傍聴支援のため、宇和島地裁へ出向く。仲間の女性証人に対して執拗な被告側の尋問に僕がキレそうになる。僕がキレてもいけない。証人席に座って応える彼女は相当な心を持っているように感じた。
 それから職場への帰り道、アーケード街で、えひめ丸の事故のことでマスコミのインタビューを受けそうになったが、きっぱりと遠慮した。休暇云々のことではなく、聞かれることは分かり切っている。朗々としゃべったところで、カットされるところが多いはずだし、僕自身が今回のことにはコメントは述べることが出来ても、内容如何によってはマスコミの意向通りに編集されるおそれがある。カットされるより、この方が恐ろしいからだ。
 しばらく後、友人のK君と談話していたとき、彼がいみじくも言ったことは「昔なら戦争に突入していたかもしれないな」であった。彼の息子もがいたが、その内容が理解できなかったようだったので、僕の方から話をしておいた。そういえば彼はベトナム戦争も知らない、湾岸戦争が言葉として残っているに過ぎない年代だから致し方ないことかもしれない。僕の説明で、一地方の高校練習船の事故がこれほど大騒ぎになる、その理由の一端が分かっていただけただろうか。
 今日は最後の最後でまた嫌な気分になってしまった。NHKの8時前ぐらいからのニュース番組で、事故の高校生生存者9人が松山空港に到着した途端、待ち受けた人の中から出た「よかったね」という大きな声を聞いたからだ。そりゃ、待ち受ける側の気持ちからすればそのとおりだろう。しかし、未だ行方不明の方々がいらっしゃる。アメリカ側も捜索を終えていない。学校側としても、生存高校生はそっとしておいていただきたい、という強い願いがあるはずだし、事実、事故の内容、生存者の状況などを本日、全校生徒に通知している。この気持ちの内容はマスコミといえども尊重しなければならないことではないだろうか。職場の仲間から今朝聞くところによれば、板島橋の手前から執拗に登校生を追いかけ回す、とか、当該生徒の家に突如訪れて何やかや聞こうとするなどの行為もあったらしい。
 さすがに午後10時のNHK全国ニュースでは、音声がカットされてはいたが、先ほど宇和島に帰った高校生達は、僕ぐらい、否、死ぬまで数日前に起きた事故の状況はもとより、自身が生死をさまよった、仲間が未だ行方不明という「真実」を背負って生きなければならない。これは確実なことなんだ。
 午前中のいい気持ちが続いていたのに、あの一言を聞いた途端にまた気分が滅入ってしまった。今の世の中はこれほど利己的なんだろうか。

2001年 2月15日(木)くもり時々はれ
 昨日は飲み過ぎまでは行かないが、結構な量の酒を食らった。主催者の一人だから、どうしても「お先に」とは言えないし、勧められると、あおる杯の回数が増えるのは当然のことだ。ま、一つの方法を講じていたので気分は悪くない。ここで申し上げておくが、酒の席になる時は「30分前ぐらいに、緑茶を湯飲みに3杯ほどのんでおく」といいようだ。これもNHKラジオの深夜便で聞いたのではないだろうか。だまされた、と思ってやってみて欲しい。ただし、酔わないことはない。後が楽、というだけだ。もちろん何の保証もない。
 さて、ずいぶんとバイクからはずれてしまった。土曜日に時間がとれない日が多かったからかもしれない。今のところ、17日にはOKだろう、と考えているが、これとても、はっきりと晴天の保証はない。最近は先月の雪から、妙に道路上が埃っぽくて、水たまりなどがあると、跳ね上げた泥水の処理に難儀をする。冷たい水で洗車などしたくない。そのために、どうしても晴天でなければならないのだ(爆)。
 バイクだけでなく、何というか、オーディオとか、写真とか、何もかもやることがたくさんあって、いずれもそれなりにこなさないとならないから、自分自身で難儀を背負い込んでしまっている。しかし、振り返るとこんなにはならないはずだったのに、というものばかりだから、よけいに困る。
 そうそう、今日のNHKテレビのクローズアップ現代で老人性痴呆症のドライバーの事故が取り上げられていたが、僕のように二輪の場合だと、この症状が出るとマジで乗れなくなるわけだ。乗っていて急に来られると困るが。
 なぜって?、まず二輪でこけずに乗ることが出来なくなる、と即座に考えた。四輪だとこけることはない。となると、出来る限り、しっかりとバイクに乗り続けなければならない。しかも乗り続けるためには精神面も体力面も相応に、あるいは年齢以上に心身鍛練をしておかなければならないのではないか、と感じた次第。同時に、こうやって、また難儀を背負い込む、という繰り返しになるわけか。嗚呼...。

2001年 2月16日(金)くもり一時みぞれ
 っきりいってバカにするンじゃんね〜、っていってやりたい気分になってしまう。けれども、よく考えてみると、30年前ぐらいは、こういった状況だった。陸上競技の冬季トレーニングをスケジュールよろしくこなしていても、こういった天候の元では全く歯が立たず、延期させてしまって春のシーズンを迎えるのがしょっちゅうだった。僕は自然を見下したことはしたくないが、宇和島では雨なのに、松山ではそんな気配はみじんもない、ということが歯がゆかった。
 春闘の集会をやったのだが、その後で、仲間内から、職員全体が集まる場があってもいいのではないか、という意見がでて、僕は大いに感じ入った次第。考えても見ろ、20万円の賃金で、生活をスムースに1か月間行っていけるかどうか。僕の職場では兼職ができない。
 僕たちの職場の賃金が高い、といわれる。確かに高いには違いない。僕も40万円も超える賃金を貰っている。が、国民健康保険料に変わるものに30,000円、退職金の積み立てに30,000円、家の建築ローンに60,000円。市民税、県民税などの税金に55,000円。それから高熱水費、新聞代、電話料などを支払うと、結局手元には14万円程度。その中から、僕の小遣いを捻出するのである。そんなにいいものではない。若いのになると20万円貰っている事実はあるが、実際は、僕同様にさっ引かれ、8万円の手取りになるのも珍しくないのである。
 こういった状況でも、市民は僕らを「遊んでいる」というのであろう。市長はこういった現実に敢然と対処していただきたいのである。僕の職場で働いている者の大半は実は迷惑しているんだ。「民間の職場の奴はどこで休憩しているのだろう」、かってね。

2001年 2月19日(月)はれ
 たしてもウイークデイの最初が晴天。昨日の日曜日は何だったんだ。ここ数週間休日は天気が悪い。昔ヒットしたけど「バカンスはいつも雨降り」っていうのがあった。竹内マリア「恋の嵐」だって季節は違うし、悪天候でも気分のいい歌詞だ。が、休日ばかり天気の悪いのは体調にも悪い(爆)。
 僕も必死の思いだったし、ライムハウスさんにも大きい迷惑をかけてしまったが、ようやくTHE BEATLES 1のUK盤CDが到着した。職場に到着したもので、POwerBookでプレイしてみる。「なんだ、これは!」完全に打ちのめされた。UK盤があっという間に完売になった理由が分かった。27曲の収録曲全ての音がいいのだ。いつも僕の言うように「音」そのものが違うのだ。強いて言うとEU盤アナログディスクの音と近似している。どの曲も何時聞くらべをしても、圧倒的にUK盤に軍配が上がる、と僕は確信している。現行のEU盤CDとも音が異なる。
 これって何だろう?。何がどうなっているのか、何が原因でこうなったのか、ということは推測だけで確たるものはない。僕の耳にはUK盤のCDが一番良好なTHE BEATLES 1と確信している。
 このことと合わせて、友人の作家である宇神幸男氏から、氏のオーディオシステムのうち、現在のアンプの状態についてレポートをいただいた。なぜかしら、僕が忘れかけているものを思い出させてくれるレポートであった。こことここをこういった具合にすれば、もっと良くなるのに、と感じるのだが氏はそれをしない。かといって、オリジナルに拘ることもしない。しばらくすると僕はイライラしてくるんだ。
 でも、もう、これは人様のことだから僕の介入する余地はない。やはり、僕の好む音づくりと氏の目指す音とは根本が異なる。こういったところがオーディオの楽しさでもあるのだが、突き詰めようとすると迷路に入ることしきり。故に金銭面から始まってとんでもない方向に進んでいく多くの人をよく知っている。ここがネックになって「真空管アンプを愛でる会」のヒアリング会も中断しているのが現状である。本編で紹介しようとしている2A3シングルアンプの製作も、トランスメーカーの市場からの相次ぐ撤退で、パーツをどのメーカーのものにするか見通せないため更新できていない。ピュアオーディオと称す、音だけのオーディオは下火だ。しかし、その人が基本としている音は別の人が基本としている音と共通しているところが必ずある、と確信している。新聞紙上で紹介されたF氏などは、音楽を楽しむための音づくりではなく、音そのものの善し悪しを突き詰めようとして、いたずらにキカイをいじりまわしているに過ぎない、と僕は感じている。

2001年 2月21日(水)くもり後一時雨
 今日もつらい一日になった。

      夕暮れの雨、寒い感覚はない
       季節は春へと向かおうとしている
        友はつらい一面を吹き飛ばすのように振る舞う
         僕は受け応える術さえ身につけていない

          帰り道の本格的な雨は道路に突き刺さる
           タイヤが路面を噛む音が高い
            あの日のことが無ければ、と僕は振り返る
             時を戻すことは出来ない
          
              今も、これからも僕は死ぬまで生きる
               友はもっとつらい事を背負いながら生きる
  
 宇和島は嫌ほど嫌なことで有名になった。何かがあの一瞬で大きく狂ってしまったような感じがしてならない。全く何も真実は知らされていない。憶測と、推測、想像など... 、報道されることに、どこにどれほどの真実があるのだろうか。疑問の固まりである。
 職場に戻った友から先に明るく声をかけられても、僕は為す術がない。周りは何も変わっていないからか、一層つらさがこみ上げてしまった。

2001年 2月23日(金)くもり後一時雨
 日はいつもの同級生が集まっての一杯やる日になった。ま、毎月のことであり、気にもとめていなかったことだけど、ここの店も間もなく閉店、というところが多いようだ。本日もその一軒を訪ねたが、実のところ、これはつらいな。
 もう一つは、こちらの希望の感覚(金額が主)と内容が一致しないところが最近多くなった。何度考えても、今回など、一次会の食事を含んだ飲み会は高い、と言わざるを得ない。ステーキのセット代金が3,800円。生ビールの中、とワイン、それにお酒でまとめると6,000円になってしまう。中でもステーキそのものは美味しかったが、金額と量を比べると「高い」と判断せざるを得ない。
 僕のペースと考え方からすると、2,000円も安く終わる、と思われる。今回の内容からすると、スープなどは必要ない。添付のワインもいらない。単にステーキの量が多い方がいい、と感じるのだが、これは僕の貧乏性からかなー?。
 こうやって考えると、僕は最近の宇和島では「安い」という一般の店は相当に少なくなっているように感じてならないのである。先に記したとおり、二次会で出かけた処は3月で閉店らしいが、1,800円でで楽しむことが出来た。
 いつも僕はこういったことにシビアっていわれるけど、実のところ「お父さん」が実使用する小遣いからすると、安くて量があって、なおかつ満足が得られる、という一般の楽しい店が必要ではないだろうか。店の方が「ここのこういったところが楽しいでしょう」というのを表に出すようなところは願い下げでもある。
 仮に僕が夜のお店を出すとすると、ショットだけで、出すのは数種類。ショット500円だろうな。ビールは缶のレベルなら300円だ。こういった店があってもいいのではなかろうか。かつて、そういった店も確実にあった。しかし、いつの間にか、おしぼりが出てきたり、チャームが出たりで、店同士の競争の結果、自らを潰てしまった処をずいぶんと知っている。
 ここで出すべきではないが、いつもの酒道場だと僕はそこへ1時間程度、しばしのひとときを過ごすのである。もちろん毎日というわけには行かないが... 。喫茶店でもいいかもしれないが、そうなるとコーヒーのレンチャンを伴う。飲み物だけで1,000円近い出費は願い下げだ。そういった意味合いから、最近ではトンと喫茶店には出向いていない。
 確かにチープシックな考えは事実だ。しかし、目的を持って事に当たるのなら、安く満足できる店を選ぶべきではなかろうか、と感じてしまった。

2001年 2月25日()くもり後時々はれ
 山出張、朝のJRには少々とまどった。乗るべき列車がホームにいない。掲示板には次の列車の時刻表示しかない。おかしい?、と思ったところ、何と踏切事故で列車が1便運休になってしまっていた。実のところバイクで出かけようか、とも考えたが、火曜日は会議を3つもこなさないとならない。万一風邪でもひくと、3月1日からの重要な仕事にも響くから、結局1時間待つことにした。その列車にしても30分遅れ。出張用務も白熱して長引き、帰宅時間もすっかり夜になってしまった。
 しかし、松山で寸暇を利用して会場近くのハード・オフへ出かける。ちょっとジャンクのコーナーへ立ち寄ったとき、おびただしい数のコンパクトカメラが3箱に分けて無造作に詰め込んであった。どなたも見向きもしない。少し手に取ってみると、キャノン、オリンパス、ミノルタ、フジ、それに台湾、香港の同じようなカメラ、最近のもので裸にされているもの以外は作動するようだった。いずれもほんの2〜3年前まで、現役としてカメラを持つ喜び、写真の楽しさを普及させた一時代を築いたカメラばかりだ。
 「もしかして初代のオートボーイがあるかもしれない」と考えて、時間を気にしながら探す。出るのはオートボーイ2ばかりだ。誰がどういった目的で出したのだろうか?、考えてしまう。と、そのとき、見慣れた四角いカメラを見つけた。トップにAF35Mのシルクスクリーン、紛れもなくオートボーイだ。見たところ異常はないのだが... 、少しためらって、元に戻した。別のコンピューターのコーナーを見たりしながら、「買うべきか、買わざるべきか?、金額は1,500円だし」、とくだらないことを考えたりして、もう一度カメラの箱のところに戻る。
 そのとき怪しい(=ジャンク漁り趣味のような)人を見つけた。「無い、そんなバカな、もしやこの人が... 」、でも、彼は持っていない。やはりそうか、入っていた箱を変更されてた。キズだらけのシールドされた中からオートボーイが「買ってくれ、動くから... 」といった表情を見せていた。「エーイ、だめで元々」、と購入した。
 家に帰って、バッテリーケースの錆を除去して、容量不足の単三バッテリーを入れてテスト。キュッキュ、という独特の音が出る。「動く、動くぞ!」思わず1,000円握りしめて、近所のトーヨー市場でアルカリ単三とISO100のフィルムを買って、使える状態にした。
 いずれ、テストを終えた後、「とっておき」で記載をしたい。今日、踏切事故で列車が遅れたのがきっかけだし、もしハードオフへ出かけていなかったら、と考えると縁は異なものといわざるを得ない。

2001年 2月28日(水)雨一時くもり
 仕事は最後の大詰めに向けて、僕の分野は全て終了した。これはこれで、明日から始まる3週間事業に委ねられる。夕刻からはある人の還暦のお祝いに出かける。
なかなか楽しかった。僕はプレゼントで切り子グラスが当たったんで、そのまま酒道場に「グラスキープ」したいところだ。宇和島にこういった作業を行う人が居る、ということから、まだまだ市内で発掘などされていない著名な方がいらっしゃるかもしれない、と感じた。
 二次会で、とんでもない人に対面して、意気投合した。彼はホンダマリンを主にやってるんだけど、どうしてヤマハがマリン部門でフォーサイクル化が遅れた、とか、という話から、バイクの話まで、ずいぶんと話し込んだ。周りではカラオケで歌う人が多いし、こちらは大声だから失跡を浴びたが、そんなことで怯んだりしないほど、話し込んだ次第。
 しかし、こういった業種間の云々はユーザーの立場なんて考えやしない。こういったことを考えると、僕は「社」というそのものの行き方が今後は問われるのではないか?、あるいは個人企業でも、ずいぶんと利益を上げている、という結果も出ているし、一つの商売を継続して経営することが難しくなってきたようだ。
 ホンダが創始者の考えでホンダのトップはホンダという会社の中から選ぶ、という考えも、地方の中小の企業に於いても今後は必要なのではないだろうか。

2001年 3月 3日()はれ後一時雨
 んでもない1日の始まりだった。午前3時半頃、のどの渇きで目が覚めた。昨日はしこたま酒を飲んだのをふと思い出した。ラジオはNHKの深夜便をやってた。それから、アー・ユー・ハッピー?を少し読んでまた眠った。眠りながら頭の中がグルグル回っているのがわかる。不思議な感覚であった。結局8時過ぎまで布団の中にいた。
 起きあがって、一気に行きまくった。朝飯は昨日の味噌汁と飯だけ。あわてて、天候との相談だ。その前にメールの確認なりを済ませて、SRで内田さんとこへ行く。GX-750にタンクを取り付け、車体カバーを受け取り、そこのS君に運んでもらって、我が家の前に置いている。実に10年ぶりに主要バイクがそろったことになる。GX-750は錆が多く、とても乗れる状態ではない。しかし、クランクは回る。オイルポンプも何もかも機能はしている。
 先月の23日、野村町の友人ノリ君に「GXを売ろうか、と思ってる」と電話した。返ってきた答えは「売ったらイケン、残せ」という返事だった。今日、家に運んで、実のところ車体は丈夫だが、周囲がまるでダメ。今のバイクづくりの状況とは違っていたのが如実に分かった。
 しかし、眺めている内に、「あー、やはり乗らなきゃならないな」トライアンフとは違う感覚が生まれてきた。しばらくは眠りにつくだろうが、そう遠くない時期に動かせなければならない。そういった意味も含めて、来月のwww/Gridから記事を掲載することにした。
 しかし、内田自転車商会さんが廃業、ということになろうとは、何か割り切れないものを感じてしまう。僕流に考えると、ヤマハからの束縛からの解放、と同時にヤマハのエバンジェリストとしての、どういった考え方で、今後ヤマハとつき合わないとならないのか、しばし、自問自答をしなきゃならないだろうな、と感じた。
 矢沢永吉のアー・ユー・ハッピー?はファンのコラム辺りから僕の胸を熱くし始める。夜のNHKサウンドドラマもよかった。
 ほんの一瞬だけど、妙にフワーとしていて、なおかつやらなきゃ、と地面を再び見つめるような、そんな感覚のした一日であった。

2001年 3月 5日(月)はれ
 いおい、どうして休みの日は天気が悪いんだ?。本当に何とかしてほしい。今朝は急激に冷え込んだ。流石に昨日の風は収まっていたが、商店街の中までも少々乱雑気味になっている。不思議なものだが、いらいらした気分があったのかしら、早くに目が醒めてしまったが、シューマッハーが2001年F-1の初戦を飾った、というニュースを聞くと、もうそんな季節か、と考えてしまった。以前F-1の何とかというチームをスポンサードしていたフットワークもポシャッたらしい。今考えると、あの当時の日本企業は泡沫の夢を見た一時期だったかもしれない。
 職場では半年越しの職員にとっての重要案件が何とかなりそうである。このことを薄々聞いてはいたのだが、文章化されるまでは信じるわけにはいかなかったんだ。4月から本決まりになればいい、と念じ続けることとしたい。
 午後、クラフトマンにSR用のヘッドライトステー、とタペットカバーの金額について問い合わせ。ウ〜ム、25,000円ほど必要だ。しかし、今のうちでないと、またまた後送りになりそうだ。ここは、妻に目をつぶってもらって、購入と行きたい。チャックボックス製のライトステーもあるのだが、クラフトマンの方が何かと好都合だし、そのままの姿でどことなく違うSRという印象を相手に与える点で僕はクラフトマン製を採りたい。といっても、自己満足だけ。妻の渋い顔が目に浮かぶ。「こんな値段?!」、当然、「それでいい、と思ってるの?、バッカみたい」、という声が聞こえそうだ。
 家に帰って、先日オートボーイで撮った写真を丹念に見る。いずれも解像度がなかなかいい。一つだけ残念な点がある。それはプレオートフォーカスだから、この辺でピントが合ってくれれば... 、というところにはピントが来ないんだ。この点はどうしてもマニュアルの一眼レフが必要になる。それ以外はすばらしいの一言だ。このオートボーイ自体にも2〜3の欠点はあるし、今となっては遅いのだが、Autboy 2ではなく、オートボーイとして改良版を出してほしかった、と言わざるを得ない。

2001年 3月 6 日(火)はれ時々くもり
 気に仕事を係で仕上げるため、残業なのだが、僕は以前から決まっていた別の会議に出席。ほとんど残業と同時に会議も終わったので、そのまま、職場にとって返し、書類などを置いて帰宅する。先に夕食は必要ない、との旨、妻には通知している。結果、酒道場で一服して帰宅。
 メールの確認をして、えらいことに気付いた。MacFan Letterに出ていたその一文は僕とPowerBookの一種のわだかまりを再び露呈した。配信内容に出ていた一文、それは「PowerBook G4用の冷却台を発売」とあった。メーカーがどうのこうのではない。僕が今持っているPowerBook 400以前のモデルでは底板がさわれないほどの熱を持つ。その当時の多くの記事に書かれて、冷却用の台の発売が相次いだ。僕は、こうまでしてもリリースを続ける高性能のPowerBookは必要ない!、と決めて、しばらくはPowerBookを買わなかった。今持っているPowerBook 400はこういったことをクリアしている確認が取れたから購入に踏み切ったのであった。
 それが今、チタンボディーのG4PowerBookに発熱の現象が出ていれば、僕としては、このG4PowerBookは失敗ではないだろうか、と感じる。こういった小さい筐体に高密度のパーツレイアウト。なおかつ、そこから発する熱を最小限に押さえる。ここんとこが、新しいG4PowerBookの一つのネックではないか。つまり、現状では少なくとも高い温度で「発熱する」のである。僕は口を酸っぱくしていうところ、この発熱が大きくなるノートパソコンは失敗である、と考える。
 マーケティングチーフのサンデー・グリーン女史が引き続いてPowerBookを担当されているが、もし、PowerBook G4にこういった発熱という欠点があるのなら、即座に次のリリース製品からは発熱を押さえていただきたい。
 と、申しても、この発熱にまつわることは僕の推測の域を出ない。が、多くの高性能CPUを搭載したPowerBookでは、この熱問題が今までの欠点の一つでもあった。
 雑誌業界ではおそらく、この発熱問題は記載しないのではないか、と感じる。

2001年 3月 8日(木)くもり時々雪
 とんでもない天気になった。日中に雪が降る。今は?、そう3月だ。でも、風が来て、職場の裏玄関はかまち戸が閉まらない始末。向かいのA棟のペントハウスの屋根はシート防水が剥がれて、風で波打っている。ま、それほどの天候だ。鬼ヶ城はうっすらと積雪がある。
 早いもので、今日と明日は県立高校の入学試験だ。僕なんか、そう34年前になるんだ。9教科を二日間、今でも覚えているが音楽は100点だった。数学はとんでもない60点程度だったから、意外と、この辺から今に至る計算嫌いが始まったのかもしれない。
 久々にeMate 300を職場へ持っていく。完全充電状態なんだが、30分も使うと、以前の調子に戻る。センサーとかそういったところのメモリー効果がいまだに存在するのだろうか。解決に対しては今後の課題としたい。
 それにしても、この寒波は一体何であろうか。天気予報によると明日の昼過ぎまではこの状態が続く、という。辛いところだ。何だかしら、冬の用意を今時やらなければならないのがおかしい、というか、何というか不思議な感覚である。昨日は山々がわずかに桃色がかっているのが見られたのだから。

2001年 3月 9日(金)雪後はれ
 明の積雪が残る。写真のとおり夕刻の鬼ヶ城は美しい。
朝は僕の出勤時刻はぽつぽつの雪が降っていたが、始業時からはかなりの雪になった。ずいぶんと冬に逆戻りしたような気分は昨日と変わりない。このような天候は愛媛の地でも8年ぶり、ということらしい。
 こっちは昼休みまでに、モンク言いのお客の相手をしたり、耳の遠いお年寄り相手に大声を出して話をしたりで結構疲れる。本日もeMate 300を持参して、少し速くなったWorksのPaperで文章を作った。家で、こいつをX-PortPowerQuadra 700にシリアルケーブルで転送してフロッピーに保存。それをPowerBook 400に持ってくる。
 どうしてこんなことをするか、というと、Newtonの系列が、古いMacと相性がいいからに他ならない。これほど確実に作動すること自体が、今からすると新鮮ですらある。これもあまりCPUが速いとどうもうまくないらしい。幸い、僕はPowerQuadra 700が全てだったから気にしていないが、一度Duoでやったときにちょっとおかしかったのを思い出した。ま、変換に変換の作業が苦にならないのがいい点だ。同じく写真もQV-10からPowerQuadra 700にシリアルケーブルで転送してPhotoShopで加工してフロッピーで転送している。これもなかなか快調だ。3,000円程度のUSBのケーブルが変えないからではなく、今のままでも不便を感じないからに他ならない。決してヒガミではなく(爆)。
 話は前後するが、春闘のビラ配りを昼休みに行う。1階から8階までの職場の各人の席に置いていく。1時間程度だ。この寒さだが額に汗がにじむ。おまけに職場は乾燥しきってるから、僕の苦労も分かるだろう。水分補給は十分ほどやらないとぶっ倒れる。もし、外へ出る仕事があれば、こういったときに風邪を引いてしまうのはいつものとおりだ。
 ついで、と言ってはおかしいが、1週間ほど前から左目がイラ痒くてたまらない。一時期治っていたのだが、どうもおかしい、と思ったら、下瞼が膿んでいる。涙穴の横に通路が出来ているから、思い切って摘んでやった。ブチュッ!とはいわなかったが、小さい粒が膿といっしょに出てきた。どうやら麦粒子だったようだ。(汚いかもしれないが)ニキビの芯みたいだけど、こいつが綺麗なんだな。今回で3回目の発症だ。
 クラフトマンからSRのパーツが来た。確かに高価だが、久しぶりに金額相応のパーツを購入した感じになった。それを装着しよう、と思ったが、最初に記したとおりの寒さだからや〜めた。
 ジャストシステムからAQTOK 14が届いていて、こいつは直ちにインストール。これも久々にATOK 8を導入したときのような気分になった。ATOK 8をインストールしたとき「あっ!」と感じたのが運の尽き。どうやら、このインプットメソッドから離れられそうにない。
 まぁ、今日一日いろんなことがあった。明日は松山だし、日曜日が好天なら、久しぶりにのんびりSRでも乗ってみたい。

2001年 3月10日()はれ時々くもり
 松山出張の日、10時30分から1日の仕事になる。残念ながら用務をこなしてからはトンボ帰りだ。そうしないと、明日の重要な講演会に参加できない。この講演のことは機会があれば報告したい。
 今日も寸暇を惜しんでオートボーイを見つけたときと同様に、ブックオフへ出向く。ブックオフの後ろ側がハードオフだ。ブックオフでは、少々高価ではあったが、SR Fileの全巻をゲットした。高いと言っても新品でそろえる場合の1/3の金額だから安かった。残念なのはVol.3にウォーターダメージが少々ある。この1冊で5巻全部の金額に匹敵するからだ。Vol.3からは装丁もVol.1、2と異なって逆になるし、出ている数がかなり少ないのではないか、と考える。
 ハードオフはMacの中古が少ない。売れなかった7100/80が雑誌などの中古覧に出なくなると途端に無くなる。同様に前のアイスブルーのG3Macもあっという間になくなった。人の心なんて分かりゃしない。
 7時前に帰ってきたが、今日は一杯やらずに、クラフトマンから送られてきたSR用のヘッドライトステーに修正を加える。溶接部分などは、どうしても引っかかるから、エッジなどをヤスリで面取りしてやらなければならない。左右で1時間程度、ステンレスは硬いから、一方方向だけにヤスリをかけてもだめだ。最終は、右から左下、左から右下へ、と斜めやらなくては満足な結果が得られない。お酒を一杯やってからになると手先が心許なくなる。ここがコワイから、慎重を要する作業のときは、僕でも注意するんだ(爆)。
 久々に金額相応のパーツ、と記したが、こうやって、パーツにすら手を加えて自らのモノにするところから、レーシングパーツなどというものの価値が高まるのではないだろうか。ましてや、それを一般車両に応用するのだから。
 夜のNHKテレビ、えひめ丸沈没のスペシャル番組は、僕の心を打った。番組の最後の方、えひめ丸にグリーンビルが海底から浮上して衝突し、えひめ丸が沈没するシーンは、ほぼ正確にCGで再現された。見られた方はお分かりだろうと思うが、一瞬のことであった。妙にスローモーション化せず、縮尺通りの時間設定にされたところなど、実際に近いものを見せられると心が痛む。この番組の再放送はあるかもしれないが、あのシーンだけは二度と見たくない気分になった。あまりにひどすぎる。

2001年 3月12日(月)くもり時々はれ
 日は、午前中は公民館大会で畠山重篤氏のすばらしい講演を聞いて、午後からは妙典寺のお稲荷さんへお参りに行く。帰ってから、久しぶりにバイクの「青空工房」を開いた。目的はクラフトマンのSR用ヘッドライトステーとスケルトンタペットカバーを装着するためだ。ついつい手こずって1時間程かかってしまったが、なかなかのルックスに満足。近くに来ないと分からない、ごくノーマル然としているが、どこか違うSR、という具合に仕上がっている。その後、このSRに乗って内田自転車商会さんへ出向く。午後6時近く、メカニックのS君にお願いして、ここに置かせていただいていたバイクを全て移送した。何となく寂しい気分になってしまう。
 そういったことがあったもので、ずいぶんとくたびれてしまって、今朝は寝起きが悪かった。ここ数日間、気温が低いし、おなかの調子もよくない。と同時にこういった普段行っていない「長時間の歩行」、「青空工房の開設」など、動いていない身体を急に動かしたものだからかもしれない。今日も外はまるで冬の天気だし、我ながら冷え冷えした感じがつきまとう。
 すっかり遅れていたNewton MP-130へのスケジュール打ち込みを行う。確かに今時忘れられた存在のマシンかもしれないが、「この一台で何とでもなる」、というキカイはPalmでは味わえない。反論はあるだろうが、PalmではPCが家庭にないと使い道は半減する。それならPsionのマシンを買えばいい、と言われるだろうけど、なんか割り切れない。ディパックに入れて、すぐさま、ってことにはならない。せり出してくるキーボードなど、僕が想像すると妙にオーバーアクションのようでならない。大きさからしても、僕個人はMP-130に軍配を上げる。少々お金に余裕が出来たら2100を購入しているところだろうが、やはり130の方が馴染んでる分だけいいものがあるように思う。一時期、確かにPalm OSのマシンがブレークしたけど、何から何までてんこ盛りになってしまって、周辺機器がどうのこうの、となっていくようでならない。それゆえ、僕はMP-130を使用し続けるわけだ。
 銭湯へいって気分が良くなった後、昨日開かなかったメールの確認などを行う。メールの配信などはいつものとおりだが、ニュースを作る側は大変だろうな、と感じてしまう。そういえば、昨日から大相撲の大坂場所が始まっているが、気にもとまらない。それほどのものかな、とも感じるが、今年の力士採用試験に合格した卵達の何人がこの土俵に出てこられるか、その時の大相撲の人気がどうなっているかが楽しみでもある。

2001年 3月16日(金)はれ後くもり
 動の一週間が終了した。正に仕事は「電話の向こうは鬼ばかり」であった。特に13日〜15日までは怒濤のごとくの電話応対であった。年々直接来庁する人が少なくなって、電話での応対が多くなってしまい、相手の方もこの時とばかり、言いたい放題。本来なら受話器を頭に来てガチャン、と置くところだが、職務上それもできない。
 毎日6時前にヘトヘトになって家路に付く始末。癒しは酒道場での一杯なのだが、ここでも常連さんと、ついつい話が進み、部屋で一段落する間もなく、バタンキューになってしまう毎日であった。そのため、日記も書けず終いで... 。
 今日は朝から全くの静けさの漂う一日であった。電話もない。来客も少ない。妙に気抜けがして、給料日であることも忘れて「いつか来るかもしれない」とヒヤヒヤしている自分が情けなくなってしまった。まるで、映画「バトル・オブ・ブリテン」の最終シーンのようであった。
 どうしてこうも、僕が悪いことをしているのではないのに、まるで悪者のように感じてしまうのだろうか。僕は携帯電話を持っていないが、こういった電話は電話、直接は直接、とわきまえているからだろうか。それほど最近の電話でのやりとりには少々アタマに来ることが多い。
 とうとう、今日も酒道場へ行ったが、今日が最後だ。明日からは来週末の四国自動二輪交友会の準備を行わなくてはならない。使用車のSRも綺麗にしてやらないと、みすぼらしくってならない。機関は快調だが、外観が埃と土で汚いんだ。
 こうは考えてみたが、またしても明日は雨模様、「バカンスはいつも雨降り」の歌詞のとおりになってしまう。望むらくは、24、25の両日が好天であることを願いたい。こうやって記載していることは、気抜けしてしまってあまり酒も飲めなかった、ということか。嗚呼... 。

2001年 3月21日(水)はれ時々くもり
 常にあっけない幕切れで、15日間の業務が終了した。苦痛だけが残った。期間の数日間はそれこそ死ぬ思いであった。中には市長が新しくなったので、厳しくなったのか?、と言われることもたびたびあった。そのとおりだ、と言うと反発をかうのでここは懇切丁寧に説明して事なきを得ている。が、そういった方が職場に来ると、仏になる。正に「電話の向こうは鬼ばかり」だったのである。
 意を決して(オーバーな!)散髪に行く。床屋はいつもの錦町の「東京」。今日でもやってなきゃ、4月の最初はアタマの形で少々困る。なかなタイミングも難しいものだ。今日は隣は高校生か中学生だったが、白髪がなければ僕の髪の毛の方がずっと多い。その子がシャンプー使って、思いっきり掛水をやらないとますます髪の毛は少なくなってしまう事実を知らないのではないだろうか。合成シャンプーではなおさらである。
 職場の方の親が他界された。失礼な話だが、「桜の花の咲くときに死にたいものだ」と映画「お葬式」の一節で言われた。今日など正にそのとおりだ、と感じてしまった。しかし、ついこの間までお姿を見てはいるが、急に姿を見なくなったお年寄りがいらっしたら要注意ではないだろうか。
 それより、本年「桜の開花」がこの地方の「1番」を宇和島がGet。このことは久しぶりにうれしいニュースであった。

2001年 3月26日(月)はれ
 ともはや、の2日間が過ぎた。話は一昨日に遡る。四国自動二輪交友会へ出かける前にMac OS Xが到着した。一応開封して確認を取った後、SRで出発する。行きは揚々... 、のはずだったが、時間も時間なので、高知市内の南海部品でスーパートラップの取り付けボルトを購入して、隣のエレクトリックパーツ高知へ出向き、そこから出ようとした矢先に、例の地震に見舞われる。僕は直感して、出ない方がいい、うまい具合にここの店は天井がない。万一の場合はパイプ状の柱にしがみつけばいい、と判断して、収まるのを待った。同行のN君は消防士だから、彼も平然として、あわてて出ようとして人を制止したりしていた。振幅が大きい揺れだったし、鉄骨、しかもパイプ状の柱の店舗で助かった。外で待っていた同行者も自分の体がおかしいのか?、と感じたほどだったらしい。家に電話すると妻が「あんたの積み上げたモノが落ちとるだけよ!」というぶっきらぼうな報告を受ける。宇和島は大丈夫、と判断した。
 その夜の懇親会は散々であった。時間が短縮されるし、料理はそこそこだし、プレゼントも... 。最近は妙にこの交友会もおもしろいのは香川と徳島だけになってしまった。この件は4月の14、15日のBritish Runに期待しよう。
 そういったもので、昨夜はOS Xにかかりっきり。最後の最後でコケル。ハードディスクの空き容量が不足です。あーあ、またしてもバックアップをとって、パーティションの切り替えをしなくてはならない。Public β版でおよそのことが分かっているので気にすることはあるまい。
 ようやく今日、職場に着くと、あれあれ、積み上げた書類が落ちているし、ロッカーのドアは開いて中身が出ているし、机の位置がどことなくおかしいし、という具合で、場所によっては被害が出ているのではないか、と感じた次第。
 帰りは帰りで職場の人事異動の内示があったものだから、少々職員の中には殺気立っている者が居る。それにはそれなりの理由があっての異動だから、僕は何も言わない。しかし、半年ほど過ぎて、どうしても馴染まないなどのことがあれば上司に対して異議を申し述べればいいのだから本人が堂々と言えばいい。それをうやむやにする。ましてや、今日など八つ当たりするのは言語道断である。それよりも新しい職場ではどういったことをやって、どういった内容のことを前もって身につけておくなどを事前にやっておくべきではなかろうか、と強く感じるのである。
 夜はOS Xと行きたいところだが、どうにも、手が出せない。そろそろ5月の朝霧湖マラソンの申し込みをしなければならないし、とにかく、この時期はゼニのいることばかりだ。

2001年 3月27日(火)はれ後くもり
 「何かOS Xのインストールに関して簡単でいい方法があるはずだ」、と思いついたのがNorton UtilityのWipe infoを使う方法だ。これなら行けるかもしれない、と思って実施してみたのが、午前0時前。睡眠不足がたたるはずだが、ここまで来ると止めるわけにはいかない。Wipe Outでダメな場合は明日(つまり今日)にまわせばいいのだから、とその時は考えていたが、内心はダメになるとイライラが大きくなってよけいに眠れなくなる、と思っていた。
 実行すると、ほぼ空き容量をクリア。早速OS 9からインストールを開始していよいよ「X」をインストール。大成功。設定まで行って、気が付くと0時30分。こんなもんで、翌朝はいつもの出勤時刻。折しも和歌山からの観光客に城山の登り口を尋ねられたり、けっこうおもしろい時間であった。
 職場に着いてPB400を起動。ことえりは相変わらずで、少々閉口しながらも、Jeditを使用してタイピングを試みる。Public β版よりは一層今までのMacに近づいていて一安心だ。メニューバーもそのままだし、ここまでずいぶんと改修されてきたものだ、と改めて感心している。おそらくこれからも新しいものが供給される前にはβ版でユーザーニーズを掴む考えをAppleは持っているのではないだろうか。

2001年 3月29日(木)くもり一時雨
 こ数日気の休まる日がない。今日はほとんど一日中駆けずり回っていた。もちろん合法的に。まずは、時間休暇をとって、仲間内の会議に来賓で出席。3〜4分のあいさつをする。本来なら30分でいいのだが、これができない。帰ると仕事の続きをやって、次は職員間の会議。その前に来客があり、この方の仕事上での言い分を聞いてあげた上で、こちらの言い分を理解していただかなくてはならない。会議の開会時間が近づく。時間ぎりぎりで終わった。
 準備も出来ないまま会議に出席。まとめ役である僕が何にもできない。ま、無手勝流なんていうものがあるとすれば、その前の出たとこ勝負だ。こんな考えで一定の方向性を出して会議を終了。
 夕刻からは市長と交渉。これまた無手勝流だ。結局1時間半ほど話し合いを行ったが、結果はともかく、今までとはずいぶん変わった、と感じた。今までなら、職員側の言い分はことのごとく受け入れられないでいたが、今回はじっくりと聞いていただいた。これが本来の姿なのだろうけど、振り返ると、今までは何だったのだろう?、と考えてしまった。
 家に帰ってからも休むことは出来ない。交渉の報告書をタイプしなけりゃならないし、一通りのことをこなしたのが午後10時過ぎである。職場の仲間に対してのことだから、明日は午後から休暇をとって、仕上げを行なわなきゃ... 。なぜ?って、31日は土曜日、4月1日は日曜日。両日お休み。実施する新年度の4月2日は月曜日。したがって、31日午後5時までに何とかしなくてはならないのだから。
 そんな、こんな、で、あ〜っという間に3月も去ってしまう。今年は花見も出来そうもない。開花も満開も日本で最初、よっく考えてみりゃ「21世紀最初の日本で一番」のことなんだよな。
 あ、話はちょいと飛んで、今日のNHK総合テレビ、クローズアップ現代にAppleの総帥、スティーブ・ジョブスが出演した。なかなかいいことを言っていた。一部分、受け止め方が個人によって違うところがあったようだが、僕個人の考え方としては、彼の言う「家庭の中のコンピューター」という考え方がこれからの主流になるのではないだろうか。CPUの速さを誇ったときもあったが、その場合でも必ず付帯のいいものが付いていたし、使い勝手から始まって、これほど一貫してAppleというコンピューターの存在がある、というのはすばらしいことだ。UNIXベースのOS Xにしても、ちょっと違うかな?と感じるだけで、使い勝手はそんなに変りゃしない。
 これからは、家庭でコンピューターで何をするのか、とか、コンピューターに何をさせるのか、という、コンピューターを導入するときにもっとも基本になることそのものをスティーブ・ジョブスが投げかけているのではないだろうか、と感じた。とにかく、Macの操作方法は初代のMac128Kから今まで全く同じなんだ。実に17年間も不変、ということになるのだから。
 また、明日も早起きである。ウォ〜っと、愛用者は知ってると思うが、Mac OS Xのインストールしてあるハードディスクにノートンユーティル5.0を走らせるとおかしくなるから、お忘れなきよう。9.1でもおかしいときがある。何しろ、「ディスクドクターで修復できます」と来るから、ついついやってしまいそうになる。困ったものだ。



 
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