2001. 10. 2〜 12.31の日記

2001年10月 2日(水)はれ
 学校では運動会が行われていた。結構順延にしたところが、今日の一日で消化できたようだ。現在、夜の天に 十六夜の月が浮かんでいる。僕は今日の出来事を決して忘れない。
 以前から、酒の飲み過ぎと不摂生、それに食べ過ぎで、中性脂肪、コレステロール値はビッグ数値を示していた。人様に「もう身体は危機状態なんですよ」といったところで誰も信じてくれない。酒の飲み過ぎったって、一般家庭のお父さんがやる晩酌と同じような量だ。しかし、その後で食餌を摂るからダメなんだ。何とかしなくてはならない、と思いながらも、これがうまく行かない、というか、そのままの日常状態が不変のものになってしまっている。決して「不偏」ではないんだから、何とか出来るはずだ、と考えながら、一般でいう不摂生を続けていた。
 最近になって、「茯茶」を飲み始めて、ようやく少しばかり改善の傾向が見受けられた。にも増して、早朝にウォーキングを行っている。これが実に楽しいのだ。信じられないかもしれないが、以前に増して同じ歩く仲間をパスするときなど実に他愛もない喜びを感じる。以前から続けている「 磁化杯で磁化した水」を300ccほど飲んでから1時間程度のウォーキングだが、「ウォーク」という身体活動の動作を真剣にやっているので、結構な運動量になってしまうのである。決して散歩ではない。明らかに「身体活動」だ。
 こいつを1週間程度行っているが、本日の健康診断で、血圧が上で20mmHg、下が10mmHg程低下したのである。もちろん保健婦さんはこれでも不十分なんだから、「薬を飲まず食餌療法で?」と見透かしたように言う。「そう、親父もお袋も降圧剤で腑抜けにされてきたし、薬を止めると、今までの食餌療法が何だったんだ、というほど、血圧変動があるのを見ているから、薬はやりたくないんだ」と弁明。その担当の保健婦さんは理解を示してくれたが、薬はあくまで対処するためのものだ。決して改善のためではない。僕は嫌というほどこのことを知っているから、完全な即効性の薬(頓服薬)意外は口にしない。
 いい方に追い打ちをかけるように「桑の葉」を主成分とした青汁を今日から飲用している。妙なもので、酒なしの普段の生活に少し戻すような感じになってくるのである。神懸かり的なところ、暗示的なところもないわけではない。しかし、文章にはしづらいが、事実なのである。
 ま、そういったところで、十六夜の月を眺めながら、(妻は当直で我一人で)もう一献傾けたい、という気分だ。アテはなかなかいいものがある。塩辛っくなく、そこそこのおいしさのものが。
 残すところ四国マスターズまで2週間。昨日2kgの円盤を10投ほどやったが、今日は右の肩から二の腕にかけて怠い。しかし、25mを目標に頑張りたい。久しく忘れていたものが再び帰ってきたように感じる。まさに月見るときはこの月の月ではないだろうか。

2001年10月 8日( )はれ後くもり
 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。」「大本営陸海軍部発表、今朝未明、帝国陸海軍は西太平洋上において、米英と戦闘状態に入れり... 」
 僕は、NHKテレビの何とかのポップスを疲れていて聴く気もせず、ラジオ深夜便を聞きながらウトウトしていた時に、アメリカ合衆国がアフガニスタンを攻撃した、というニュースを聞く。それから午前5時までテレビと同じ内容で放送されたから、僕自身がぐったりしてしまっていた。
 しかし、空が明るむにつれ、もし60年前の12月8日だったらどうなっていたのだろうか、と思って冒頭の一文を掲載した。違う点は数点あるが、戦争は戦争だ。戦争自体はどのように形容しようともダメだ。したがって、僕としてはアメリカ合衆国がこの一文を引用して公表したらどうだろうか。その後のことを現実と合わせて想像していただきたい。が、僕はやった、やられたと言えども、何とかという指導者を徹底的に今の世の中の状況を知らしめるべき、と感じる。
 このおかげで、頭がガンガンしている。酒道場で一杯やった今でも続いている。たかが一派と一国の闘いだが、これほどまでになるわけだろう。日本では考えられない。生まれたら土俗の信教で名前を付け、結婚は八百万の神の神前、あるいはキリスト教の教会、仏門なら仏様の前、他の神道はそれぞれの御神で上げる。死ねばそれなりに仏門だったり... 。たとえキリスト教で結婚しても、墓場は仏教など、なかなかおもしろい。こういった国だから平和だし、宗教でいがみ合うなんて考えられない、というのが、偽らざるところではないだろうか。
 さ、今日はそういった調子だし、頭はガンガンだ。が、やらなくてはならないことをこなす。とりあえずはSR。とうとう、BPR7ESをチョイスして事なきを得たが、どことなく違和感が感じられた。この結論めいたものはいずれ出すこととしよう。
 話は先に戻るが、湾岸戦争と同様、正々堂々、どうして陽のある内の戦闘にならないのだろうか。そして、間もなく我々一般人の社会にも戦争の脅威がジワリジワリと迫ってくるのではないだろうか。もはや、ベトナム戦争のごとき世界ではない。

2001年10月11日(木)はれ
 ともタイミングが悪い。テロから始まって、我々が加盟している自治労の関係で頭を悩ます。説明するときは「お互いの組合費なんだから、貴方も僕も中央本部にモンクを言うのが筋と違うか?」と申し上げる。別会社でのことはさておいて、裏金は裏金として、使い込みなどで云々ではないのだけが今のところの救いだ。
 少しばかり酒を断っているから、何となく不思議な感覚になってしまっている。もっとも、飲めない事情は僕の身体的なことはもとより、野暮用ばかりで時間が取れない。疲れたから、といって今まではよく飲んでいたが、僕にとって、これは逆効果のように感じて来だした。通常の飲酒なら疲れも吹っ飛ぶかもしれないが、僕の場合だと真に飲んでヘベレケにもならず、そこそこより多い量だからかもしれない。
 書店でビッグバイクの立ち読みをする。そこに今のトライアンフのT-100が出ていた。なかなかいい。もっとも中身は今のボンネヴィルと同じだが、タンクのカラーリングとタコメーターが装備されただけで変身する巧みさはなかなか感じ入るところがある。最大の欠点は、どんなにしても減すことが出来ない車重だろうな。僕たちのいうトライアンフ、たとえば僕のT-140Vを隣に置くと、その大きさが分かる。ただし、国産の750クラスと大差ない大きさではあるが。そういったところからも、僕は欲しいとは思わないのだ。小誌で出している「入れ込むべきところがない」ため、というのは言い過ぎだろうかな。
 Bone's Talkの和霊プールの一文を少々修正した。問題は和霊小学校を第三としていたところだが、実際は第四であった。もう一点は先生が先制になってしまっていた。取るに足らないところではあるが、修正をしておいた。写真を掲載すべきだろうが、これがいいものがない。つまり、竹筋の部分の写真が無いからに他ならない。
 久々にPowerBookのクリーニングを施す。いつもながら快調なんだけど、P.T.Kのキーボードそのもののキーの作動がイヤミめいて来始めたからだ。本来なら、ここは「しっかりしている」とかの表現でもって、このままの調子で... 、って紹介されるはずだが、僕は純正のキーボードからすると「まだまだ」の感じがしてならない。冬のボーナスで、両方(純正英語と最新のP.T.K)を持っておきたいが、清掃しながら、キーのダンパーを見ていると、キートップに接する部分は仕上げが少々雑、つまり、キートップを押しても斜めに入るようになってしまっている(シリコン)ダンパーラバーが見て取って感じられるのである。ま、僕のが最初の対作品、と言うこともあるのだろうけど... 。したがって、Do-夢では2000年モデル用は入荷待ちになっている。こういったことからもマイナーチェンジが施されているのかもしれない、と思えて致し方ないのである。
 SRは仕事の合間を縫って、オートショップのワタナベ氏と話をしながら、不調とも何とも言えない原因はスーパーサンダーの点火コイルとプラグコードの関係ではないか?、という結論めいたことになってきた。小誌の別項ででも報告しているとおり、どこまで行っても電極の碍子が白いなんてことは強力な火花以外にないのである。このコイルをそのままに、プラグ(ハイテンション)コードを一般的なゴム被覆のコードにしたら治まる?、ということになるのかもしれない。
 そうそう、コヴェントリーの清水さんより、タイムトンネルの写真がメールにされて届いた。なかなかのものだけど、初の2位ということが本当は悔しい!んじゃないか、と思ってしまう。しかし、いいわけではなく、僕も陸上競技やってるけど、実のところ銀メダルっていうのはなかなか数が少ないんだ。それだけ思い出が深い。いい線までいってて、最後の最後で負けてしまったとか、何とかトップを目指したけど無理だったとか、何とか3位になった、という銅メダルよりも思い出が深い、と僕は感じる。
 明日は久々に仲間内と一杯やれる。楽しい限りだ。

2001年10月13日()はれ
 妻は当直で不在。息子は早朝の仕事で出かけたようだ。朝は7時からお城山周辺の道路の清掃。これに出かけた。帰着して職場のM君が奥方のルノーに乗ってきていたので、ボンネットなど開けて蘊蓄を傾けていた次第だ。僕は自動車のことあまり知らないのだが、ボルトナットなどに自分たちとかヨーロッパ内の状況で、自国のマーキングを見て取れる。ボルトには一部製造メーカーの名前まで見て取れる。タイヤはフランスコンチネンタルだ。我が国のBSタイヤが諸外国へ行くとそこでの生産になるのだろうか。このフランスコンチネンタルは日本の気候にフィットするかどうか心配だな。
 その後、SRからメガトラップを取り去る。エンジンを始動して、いつものテストコースへ入る。プラグはBPR7ESである。あ〜、これは何だろうか。雑誌に記載されているレポートされるようなオートバイががこういった調子なんだろう、と感じた。帰宅してプラグを外してみる。すさまじいことになっている。周囲の金属電極は一切悪びれた様子が感じられない。碍子は灰白色であった。一体何が起こったのだろうか?、これは小誌の次号をお楽しみに。
 昼前から、一生懸命、僕らの組合の議案書を造っていた。そのときPowerBook 400MH をほぼ8時間使用し続けていた。結果として、ディプレーが暗くなって何も作動させることは出来ないのである。とにかく症状はディスプレーが全く用をなさない。原因が全く分からない。おそらくは、ディスプレーのコネクター部分というのはウスウス分かりかけてきたが、明確な事実は出していない。
 しばらくはアメリカ仕様の意気に感じて我慢して、来期に臨もう、と考えて言える次第だ。
 今日は市民運動会の各地区大会が盛大に行われていた。親も運動会ぐらいはもっと自由に参加していただいて結構。ただし、今の公民館での運動会がゆっくりとしたプログラムでは流れていないのは事実だが。
 家に帰って、プラグを外して、BPR7ESを装着した。それが冒頭に出した気分になってしまうのである。精一杯お住まいください。と言うのが関の山ではないだろうか。

2001年10月16日(火)雨
 日は八幡様の秋祭り。14日は三島様だった。連綿と続く秋祭りだが、僕んとこは宇和津彦神社、通称 一宮様だ。これが29日。最近この一宮様の祭りが派手になってしまって少々閉口しいている。かつては秋の祭りとしては結構大きいが優雅で、どことなく一般庶民の祭り、という感覚が強く、夏の和霊様よりは秋の一宮様のお祭りの方が好きだった。そういった風情が無くなってしまったように感じる。
 雨の中、八幡様の一定の行事が行われたことに対して、僕は敬意を表したいと思う。午後からは風雨も強くなって、台風の影響も出始めた。
 PowerBookはキーボード(P.T.K)はやはりダメ。どこといって悪いところはないんだが、コネクターも何もかも確認したが異常はない。しかし、「 I 」のキーは二度打ちの症状をやはり呈する。致し方ない。僕がキーを若干押さえすぎ、ということもない。「 O 」のキーはずいぶんと改善できていたのに。僕個人としては何度もいうが、このP.T.Kは好きだし、使い続けたい気分がいっぱいなんだ。それだから、この一文を読まれた方が、こんな他愛のないようなことで製品そのものの価値が下がると思いこまれることに一抹の不安を感じる。
 僕のはかなり手を入れてしまっているから、クレーム処理にはならないだろうから、できれば、近日中に何とか一基入手したいと思っている。最初の交換品をこれまで、ほぼ毎日のように使用しているのだから、キートップがツルツルになっていたりして、結構使い込んでいたのは事実だ。
 夕方からは広域市町村合併の話があった。最近になってこのことに興味が湧かないのだけれど、仕方なしに聞いてはみた。考えようによっては愛媛県が創ったものをベースにして、そうなっていただきたい、というお願いのものだから、仮に宇和島市がヤーダ、というと、隣の吉田町はそんなバカな... っていうことになってしまうほど、愛媛県のご意向のままに行政をやっているところでは、様々なものが、かなり進んでいるわけだ。そういった状況での話だから、実のところ何か変だな?と思う。なぜか?、それは近隣の町村職員に伺ったことがあるからだ。そこでは住民そのものが合併した後のことを考えているし、説明会などでもそれに沿った内容の話をされているように感じたからだ。
 一方の宇和島市では未だそういった話は一切ない。市長は、宇和島は財政基盤が確立されている街、とはいうものの、どことなく、そうは思えない。職員の人減らしから始まって、 「気持ちよく仕事ができる」環境は合併の後になっても一向にやって来ないような感じだ。行政職の職員がこういった考えを持っている。もちろん利害関係もあるが、宇和島市民は本当に合併した方が個人個人に対してのメリットが多くあるのかどうか、そのメリットがデメリットを上回ることになるのかどうか、十分に考えないとならない。
 今日の話の内容から推察すると、住民票なんぞ、(現在)隣町の生活しているところから宇和島市役所まで来て受け取るわけだろう。仮に分室化するにしても、その分室に、かつての旧町の人数はいないから、結局は機械化によって、メール一本の添付FAXで無機質な状態で受け取ることになってしまう。旧宇和島市の職員が旧近隣町村の市民課の窓口に座ることになっているのかもしれない。
 僕の話が現実離れしているかもしれないが、実際に起こりうる話である。こういったことだけでも分かるように、一般市民に当てはめると、かなりの問題を含んだものが広域合併にまとわりつくのである。おそらく、宇和島市が中心になる、という既成事実は消すことが出来ない。
 宇和海村との合併でも事後処理にかなりの時間を費やした。吸収合併がしづらい現在では、たとえ合併して宇和島市が大きくなっても、合併で生じた痼りを解消できるまでには少なくとも20年、否、半世紀もかかるかもしれない。
 その頃には僕もご老体だし、合併をやらかした当事者はこの世にいない。決して夢ではないのだ。

2001年10月20日()はれ
 ーッ、もう金曜日がまたやってきた、と思ったのが昨日。何とかこの一文を記載したい、と思ってはみたが、流石に疲れて、一杯やった上に、ATOKのOS X用のアップデートをダウンロードしながら眠ってしまって... 。
 そもそも、ことのイライラは、OS X 10.1のアップデートのことである。Appleアップグレードセンターからの封書が届いていたのが17日。もしかして、QuickTimeのプロキーのダウンロード代金分かな?、と思って開封すると、OS X 10.1のアップデートの代金だ。何と、もう発注して一月にもなろうとしているが、現物は未だ手元に届いてない。にもかかわらず先に請求書が来て、しかも振り込み期日が10月27日、ときた。ま、困ったものだ。普通なら、かなり後になって請求書が届くか、商品に同封で届くようになっているのに、と思っていたわけだ。
 気を取り直して、金曜日にインストールを試みたのだが、これがうまく行かない。何度やってもだめであった。いい加減嫌になってそのままおやすみしたのだが、今朝も早くから取りかかった。OS Xを10.01から順にアップデートをやっていると、10.03で昨日と同じエラーが出た。インストール順を思い出しながらやったところ、管理者が日本語になっている。ここをアルファベットに変更すると見事にインストールできた。使用感がなかなかのもので、今までのモヤモヤが消えた次第。
 夕刻からの市民文化祭オープニング行事は「ナカナカ」のものであった。80年前の大正時代、北陽とか南陽の芸妓さん達の艶姿が出るが、みんながくすくす笑う。それはおかしいかもしれない。その辺のところは別として、そこが今のどの辺りになるのか、芸妓さん達の日本髪は地毛(自分の毛髪)であることなども知ってほしい。闘牛のシーンにしてもこの間亡くなられた皇太后が宇和島におこしの時の映像だったが、セコがあまり関与していない点、あの観客の多さなどを見るにつけ、今の闘牛がなぜつまらないのか、を十分反省すべきだ。
 昭和時代の歌のカラオケ、それはひどい。南予文化会館のアルテックを鳴らしきるのは並大抵の歌い方ではダメなんだ。和楽器の演奏でも、特に三味線はひどい。糸巻きの上の天神にカバーがかけられたままだし、唄は別の方に歌い手としておくべきだ。
 バレエも日本舞踊も全くまとまりがなかった。どこかで決めるところが一切無いものだから、集団が乱れると収集が効かない。
 最後の合唱は何だ。マイクセッティングも全くダメ。全く自分勝手の集団で、とにかく歌えばいい、という気分。あの宇野先生を呼んで狂気の練習を重ねて、これがあの合唱団か、と言わしめた時の感覚は忘れられてしまっているみたいだ。
 僕はこういったオープニングなんて、ド派手なプログラムに偽りがあるような気がしてならない。所詮、宇和島の文化なんて、この程度のモノであろう。最後の最後、「宇和島さんさ」をまたしても大っぴらにやる。「竹に雀の仙台様も、しょんがいな」という、同じ竹に雀の家紋なのに、どうして我々は宇和島なんだ?!、という仙台の伊達本家を恨む詩なんだ。それゆえ、こんな歌をこういった席で歌うべきではない。これは八畳ほどの酒の席で2〜3人が踊る、というのが本来の姿ではないだろうか。
 ま、こういった現実が宇和島の文化レベルだろう。

2001年10月21日(
 朝は午前5時からうろうろ、というのも四国マスターズへの参加で、少々考えていたからだ。つまり、SRで行くか、JRにするかで。結局、外は雨、小降りであろうと、目的地の自転車置き場などを考えると、大枚(実は往復10,360円)はたいて西条まで行くことにした。
 結果から先に言うと、100mは15"15、徹底的に時間がかかっている。しかも最近、どうもスタートダッシュが重い。今日も隣のを「後10mあれば... 」と考えてた。そうなると、やはり、200mの方が勝ち目がある、などと考えていた。これって事実だ。
 円盤は円盤自体が新しいし、おまけに雨が重なって、3回の試技では記録なんて望めない。指をかけると第二関節と掌に集まって、フラフラと円盤が縦に振動する。いざ指にかかると、サークル内の水でスリップしてファールが怖い。結局20mにも満たない記録でしかなかった。
 帰りの列車では、どうしても気分が滅入ってしまって、酒道場で一杯やった。事実、円盤投げのピットでも、同僚の新居浜のZさんとともに、一回ごとの反省も出来ない、というのが事実だ。しかし、たかが10秒少しの「100mの間でも、後10mあれば... 」などと考えているんですか?と道場の女将さんが言うので、「みんなそんなことは考えているんですよ」と応えた。不思議だろうが、こんなこととか、調子がいいと「行くぞ、行くぞ」な〜んて間違いなく頭の中に浮かべているはずだ。100mの短い距離でも、ライバルだとお互いそんなこと思っている。ましてや、今日のように、いつものメンバーがいないと気になることの方が多い。
 そして、用具だ。用具に走る必要はないが、新しく始めた方が、最新の器具を使用されていて、いい記録を残している。僕のように入れ込みが大きい意外は新しい用具の方が記録を出す分には簡単なんだ。本当だよ。
 帰るとP.T.KがPowerLabから届いていた。パッケージも大きい変化。そして、キーボードを見た瞬間に、「今までのとは全く違う」、と強く感じた。いつものように装着するのはいいが、ステバンが少々じゃまくさい。最新の注意を払って、キーボードは水平になるように組み付けた。この辺がいつものマザーボードとの接続コネクターなどで注意を払うのだが、この部分にしても、前回とまるで違う。シリアルナンバーからすると1204番も新しくなっている。
 それにしてもPowerLabのFさんが今でも担当されていて、このままでしばらく使用して、キートップの表面が少しツルリとした頃、手紙を出したい、と考えている。しかし、純正キーボードよりもしっかりタイプできて、まるで、デスクトップ用のAppleの最初頃の一品である、GSキーボードにはおよばないがAppleキーボードのIとIIの中間のような感じがしてならないのである。
 幸いにして、二度打ち、も取りこぼしもない。まだまだ進化するかもしれないが、その都度とはいかにまでもレポートしたい、と感じている。だって、素晴らしいキーボードだし、僕もこの黒いPowerBookに入れ込みがついよいんだから、かもしれない。本当に過不足ないんだ。

2001年10月23日(火)くもり後はれ
 、どうしようもない胸騒ぎがして、NHKラジオ深夜便の心の時代で、、顔は分かっているが、酵学の教授のこのままでは日本の食料状況はダメになる、という話しに納得して、そうだ、そうだ、といいつつ起きあがった。どうしてそうなったのかは不明だ。ガバッと起きあがって、本当にどうなっていたのか分からない。自分が襲われる夢でもない。昨日はアルコールは入っていないから、幻覚っていうものでもない。再び床について、うとうとして6時前に本当に起きる。
 役所の本業も、職員団体の仕事も一生懸命。特に後者は少しでもミスすると、同じ志の者から仲間顔をして後ろから石を投げられてしまう。それほど人間関係は同一の方向を持つ仲間にも希薄になってきている、と言わざるを得ないのである。
 P.T.Kのキーボードも快調になってきた。ここからしばらく後に何とも起きなければ、So Goodの世界になるわけである。それほどまでに、プロジェクト当初から購入意思表示しているし、徐々に改善されていくのはいいものだ。今回のことは次号で紹介しよう。
 そして、問題の時間がやってくる。午後1時前、競輪学校第88期生の第一次試験の合格発表を見た瞬間であった。厳しい一般試験に知人の名前を見つけ大いに喜ぶ。我が子でないから、入れ込みの違いからかしら、彼の合格に対して、僕は破願である。一次試験の合格者10人、この後、5人の選抜を受ける。こういった分野でも厳しい、大変な世の中になってしまった。

2001年10月24日(木)
 日は久々に飲んだ。一つには例の競輪学校のお祝い、っていうのもあるが、金はないにせよ、僕を取り巻くものの多くが、そこそこのモノを発揮し始めたからだ。以前からそうだったんだけれども、時として、何か新しいモノが入ってくると、それに適合できなかったり、うまく行っていたモノが、突如おかしくなったりして、憤懣やるかたない気分になっていたものが解決したりしたからだろう。
 今日も仕事外の仕事がことのごとく入り込んでくる。一定予想はできていたから、昨日から出勤時間を午前7時10分としていた。今日などは、旧知の方から「えらい早いが、出張か?」と言われたので、「年取ると寝られんなるのよ」と応えておいた。そういえば上着の下は半袖のボタンダウンをまだ着用しているから、自分自身おかしいのかもしれない。
 この早朝出勤のおかげで、自分としては結構なペースでwww/Gridなどの次号アップができるのだが、ここ一週間ほどはそれすらできない。そう、職員団体のことが目白押しで、どうすることもできない。自分で何とか、という性分が先にでてしまい、仲間にやってもらう、ということができない。時間も迫ってきているし、痛し痒しだ。
 そういった気分で、家に帰ってどうすることもできないので、この1時間あまりの時間帯が僕にとっては重要になってくるわけなんだ。で、オートバイの方はどうしてもさわれない。理由はこういったものではなく、単に昼間の時間が短くなったためである。バカげているかもしれないが、青空工房では非常に重要になってくるのである。ホントだよ。ガレージがあれば、僕なんか一日中でもそこに入りっきりになってしまう。退職後にでも家を建てる、ってことなら、ロフトのような建物をやろうか... 、な〜んちゃって。それほどのものだ。それゆえ、時間と天候から、連続した時間でバイクに接していることができないんだ。
 それでも、最初に出したように、日々使用する道具などがごく平凡に動作してくれるなんてところが今の僕にとっては重要なことで、たかがバカげているように思われるかもしれないが... 。

2001年10月25日(木)はれ
 後から休暇をとって松山へ出張だ。気温が結構高い。僕は未だに半袖で通しているのだけれど、松山へ下りた途端に「異端児」としての視線を浴びる。そんなにおかしいか?ってーの。無理して間物のジャケットなんか着ているヤツの気が知れない。衣替えなんて過去のことだ。それなりの服装で失礼のない程度に通した方がよほどいい。そういえば、各航空会社のパイロットは、今の時期、まだ半袖で通しているはずだ。中には長袖の方もいらっしゃるだろうけど、いずれにしても上着はコクピットの中では着用していない。
 そういえば、看護婦の妻は職場では年から年中、白衣の下はブラとティーだけだ。かろうじて予防衣を着用し、冬の夜勤の時はカーディガンぐらい。それほど職場の環境と、動き回る仕事とのバランスでのことなんだろう。
 思わず服装のことから入ったけど、今日はPowerBookがお供している。この一文も列車の中でタイプしている。少々揺れるが、作成したゴム足が効いていて、座席のテーブルにピッタリと収まる。パームレストに力が加えられないから、掌は浮かせてのタイピングになるが、結構出来るものだ。ま、2400ぐらいならいいのかもしれないが、バッテリーのことを考えると、やはり、今のモデルでないとならない。じゃ、今のi Bookがいいのか、っていうと、僕は願い下げだね。もしやるのなら、全体を黒くしてからでないとこういったところでは使い気にならないのが本音だ。もちろん、発熱の関係もある。
 そういえば、AppleがMP-3プレーヤーを出した。流石にほしい、と思った。アメリカAppleストアのサイトで見て、1日後に47,800円で発売、となっていた。同僚のM君に言わせると、500曲ぐらい収録するのは大丈夫らしい。僕のビートルズなんて、軽く入ってしまう。まだ間に合うから、冬の一時金で何とかしたい。
 そうそう、肝心の出張用務では再びNewtonが必要になってきた。そうなると、このMP-130にフィットさせるPowerBookが必要になってくるのだが、2400となるのかな。しかし、もっと性能が低い方がいい。たとえばDuoの280とかの。バックアップするには、どうしても40マシンぐらいの方が好ましいからだ。ま、これも少し後回しにはなるかもしれないけど。
 そんなこんなで、なかなか楽しい列車の旅になった一日であった。

2001年10月27日()はれ後くもり
 度寝ほどをやった。羽根の中心がコバルトの綺麗なカメムシを三匹殺すところで目が覚めた。不思議な感覚だ。
 午前中にCDを2枚コピーする。僕のCDライティングソフトはMac CD-Rなんだが、最新バージョンににアップして、説明書と若干異なっているのに困惑する。使ったCD-Rは三菱化成のものだ。レコード面はブルーカラー、先にアナログディスク〜CDへの作業を行ったときはなかなかいい音だったが、今回は少々キツイ。最初の音楽CDのように耳の後ろが痛くなるような感覚が支配した。650MB、700MBの違いは無視するとして、音楽CDを焼くときはグリーンの方がいいかもしれない。試聴した結果、CDの90°交差する対角線上エッジにナイフで切り込みを入れる。僕の常套手段だ。これで結構ききよくなった。しかし、根本のキツイものは消えていないから、CD-ROM固有のものが出るのだろうな、と感じる。
 午後は久しぶりにSRに乗る。時間も時間だし、宇和へ出て歯長峠を回って、三間街道を通り、水分かれから戻ってくる。先日のインプレのままのフィーリングだ。ずいぶんと良くなっている。アクセルの開け方に若干コツがいるが、これもまた楽しいものだ。
 そういえば、口ずさむバックミュージックは、SRの場合、この間までは奥村チヨの「恋泥棒」だったんだが、今のSRにはどうもフィットしない。あれこれ思い描いてみていたとき、 黛ジュンの「乙女の祈り」が思い浮かんだ。これはなかなかいい!。「...  む〜ねにも〜える夢のね〜がいは一つ、好きな人と硬く結ばれ〜たい」なーんて。奥村チヨでは少々細いんだな。黛 ジュンぐらいでないと、今のSRの性能に見合わないか?、と思ったりもした。
 夕方、ゑびす湯へ行って気分良くなったところで、酒道場で一杯。これが今の一番のごちそうだ。来週からの10日間は大変な時、となってしまう。明日は雨のようだから、これがしばしの癒しとなればいいが。

2001年10月29日(月)雨後はれ
 前中に急に雨が降った後、いい日和になった。今日は一宮様(宇和津彦神社)のお祭りだ。本来なら休むところだが、仕事の都合上、時間休暇で見物するだけだ。カメラ持って、久々に出かけることとした。
 うまい具合に、八つ鹿、猿田彦、獅子舞の三つをカメラに収めることが出来た。本来、御城下で一番の神社ってことで、ここ最近ド派手になって、ゼニばかり食う祭りになっていたが、今年は久々に一宮様のお祭り、という気分で過ごせた。
 しかしね、カメラマンがすごいのよ。マナーというか、門付けの舞いなども門付けされるお宅のことなんか一切関係なし。とにかくいい写真のためにはあらゆるところへ入り込んでくる「カメラゲリラ」の様相がたまらなく嫌になってくる。舞いを止めるところまでは無かったが、一般通行の自動車は彼らが勝手に止めてしまう。病院の駐車場の入り口へタクシーが入れないなど、気にもならないようだ。174cmの僕がカメラ持って立っているのに、その前を平気で過ぎる。「オイオイ、こらえてくれよ」済みませんとも言わない。
 久しぶりにISO 100で撮影したが、どういった写真になるか、期待しましょう。それにしても、カメラマンのモードマナーはどうなっているんでしょうか、思わず、Bone's Talkの原稿をタイプしてしまった。カメランの進歩も日進月歩だが、それ以上に、カメラを扱う人間様の教育をもっとしっかり受けさせないとならないようだ。と、いいつつも、そういったことが出来る社会に長けた先生方が少なすぎるのも事実ではないだろうか。

2001年11月 4日()はれ
 、実は未明に目が覚めて、ラジオ深夜便の心の時代「がま-月桃の花」の映画の作者の話を聞いていた。実は数年前に山口のはぐるま座の一行がこの地で演劇を行った。見た方は反戦思想とかは別として、沖縄の住民がいかに最下層の感覚でそこに置かれたか、それがおそらく分かっていただけたのではないだろうか。特に、太平洋戦争の末期、この近辺での防空壕での生き埋めの感覚で死亡された方は、おそらくやお分かりいただけたのではあるまいか。とりもなおさず、アフガニスタンで行われている「戦争」がそれである。多くの迷惑という名を越えた諸々のものを一身に受ける、受けざるを得ないのは一般住民ではないだろうか。
 そんな話を、聞きながら、7時過ぎに起きあがった。が、頭がふらつく。あ、このまま動けなくなったとき... 、と一瞬「死」を感じた。こうやって安らかに死にたいものだ。苦しんで死ぬのは、親父の時で十分だ。せめて、母のように「お早う」と言葉を交わし、振り返ったら「死んでいた」という具合の一生を終えたい、と感じた。
 午後、インターネット上で空いている時間帯を狙ってwww/Gridをアップロードする。宇和島市駅伝が終わった時刻だ。
 実際見たけれど、僕はこんなのはチョロイもんだ、と一瞬考えた。つまり、住民票を宇和島において、一人の選手に20,000円支払って、走らせる。募集の用件は「5,000mを4分前後、10,000mを15分前後で走れる人」だ。この傭兵とも言える選手団でこのレースを闘わせればいい。プロのドリームチームかもしれない。その要項には「よその人」の規程はないからである。
 なぜ、こんなバカげたことを言うか、とおっしゃる向きが多かろう。それは、手はじめに、僕が元の職場に居たときに、その時のK課長ともども、どうして市独自の駅伝競走がないのだ?、というのが発端だった。そもそもコンペティションだったんだ。それが今ではどうだ、今日など2時間以上トップと遅れてゴールするチームがいる。これはレースではない。おまけに参加料も取らない。こんなんではダメなんだ。もっと言わせていただくと、ジョギングではない。ランニングレースだ。ととえ、身体が出来ていない中学生でも、レーシングスタイルで参加していただかないとならない。襷のかけ方から教えるなんて、バカにするのもいい加減にしろ、といわざるを得ないのだ。
 で、傭兵チームでも呼んで駅伝とはこんなんだよ、と知らしてやればいいのだ。地元の企業にでも出資する奴はいるはずだ。大会がポシャルかどうかは分からないが、これぐらいの速さじゃないとだめなんですよ、と言うのが多くの人には分かるはずである。Shop Schneiderにも出さない知られざる世界が、そこにはある。参加料ついでに申し上げるが、この駅伝は別として、次の南予マラソンなど、南予の各地から選手が来るんだから、大会をいつもの状態で永続させるためにも、僕は参加料を徴収すべきだろう、と思うのである。
 一息ついて、フラフラも少なくなったんで、SRでコスモスまつりへ行く。雨で1日遅れたが、人出の清教徒は別に、何かしら、こういったイヴェントもつまらないものになってきたように感じてしまった。SRがことのほか、よく走るようになったんで、黛ジュンの「乙女の祈り」も口ずさむのが楽しい。
 そうそう、夕刻のテレビでボディビルダーの特集やってたが、
顔の筋肉鍛えないのか、は別として、1位になった女性ビルダーを見ると、女性はやはりオッパイが大きくないと、今後ハンディが大きくなるように思った。本来はバストは男性より大きいはずだし、それがない、となると、男性化するように感じてならないもの。特に、アミノ酸とかプロティン(タンパク質)なんか平気で補うような身体造りは異常なのかもしれないから。現実に、1週間もトレーニングを行わなかったら、普通の女性と何ら変わらない。こういった方法より、僕は動かせる筋肉を一層鍛えてほしい、と思うところなんだ。

2001年11月 8日(火)はれ
 京日帰りから怒濤のごとくやってきた日々がようやく平穏になった。としても、今日も夕方からの会議がある。次々にやって来る行事などをこなさないとならない。全く何をやっているのか分からなくなってしまっている。東京日帰りが5日、7日は助役との交渉、夕方からの会議と、その後の懇親会、そして今日は交渉結果報告の作成と夕方からの会議、これらの上に、本来の日常業務をこなす。今日は昼休みもなかった。
 未来の結果(?)という観点からすると、明9日は仕事上でのプレゼンテーション、退庁後は同級生との例会で一杯やる。翌10日の土曜日は八面山へのハイキング。日曜は何とか自分の時間を取らねばならないのだが、どうなることやら。
 お仲間うちから、冗談半分で、「そういった(仕事外の対職員用務の)ものの報酬を受け取ってもいいんじゃない?」とおっしゃる方もいらっしゃるが、大部分は我関せずの連中だし、配ったビラも瞬く間にゴミ箱へ直行だろう。それでもやりきらないと、と自分で自分をその方向へ導いているだけだ。たかが210人ほどの団体のトップってだけのこと。考えようによっては課長クラスより、市長と直接話が出来るなどは、僕の方が偉い!、なんて、時に感じたりする。もっとも、市長とは、高校、大学は違うが、鶴島小学校、城南中学校と、同じ学校だったし、僕より1年先輩だから、別にどうのこうの意見を言い合ったりするような中でもないのだが。
 イライラこそないが、これで、PowerBookなど、日常使っている身の回りのものが不調を訴えていたりすると、少しばかり、僕自身の体調も狂ってきたりするものだ。幸いにもP.T.Kも快調だし、SRもすぐにエンジンがかかって動けるようになっている。こういった確実性のある、ある程度巷に出回っている、そういったツールを自分として使っているからかもしれない。
 不思議と、僕が新製品に飛びつかないのは、過去にオートバイなどでこっぴどく初期トラブルに悩まされていた経験が拭い去れないからではないだろうか。

2001年11月12日(月)くもり一時雨
 どっからお話ししましょうか?。とりあえずは先週の金曜日からだろうか。何度やってもNetscape6.2が一向にインストールできない。OS-Xでは簡単にインストールできるのに不思議なことだ。今日になって英語版をインストールすればいい、と教えてもらって、ようやくOKになった。苦労した甲斐ははあった。結構いい状態で移行できる。そもそもこれは、そのまま、6.2では難しい。で、4.7も依然として活躍中、ということになる。フォルダーにしまい込んだら、6.2でいけるかもしれない。
 土曜日の山登りは最高だった。実に数十年ぶりの八面山(やつづらやまが正解らしい)、とうとう三本杭まで登ってしまった。はっきり言って命の洗濯をしたような気分になってしまって、これは次号で報告したい。同伴したキャノンのオートボーイが凄まじい調子の良さ。いい写真が撮れた。ニコンより調子がいいかもしれない。
 日曜日は物産展で、いつものように、商店街でどうしてかしら各店舗のブースが片側しか向いていないから、ヘンテコリンな気分になってしまった。そろそろ考え方を変えてもいいような気がしてならない。そういえば、常連さんが来ていなかったのも少々気になった次第だ。お墓の掃除にも出かけた。日が日だから掃除に来ている方々も少ない。少々ヨモギの類の雑草を刈り取ってOKとした。午後からはマスターズ陸上の健康づくりの襷リレーランの前触れ役をやった。SRもすこぶる調子がよかった。

 そうして、今日を迎えたのだが、朝はすっかり忘れていたアップロードの修正を行う。2週間も遅くなってしまって申し訳ない、と反省する。夜は再度Netscape6.2のダウンロードになり、冒頭の出だしになるわけだ。このダウンロードの金額は相当なものになってしまう。全くバカげているが、そろそろプロバイダも乗り換えしないとならないのだろうかな。

2001年11月13日(火)はれ
 日からNetscape6.2を使っている。日本語パックっていうのでもって、日本語化しているのだが、なかなかシームレスで使いよい。少々4.7に対して応用性はないが機能自体がそれを上回っている。文字にしても、プリントアウトはしていないが、平成明朝などというものも使用できる。テキストを記載するのにどことなく慣れた感じがして好ましい。
 というところで、写真展を何とかしなきゃならないので、今日は午後から時間休暇をとって犬飼さんに額を渡すことになる。「第43回南予写真協会写真展」に出品するためだ。テキスト版で発行しているGridでずっと以前に出したことがあるが、年に一回、この頃に作品展示、出品料(年会費)が2,000円、それでお終い。何とすっきりしていることか。何がどうで、こうで、っていうのが無いので、僕はこの展示だけに止めている。ネガの版権が移動したり、そんなのでこっぴどくやられたから、通常のコンテストには出していない。ま、ようやく漕ぎ着けることが出来た。
 夕方、どうもシリアルポートなどの関係から、PowerQuadra 700を使い続けているんだが、電源投入などが出来ず最近おかしいので、電源部を含めて分解してみた。IIcx、IIci、Quadra 700までの筐体は実に簡単にはずせる。リッドを開けてプラスドライバー1本あれば、ものの10分で各パーツに分けることが出来る。バラしてびっくり、ゴキブリが電源部分のプリント基板で御陀仏している。一瞬だがショートしてしまっていたようだ。卵を持ったのが数匹、オスが数十匹大小合わせて出てきた。そういえば小誌に出して改造して以来だから、冬場になるとどうしても温かいところが居心地良くなるんだろう。我が家のように隣が食堂だったりすると、とばっちりを受けるのは致し方のないことかもしれない。
 すっきりさせたところで電源投入すると見事に一発で動き出した。これだからこの筐体でG3、G4までアップする仲間がいるわけだ。僕もやりたいけど、それよりはQuadra 950をWorkgroupSurver95にしてからの方が楽だ。WorkgroupSurver95のボードは持っている。しかし、今度はその大きさに僕の居場所が無くなる、という現実も待っているわけだ。

2001年11月18日()はれ
 く忙しい3日間が終わった。酒道場でヤレ取りをやってると、水道局のY君のご両親とバッタリ、ヤレ取り用の焼酎を1杯ごちそうになったんで、ヤレ取りがヤレづくりになってしまった。
 事実、木曜日からは大変な思いをしてしまった。まずは、木曜日は執行委員会だから、南予写真協会の写真展の展示に参加できなかった。翌日は朝から写真協会の手伝いに向けてイライラ。結局、昼から休んでアンプにスピーカー持ってってことなきを得たが、今日の現実は「おまえさんバカか」といわざるを得ない。僕の持参したCDプレーヤーの使い方が分からないから、そのままにして置いた、っていうわけだ。僕は「そうか」というより、「... 」というその言葉になってしまうのである。
 右横を向いた三角形のボタンは万国共通のように「プレイ」だ。四角いボタンはストップだ。これを「知らない」と称したのは、オーディオでもかつて、一生懸命やった方だし、そういった方がその場にいらっしゃるのに、誰も何も言わない。ま、頭にきたところで、公表しても致し方あるまい。
 また来年まで、フェスティバルも写真協会の写真展にしても次なる年に期待をしたい、と思う。

2001年11月19日(月)はれ
 日の食とみどり・水を守るフェスティバル、南予写真協会の二股行事を無事終えて、がっくり疲れて眠ってしまい、午後11時過ぎに目が覚めて、フェスティバルで購入した森村誠一の「ミッドウェイ」を読み続けていた。ミッドウェイ海戦を題材に書かれた小説だ。一応、主人公の降旗が霞ヶ浦海軍航空隊から実戦部隊に配属のところまで読んで、深夜、2時前にベランダに出る。
 出た瞬間、北から南へ流星痕を残して大きな流星が目の前を横切った。祈りはすっかり忘れてしまっていた。寒いのを我慢して、次々に流れる流星に見とれていた。獅子座流星群を実際に我が家から見ているのである。酔客やホステスの一員が外で歓声を上げる。不思議な感じがしてしまった。
 しばらくウトウトして、2時間程度の眠りから覚めたのはT君が「お前は殺人事件に関係がある、ちょっと来い」と引っ張られて、「僕は関係ない」というと、「違う、お前の知っている彼女が殺害されたんで、ちょっと聞きたいだけだ」と彼が... 。「そんな、さっき会ったばかりだぞ」という会話で目が覚めた。これが午前7時だ。ホンのしばらくの時がえらく長く感じて、職場へ行くにも、まるで宙を飛んでいるような感じであった。
 しかし、現実は厳しいな。昨日の後かたづけをやってホッとしたのもつかの間、仕事も立て込み、どうも未明のことがウソ、というか感激が虚無ではなかったのか、と思えるようにもなってきた。次は30余年の後に流星群が現れる、というが、僕は80を越えている。はたして生きているか?、という切実な問題も存在する。たった宇宙の中のチッポケナ希有な星の世界でのことであるけど。

2001年11月20日(火)はれ
 々にOS Xを使用している。なかなか調子がいい。というか、10.1になって、かなりやれるようになった、というべきであろうか。いろいろ手を変え品を変えではないが、僕の方が集中して使用できないでいる。このことが新しいOSから遠のかせているようでならない。
 さて、さすがに未明には起きることができなかった。昨日の未明に見た宇宙での出来事を大切に心の中にしまっておきたい。孫にでも聞かせる年代のとき、Mac OS Xは何になっているのだろうかな。
 ついつい、やりたくてもやれていないことが多い。特に僕のような性分だと、ここまでやって、次のものをここまで、っていう寸法だから、どこもかしこも一様に段階が上がってくる。気がつくと、知らない間にどれをとってもダメになっている、ということがしばしば現れる。器用貧乏、というところだろうかな。オートバイにしても、この辺まで、で止めるものだから、ついつい、SR、トライアンフ両方を股にかけてしまって、どちらもこの辺、でとどめざるを得ない状況を自ら創り出してしまっているようでもあるのだ。
 夜はプロジェクト×を見て、大いに涙した。そもそもカンボジアのアンコールワット修復の一件なんだけれど、地元の石工の親方を育てる、として日本人の親方が出向き、十数年間カンボジアへ行っている。やはり、グローバルな考え方でもって、こういった行為を行う方が必要なんだ、とえらく感じ入ってしまった。
 再び小説の中だが、ミッドウェー開戦での日米双方の戦争のあり方を、史実に基づく構成ながら、そこに繰り広げられる人間模様なんて、当時の日本ではクソ食らえにならざるを得ないのだったのだろう。今の報復戦争でも、大国が本腰をあげてかかってこられると大変なことになるわけだ。しかし、そこに出てくる人間の死に様はいっさい報道されない。そこへ日本が戦いの支援をしようとしている。これも国際貢献なんだろうかな。どうも日本の政治トップ集団の大臣クラスを現地に引っ張って行かないと理解できないらしい。
 アンコールワットの石工を育てる日本の親方と偉い違いだ。未だに日本は戦争を解っていない。大国アメリカはベトナムで大きな失敗をしていることを十分に認識しているのだから。

2001年11月23日()はれ
 天が続く。崩れるときが怖いが、日曜日の後半らしい。こういった天気なんだが、先立つものがいっさい手元になくなった。借金でまかないをしなければならない。はっきり申し上げて、介護保険料が毎月の給料の手取り分に大きく影響しているように思われてならない。事実、高齢者からも徴収する、なんて言っておいながら、いくつかの自治体では不当に免除しているところがある、という。こんなのなら介護保険料の代わりに、医療保険の改訂と保険料の増大をしていた方がよかったのではないか、と感じる。
 そういったことで、午前中は昨日残した仕事を片づけに職場へ出向く。1時間程度で完了。帰ってからPowerBook G3を徹底的にOS Xの環境で動かしてみた。あれよあれよ、という間に時間が過ぎる。最終にDVDのプレイで終了したが、そろそろ移行時期になってきたようだ。すでにFileMaker、AppleWorks、EG WordなどがOS X用でリリースされている。Officeがリリースされたときが... 、とも思うが、まだ簡単なドロー、ペイントのソフトがない。しかし、間もなくだ。僕はこのOS Xの最初からおつきあいしていてよかった、と感じる。
 簡単な昼食を摂って、午後から散歩を試みる。そういえば運動靴のPUMA コンプリート・フィニッシャーが靴底の摩耗で使用できなくなっている。革靴で出かける。最後に新田町の明屋書店まで出かけてしばらく立ち読みをする。どうしても職場の前の明屋では目にしない雑誌などがあるから、たまにはここまで出かけなくてはならない。商店街の老舗「キング堂書店」も店を閉めてしまったし、多くのものを得るにはここまで出かけなくてはならない。
 さんざん見たが、オーディオ関係雑誌のつまならさに唖然とした。新製品の羅列に始まり、レコード寸評、アンプ、スピーカーの制作記事など、全く変わりばえしない。売れなくなるのも当然だし、こういったオーディオを極めるようなことまでやって、CD1枚を楽しむのもバカげているようでならないのだ。真空管アンプに傾注している僕でもそう思う。
 航空関係雑誌で零戦(レイセン)の栄エンジンをはじめとした新発見の機体カラーのグラフィック誌を見て、操縦マニュアルに目を通したりしたが、何となくむなしさが漂う。隣にあったグリフォン・スピットのグラフィック誌を次に見ると、どことなくホッとする。不思議なことだが、やはり、戦勝国の飛行機が多く存在しているためだろうか。でも、今の日本でも戦争中と同じようなことやっているし、一般庶民が痛めつけられている状況は小泉君には分かりはしない、と僕は感じている。
 自動車関係もおびただしい雑誌の数だ。そうそう、トヨタのCMで、おなかの大きい奥さんが、運転するご主人と会話をするシーンがあるが、ほのぼのした中にも、恐ろしいトヨタの戦略が隠されているように思われてならない。「新車はどういったのにしようか」のご主人に対して、「... 、高い買い物だし、そうね、この子が小学校に上がる頃まではね... 」とおなかの大きい奥さん。まるで批判を浴びた例の教科書のようだ。傍目には分からない。このCMは「6年後に買い換え」をトヨタが車づくりの標準にしているような気がするのだが、みなさんはどのように感じるだろうか。
 ゑびす湯で汗を流した後、のんびりできた。が、じっくり考えていると、やることはいっぱいあるのだが、夢ってものが最近無いような気がしてきだした。夢は見るが、実現可能な「夢」のようなもの、言い換えると「目標」がさっぱり無いんだな。
 勤労感謝の日だけれど、精神面での仕事ばかりしてしまったように思う。

2001年11月25日()はれ時々くもり
 日からの悶々がとうとう火を噴いた。いや、大それたことではないのだが、これ が信じられない実体として現れたから、僕が爆発した次第だ。次第は次のとおりだ。  9月の終わり頃、トライアンフT-140Vのプラグを中古のNGK B8ESにして良好な結果 を得ていた。それを新品の同じものに交換したのが、先月の初め。ところが、キャブ のセッティングも変更していないのに、昨日宇和町のT君宅へ行くまでにプラグの金 属部分のユニクロメッキが赤みを帯びてきて、道中エンジンストールが3回出て、プ ラグが昇天してしまった。全く同じ条件で、大型量販店のBR8ESの2本セットを購入 して装着して帰宅した。やはり金属部分に赤みが出る。  ことはこれで終わらず、本日、冬場に近づくから、ガスが少々薄い状態かもしれな い、と思って、メインジェットを#230に上げて、試走してみたが、プラグが燻ったま ま。外して置いた元のプラグを装着すると、ともなく赤みを帯びることもなく快調 だ。走りながら、SR500のBPR6ESも量販店のパック入りを使用すると同じような現象 を呈していたし、今のBPR7ESは単品の箱入りの製品というのを思い出したし、スプリ ットファイアに変更しても、全く異常なしであった。  僕は、元のB8ESがヤマハから取り寄せた単品の箱入りであったことからして、気温 変化でメインジェットの番手を上げたぐらいで現れた変化ではない、と確信してい る。  最悪の考え方かもしれないが、量販店のパック入りのものは二級品が並んでいるの か、とも感じられる。ま、事実かどうか再度実験をしないとならないが、量販店販売 のオイルについても、以前言われていた「同じものでも内容物が異なる」ということ が、点火プラグについても同じことがいえる、のかもしれない。  しかし、今日は天候も崩れずに、トライアンフの結果が出せたから、モヤモヤの一 部は晴れた結果となってよかった。新聞紙上のテレビ番組で映画「冒険者達」が教育 テレビで放映されるのを知って、久しぶりにエアチェックをやっている。もちろんレ ーザーディスクでも持っているのだが、片面ずつを置き換えするのがまどろっこしく て、最近はLDはほとんど使用していないことに気付く。できれば、DVDで再発売して いただきたい、昔の映画はいっぱいある、というところをリリース側は察知していた だきたいところだ。かつてLDプレーヤー、ディスクの発売当初のことから比べると、 価格、性能ともDVDの比ではない。VHSのビデオほど家庭に普及はしていないだろう が、コンパクトさ、音質からするとDVDに軍配が上がるのである。これなら、僕は既 に行われているが、LDをDVDが駆逐してもいいのではないか、と考える。間違っても LD派から石は投げつけられないだろう。

2001年11月26日(月)くもり時々はれ
 の、何処かしこ、この日記がブラウザソフトのNetscapeのバージョンによって四方へ飛んでしまう。結局多くのものを残して、今でも使用できる4.7を使用することに決めた。ブラウザソフト云々で言いたくはないが、うまく行かないものをリリースするのはいかがと思う。特にMac OS 9シリーズでうまく行かないものは旧タイプを自然に使わざるを得ない。こういった点が未だにエクスプローラーに負ける点であろう。
 そういったことを頭に、再度同じ文章をコピー&ペーストを試みてOKとした。6.2では、... に取ってかわるのなら、この点も然るべき変化をするはずなんだが、これができない。故に元のソフトに戻って終わざるを得ないのである。
 でもって、今日は飲めない酒を飲まざるを得ないことになってしまった。こういった席ではいかに辞するか、その時刻と呼吸のタイミングを見計らうことが大切だ。たまたま今日はうまく行ったが、いつもだと、午前様になるのは必至のことだ。
 それで、帰宅途中、商店街アーケードでスケボーやってる若者を見た。やろうとしているプラクティスはストレートに走って、パラレル方向にボードを回転させようとする技だ。うまく行くのだけど、それまでだ。ボードの回転を終了すれば、それまでで、ボードは進行しない。「お前バカか」と叫んでやりたかった。もっと速い速度で直進しているボードをある程度の速度域でパラレル方向に回転させてやらなきゃ前へ進まないのは誰が考えても分かることだ。その練習は行わない。多くのストリートボーダー達の最大の欠点は、長距離のスラローム走行が出来ていないことに起因する。少なくとも、ボードの上に乗れる僕が言うのだ。こういった基本を一切やらずに、少しでも熟練者に近づきたい、と考える。こういった点を何とか基本に戻すことが出来る30歳代のストリートボーダーがいないのが、こういった入り口でつまらないことになってしまうことの誘因になっているのだろう。
 決して道路使用許可願を出しているかどうか、そんなことは言わないが、今日の彼を見ていると、一人、本当に一人しかいないアーケードでは不安になって仕方がないのだろう。こういった点も今の若者が抱えている「一人では何にもできない」点に合致するのかもしれない。

2001年12月 3日(月)はれ後くもり一時雨
 日までのあわただしい日々が今日の終業前に一度に気抜けしたような感じがして、一瞬クラクラっとしてしまった。
 先週の金曜日、ほぼ半日がかりで職場への重要案件の通知を行って、その夜にK君宅へ来たMacのLC575をどうするか考えながらユーティリティーなどを引き出していた。土曜日はほぼ1日がかりでLC575をOS7.5.5で動かせるようにできたが、その夜の一杯会で散在した挙げ句、昨日は祝賀会で松山で一杯。
 そして、本日ようやく落ち着いた、というわけである。どうにも気分とやることとが一致しない、妙なものになってしまって年末最初の仕事をこなしている。そして、終業前に市長と話し合い。一部問題はあるだろうが、この辺で手を打つべき、と判断。で、肩の荷が下りた、というよりは、冒頭のとおりクラクラっとなってしまったわけだ。
 法律関係になると、どうも釈然としないところもあるのは事実だが、その労働協約はさておき、僕は職員の多くが不利益を少しでも抑える方法でやった方がいい、と判断しただけのことである。
 どうしても、腹の具合がおかしい。今日のヤレ取りは中止。代わりにゑびす湯へ行って身体の垢取りとリフレッシュをやった。が、夕食を少々食べ過ぎて、腹の調子はまだ悪い(爆)
 酒の席は本当に連チャンだ。致し方あるまいな。まだまだ続く。現実には5日は高松で。6日は宇和島に帰って職場の忘年会。いつものことながら、気分よく飲める席が非常に少ない。そうそういい肴でもないのに大枚取られたり、時間制限があったり、ゆっくり入って、盛り上がって、そろそろお開き... 、という気分が最近の大人数での酒の席では一切なくなった。
 僕もそろそろ何か本腰上げてやらないとならないものもあるわけだし、そっちを優先させなければならない、と感じている。当のオートバイにしたって最近ほとんど乗っていない。乗る時間を割り振ることが出来ない、というのが偽らざるところである。

2001年12月6日(木)雨後くもり
 日は高松へ出張していた。「第33回 食とみどり、水を守る全国集会」への参加である。場所は高松市香川県民ホールだ。宇和島の南予文化会館よりも狭いその中に1000人近い人数だから大変は大変。とにかくフォーラム全体で言わんとしていることは分かるが、一般の目をそういったものへの重要性に向けるのは並大抵ではない。栽培漁業も定着化し、その病気もこの近所では依然として出ている。同じ「栽培」を行い、淡水の終着は海水なんだから、そろそろ漁業関係者もこの集会へ参加すべきではないか、と思った次第。
 今日は分科会を終えて、列車で帰るやいなや、職場の忘年会。なかなか楽しかったが、もうこういった席は参加したくない、というのが偽らざるところである。どうも僕も酒と最近の職場を取り巻く重要案件とのことで、体調がおかしくなってしまっている。今日もとうとう列車の中で眠り込んでしまって、切符の検印で車掌の声を聞いて、頭の中では検印を終わった... 、と判断しているのだが、ハっと我に返ると、切符を床に落としてしまっていて、車掌はまだ数席手前で検印を行っている、という幻影のような感覚にもなってしまっていた。こういった状況だから、今日は二次会へ行くことは止めにした。明日は南郡へ行かないとならないが、これも欠席させていただこう、と思っている。
 そういった中ではあったが、www/Gridをアップした。オートバイの点火プラグの件など、まだまだ実験して一つの結果を出さないとならないことが残っている。何度も考えてはいるが、MacはどうもBlackBirdを購入しようか、などと考えている。どうしても忘れられないキカイだからだ。もし、ここから3400へ進んでいれば... 、と今になって考えてしまう。5300のことを悪く言うことは出来ないが、このキカイは二度と購入する気にはならない。リワーク品をアメリカで再度リワークさせて、オールニューになってしまった経緯がある。Duoも2台、150も3台、100に至っては4台の中から1台しか使うことができない。PowerBookには泣かされっぱなしだ。G3 400にしても今に至るまでにかなり苦労している。そういった意味から少々気になるところはあるのだが、手元にあるパーツを入れてやれば何とか行けるのではないか、ましてや、PPCを約束されていたマシンでもある。そのままMC68LC40で使ってやってみたいが、筐体は丈夫なのではないか、と思っている。
 とともに、USBのプリンターを何とかしなくてはならない。ボーナスも値下げだし、結構この冬の一時金の遣い道には苦しいものがある。

2001年12月7日(金)くもり後時々はれ
 激に今に戻る。家庭の不思議さ、といえばそれまでだが、旅人というか、出張用務の多い方々の苦労はともかく、家庭というものがそういった方々に対してものすごく大きい作用を及ぼしているのだな、と強く感じた次第。
 一向に調子が取れない腹具合に対して、久々に山小うどんへ行った。若干の差はあるが、いつもの麺、いつもの出汁、それで300円だ。不思議とこういったときは、もう少し朝食がほしくなるのだが、敢えて我慢する。休息に回復しつつある。
 いつもながらの早朝出勤、共産党の方が新聞配りをしている。僕個人が攻撃されてもかまわないが、どうも彼らの行動は暗い気分が走るし、誰の目から見ても間違っている、と思われ、結果がそうであっても「自分で自分の尻ぬぐいはしない」ようなことが見受けられてならない。同じ党なのに日本中では地域差がずいぶんとあるような気がしてならない。
 中学時代は僕も「北京放送」を深夜に聞いていて、日本も共産主義の国になったらそれは素晴らしい国になるんだ、と確信していた。しかし、文化大革命のバカやった中国人民に失望し始めたし、僕が就職して、24 歳になるかならないかに共産党員のN氏がまるで洗脳するかのように僕に迫ってきて、一層信じられなくなってきてしまった。ま、中国は総括をやったし、改革開放の今があるのだろうけど、ここら辺ではそういったものも見受けられない。
 久々にイデオロギーのこと記載したが、今の職場にしても、自分たちだけ良くなればいい、の考え方が彼らの考え方かもしれない、と感じている次第だ。モンク言って、かき混ぜて、後はサヨナラのパターンだ。その後、どれだけのものが... 、そう、負の残り物をどうやって処理するのか、これを明確化しない彼らのこういった気分に対して、僕は未だにすっきりした気分で受け入れることは出来ないでいる。
 さ、そういった気分で始まった今日だった。必死になって昨日の忘年会の翌日を背負ってきている仕事仲間が午後から休暇を取る。僕は少々苦しいけど、帰るととともに妻から「このバ〜カ」と言われることしきりだし、有給休暇も残り少ないので、来週に仕事の一部を残さないようにケリ付けを主にこなしている。そういえば、どうして忘年会が木曜日だったのだろうか?。自分でも高松から帰ってそれに参加するなど見上げた根性だ、な〜んて、誰も言わない。しかし、職場の輪(和)のこと考えると、僕が2日も仕事外の用務で休暇を取っているし、こういった課の関係行事に何かと参加する。そういった気概は持っているつもりだ。そういったことから、今日は午後もこの作業に費やした。たかが7時間半の毎日の仕事時間だが、この毎日の仕事時間をどのように効率よく過ごすか?。こういったことも管理職だけでなく、全体で考えないとならない、と強く感じた。
 明日、明後日は久々にバイクと戯れよう。今日はAXOのモトクロスグローブをオートショップ渡辺から仕入れた。仕事中に用務で法務局にカブで出向くときに使用したが、ゴールドトップの皮のグローブ以来、久しぶりにグリップを握りながらクラッチレバーを握れる左手(の感覚)、スロットルをひねりながらフロントブレーキをコントロールすることが違和感なくできるグローブに出会った。カブ、そう50ccのカブだけどコントロールしているんだ、というのは素手の感覚に近いものであった。

2001年12月 8日()はれ
 のうちに何とかお気に入りのホームページをすべからく閲覧しておきたかったので、定時に職場へ。Ethernet接続で、およそ2時間、Not Foundのページも探し出した。肝心の僕のLinkの修正は行えず。というのは、Explorerでしか作動が困難だからだ。先日来のウイルス汚染のメールに対峙するため、職場内でもウイルスチェックのワクチンソフトがインストールされた。そのためもあって、ダウンロードの時間などが結構かかる。ページを出しても「注意!」を喚起するダイアログがその都度出る始末だから、大いに気になって仕方がない。
 昼食前になって、帰りにK君宅へ。LC575を依然として使う気になっていない。僕が訊ねると「ワカラン」を繰り返す。僕が分かっているからではなく、あれだけ親切に記載しておいた文章も読んでいないし、マニュアル本も読んでいない。使いたい気持ちは分かるんだけど、マニュアルシフトの自動車の動かし方と同じだから、いかに簡単なMacの操作でも、最初の最初だけだけど基本を頭の中に入れないとならない。彼が自ら「使うぞ」という気になってくれるまで待つとしよう。でないと、僕が切れそうになってしまう。
 午後からTriumphを出す。どうなるか始動からずっとつき合うことにした。セオリーどおりエンジンを回す。アイドリングは1200rpm辺りにセットしているが、最低でも1000rpmになるまで10分近くかかる。外気温が16℃ぐらいでもこの調子だから、致し方ないかもしれないな。依然として発進がぎこちない。オイルの関係から完全に準備OKまでには20分程度かかるのではないだろうか。が、走行し始めると快調なことこの上ない。スムース且つパワフル。相反するようなことが、ごく自然に行われている。
 宇和町まで行って歯長峠の手前でNGKのB8ESをスプリットファイアSF-405Dに交換。振動が少し大きくなった。宇和島に到着してプラグを確認すると、少々白い。フム〜、SF-405Dでは熱価そのものはNGKのB7ES〜B8ESの間ぐらいのセットなのであろう。スプリットファイアに対してメインジェットを#10上げる、ということがいいかどうか?。と、なればB7ESでテストしてみる可能性がなきにしもあらずだ。しかし、現在の状況だと、今のキャブセットでB8ESのままの方が高速などぶっ飛ばすときのことも考えると都合がいい、と判断する。
 で、再び点火系を考えるなどを行わないとならない。実に不可解千万。その上にNGKの点火プラグからいつの間にかJISマークが消えている。そして、ライターのZIPPOのように、古いプラグには取り付け六角ナット部分の下の金属部分に縄目が入っていたようだが、その後、縄目は消えて[ :I: ]の刻印、そして今は[ IIII ]の刻印が入っている。これはどういうことなのであろうか?。疑問が次々に増えてくる。実験のしがいがある、というものだ。

2001年12月 9日()はれ時々くもり
 夜は昨日の日記に見記載したとおり、「何かおかしい」と考えられることしきり、それゆえ、よく眠れなかった。たかがオートバイのこと、点火プラグのことなどど、バカにされるかもしれない。しかし、過去のオートバイ、自動車を趣味の一物として愛用している者がいるのなら、たかが「このくらい」が重要事項なのである。けだし、こういったことから逃れようとして、本来の使用目的からする耐用年数などを無視した結果が今のモータリゼーションを支える根本になった、というのは言い過ぎであろうか。ここ、宇和島に旧車と名の付くものは数台しか無い、といっても過言ではない。
 さ、そういったところで、今朝を迎えたのだが、既に布団の上では、古いCHAMPIONのプラグキャップからハイテンションコードを外し、昔のTX-650のプラグキャップに接続を終えようとしている。ハイテンション(プラグ)コードは19998年製造のYAZAKI電線のものだ。これとYAYLORとをリプレースするためだ。
 そうするに至った根本の原因は次号のwww/Gridで報告することとして、凄まじい逆変化に唖然としてしまった。同様に死んだプラグの状態も分かった。結局のところ、オートバイ全体を司る電気関係が目に見えない。ここが最大の盲点であろうことはよく分かった。
 プラグの死ぬ原因もようやく分かった。いたずらに高性能プラグ、高性能点火コイル、高効率のプラグコードが一体となっても、本当にいいのかどうか、次号で報告することとしよう。ここで、申しておくが、もし、常用のオートバイで、ノーマルの点火システムなら、そのままで乗っていていただたい。そして吸排気系に手を入れられた方は今のセッティングを十分に把握しておいていただきたい。
 意外と思われることが潜んでいる。特にSRなどの基本が古い設計のものは点火系のチューニングは一層の注意を払う必要があるのだ、ということを努々忘れられんことをお願いしたい。安易なチューニングは必ず点火プラグを殺す。

2001年12月10日(月)はれ時々くもり
 ーナスったって決して喜べやしない。理由は簡単だ。何しろ率が3年続けて下がっているのだから、おいそれと大盤振る舞いできない。この状況が来年の6月の一時金にまで影響することになるのは多くの方々はご存じない、と思う。iPoodを買うかどうか?って考えていたけれど、今回はどうやら見送りのような感じがする。
 それより、昨日P.T.Kが再び不調を訴えてきた。外しても容易に原因が究明できない。今度はN・Aなどの文字がタイプできないのである。仮にNは「ン」でAは「ア」でそれぞれひらがな変換する。ご存知のようにローマ字タイピングだから、返還後の文字はどう言った状況か?。お笑いのようになってしまう。なんと、マザーボードとのコネクター部分が切れているのだ。本日早朝に急遽純正英語キーボードに変更してこの文章をタイプしているが、何ともしっかりしないキーストロークだから、僕のようにたたきつけるタイプ方式には、どうしてもP.T.Kでしか、イライラがつのってしまうのである。電話でPower Labに状況を説明し、指示に従って返送したが、いつもマイナーなトラブルでのこと、いい加減嫌になってくるのだが、どうしてもこのキーボードを捨てたくないんだ。一度使っていただければ分かる、と思うのだが... 。
 夕刻から、文章のまとめをやって、その後ネットサーフィン。この間Blackbirdのことを言っていたが、どうも入手できそうになってきた。入手できた製品が動くとなれば、現時点ではキーボードをASCII配列のものにしなければならない。ハードディスクはIDE+SCSIの1GBのハードディスクがあるからこちらと換装したい。ま、ポシャルことはないと思うが、P.T.Kともども期待しよう。
 オートバイのプラグが死ぬ件については、SRのテストをしなければならない。一応の答は出ているが、高性能コイルに交換した場合はどうしてもそのコイルとエンジン自体の性能に左右される、というのがよく分かった次第だ。古いのはそれなりの策を講じて生き抜かせることが肝要なんだろうか。

2001年12月11日(火)はれ時々くもり
 金払いに追われる。一つひとつは少額なんだが、積み重なると恐ろしいほどの金額になってしまう。これは道理なんだが、ついついツケが溜まっていってしまう。そういえば、子どもの頃からお菓子をツケで買っていて、父から大目玉を食らったことがある。一度父に秀吉の「今日は1円、明日は2円、明後日は4円というふうに小遣いをくれ」といったところ、「ダメ」と言われた。結果がどうなるか、お分かりのことであろう。3年連続で給料が下がったから、よくよく調べると、本年のボーナスも昨年より10万ほど少ない。それゆえタダでさえ滞っている消費は、今後ますます計画性をもった消費に方向転換することになるのだろうな。消費は美徳は完全に過去の言葉だが、いつの時代でも通用するものが今後のトレンド商品になるのは言うまでもない。経済大国ながら貧乏人の多いニホンの人は、再びアメリカに追いつき追い越せ、になることは、おそらく無いであろう。
 職場のインターネットは完全にアウト。通信速度は我が家の288より遅い。そういった関係からNetscape 6.2.1を1時間半ほどでダウンロードしたが、残念なるかな、一部日本語環境に完全対応が出来ていない。特にBBSなどの返信はエラーが出る。数回確認したがダメであった。結局Nescape Communicator 4.7に戻した。決して損をしたわけではない。フォントなどは非常に綺麗になっているのだから、X.X.1のアップデートの成果であろう。
 一昨日辺り、夜間に音の速いオートバイが市内を駆けめぐったが、今日は寒い性かしら、全く音を聞かない。根性の無い奴らだ。いつも感じることだが、改造・改悪されたオートバイとか自動車がずいぶんと取りざたされる。まるでキカイが悪いように。しかし、全く同じ生産ラインから出てきたキカイなのに、片方はごく普通に、あるいはスポーティーにオーナーなりに手が入れられて快調だが、もう一方は改造・改悪されてしまっている。そちらが顕著になって、「悪の権化」みたいに言われる。同じオートバイを愛用する僕からすると、そうされたオートバイが可哀想でならない。
 冷静に考えれば分かるとおり、そのように手を下したのは人間ではないか。キカイは決してものは言わない。僕に権限があるのなら、追跡しまくってライダー、ドライバーの調査を行って、証拠を持って、そいつにオートバイを押して5kmほど歩かせてやりたい。自動車はフックにロープをかけて1kmほど引かせてやりたい。法律では処理出来ないお仕置きを与えたいところだ。
 そういえば、日曜日にT-140Vを走らせようとしていたとき、近所のH氏が「時代物でエンジンを時たま回さなければならないだろう?」と言ってきたので、「そんなことはありませんよ」と気軽に応えておいた。「時代物でいいね... 」と言いながらメイトで去っていった。氏はFXの1340に乗っていらっしゃるが、決して調子がいいとは言えない。走らせている時が少なすぎる。以前はW1-SAを持ってらっしたのに... 、FXも同じ運命をたどるのかもしれない。市内に一台あるホンダのNRにしても同様だ。立ちゴケして、塗り替えたら色調がわずかに異なって塗装屋にモンクを言ったらしい。一コケ数十万だから、安く上がったんだし、コケるような駐輪の仕方をしようとするな、というべきだ。限定で500万ほどしたNRだけど、今では記憶にすら無いのが現実だろう。パーツも少ないらしい。
 どうも、世知辛い世の中になってしまっているようで、わずか数百万で越年できずにポシャル店が市内でも出始めるのではないだろうか。天候とは別に経済は寒風が吹きすさんでいるのであろうか。

2001年12月14日(金)くもり時々みぞれ
 っかり冬の空模様になった。何ともはっきりしない、僕の一番嫌な天候だ。瀬戸内へ出ればこれがお天気。高知の太平洋側でも同様だろう。この辺りだけが海からの空気と山へ当たった空気とが混ざり合って雲を発生するのだろう。毎年、この天候に悩まされるのだが、今年はかなり遅れてきたようだ。
 本日は赤穂浪士の討ち入りの日。松山には縁のある寺があるそうだが、僕にとっては史実どおり、そんなに格好いいものではなかった、と思う。未明の夜陰に乗じて他人様の家に押し入るのだから。歌舞伎によっていい格好に仕向けられたのであろう。その印象の方が強いわけだな。旧暦だから今とはかなり違っていたのではないだろうか。
 久々にディスクマーケット(16日まで-南予文化会館で開催)へ行ってEP盤を主体にいい買い物が出来た。黛ジュン「乙女の祈り」のカバーバージョンを確かに聞いたことがあるのに思い出せないでいたが、昭和40年代のコーナーで山口百恵コンパクト盤を手にしたとき、妙な懐かしさを感じだ。そこに確かに「乙女の祈り」があった。そう、これだ。このディスクは家の失火で失ってしまった。今日まで戻らなかったんだ。年数にして20年目になる。未だに戻らないディスクがある。WHOハッピー・ジャックが7,000円だったが、これは止めにした。渚ゆう子ライブ盤は前回買い戻したのだが、最初のノイズがひどく、本日同じものを購入できた。今の若い方からみると「バ〜ッカみたい?」と思われるかもしれないが、そんなことはない。その証拠に20代の若者がソウルとかレゲエをさかんに漁っているのを目にすると、「これはこっちの方がいい、と思うよ」と思わず口を出しそうになってくる。それほどお節介を妬かないと大損コクことになるのだから。ま、出品店の大半を知っているので言わなかったが。
 極めつけは、帰宅したらP.T.Kの交換品が到着していた。アナログディスクで心は満ちている。PowerBookに手を出す前に、妻のつくる絶品の「キムチ鍋」で夕食を摂る。手前ミソながら、本当に彼女のつくる「キムチ鍋」は絶品だ。彼女も「これには自信があるんやけん」という。が、一昨年ぐらいになるかな、最初の頃は実験的に一日おきに試作品を食べさせられていた。キムチそのもので、できあがりの味が千差万別。それをある程度一定にするため、そのカバーリングに払った彼女も努力も大したものだ。今年の早春辺りになってようやく味が安定し完成の域に達したようだ。今日は寒かったが、夏に一度これを食べたことがあるが、これも絶品だ。不思議な感じがするが、噴き出る汗もものともせずに食べることが出来る。後のさっぱり感はこれまた素晴らしい。
 さ、P.T.Kのシリアルナンバーなどをチェックした後、注意して組み付け、早速タイプ。「フム〜、やはりいい。絶品だ」と改めて感じる。この日記もP.T.Kに変更した後のPowerBookでタイプしている。ストレスフリー、どんどんタイピングがはかどる。不思議なものだ。わずか数日間、純正英語版キーボードに変更していたのだが、使い心地からすると、格段にP.T.Kに軍配が上がる。好みも確かにあるが、キーストロークをはじめ、キーのリターンの仕方など、しっかりした動きはタイピングを確実にサポートする、と断言してもいい。うれしい限りである。

2001年12月15日()くもり
 い一日であった。朝は少々みぞれ気味だったし、久々に布団の中でゴゾゴゾしていた。奥方はそそくさと仕事に出かけている。何となく昨日の余韻が残っていて、残り物で朝食を摂る。キムチ鍋も熟成というか、なじんでいる部分があって、朝食に好適の一品に変身している。このまま飯を茶碗に3杯ほど行きそうになってきてしまう。昼食の件もあるし、この気温だから夕食は酒でそこそこになってしまうから、昼食に重きを置く必要があるのは言うまでもない。
 職場への団体の新聞を配りに出かける。数人がサービス残業をやっているようだったが、やり方自体からすると、光熱水費の方が余計に必要になってくるような仕事ぶりだから、とても効率がいい、とはいえない。僕が上司なら、いっしょに出てきてやっているところだが、そういった気分は毛頭ない、というのが管理職の今だろう。ずっと以前の航空会社、私鉄などが管理職対応で切り抜いていた「スト」を思い起こすまでもなく、今もし職員がやったとなると、宇和島市全体がマヒしてしまうことは言うまでもない。管理能力以上に管理職の幾人が一般職と同じ仕事を黙々とこなせるかどうか?、ここが今の市役所に求められているところかもしれない。そして、職員があまりにも市役所のために働いている、という間違った方向付けを一心に進んでいるようでならない。あくまで、僕たちの仕事は「市民の付託にいかに的確に応えることが出来るか」、に邁進する公共サービス機関のはずなのだから。
 午後から市内を散策する。こういったときに限ってカメラを持参していない。簡単は別にして、コンパクトなマニュアル一眼レフカメラがほしいところだ。かといっても、このカメラでも10万円を超えるわけだから、痛し痒しだ。結局、カメラとレンズの追っかけっこになってしまってその線引きが難しくなる。一家に一台の一眼レフなんて今の世の中には存在しないようだ。
 お城山に登る。何ともむなしい。賢明に石垣を出したところで、ここはこういった館の跡、といいながら、再び自然に帰っていく。できれば、ということはないが、クライミンググループにトレーニング方々晩秋の11月頃でも、石垣の整備を行わせてはどうだろうか。こういった行為は文化庁が許さないのだろうかな?。
 P.T.Kが快調に作業をサポートする。実にうれしい限り。サンティー・グリーン女史はまだPowerBookのマーケティングに関わっているのだろうか?。激しい業界だから、PowerBookの部門から異動しているかもしれない。僕がG4のPowerBookを使用しないのは、キーボード、パームレストの周囲が広く、妙に間延びしていることと、前のモデルでは発熱がひどいことからの理由による。ましてや、今のiBookはG4PowerBookよりもひどい。ディスプレーを開けたとき、L型のヒンジによって後退した位置にたたずむのは間延びしているようでならないのである。そういったことから、このクラムシェルのPowerBook G3を僕は手放したくないのである。特に2000年モデルはもう一台持っていてもいいように感じている。ま、僕としての今の入れ込みが強いだけかもしれないが。

2001年12月18日(火)はれ
 懣やるかたない日々が続く。昨日は大変寒い日であったが、本日は一夜明けてお昼前から小春日和(というのだろうか)穏やかな天気になった。仕事の関係上できれば明日も続いてほしい。
 「憤懣やるかたない」といいながら、どういった解決方法もない。強いて言うと、コツコツと一つずつ何やかややっていく以外にない。トライアンフ、SRでのプラグが死ぬ件をはじめ、一気に進められるものがさっぱりない。本当に根気のいる作業で、「考えを実行に移して結果を出す」の作業だ。これがオートバイにしても2台分をほぼ同時進行させているのだからなおさらだ。
 本日、別の業種だが、避けて通れない不当解雇の判決結果を得た。マスコミの報道で一部の方はご存知と思うが、結果はいいものであった。けれども職場復帰に関しては今後とも係争は続くのではないいだろうか。人事を含め人間関係は難しい。しかし、この判決で少しは肩の荷が下りた。
 先日P.T.Kの交換品を装着しているのだが、どことなく違和感がともなう。大半は職場のDOS/Vノートのキーボードのタッチに慣れてしまっていて、交換品と交換するまでの数日間であったが、純正のカチャカチャが大きい英語版キーボードを使用していたために起こった現象であって、PowerLabが言っているように文具としてのキーボードを考えると、今のMacの純正キーボードにはいいタッチのものがない、と言わざるを得ない。そ
 のことに加えてキー配列、キーストロークをはじめとしたキータッチんのフィーリング、それに慣れが大きく支配するから、僕のような状況ではP.T.Kといえども自分の感覚に近くなるには数週間を必要とするわけである。経験から言えば、左のシフトキー、右のリターンキーのトップが艶やかになってくる頃になるとなじみが出てくるわけである。今回の交換でも全くの新品交換、そこから始めるのだから、このことは顕著に現れるのである。そのうち、使い勝手など、意識をしなくなって、他人のPowerBook G3が全く使いづらいキーボードだ、と思われるようになる。不思議なことだ。

2001年12月19日(水)はれ
 事で宇和海へ午前中出向く。何とも胃の調子がおかしい。そういえば 25時間の体内時計の赴くままに進んでいるように感じてならない。アナログ時計を見れば治る、といいながら僕はトラベラー用の余計を見ていないので、そのとおりだ、と感じてしまう。
 ま、僕がそれ以上に心配するののは、トップ集団が「IT革命」といいながら、トップ集団の中でどれぐらいの方々がキーボードの操作をできるかどうか?相当な問題ではないか?と感じざるを得ない。
 夕刻、仕事の都合で葬儀に出席できないYさん宅へ出向く。
 一通りの所作を終わって、しばらく話をしていたが、炭の問題が今後出てくるのではないか、ということで話を打ち切り帰宅した。
 実は商売で使用する雑品目の炭が皆無になってしまうのである。葬儀の対象者がそれをつくり、それを販売していたのであるから、該当の商売人などは死活問題になってくるのである。ま、事なきを得てはいるが。
 ようやくプリンターヘッドが到着した。カラー印刷も少しは行ったが、カード類はグレースケールの方が好ましい。これからはグレースケールの印刷で年賀状を賄いたい、と思っている。

2001年12月20日(木)はれ
 ろそろ市内でもジリ貧の状況になっているところなどが感じられる。状況から無事に越年できるのだろうか?、と他人事ながら心配してしまう。
 僕などは個人的に何度となくこういった経験を積んではいるが、何とか生活だけは出来ている。ずっと昔、今までに後にも先にも一度だけ夜逃げの現場を目撃したことがあるが、その行為を目の当たりにすると、それは用意周到で「やる!」という、わずか1時間程度のことを綿密に計画立てて行わなければならない、というのが理解できた。人の目を気にするのはもちろん、当事者は普段の生活で何気ない状況を見せているのだから、その実体は大変なものだったんだろう、と想像できた。そういえば、数年前「まさかこの人が?」ということで逮捕されたバイク泥棒事件のN氏の件はどうなったろうか?。ひょんなことで今までの信用が一瞬にして失墜してしまう。本人はともかく、何も知らないお子さん方とその妻帯者などは、この街には決して帰れないのではないだろうか。
 昨日は真珠の品評会があった。5年目にして再開した、ということらしいが、素人の判断からすると、「賞」を出すという手前、真珠母貝の危機状態にあったときでも行っておくべき行事ではなかったのか、と思わざるを得ない。どこがダメでどこがいい、そういった品質競争の場でもあるのだから。生産量はそこそこでも、「宇和海産の真珠」としての品質イメージはまだまだダメ!と感じる。加工技術は衰退した。生産量のランクだけが尾を引いている。そこからの脱却をそろそろ計るべきだ。商品名から申し訳ないが、ドモホルンリンクルのCMで真珠業者の名前が出てくるように.、品質の面がまだまだ... 、と感じる 。
 本日、PowerBook G3に装着しているP.T.Kの修正を完了した。結果はすぐさま出せるものではないが、かなりの確率でいいものになるところまで追い込んだ。このキーボード、特に'00モデル用を慣れない者が装着すると陥りやすいものを検証した。本体のPowerBook G3がすでに生産中止になって数ヶ月が過ぎようとしているし、PowerBook 2400ほどの爆発的人気は継続しない。そのためにP.T.Kも規定生産品が完売、となればどうしようもないからである。何とかしなければならない、と言う思いからで行ったことだが、過去の修正をベースにした今回の修正には自信がある。僕のPTKの保障が切れる頃に報告したい。それまでは試用(?)期間だ。
 僕のようにPB G3のクラムシェルに入れ込みが大きい方が必ずいらっしゃるはずだ。特に最終の'00モデル、通称Pismoは現在のG4に対して世代が前になってはいるが、座布団といわれながらも優雅なスタイルで人気があるのではないか、と思われる。それ故の処置だし、純正の英語キーボードも入手が困難になりつつある。そういった中でのP.T.Kなので、このままPB G3を使用したい、とする僕はもう1台本体と、部品取りの1台を持っておくべきかもしれない。いわばファナティックな僕としての言い分だ。
 ようやく苦渋の一週間が過ぎるし、明日は12月市議会の最終日で、年末年始の賃金体系に少々影響が出るかもしれない重要な案件が通過するかどうか余談を許さない。僕の年代はいいかもしれないが、今の若い職員のこれからは非情なものがあまりに多いように感じるし、将来のことなど何処吹く風の感覚が当の本人達の考えだからだろうかしら、僕たちのねんっだいが心配するようなことを気にする様子もない。そういえば、今の20代の方々はアルバイトさえ禁止の中学高校時代しか経験していないから、若くして親が死んだ、など、大きな負の経験をカバーするために高校を辞めたり、夜間の定時制高校に編入したり、NHK学園高校のような通信制高校に変更して働きながら、生活の糧を得なければならないなどの大きい負の経験をしてでも、自らが社会との関わりをもつことなどが一切ない。
 もちろん、僕のように陸上競技の用具を購入するため、という目的でアルバイトをするなど、若い時代から一般社会との何らかの接点を持つ経験をしていないのだろう。これにはそう仕向けている愛媛の教育などへ批判を加えなければならない面も多いし、一般家庭においても親とかが近所づきあいをはじめとした、社会との関わりがあまりに希薄すぎる。
 と、タイピングして、P.T.Kの動作確認の後、キーボードのロックキーを半回転回してロックし、送信した。まだまだ夜は長い。明日は松山。激動の2001年が間もなく終わろうとしている。

2001年12月21日(金)雨後くもり
 後から職員団体用務で松山へ出張だ。もちろん年次有給休暇を取得してのこと。列車は結構混んでいる。僕の前にアングロサクソン系の巨漢男性が座った。僕は日本の列車規格を恨むほど、1.5倍の座席占有をされる方であった。松山近く「坊ちゃんスタジアム」が見えたとき、彼が振り返り、" N!,Is this a studium ?,...Baseball ?"ときたので" Oh yha,named Bocchan Studium,new one. Sub studium is bilding up beside."と応えると"Umm,so."と頷いた。別に英会話を習ったわけではないが、この程度はできる。いつの頃からか、僕の普段のしゃべり方は英語風のために、周りからえらい顰蹙をかう。「ダメ!、それは」と言う、こういった方法だ。
 無事に出張用務も終わり、帰りの列車は、先に座った僕の席の前に元助役が座った。「どこかで見たことのある人だ、まさか... 」と思っていたが、その人物であった。詳しくは述べないが、当時を振り返ると、No.2のポジションの人物の職務上の重要性が彼には分からなかったのではないか、と思わざるを得ない。どうしてもトップは顔としての立場があって、No.3は実務上のボス、No.2はトップと部下を取り持ち、なおかつ代表者の立場にある。こういった重要性が分からず、真のトップになろう、とした行為でダメになったのではないか、と感じた次第。顔を合わせたくないので、先にデッキへ出た。
 帰宅すると、行きの列車でのことをそのままフィードバックしたようなテレビ番組をNHK総合でやってた。思わず笑ってしまったが、アメリカの方がアシスタントだったが、彼の言う「喋って喋って喋りまくれ、そうすれば英語なんてチョロイもんだ」がえらく身にしみた。もちろん「英語で喋れ」なのだが、サッカー選手の川口氏がイギリスのチームでプレーして、最後に英語で喋ってたが、クイーンズイングリッシュなフィーリングだったんで、これまた思わず笑ってしまった。アメリカの方が言うと「こ〜のイギリスかぶれやろうが」というに決まってる。その上、もしイントネーションをBBC並にやると、結構やられるのだろうな、と想像してしまった。
 そういえば、出張用務で、八幡浜のバイク仲間に、「トライアンフには英語で話しかけるんですよ」と言うと、「そんな馬鹿な?」という顔をしたが、英語気分でないとばらすことが出来ないか所もある。当然工具はインチサイズなのだから。

2001年12月22日()くもり時々雨
 とうとがずっと続いてグッと一寝入りしてしまった。昨日までの仕事から何から様々な問題への自問自答と、出てきた結果に正当性が見受けられたために、問題解決から離れられた、という安堵感からか来たものかしら、自分ながらこれまで相当精神的にまいっていたのではないか、と感じてしまった。
 さ、本日はPowerBook 520cの入荷が確実になったことを朝のメールで知る。次も午前中だったが大阪在住の元宝塚スターの叔母から歳暮が届く。僕は一定同じものしか贈っていないが、それぞれに母から継続しての思いを込めてのこと、ま、受け取られ方が、少なくとも僕の送る天ぷらなんぞで、宇和島のことを感じ取っていただければ幸いだ。
 午後から水口君の葬儀に参列する。ご存知の方も多いと思うが、彼だけが最後の最後まで太平洋とともに今でも存在している。僕はカッコイイより「何言ってんだ」と言われることを覚悟で、太平洋とともに、と後から続く若人に常に「太平洋とともに、諸君とともに今でも僕は実習している」と言う気分で遺体が上がらなかった彼の立場を世界に知らしめたいし、そういった気分で多くの方々が認識していただきたい、と思うのである。
 僕の感覚を受け止めてくれたかのように、水口家のあいさつは淡々としたものだったんで、思わず拍手したくなった。僕もひょっこり彼が出てくるのではないか?、と感じたりもしているんだ。多くの方は否定するが... 。いくらかっこいいことを記してもいけない。行方不明でも一定期間が経過した後、死は死なのだから、ここは一つのけじめをつけなければならない。そういった意味合いでの葬儀だ、と僕は思うのである。
 折しも、今日は冬至だ。今からは日中の日の出の時間が今後長くなる。我が家は心ばかりの柚湯だ。「ゆず」は息子のひいきデュオだ。それより、南京カボチャはどうする?、と、あまりの寒さに行った酒道場の女将さんに聞くと、冷凍なら安いかもしれない、とのこと。ずいぶんと時代は変わったんだ。南京自体は処理しておけば冷蔵庫で保存可能、というなかなか保存性の強い野菜と見たが、いかがであろう。
 家庭でも柚湯は出来る。一風呂浴びて、柚で肌擦って、少々スベスベになって、風呂上がりの一杯で... 。などど、これくらいのことでも自問自答するのはいかがだろうか。僕のように齢50を越えたような方でないと、どうもピンと来ないことかもしれない。

2001年12月24日()はれ時々くもり
 昨日から奄美大島の近辺での不審船のニュースが続く。全くびっくりするような感覚をもっていた。ともかく、攻撃されたから打ち返した。この程度でけが人が出るのは仕事も大変だ、と思っていたが、夕刻から夜のニュースを見ると、いやはや、全く戦闘だ。ま、怪我をされた方々がよく助かった、と思えるほどだ。今後は船体強化の方法も用いないとならないのではないだろうか。専守防衛は自衛隊だが、今回のような感覚なら武器使用は陸上の警察官のような方法を採らざるを得ない。
 話は変わって、昨日からCD-Rにバックアップをとって、PowerBook G3のハードディスクをイニシャライズした。それから再インストールまで10時間程度を要した。なんともお粗末のようだが、さにあらず。CD-Rのライティングスピードを6倍でやると、どうもおかしいのである。そのために4倍速にして事なきを得たためだ。
 再インストールするとOS Xは動かない。理由は簡単だ。どうも不可視ファイルが実際に無くなっているのではないか、と思うのだが、これは後日再度試みることにして、OS 9.2は妙に速くなった感じがするし、心配していたバックライトの件もすっかりよくなっている。来年早々にでも、インターナルのハードディスクと、メモリーを購入しないと、今後来るであろうOS Xの波に抗しきれないように感じる。
 本当は明日なんだが、ペリカン便に連絡を取ったところ、PowerBook 520cが来ているという。バックアップを一時中止して、受け取りに南予通運へ出向く。その足で職場で開封し、中身を確認。システムは7.5.3。そのためハードディスクの容量は分からない。
 ともあれ、優雅なスタイルの本体を抱えて帰宅。バックアップを済ませて、分解する。力任せにやったところが数カ所見受けられるが、相対的に綺麗であった。手持ちのSCSIカード付き1GBのIDEハードディスクと交換し、メモリー取り付け部分などを掃除。フロッピードライブを湿式のクリーナーで掃除。おもむろにハードディスクをイニシャライズ。長いの何のって、結局再インストールするまで1時間程度かかってしまった。やはり、PB150とは構成は同じようなものの、CPUの40と30では根本の速度が違うようだ。
 いずれ、本編で記載をしなければならない。内蔵バッテリーはOKのようだが、メインバッテリーはダメかもしれない。キーボードはタイピングを遅くしてしまうほどの味の悪さ。
 それにしてもなかなかよろしい。このままの進歩で5300シリーズになっていれば、もっと売れたのかもしれない。僕にとってのすてきなパーソナルクリスマスプレゼントだった。

2001年12月26日(水)はれ時々くもり
 日は夜遅く、ちょっとしたことで息子と口論になって非常に気まずい思いをした。おまけに、口論する前がすてきな酒宴の席だったので、僕自身がハイになっていたせいでもある。僕の息子に対しての行為よりも、息子が僕に対して言った言葉の方が悪いから僕が怒ったんだ。
 一夜明けて、早朝からの用務があって、午前7時頃職場に到着。一仕事終えて、九島へ用務で出かける。冬場ということもあって、どことなく静かな感じがするが、数年前に比べると、かなり島全体の落ち込みが進んでいるように思った。僕らも昨日の公務員改革大綱の発表があって、少々これから締め上げられるのかな、と思った。僕の退職年齢に近くなる頃、一般化されることになるのではないだろうか、とも感じるが、いずれにせよ、周りのことなど、多くのものを気にしながらの仕事になるんだろう。したがって、住民の付託に応える「公共サービスの提供」は相当しづらいことになりそうだな。もちろん成績主義、能力主義になってしまうから、自分がペナルティー受けることを恐れて、上司に刃向かう奴も居なくなるのだろう。
 午前中で九島での用務を終えたが、身体が元に戻るまでの時間がすごく長かった。天候はまぁまぁだったんだけど、風が想像以上に冷たくて強い。モダンフォークミュージックのチリーウインドを思い出した。そういえば、ギブソンJ-160Eのギター弦も交換してやらないとならないな。
 昨年辺りから書き込みの出来きる月めくりのカレンダーでサービスしていただけるところが少なくなった。ダイソーの100円ショップに手頃なのがあるから、来年のものは久しぶりに有料のカレンダーにしようか。
 帰宅すると、息子の方から昨日の口論に対して、謝罪の言葉が出てきたから少し満足。
 明日は職場の大掃除。そして午後からは遊子での用務。夕刻からは組合の用務。またまた年賀状の宛名書きが遅れ、郵政の方々に迷惑をかけてしまうことになるわけか、嗚呼... 。

2001年12月30日()くもり
 うやくのことでMac OS X 10.1.2にすることができた。結局、新規に9.1から始めて、Classicの環境は9.2.2まで引き上げて、バックアップのものを入れ替えして作動するようになった次第だが、まるまる昨日の半日を要した。改めて快調さに気づく。少しずつのアップデートで対応されてきているが、なかなかいいものである。
 今日は、本年末最後の確認用務で午前中は仕事で終わった。仕事をしながら昨夜の「聖徳太子」のテレビドラマを思い出していた。どうも、日本流の民主主義っていう考え方はあの頃から出来上がったのではないだろうか。覇権争いの末、衆議一致の方法をとってはいるが、個人の威徳でもって成立しているのが大半だ。今でもそうだが、共同経営っていうのがなかなかうまく行かないのはそういったところから発展した結果ではないだろうか。
 一日中風の中、未明の雨、日が差すのに曇っているなど、本年一年の状況をよく表しているような天候に思った。午後からお寺へ行って位牌堂にお供え物上げて、帰りにお墓へしきびを上げて帰ってきた。普段ならいい天気の中、多くの檀家の方々がいらっしているんだが、これが少ない。もちろん、天候の件もあるが、商店街などを歩いていても、どうもそうではないようだ。宇和島に帰ろうにも帰れない、経済の事情があるのではないだろうか、と思われて致し方ないのだ。
 夕刻、確認の意味でPowerBook 520を少々さわってみた。キートップの綺麗な原因がよく分かった。理由は簡単、キーが打ちづらいため、外付けのキーボードを使用していたのだろう。日本語キーボードのままなら、キートップのシャフトが入る穴にWD-40を少量吹き付けてやるぐらいだ。しかし、材質上同じもの同士ではそのうちガタが来ることには間違いがない。これは5300シリーズでわずかによくなるのだけれど。PowerBook 150、Duoでもキーボードの違いによって使用感がまるで変わってしまう、こういった点でもPowerBookはハンディキャップがあったのだろうな。
 いよいよ今年も残るは1日か、ずいぶんと月日が過ぎるのが早いように感じる。

2001年12月31日(月)くもり後はれ
 てが終わった感じがした。といっても今の時点でだが、NTTの関係がアクセス関係を減らす、ってんで、あわててアップしようとしている。ま、僕はその手の電話は不携帯だが... 。ま、回避することに越したことは無かろう。
 さっきのさっきまで、PowerBook 190csにかかっていたが、結局ディスプレーには何にも表示されなかった。バッテリーも正常なんだ。そういった中で「不正に終了しました。どうしますか?」のダイアログが出ているシーンがアラート音から判断できるので作動しているのは間違いがないが、僕の手ではどうしようもない。現在のPowerBook G3を使用しているとずいぶんと進歩したものだ、と感じてならない。
 過去のものは何処まで行っても過去のものだ。その中で一条の光を発しているものが必ずあるはずだ。これを何とかしたい。そういった意味から僕は5300シリーズを使用していないが、最近考えるのは、どうもシリーズの中でダメな5300が多すぎるために、不当にダメ印が付けられているようでならない。僕のなんか最後は母国アメリカの衣装をまとって修理から帰ってきたのだから。また、YAHOOのオークションでも、いたずらにバラされて部品としてオークションにかけられているものも多いように感じる。
 そういった意味から、今回190csをさわったのを機に、来年は5300を検証してみようか。520も何とか復帰させてやらないとならないし、なかなか大変な努力が必要になるな。それでも、中古はものすごい廉価になってきている。WorkGroupeServer改造用にQuadra 950も何とか1台確保したいし、どうして古いものにばかりに気が向くのか?。理由は分からないが、自動車のBritish Macineという名前の雑誌の中で中山 蛙氏が「またTR-3のことですか」と言い、「いい車を買いたい、と思って全てを売ろうとしたけど、今はそういったことを超越した気分でドライビングしている」ということをおっしゃってたが、僕にしても同じようなことだ。
 だから、Quadraにしても、そのたたずまいなど、僕が大感銘を受けたもの、として愛用しているだけなのである。PowerBook G3にしても同様の感覚で、「これ!」と感じ入るところがあって2000年モデルを購入した次第だ。「G4のPowerBookにしたら?」とよく言われるが、'99のG3ではなく、'OOなのか、と同じなんだ。単純に熱問題だけだ。従ってG4でも今のモデルでよくなりつつある。しかし、あのキーボード周りの抜けた感じはキライなんだ。iBookにしても熱の問題、ヒンジの不細工さ、こういったところが嫌なんだ。
 もう一つ僕のクセで「ひょんなことで不当な評価を与えられたもの」を確認したい、という気分が多分にあって、こういったところが、こういった道に進ませるのであろうかな、とも思う。ま、今後のことだ。
 本年最後のランを行った。SRは実に快調になった。トライアンフはもう少しキャブをさわらないとならない。僕にとっては新しい年は新しい年として迎えるが、ホンの1日過ぎて新しい一日が始まるだけに過ぎない。どうも、感動に薄い1年であったのかもしれない。
 来年は51歳だ。日本の男性の平均寿命からすれば人生の終焉に向かって進んでいるのだろうけど、今もって楽しみの多い毎日を過ごしたいと思う。51歳からでもまだまだやることはたくさんある。生きているウチにやっとかなきゃ。死ぬ前に「あれがやりたかった」というには絶対に嫌だ。


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