2002. 1. 1〜 3.29までの日記

2002年 1月 1日(火)くもり一時雨
 夜明けていつものとおりの予定で進む。とりあえずは、あけましておめでとうございます。
 10時前から五社初詣サイクリング。外気が寒い。晴れ間は少々見えるが、厚いベールがすぐさま覆う。三島神社へ行く前からポロポロし始め、全てが終わった後、正午を過ぎてから一気に降り始めた。そういったことで、午後は何処にも行けなかった。
 サイクリングの後、恒例の一杯をやったもので少々酩酊。気分が治ったところでPowerBook 520のバラシに取りかかる。どうしてもバックアップの状態がおかしいのと、何か全体がギクシャクしているのが気になっていたからだ。外見からすると、ここでこういったことにはならない、といった状況だったので、分解した次第だ。
 確認しながらの作業だったが、案の定、合わせ目がおかしい。見ると、最初からキズのあったところが、かなりの大きさで無くなっていて、それをカバーするようにボディーの上側が覆い被さっていたわけだ。ボトム部分の一部割れとともに、どうしいようもない隙間となって完全にアッパーとフィットしない。が、その他の部分がスムースに合わさるから、前のオーナーが相当な勢いでぶつけたものだろう、と察した。Palm Pilotの時と同じだ。バーチャルなフリーマーケットはこういった点が確認できない。痛し痒しだ。後はコネクターのお接続ミス。これらを確実にする。これでOKとなった。バッテリーは完全にアウト。このバッテリーが高価だな。ま、冬場はPowerBook G3でもよかろう。
 何だかんだで一日が終わった。しかし、和霊神社でも感じたが、この人出の少なさはどうしたものだろうか。経済状況から帰省できない方々も多いのかもしれない。お盆の時期にまで至らないと、宇和島は人が多くならない。そういえば、昨日の大晦日でさえ、自動車の数の少なさにはびっくりした。大変な年を迎えようとするプロローグかもしれない。

2002年 1月 2日(水)くもり後一時雪
 ナ、ナント、外は雪ではないか。第一に朝からの強風にはブッたまげた。少しばかり風が止んだ、とくれば、次は晴れ間、その次は雨。そうこうするうちに午後の6時過ぎ辺りから雪だ。実は昨夜も雪があって、朝方は三間方面からの自動車はルーフに雪を乗せていた。僕にとっては数十年目に経験することで、平常になった、と感じているが、世間ではそうではないらしい。温暖化の反動とかでね... 。
 そういったことから、午前中に商店街なんぞをぶらつく。ここでも人出は少ない。ほんの数年前までは本当に店が開くのを待ちこがれたように人が出ていたはず、と僕は記憶しているのだが... 。
 ま、そういったところで、それ以降は家の中にいた。もちろん箱根駅伝のチェックも忘れていなかった。ともかく、法政の棄権は痛かったが、彼にしても齢24ぐらいだ。今後8年ほどは第一線で活躍できる。そういった中で、「あの時、監督に止めていただいたから」と、きっと思い出すことがあるはずだ。監督も辛いんだから。僕はそういった方向付けで解釈したい。
 PowerBook 100を動かすのだが、時としてACアダプターがおかしいときがあるのに、それに気付かないでいたりする。今日もそうであった。PowerBook 100と150で確認できた。が、他の機種でやると、こいつが生きている。不思議な世界だが、これが統一されるのは、やはりPowerBook 520からだ。インテリジェントバッテリーをばらす。これにNi-MHの単三を入れようって寸法だ。どうも、今回はDuoと違ってうまく行きそうである。
 Newton MP 130は何とかリセットというのをやって、電源関係がうまく進むようになった。そうそう、そういえば、このNewtonを使うためにも、バックアップのために、この辺の機種が必要なのである。
 初湯でゑびす湯へ出向き、夜は安い月桂冠のカップ清酒2杯でいい気分になっている。そうそう、NHK総合のテレビドラマはなかなかよかった。精神面、人間関係、そういった社会性はお隣の国に対して、我が国のそれは遠い過去の消し去られた、いい世界のように思う。そういえば、ここ数日間、例の口論の後、息子とよく口を開くようになった。

2002年 1月 5日()くもり
 のところ不覚にも昨日の仕事始めの日は大変緊張して朝を迎え、早朝ビラの配布から、年始のあいさつをこなして、たまたま古い友人が集まったため、酒道場で懇親会をやった。気分良く帰って、トップページの修正をやったような... 、そして軽い夕食を摂ったような... 、記憶が何ともおぼろげなもので、どうしようもない、そういった状況での今日の朝を迎えた。頭は痛くないのだが、やることはいっぱいあって、どれから手を付けていいか分からない。
 とりあえずは、先日来から気になっていたNewtonのeMate 300のバッテリーを再充電することを試みた。どうしてか?、というと、PowerBook 520cのインテリジェントバッテリーを分解したときに、センサー(サーミスタ)の配置に少々気になったものがあって、その追実験をeMate 300でやろう、と試みたわけだ。充電まではうまくいったが、はたして次の充電までにどの程度の時間が必要か、ここから記録を付けなければならない。何ともアナログ適なやり方だが、日常使用する状態での実験でないとダメだ、と僕は思っている。たとえば、アップグレードをしてCPUの測定をやったら速くなった、とスピード関係のソフトウェアで判断するのが一般的だ。しかし、それは単に測定、というだけのこと。実際の使用はもっと多岐に渡っているはずだから、僕は日常使っている状態で結果を出すのが鉄則、と思っている。そのために、このページに記載するとしても、早くて来月、と言うことになってしまう。PowerBook 520cにしてもまだまだ修正しなければならない点が多い。したがって、一定のところまでは結果が出てはいるが、アップできない状況なのである。
 小遣い最後の一踏ん張り(?)でPearl HarborのDVDを買ってきてPowerBook G3で楽しんだ。日本側のとらえ方には少々ぎこちなさはあるが、アメリカの方々が考えるあの日はあのような場面だったのだろう。今日は妻の誕生日でもあるし、彼女は透析関係の仕事なので、患者のシャントから抜けてのたうち回るチューブ、飛び散る血液にかまわず、血管を指で押さえることもあるらしいが、映画でも同じシーンを見ると、戦場に立った看護婦の苦労は大変だったろう。わずか日曜日の午前中から4時近くまでの間の出来事だったんだが、自分も攻撃されて命を落とすかもしれない。やはり、戦争そのものは嫌だな。
 DVDの仕上げもなかなかいいものになってきた。2枚組みで3,800円、サラウンドでなくても、PowerBookのステレオスピーカーで十分に楽しめる。このDVDを見ていると、少しばかり余裕を待たせた編集方式で、映画の休憩を挟むのと同じにリリースされる可能性が高いように感じた。本来のオーディオでもそろそろDVDでリリースされてもいいように感じてならないのだが、一向にその気配がない。CD1枚のために100万円クラスのCDプレーヤーを購入することがはたしていいのかどうか、僕には今でも疑問だ。

2002年 1月 6日()はれ
 やおや、「はれ」と記載するのは何日目だろうか。それほど待ちこがれた晴天である。早くも天気予報は明日夕刻から天候は悪化する、と言っている。せいぜい今日一日を楽しむこととした。
 思いあまって、というか、夜まで待つ必要はないから、午前中にアップロードを行った。本来は平日の深夜にでも行えばいいのだろうが、今回はそうも言っておられない。何しろ、年始の行事がこれからしばらく続くから、僕自身が落ち着いて作業に取りかかれない。僕のインターネット関係は、まさしくディジタルの世界でのアナログ部門のようなものだから。
 そうそう、何とも味気ない愛媛駅伝であったな。僕もこの大会に携わっていた頃、徹底的に走路違反など訴えてやったけど、今でもいい加減なものだ。通告など「ゼッケン」など言っている始末。もう、ナンバーカードが正確な呼び方だ。あれだけ各ランナーの間が開いたんじゃ、レースなんか成立しない、と僕は判断する。トップが関門通過後10分ぐらいで、どんどん一斉スタートしなきゃ。確かに反論は食らう。が、ちょいと考えていただきたいのは、これは「駅伝競走」だ。市民駅伝のごときではない。弱いチームは出場しなくていい。それほどの権威を持たせなきゃ伝統ある「駅伝競走大会」とは言えないのではあるまいか。底辺拡大などは、この大会には必要ない。純然たる「一般」、「クラブ」、「高校」の三部門での愛媛県一を争う競技なんだから。
 全てがゴールインした後、トライアンフを走らせる。メインジェットを#240に上げた。考えるところ、どうもキャブレター自体がツーストローク用に近い仕様だから、チョーク引いてエンジンがスタートすると、チョークを即座に戻して、ストールしない範囲(1500rpmぐらい)で数分間回してやらないとならない。そして、ジワリとスロットルを開けたときに回転が着いてくるようになればしめたものだ。そこから10分程度エンジンを回して急激なプレップにも着いてくればOKとなる。やはり10分以上必要だ。
 走らせてみて、冬場はこの辺までリクヮイアーするのだな、とアマルキャブの偉大さに敬服する。が、アマルには戻らない。それ以上に、このミクニは乗りやすいし、パワーの出方がスムースだからだ。少々ライディングポジションに不満が出始めた。もう少し高いハンドルバーに変更した方がいいような気がする。こういったところは時代の流れだろうか。このトライアンフを購入した当時では、アップハンドルっていうのは邪道だったように記憶している。

2001年 1月 8日(火)くもり
 うも調子が思わしくなくって、PowerBook G3の修理見積もりを依頼した。どういった原因か?、というと定かでないのだが、キーの認識をしないものが出始めたからだ。どう頑張ってみても、僕の力ではどうすることもできない。おそらくロジックボード交換となれば10万円を超えるのではないか、と考えられる。最悪は使いたくないiBookになるのではないか、と想像する。
 しかし、本日のAppleサイトを見ていると、iBookはどうやら最後のG3のCPUマシンになるのではないか、僕の持っているG3のPowerBookと比べても遜色ない。金額的にも、ま、許せる範囲でDVD-ROM付きが購入できる。もちろん英語のキーボードとメモリーを256MBにしてだ。はっきり言って今回は即金購入。いたしかたないことだ。
 しかし、この日記をどうやって記載しているか?。実はDuo 2300cでやっている。個人レベルでなら気にする必要も無い程度の動作を今でもしている。問題はミニドックを使用して職場でネットワークが組めない。これだけがだめな点である。
 いずれにしても見積もり次第だが、最悪の金額提示になると、そのまま引き上げて、外部モニターと外部接続キーボードで使用したい、とも考えている。
 やりようによっては、このDuoでもずいぶんとイケルことに気づく。ここまで古マックを使うことができることに感謝するとともに、このままでずっと行ければ、苦にする必要もないな、などとアマイ考えになる自分がおかしい。
 ということで、製品と金額面とで、iBook購入に向けてなかなか勝負にならない可能性もあるけれど、しばしはバックアップを取っていないままで修理見積もり依頼したので、万一の場合は万事休す、ということになる。少なくとも12月現在でのバックアップは取っているので、不幸中の幸い、何とか努力してみたい。
 まさしく、今の空模様と同じだ。本当に嫌になってくる。

2001年 1月 9日(水)くもり時々はれ
 僕は若い職員方からバカにされるなどのことは、あえて水に流す、ということにしているが、関係部署がやる明日の「えひめ丸合同慰霊祭」の件で少々疑問があって記載することとした。
 そもそも、どこの主催か今もってはっきりしない。市広報ででも、どういった方向で式をとりはからう、というものは出ていない。口コミなどでしか対処のしようがない。僕も東奔西走したのは事実だし、職場で知り得た情報は2002年 1月 4日の仕事始めの日であった。しかも文章での。
 現に僕もステファニーの女将さんから数日前に「どんなんでしょうね?」と言われるまでは、ついぞ気にもしていなかった。愛媛県が取り仕切るにせよ、宇和島市が取り仕切るにせよ、あくまで想像だが、明日の合同慰霊祭は「お祭り騒ぎ」になりかねない要素を十分に含んでいる、ということを多くの方々に知っておいていただきたいんだ。
 僕自身は、この件に対して小誌www/Gridででも多くを記載しなかった。それは、家族を亡くされた方の気分を僕がよく知っているからだ。「親より先に逝く不幸をお許しください」が多くの方々に理解されていない。ここを僕は強くアピールしたいんだ。
 したがって、合同慰霊祭ででも、「偉い人」の式典は午前中にさっさと済ましなさい。真の慰霊祭は、その後の一般の方々によって取り仕切られるのですよ、ということを重視したいんだ。午後一発目の慰霊祭は厳かにやっていただければいい。その後は一般市民の献花での慰霊祭だ。このときに、県知事、市長が居てくれることを願うものの一人の考えである。
 これがないがしろにされるようなら、「宇和島ってどの島ですか?」に等しい。そうなる前にもっともっと宇和島を負ではなく陽の当たる面でアピールしたいものだ。

2002年 1月10日(木)はれ
 い天候が戻ってきた。日中は晴天であった。その中、昨日記載した「えひめ丸」の合同慰霊祭が開催されたが、ま、テレビ放映のとおりである。あの日から間もなく1年が経過しようとしているわけだ。その間、何があったのか、これからどうなるのか、今日で一区切りは着くであろうが、難題はまだまだ継続している。
 真面目な意味で、商店街は本日定休日だ。もちろん、昨日記載したように、午後3時以降、慰霊祭に主催者は居なかったのだろう、と思う。「公務の都合で... 」は常套手段だ。僕はこんなのはキャンセルしちまえっていうの。いくら僕らが押した市長ででも知事ででも、本日は真の主催のトップとして本慰霊祭の席に居てほしい、というのが偽らざるところだ。
 僕の想像からすると、次期「えひめ丸」も沈没したものと同等だから、必ず一撃の下に沈没するだろう。実習船なら、どうしてキャビン中心に設計するのだろう?。僕なら漁の実習を目的として船室は実際の漁船の形態を採っておくべきであろう、と考えるのだ。そんなことは一切論議されない。おまけに、「総員退船」を宣した船長は何ら間違いはしていないし、死亡した方々には申し訳ないが、実習生全員が泳げたのであろうか、という疑問も残るのが事故自体に対する僕の偽らざる感覚である。
 したがって、今回の合同慰霊祭で、亡くなられた方々、行方不明の方の葬儀は終わった、とすべきとして、今後の実習のあり方、水産高校生の募集のあり方にも考えを回さねばならないのではないだろうか、と考えるのだ。
 あまりに、事故の大きさ故に、事故後の実習のあり方に心血が十分に注がれているかどうか、船の設計方針からして、僕個人としては納得がいかない。
 合同慰霊祭を迎える市民自体にも問題がなきにしもあらずだ。どうしてアーケードに垂れ幕を出さないのだろうか。商店街繁栄会で1万円ほど出費をすればいい。内親王が誕生したときでさえ、松山の商店街とは月とすっぽん程の違いがあったのを僕は知っている。いいわけは「今日は公休日だから」だろうか。
 ま、こういった一日の状況だ。内容そのものの合同慰霊祭がどういったものであったのか、僕は多くは述べないまでも、粗方は理解できるような気がする。
 さ、暗いことはこのくらいにして、僕として気がかりはPowerBook G3の問題だ。Duoだと、どうもうまくいかない。主にキーボードの操作だが、何とも気分が良くないのである。周り、特に同僚のM君からは盛んに「iBookをお買い求めになったら?! 」とアプローチをかけてくる。何とも気分が重い。こういったときにいいキカイなのだけど、巷にあふれるほどにはなっていないし、マザーボードをはじめ、バルク品に近い形でパーツが出回っていないなど、直接Appleのサービスセンター経由になってしまう。対応は迅速だが、保証期間を過ぎたものの金額は空恐ろしいものがあるからである。
 それ以上につい先日まで、家庭で職場で使っていたものが突如として無くなるのだから、憤懣やるかたない言いようのない感覚なのである。地方のMacユーザーは何かにつけてこういった経験をするものだな〜。
 結局、電話で結果の連絡が入るにしても明後日以後ということになる。しかし1週間は長いものに感じてしまうな。
 かといって、この文章はDuo 2300cでしかタイプのしようがないのである。

2002年 1月13日()くもり後はれ
  日時点でDuo 2300cを使える状態にした。なかなかのものがある。僕自身としては、先走って申し訳ないが、Duoの方が使いやすいのは言うまでもない。しかし、昨今のアプリケーションの本体の対応がDuoでは少々難しい、というのが本音である。ま、Ethernetが使えればモンクはない。しかし、Newerのが入手できればこのことは解決できるが、UltraDocを見つけることができるかどうか、ここが問題となる。
  南予マラソンは、こんなんかな〜、と思うことしきり。昔の僕の立場なら、今なんかラクチンそのものである。信じられないぐらいだ。何度も言うがこのレースを有料化して、商品をもっといいものにすると、参加者も増えるのではないか。今のままで行うのならゼニは市の負担で十分だ。が、レースとしての意識は無い。これを数年がかりで、レースとしての位置づけを十分にやっていただくのなら、参加料は取るべきだ。走って結果を出したい奴はそれでも大会に参加する。これが道理だ。もしなければ、この大会を中止すればいいのだ。簡単なことだ。どこかで「伝統ある大会」などというのなら、何が伝統かを十分に考えていただいたらいい。きっと分かるはずだから。
  次は成人式だ。これもつまらなくなった。こんなことなら、お盆の一日をとって、もっと楽しい、式典に出て良かったな、という状況に変更すべきだ。華美な服装は必要ない。今の時期にやるからダメなんだ。桃井香さんのように着物が身につけられるような方はほとんど居ないのだから。数時間の式典に数万円もかけて何になる。真夏にやれば、お盆と言うこともあって、もっと若い方々は帰省してくるはずだからだ。
 それにしても女子駅伝でもそうだったが、最近の若い女性達はどうしてあんなに力一杯がんばれるのだろうか。利家と松ではないが、女によってこの世が動かされているのではないだろうか。
  夕刻からトライアンフの配線整理を行った。フロントウインカーの配線がどうしようもなくなって止めたが、また考えなくてはならない。おかしいのはバッテリーではないようだ。

2002年 1月15日(火)くもり後時々雨
 くも1月が半分過ぎた。本来なら今日が成人の日で、小正月、松の取れるとき、と日本流の季節がうまくフィットしていたのだが、宇和島では成人式は13日の日曜日に終わってしまっているし、週明けの14日に松を丸之内の和霊神社で燃やしている。何とも季節感が無くなって来始めているようでならない。
 僕は出勤前に松飾りを取って燃やしてはみたが、天気と同じように、何ともすっきりしない。PowerBook G3の不調と合わせて、eMateのバッテリーが少々おかしくなっているし、センサーそのものががイカレタのかもしれない。ま、大きく使用しているものではないので、このままの状態でバッテリー交換などをして確認したい。
 考えようによってはNi-Cdのバッテリーの方が好ましいのかもしれない。現在だと700mAhのものがほとんだだし、ラジコン関係でもNi-MHよりNi-Cdのバッテリーの方が使用頻度が高いようだ。小誌の記事中、Ni-Cdは使わない、と言ったのは事実だが、Ni-Cdも700になっているし、Ni-MHは1700mAhの世界になっている。当時のeMateのバッテリーは1100ぐらいで、東芝の1200mAhが好適までは分かっている。バッテリー状況は理解できるが、どういったセンサーが使用されているのかは分からない。そういった理由で、今回はNi-Cdもテストしてみようか、と考えた次第だ。その道のツウによると、Ni-Cdでも大丈夫らしい。問題はメモリー効果だろうけど、Newton関係はインジケーターがあるし、この点は大丈夫であろう。バッテリー自体だと、Ni-MHよりNi-Cdの方が丈夫かもしれない。
 そうこうするうちに、BNNがポシャッた、という知らせが入った。市内中の書店を探してMAC LIFEの2002年 1月号を探したが、もはや遅かった。次号は出ない、ということだ。そういった悲しい、というか、少々ミスすれば命取りにならない、こういった現実を見せられた次第だ。僕の愛読書のMac Fanでさえ、一時期ダメになった、と思われたときもあったし、現に、前号、今号の書籍の厚さを見れば、内容は相当厳しい、というものは理解できる。けれども、数は少ない、といえどもMacのユーザーは日本国内に多いはずだ。MAC LIFEの読者も取り込む、という考えではなく、じっくりと同行を見定めた上での誌面づくりをお願いしたい、と強く感じた次第である。

2002年 1月17日(木)くもり後
 日重苦しい日々を過ごしている。PowerBook G3が手元から離れて1週間以上経過したが、結果の報告が一切無い。ともかく、iMacなど新製品関係でサービスセンターそのものが多忙なのかもしれないが、プロにゆだねた手前、待つ以外に手はないのであろう。
 昨日は何というか、全く不思議な天候で、暖かいを通り越して「暑い」感じで仕事を続けていた。幸い湿気があってよかったが、このまま乾燥して高温での職場は階上になるほど苦しくなってくる。うちの階は暖房を止め窓まで開けていたが、ほかのところは、こんなに高温にもかかわらず、暖房を止めないし、何とも不思議な職場環境だな、と思った。
 一夜明けての外はどんより気味。しかし、気温が一気に下がらない、という不思議な現象を呈していた。そういえば、今日は阪神淡路大震災から7年目になる。時は遡るが、アメリカ西海岸での大地震、湾岸戦争の勃発日、という1月17日である。
 こういった周期などの考え方から「ノストラダムスの大予言」など、20世紀末に騒がれたことに該当し始めるのではないだろうか。すでに、日本経済は破綻寸前のように感じられるし、少しずつ日本が落ちぶれていく状況になっていくのであろうか。というよりは、いい奴は徹底して「いい」し、悪い奴は徹底して「悪い」の二極になって、「ごく普通の」状態が全くない日本になってしまうような感じがしてならない。こういった中での構造改革とやらを実施しようとしている日本政府は「何考えてんだろう?」と思うところも一つにはある。が反対する側にも強力に、が乏しいので、どうしようもない、というのが、ほぼ一般の日本人民の考え方であろう。
 ま、とにかくDuoと336のモデムでは、プロバイダ側の288の関係もあろうが、あまりに遅すぎる。特に時間帯などで込み合っているときなどは悶絶状態になってしまうのである。
 たかがPowerBook G3が手元に無い、というだけで日々の生活のリズムが狂ってしまう。キカイに操られている、と言いたくはないが、愛用品が消える、修理結果が出ない、こんな悶々状態が一体いつまで続くのやら。
 明後日の高知への職場一泊旅行でのんびりしたい。

2002年 1月21日(月)くもり一時雨
 日午後からの雨も一度は上がったが、この辺特有の天候で、決して青空が広がるということはない。明日は雪模様、寒い一日になりそうだ。陽が落ちてからは風も強くなってきた。
  一夜明け、高知へ行っていた2日間は何だったんだろうか、盛んに考えている。疲れにいっただけではなかったのか?、とも感じる。もちろん、羽根をのばすことはできたが、少々温泉成分におかしい気分にさせられた面が無きにしもあらずだ。一つ得たことは「塩湯では必ず上がる前のかけ湯をしたほうがいい」ということであった。帰宅しては、朝湯を楽しんでいたためか、夜、自宅のフロで石鹸の泡が立たないの何のってなかった。
  職場にいつもの時間に出かけて何やかややっていると、自分自身でおかしいような感覚になってくる。もう、以前のようにことが運ばなくなってしまっている、ということであろうか。もちろん、僕自身が僕自身のためにやっていることは別なのだが、仕事の関係では今までのように、ことが運ばなくなりつつあるようだ。
  かといって、先頭に立って何かをやる、ということも組織上できない。そのことが分かっていながら、何とかアイディアを出せ、そして実践せよ!、と気軽に命じられるからつらい。予算の裏付けなんぞ全くない。「ボランティア精神で!」で、と気軽に言ってくれるから、またまた困り果ててしまう。やらせる方の自分が「やりきったゾ!」、という満足感も味わえないような「ただ働き」そのものをボランティア、というここら辺のトップ集団の頭の切り替えの方が先、と僕は確信している。

2002年 1月27日()くもり後時々晴れ
 のね、久しぶりに更新する。実際はほとんど毎日のように原稿では更新できていた。どうしてできないか?、理由はNetscapeとのマッチングがDuo2300cではものすごく悪いのである。Jeditで文章作って、Netscapeで変換する、これがうまくいかないのである。そのために、一気にやろうとすると泣きを見てしまう。こういったことで更新できていない。今日でも十数分の時間が必要だった。
 はっきり言って、こういったつまらないことは23日の八甲田山雪中行軍の悲劇から100年目の日から始まる。この日はこういった悲劇の多かった一日のようであった。それに対応して僕のDVDのことを記載したんだ。が、どうもうまくいかない。で、深夜近くになって、や〜めた、になってしまった。
 僕はこの一件には完全版LDを持っているが、「本日の一部始終を子々孫々に漏らしてはならない... 」という下りが別編集になっている。が、これとてもない短縮版のVCRとは違って、LDでは一定クリアーできている。さ、今回のDVDではどうなんだろう?、と思って記載していた。が、ボツ。
 今日はSRを出して宇和のT君宅へ出向いた。なかなかいい仕上がりになっている。夕刻から考えていたのは、最終(年齢)で僕がバイクに乗らなくなるまで傍らにあるバイクをそろそろ考えないとならない時期にさしかかった、というのが妙に新鮮に感じ始めた次第だ。
 天候がおかしいのはもとより、職場の人事関係も大変な状況になってきている。多くは申し述べられないが、同じ時期に職について嘱託という身分故、たとえ10年間勤めたとはいえ、片方は辞令の再発行はない、と上司から告げられたら、その人は路頭に迷う。しかも本年に入ってからその通知をするなど、卑劣きわまりない。多くの方はどういった理由で?、と問うところだろうが、それさえできない仕組みに持っていかれている。つらい立場に追いやられて、辞職の道を選ばざるを得ない。そういった方々をどうすれば救うことができるか、民主的な我々の職場にあっても、こういった問題が出ているんだ。
 公務員敵視で親方日の丸の宇和島の企業などではどういった処置が採られているのか、保守王国の愛媛南予の地に働く多くの勤労者はこういった状況にある、ということを多くの方々に知っていただきたい。時給にして400円代ででもいいから、食うために、というのが現実である。こういった不合理が市のトップに伝わらない、というのが一番つらいところなんだ。だれがストップかましているんだろうか?。
 PowerBook G3も一向に修理から帰ってこない。留守居役はDuo2300cとPOwerBook 150だ。こいつらに現在の日常業務をやらせるのははなはだ忍びない。ばかげたことだが、もう一台購入、ということも真剣に考えないとならない、十数万の出費が避けられない。つらい世の中だ。

2002年 1月29日(火)くもり時々雪
 はね、そんなに職場の人事に対しては気にしていない。ところが、嘱託職員の問題で気を回していたところ、それを大いに上回ることが6時のニュースなどで報道された。
 僕はノー天気のようなところもあるが、ことのケリはできるだけ付けたい、と思っている。今回の一件より一つ前のことは弁護も推進もできなかった。全く密室でのこと、それは今回の嘱託職員の解雇の件と全く同じだ。
 が、6時のニューススクープ、肉骨粉混じりの漁業飼料消却に対しては行政として徹底して糾明を行っていただきたい。焼却処分はまだいい。しかし、焼却処分前の状況に我々を置いていただきたい。つまり、よくない因子が入った魚を胃袋に入れたかもしれない、ということに尽きるからである。
 そこには危険な肉骨粉混じりの餌を食わされたハマチなどの養殖魚を我々市民も胃袋の中に納めているかもしれない。僕はここが肝心要のことなんだけれど、どうしても、「肉骨粉が危険」というところから始まる事件、というところに多くの視点が行かないのが残念な点である。
 極端な例だが、狂牛病が(表面に)発生するまでに数十年の歳月がかかる。で、よくいわれる発病40年、そのときの日本で狂牛病が出たときに、「あのときは養殖魚を食べてましてな」と来たときが怖いのである。そのときの潜伏状況検査がどういった経緯を踏むか、はなはだ疑問なのである。
 いつもの例なら、ここは2/3は不問に付されるだろう。僕は今の立場であっても、ここはしっかりといついつどこの処分でこの程度の漁業飼料を処分しました、を出していただきたいのである。この程度の公の検査公表はマスコミも配慮するはずだ。
 これまでの宇和島市のこういった負の一件は多くが不問に付された。当事者の多くは他界している。これを踏襲しようとしたのでは今回の一件には全くフィットしないのだから、市長と担当部署課係一丸となって対処しなくてはならない。そのお膳立てすら今の担当課ではできていないではないか、これが宇和島市の実体だ。
 明日でもいい、えひめ丸沈没事故に対処したときのような明確な対応を早急に採らなければならない。
 こういって、傍観しているのは悪いが、当事者が当の事件に関与していないとするのは誰の目からもおかしいことは明白だ。それゆえ、この件に対しては事実は事実として公表し、消却以前のことも明白にしなければならない。 

2002年 1月30日(水)くもり時々はれ
 間というのはおかしいもので、朝は予感めいたことが浮かんできて、Duoを持たずに出勤しようとした。というのも、PowerBook G3が戻ってきそうに感じたからだ。しかし、思いとどまってDuoは持参したが... 。
 外は雪こそ降っていないが、鬼ヶ城は雪景色。戸外はみぞれ混じりの翌日という感じで、冷たいし、空気が乾いている。職場の入り口の梅がほころびかけている。こういったときに思い出すのは光満(みつま)の梅林のことだ。もう20年ほど前に妻と原付で行ったのが最後だ。ずっと昔には寒中ではあるが、梅を愛でながら一杯やる、ということをやっていたし、3学期の遠足ではよく行ったところでもある。今はどうなっているだろうか。
 今日もとうとうだめか...  、と思っていたが、午後3時過ぎにMt.Mouthのマスターが「お待たせしました」、といった状況で修理完了のPowerBook G3を持ってきてくれた。23日目の対面に思わず顔がほころんだ。早速テスト。言ってはおかしいが今回の純正英語キーボードはP.T.Kよりもタイピングの気分がいい。ガチャガチャ感がない。ベースも強くなっているのかしら、deleteキーなどの沈み込みが無い。改めてこのことは記載をしたい。
 明日から2日間はまたしても東京出張だ。そういった意味も含めて、先ほどまで完了したPBでDVDを楽しんでいた。明日は相当に早起きしないとならない。それでは土曜日辺りにまた。

2002年 2月 3日()くもり
 月31日と2月1日は大変な2日であった。何のために東京へ出張したのか分からない。1月30日の日記で土曜日にでも、と言ってはいたが、頭が言うことを聞かない。やろうとすることと実際が全くフィットしない。妙なときに目が覚めたり、実際のところおかしい気分になってしまうのである。急変する生活に追いついていけない年代になって来始めたのかもしれない。
 本日も午前9時近くに起きて、そのままMacに向かって、何とかホームページのアップに向けて頑張る。結局4時近くになってしまった。SRを出したはいいが、デジカメを持ってどうやって一人でキックシーンを撮影するのか、を真剣に考えて、無理と判断した。結局ストレートな方法を採用する意外にないのか、つまり三脚を立てて、カメラをセットして自作自演をやる。プリントされた写真をデジカメで撮影、そして... 。
 職場のスキャナよりこの方が速いのだ。結構写真のコピーはスキャナよりいい状態で仕上がる。これは近々アップする「楽しみつれづれ」に記載して、どういった方法がいいか、となれば蘊蓄関係で「とっておき」に記載しなければならない。記載しているSRのキックなんぞはつれづれだろうが、キック自体の方法、そして写真はオートバイのカテゴリーになる。不思議だろうけど、キックの仕方を文章読んで間違ってた、と気付いたら、それだけで十分だ。そういった気分でのつれづれなんだ。と、ここで予告編を出してしまった。
 明日からまた仕事、と考えるとゾッとする。でも、その日になると普通に感じるのだけれど、不思議なものだな。

2002年 2月 4日(月)くもり時々はれ
 間って恐ろしいもんだ。昨夜はNHKテレビのアーカイブスを見ていて眠いはずなんだが、定刻にむっくりと起きあがっている。たるんだ身体を見ると少々ゲンナリ。最近力がみなぎらない。やるぞ!っという気分がないんだな。仕方がないか。が、東京の2日間が、ここ宇和島ではホンの2時間程度でしかない感覚が支配するのである。それだけ、街自体が活気がないんだ。誰の責任でもないさ。妙に職場の仲間がカリカリしてきているようで少々ゲンナリだ。誰も宇和島市のために働いてんじゃない。市民の付託に応じる仕事だからな。ただ残念なのは、付託ではなく、本来は市民がやるべきところを、我々に押しつけているようなところが見受けられる。ここに意見をすると、えらいお叱りを受ける。本末転倒だよな。
 PowerBookが帰ってから俄然調子づいちゃって、少しだけ気分が晴れる。高速ワープロ、エディターの類でも、昔の機種で作動するものばかりで、おいそれと今のマシンにフィットさせるのはなかなか困難だ。案外とそういったOSとソフトウェアとマシンの微妙な感覚での作業を楽しむことが昔は出来た。昔といっても5〜6年前でのことだ。このスピードにかろうじて着いて行ってるのが僕なんだろうかな。
 心配していたけれど、ようやくwww/Gridをアップした。すでに35号、3年の歳月が流れている。もはやiBookでもG4なのに、未だにG3のマシンを愛用している。こういった入れ込みの強さがどうやら最近見直されて来始めたように感じる。な〜に心配することはないさ。結構スイスイ行けるんだから... 。と自分自身を慰めてる。ここ最近、自分の時間が数時間しかつくれないからだろうかな。

2002年 2月 5日(火)くもり一時雨
 ッ、昨日の日記に5日と記している。申し訳ない、内容は沿っているのだが、日付は違ってた、でご理解いただきたい。
 本日のメインイヴェント... 、はボクシングの世界タイトルマッチ戦だ。誰の目に見てもチャンピオンの勝利だった、と思う。挑戦者は手数は多いが、徹底した「ここぞ!」といったところが全くない。むしろチャンピオンの伸びた両腕から出るパンチに圧倒され続けらせられた。で、結果は「ドロー」。僕はこれをよしとしない。諸外国での勝負だったら、こういったことにはなっていない。批判は買うが「挑戦者は早いラウンドでの問題は一切でない」とした日本でのジャッジは少々公平さにかけるのではないか、と考えるのである。番組を見ながら、昔の堀口、石松、輪島などは最近の具志堅のように本当に強かったんだ、と思わざるを得ない。
 なにかスポーツ番組における日本のジャーナリスト(アンカーも含む)達は、まるでソルトレークのその場にいて... 、の記事しか書かない。実際はもっと違う面、強いて言えば、「長野と比べての徹底比較」などの番組を創るはずなんだが。

2002年 2月 7日(木)くもり後はれ
 全にグロッキー、というか、身体が言うことを聞かない。自分でも嫌になるほど身体が動かない。自暴自棄、といった類のものだろう、と今日になって感じる。回復には少々時が必要だ。
 書店で'60、'70、'80の纏め雑誌を見た。僕の脳裏の中にある'60、'70の雑誌は僕の持っているものと全く同じものであった。何か狐に摘まれたようで、すべからく購入しよう、と考えたが止めにした。理由は簡単だ。80年代が息子の生まれたときの幕開けだし、僕が28歳の時からの10年、この5年後にはバブルが崩壊する。そういったあまりにもスピードの速かった10年間を60年、70年という10年ごとのタームと同一の編集内容で纏めるのはナンセンス、と思う。
 僕の入れ込みが強いとはいえ、60年代の重厚さを一気に纏め上げた調子で、80年代を纏めるのは少々無理があるのだ。そのせいかしら、'60が一番売れている。今の若い20代の方は'70年代の方がフィットしているのかな?と思ったが、どうやらそうではないらしい。ま、言いようのないノスタルジックとも違う、何かこういいんだな、この60年代は。やはり、僕が感じるような感覚を今の若い人たちも持ち続けているのではないだろうか。
 1961年といえば、僕が10歳だ。これから東京オリンピックなどへ向けて、岸 信介の跡を継いだ池田勇人の「所得倍増計画」なるものが進展していくことになる。一気に日本が全力疾走へ向けてのリフトを開始しようとしていた時代だ。今とは比べものにならないアナログの世界だが、いわゆる量がそのまま見えたいい時代であったように思う。ディジタルの今からはリアルタイムで生きてきた者しか理解できない世界だろう。

2002年 2月 9日(金)はれ
 当に何気なくHard offへ立ち寄ったんだ。もちろん会議の途中の10分間だけ。でも、幻影ってことあるんだよな。ジャンクのコーナーへ立ち寄るとPowewrBook 500 シリーズがあるではないか。見かけた製品はどことなく気品が漂っている。不思議な感覚になったのはいうまでもない。
 もしかして?、という気分はその時確かに持っていた。が、パッケージを分解することが出来ない。したがって、バッテリーのチェックだけに止めた。な、何と左のベイにもバッテリーが刺さっている。この間まで完動のものであったことは疑いがない。
 懐には十分すぎる金がある(嘘)。こういって相手が歩み寄ってくる場合は絶対に「買い」である。そういえばPlusの時も同様であった。あの時はソフマップの中古販売でもっと綺麗なPlusと比べて少々黄ばんだ「こいつ」として選んだものだ。そいつがMC68030のカード(アクセラレータ)を搭載して、たまに起動しても調子よく動く。こういったことを考えて、このジャンクとも言えないジャンク製品をレジまで運んでいた。
 そういたことから今回も間違いがないはずだ。で、もって、車中でブツの確認に挑む。パッケージ(透明フィルム)をはがして、やおらリッドをあけると、「おお〜、540cではないか」、一瞬我が目を疑ったが、540cには間違いはない。そう、あの有名な540cそのものである。これがどういったものであるかは、ここでは申し上げない。しかし、こういったものが今ではジャンクである、ってことが僕には不思議なことなのである。
 そうこうするうちに、宇和島に着いた。本来業務である今日の会議では、久々に言い意見が拝聴できたし、僕も喋ることが出来た。その前の15分間に思わぬことでPowerBook 540をGetできた。
 実際は、言うのもはばかるが、今までの松下寿の執行委員長の立場では労働金庫の宇和島地方の関係は上手く行かない。それほど支点も勤労者の状況も厳しい状況だったんだが、彼が一切そのことを協力団体にも言わないものだからここまでになってしまった、と言わざるを得ないのである。本日の参加者の代表は僕以上にもっと自由だし、そういった感覚で、職場のことも考えられる。それ故に、あつらえた意見ではなく、あのような真の意見が発表できるんだ。その上に南予は相当に厳しい状況になっている、と感じた次第だ。
 思わぬところで、思わぬものを得た。しかも、物言わぬ相手が意識を発揮してでのこと、これだから人生は楽しいんだな。松山出張前の嫌なことが一気に吹っ飛んだ瞬間でもある。

2002年 2月11日()くもり時々はれ
 建国記念の日だ。「空にそびゆる高千穂の... 」ではじまる、昔の紀元節だ。県内でもいろんな動きがあった。一つに、我が国が出来上がったのは一体いつなんだ。それは皇紀2662年だ。こういったことは一切報じられない。ところが、いわゆる国家建設に際しての記念日はいつにするのか?に
 紆余曲瀬湯があって、昔の紀元節を建国の日、としたわけだ。
 いろいろ反論はあると思う。そこをGHQが天皇の戦争責任を問わず、イギリスのように天皇をうち立てたことから始まって、一時期、日本は占領下にあったことを忘れてはならない。
 そこから生まれた日本国憲法を改正するとか、なんとかいう輩が非常に多い。はっきりいって、憲法さえ守られない我が国で、新しい憲法、それに即した各種法案なんぞ出来るわけがない。例え出来たにしても、それは強いられた住民の意向を押さえることは出来ない。まさか、反乱軍、ということはないが、僕は、このソルトレークの街で、十分に力を発揮していただければいい。
 ただし、世界から遠いものであっても、その努力にはぜひテレビジョンの向こうからエールを送っていただきたい、というのが、偽らざるところだ。
 プライベート・ライアンのノルマンディー上陸のところを見れば、旧帝国日本軍がアメリカに負けたのは、精神でも何でもない、戦争をしている当事者が「負け」を知らなかったためだ。そういった意味合いも含めた、開かれた日本に、紀元節の歌を歌っても結構、「僕は8月15日を建国の日」としている、とか、実際は憲法発布の日からだ、とされる方もいらっしゃるだろう。
 政府お上が決定した2月11日はそのままでいいではないか。いずれにしても、古代日本の中で、誰が最初に統治したか、を引っ張り出すのは、はなはだ困難だ。
 トップボス、背中を曲げないで、これからも元気でやろう、という気分だけ捨てなければいい。

2002年 2月12日(火)はれ
 く気分が良くない。次々に職場で一般職に対する攻撃が強くなってきている。職員側としても防衛一方、とすればいいのだが、そうではない。「仰せのままに」がその大半だ。どういったことに制約され守られているか、は全く知らず、闇雲に受け入れて、気付いたら遅かった、といった状況でやられるわけだ。管理職になった途端に踵を翻すような方も多い。決して自由とは言い難かったが、数年前までは、こういったことはなかった。最近は働く者みんながカリカリしていて、オフィス内の暖房と同じで潤いが一切ないように感じてしまう。
 やれるところまではやって、後は野となれ山となれ、と自らそうしてやりたいのは山々なのだが、これが出来ない僕だから、一人で背負い込んでダメなのかもしれないな。コミック本の「魚河岸三代目」の中に「仕事ってぇ〜なぁ〜さー、テキトーにいい加減にやるもんだぜ」という台詞がある。その答(意味合い)は「テキトーってことは丁度いい、いい加減は良い加減」ということで、過ぎたるは及ばざるがごとし、頑張りすぎるとダメだって... 。全くいいことを教えてくれた。
 これが僕の働いている職場にありゃ、もっと大きい立場で向かっているところだろうな。とにかくゼニがないから何とかしろ、と一般職を締め上げる。そうじゃなくって、トップ集団の賃金とか手当を減額しろっていうの。すでに愛媛県議会でも議員報酬を減額する条例案を議会に出すってよ。今の宇和島市の議員報酬なんてもっともっと下げればいい、と僕は感じるが、いかがだろうか。
 そうそう、僕の掲示板に「鯛焼き」売ってるところ教えて?と出したんだが、近くで鯛焼き屋さんを知ってる人がいらっしたら、メールか掲示板に書き込みをお願いしますね。

2002年 2月15日(金)はれ
 日と明日は松山へ所用で出向く。同僚に言わせると「俺なら松山へ泊まる」という。それほど僕の行為は効率が悪いかな?、とも感じるが、使っているのはJRの回数券だから、宿泊に伴う夕食のことなど考えると、金銭的にはそんなに変わりはない、と思う。八幡浜の関係者は彼の愛用オートバイのヤマハ・セローで来ていたが、どうやら寒風に閉口していたようだ。日差しは春なのだが、吹く風は依然として冬のままだ。僕の想像だが、合成の道路、建物が自然の大地を皆無にしつつある都市がもたらす現在の半合成自然のために起こっている現在の自然ではないだろうか。その半合成の自然を本来の自然を知らない人間どもが「自然保護」っていうのだからおかしい。ともかく、僕より年長の本来の自然を知っている方々を絶滅させる方法を講じてはならない。
 そのせいかしら、帰路のJR特急「宇和海」では、ほぼ満席に近かったので、やむなく喫煙可の車両に乗った。この車両も満席に近かった。もちろん座れることを前提に喫煙しない方々も乗っていらっしゃる。
 ま、乗ってすぐさま2/3の乗客が一斉に吹かし始めるのだから、凄まじいものだ。JR四国もゼニがないからベンチレーションもいい加減。空気はよどみっぱなし。とうとう僕も空腹も手伝って、八幡浜の前辺りから気分がおかしくなり始めた。リサーチなどで喫煙の希望が多いのだろうが、JR四国のボスは、全車両全席禁煙のお定めを発してもいい、と思うのだがいかがであろうか。東京など、駅に入ってすぐさま「禁煙」だ。ホームですら喫煙コーナー、羽田空港でも同様だ。僕の目からすると、「惨め」な気分が喫煙者につきまとって見える。喫煙者でも今日の車両では少々気分が悪くなってらっした方も見受けられた。数人の人が喫煙可の車両のデッキで一服されていたのをずいぶんと見かけたもの。
 帰宅して2時間程度は、何かおかしい気分が僕を支配していた。

2002年 2月18日(月)はれ
 、午後10時過ぎ、さっきまで何やかやで夕食が遅れてしまった。何しろ、午前中はお隣の吉田町からの問い合わせの調査で潰れる。給料日なのに、郵便貯金の係員が万札持ってったままおつりが来ない。こういったことで、昼からはビラづくりの纏めをやって、退庁後配布。帰宅すると、息子が確定申告に必要なんで国民年金の領収書がいる、ってことで再び職場へ。こういったことで元のペースを取り戻すのに大変だったわけ。
 午前中にP.T.Kのクリアーモデルが到着した。「つれづれ」にも記載しているとおり、PowerBook G3に装着すると異常なまでの違和感を感じる。直ちに純正の英語キーボードに戻したが、お仲間うちの批判を受けて、それを買わすのに散々だった。ま、クリアモデル、ということで保存しておこう。仮に、筐体をリペイントするとグッと生きる可能性もあるわけだから。
 しかし、たかがキーボードなんだが、PowerBookなどのノートタイプのキーボードは完全に消耗品である。しかも、いいものを選ぶ必要がある。そして、もう一点は、このPowerBook G3をもう一台購入しておく必要があるのではないか、と心を痛めているところなのである。仮にiBookにサウンド入力端子があるなら、即座にiBookを選ぶが、アウトプットのポートの種類からしても、G3のPowerBookの方が僕は好ましい、と考えている。いずれにしても、早いところPowerBook G3の500MHzモデルを購入しておく必要があるようにも感じている。

2002年 2月21日(木)はれ
 市の理事者と少々難題について交渉を行った。それに加えて、仕事もいよいよ佳境に入り連日コンピューター端末に向かっての入力作業が続く。最近では手計算の分野が非常に少なくなり、おまけにペーパーレスなんぞという行き方がまかり通っていて、読みやすい字とか、どなたが起案した文書、などというものが一切なくなって平均化、没個性化などになって来だした。手書きの方が速い場合は往々にして存在する。
 若い職員からの提案、IT革命の後遺症みたいな行き方の踏襲によって、すでに一般化したことが今になって、ヤレッ!ヤレッ!というものだから、おかしなことになってしまうのだ。一例を挙げると、わずか階下・階上の1階の階段の上り下り、しかも消しゴムで修正できる簡単な広報記載文章でも庁内LANでメールで出せ、とくる。何をかいわんや、である。おまけに間違ってますよ、というメールを送った、という電話が入る。何かおかしい〜んチャウ?。
 せめて、何行ある文章ですか、ぐらいを先に提示し、それから締め切りまでにメールで発信すればいい。こういった方法の方がずっと効率的だ。このように一件便利そうでも、とっても不便!というものが多いのである。庁内LANといいながら、各個人にノートのコンピューターは貸与されない。僕などPowerBook G3を持参してEthernetで接続すると、不機嫌な顔をする全体のコンピューター管理者。Windows命、といいながらNECのみが至上だ、という考え方もいかがか、と思う。
 理事者も市が抱えている無理難題を「ゼニがない」、ということだけで盛んに職員に出しているものを削ってくる。一定、市民にも負担願いますよ、とは一切言わない。
 それなら、考えようによっては職場から批判が出るが、たとえば市民課で機械化は出来る。戸籍はダメだが、住民票など自販機とかJRとか民間交通の乗車券発売機と同じようにするわけ。「画面の必要なものに指を触れてください」というキカイのアナウンスに従って、順に画面にタッチしていって、最終は「300円を入れてください」となり、投入すれば住民票が出る、って仕組みだ。
 職員は別室でモニターを覗いている。カウンターのフロントは地公法の22条(臨時)職員だけ。終業の5時近くになると、キカイにはシャッターが下りて来始める。まるで金融機関のキャッシュ・ディスペンサーと同じだ。これなら市民課の職員も5人でいい。直接台帳に触れる職員だけが正規職員で十分だ。
 そういえば、税務署でも電算化になって、申告が簡単になったんだよな。そのうちアイボーよろしくロボットをお友達にしなければ生きていけない老後がやって来るのかもしれないな。

2002年  2月22日(金)雨後はれ
 に忙しくもあり、実に有意義でもあり、非常に充実した勤務時間であった。ここしばらく酒道場はおろか、酒の世界とはきっぱりと別れたツモリでは合ったが、今日は状況が状況で飲まざるを得なかった、というのが本音だ。が、次の席へ自らが出向く気分になったが、これは止めにした。
 酒道場では、もっぱらソルトレークシティーの冬季オリンピックの視聴率が下がっている、ということから始まって、スケートのペアでのロシアがトップか?という問題に対して、僕はロシアのペアは一部ミスしてもトップということには違いない、と確信している。そうしないとホンのちょっとしたミスは無視できる出来る内容に思った。カナダのペアは、技術とかは一定トップだが、肝心な重厚さ、華麗さなどのアーキテクチャルな面では完全にロシアのペアが上回っている、と言わざるを得ないのではないか。今日の女子シングルでも同様のことが起こった。審判員はロシアの重厚さよりアメリカの自由奔放さをチョイスしたのだろう、と感じた。などと弁舌さわやかに述べたところだ。
 で、どうして、きっぱりとあの日のフランス審判は否定しなかったんだろう?、ということになるが、全くバカげていることになっているのが現状だ。ショートトラックでの審判云々、こういったことをどうして事前に当該関係集団内で議論しなかったんだろう?。ここに多くの問題が集中するんだ。それを規定の条文で操作しようとする、いつもながらのスタティックな文章だけの世界が誕生するのではないだろうか。
 トップのターンが逆だった、が次回の世界選手権当たりから女子のフィギュアスケートでも4回転はザラ、その上に左右どちらかででもターンが出来なければならない、と言う規定が盛り込まれるのではないか、ということを僕なりに考えていた。しかし、日本選手の多くは国内、チョイト外国の結果からメダルの獲得数云々を言ったが、完全に否定された。視聴率はジリ貧、おそらくこのままメダルは里谷の銅、清水の金だけであろう。
 こういったことで悲観するのが日本の悪いところだ。これは結果で、次回はどうすればいいのか、を今から盛んに議論すればいい。時には選手に自立せよ!、とまで言ってもいいのではないか、と考えているところである。

 2002年 2月23日()はれ時々くもり
 今、NHKでソルトレークの冬季オリンピックをやってる。僕の思いは昨日記載したとおりだ。本日は午前中に素晴らしい女子のスキー(コステリッチ選手)を見た。見ている僕が「速い・速い」と口走る始末。昔盛んに言われた旗門を前取りする姿勢などが見て取れたし、実際「前へ」の気分が非常に強い、と感じた。
 僕の思うところ、高地トレーニングとか、かつて首脳陣が未知のものへ立ち向かう気分であったメキシコシティーオリンピック開催数年前に対峙した大問題とほとんど変わらないのに、今回も高地開催でありながら、この高地トレーニングのことなどは、日本では一切マスコミにも取り入れられなかった。スピードスケートでも、多くの方々が新記録を出すスピードオーバルであり、ソルトレークが高地。僕はそれに対して本当に対処したのかどうか... 。多くのものががないがしろにされていたのではないだろうか。結果を残せなかった選手諸君がどういった感覚を持っているのだろうか、大会終了後そういった面も追求するところがある。
 今日のスピードスケートでのShirahata選手の言ではないが、何とかして... 、と言うところがマスコミに一切発表されない。メキシコ五輪のときは、大会終了後、誰もが「高地」ということを盛んに言い始めた。それに近いように思う。陸上の高橋尚子選手がボルダー(アメリカ)でのトレーニングをして結果を出していたのとは全く異なる。スタッフもこの大会は一時のことと考えていたんだろう。長野より楽か、経済も厳しいからオリンピックなどは企業の眼中にもなかったのかもしれない。このままいけば里谷選手の銅、清水選手の銀のみのメダルが確定だ。一つ猛反省を強いられてみてはいかがだろう。
 結婚プレゼントで25年使ってきたリンナイのガステーブルの本体が朽ち果ててしまって、とうとうパロマの新品に買い換えた。思い出がいっぱい詰まっている。25年間食餌を支えてくれた。捨てるのには忍びないが、今回ばかりは保存できるような状態ではない。細かく切って処分したい。僕はどうしても「キカイにも魂はある」という考え方だから、口こそ開かないが、おそらく仕事を終えた、として深い眠りについているのではないだろうかな。
 午後からSRとトライアンフに乗った。僕の心はいつも単座の戦闘機の感覚である。はっきり言って通信手段も一切ない、ライディング中は単独の状況だ。孤独かもしれない。何のために走らせるのか?。長年の疑問だが答は一切出ない。が、僕なりの手が入っているオートバイだから、それなりに僕の相棒のような乗り物でもある。トライアンフなど妻より前から僕といっしょである。時にはしっぺ返しも食らうが、なかなかのアングロサクソンの女だろう。何しろ僕は彼女にまたがって操縦してるんだから、BackからのSEXのようなもんだ。かというとメーターは僕を見つめているからスタンダードポジションか。また、明日も走りたい、と思う。
 夜、メールにてプロバイダーのRPMさんがADSLをやる、と言ってきた。待っててよかった。ようやくとんでもない世界が僕んとこにも来ようとしている。

2002年 2月24日()はれ
 のね、僕は総じてインターネットがどうのこうの言わない。しかし、RPMの288はメッチャクッソ遅い。遅いを通り越して、基本をみっちり叩き込まれるのは必至だ。しかし上司の信長をどういって受け入れらされるか、ここが秀吉ならずのところなんだが、僕の職場に当てはめてみると悲惨だ。いくら幕末に日本を揺るがすことを城主がやったとしても、それは時のこと。本当はもっと領土を広げとかのことがあるわけだ。まじめに、そういった意味合いを含めて広域の合併を考えてはいかがだろう。僕は首脳陣が考えているようには決してそのラインには接しないことが多すぎる、と考えている次第です。どうでしょうか、一つ自らが一株宇和島市に投ずることがやぶさかではないか、という、そこに考えは帰結するのではないでしょうか。酔っぱらっての記載、僕にしか分からない点、許しアレ。
 僕はここがあまりに御城下、しかも商店街オンリーの世界では嫌でも引き受け成らざるを得ない、と言うことになるわけです。でも、実際はメッチャクッソ違う。ここが見えないのでしょうね。何しろ街が他の場所でできない。元結掛でも、夏目でも。いつまで経っても寂れているアーケード街だ。
 さ、本日は点火プラグの面で決定的なことが出ました。これは次号で記載します。たとえば2気筒用に二つ封入のパッケージプラグを購入します。今回はこれが仇になりましたが1本交換しました。しかし、片方のノーマルプラグは作動しています。実際はアッという間の出来事だったのです。狐に摘まれるごとく、今では無視されような感覚の点火プラグでさえ、こういった状況に追いやられます。はっきり言ってオートバイでは一個ずつの箱入りでないとなりません。
 僕はトライアンフにBR8ESを装着しましたが、こんな簡単なことが敵さんには分からなかったのでしょう。そのうち、こんな簡単な考えでは無理なんだ、ってことらしかったんですが、実際はオートバイの世界はシビア、というところがよっくわかった次第だ。

2002年 2月26日(火)くもり
 常にむなしい気分になってしまった。ひょっとして... 、と思ったりもする。日曜日のプラグの件がまたしても浮上し始めた。何処がどうなって、というか、何が何して何とやら〜、という浪曲の世界みたいだ。現在のところ仕事が多忙で、毎日何をしているのか分からない。昨日は帰宅が8時、今日も7時。帰って纏めをやるわけだから、その分も2時間程度かかってしまう。そこからオートバイのこと、オーディオのことなど、全く出来ない。直ちに睡眠に入らないと明日が辛いんだ。
 土曜日辺りからどうも腰の調子が思わしくない。スケートの清水選手同様の神経痛が顔を出す。これが高校時代からだから始末に悪い。ふとしたきっかけで収まってしまう。振り返ると無理な姿勢を続けたことにあったようだ。こういった朝も早くて夜も遅いを数週間繰り返すとどこかにしわ寄せが来る。僕の場合はおなかが異常に張って、ガスが出るまでが非常に苦痛だ。これが慣れになってくると、職場での対応が良くない。幸い対人関係があまり無い職場だからいいようなものの、朝は夜明けとともに、夜は日没とともに、を数日間やりたい。そのペースを時計に合わせて日常を過ごせばいいのだが出来ない。せめて、夜は11時過ぎに睡眠、というパターンを採りたいんだ。で、明朝は6時30分には起床できる。今度はこのペースが少し狂って、少し元に戻って、という生活になると、途端にダメだ。適応能力がない。年齢とともにやって来ることかもしれないが、徹夜なんて今はまっぴらゴメン、というのが偽らざるところである。
 この多忙さもどうやら明日でケリが着く。28日は高松だ。高松ったって日帰りのもの。現実にはあちらで少しばかりの会議をやってだが、現実には帰宅はやはり深夜になる。味気ないんだよな。移動の時間だけで数時間がブッ潰れるわけだから。そういえば、みっちり仕事して、みっちり家にいて、みっちり楽しんで一週間を過ごせた週はホントに数えるほどしかない。

2002年 2月28日(木)雨時々くもり
 しい天空から雨が少しずつ降ってくる昨日。今日は降ったり止んだ利だ。僕の生活進路からは全く気にすることはない。雨は雨、と考える。雨が無くなるとどうなる世界かは、おそらく今の小学校では教えてくれない。「先生、どうして雨が降るのですか?」という質問に一体何人の人が明確な答を出すのだろうか?。そういった状況の中で、真にその仕事に精通し、その企業先などを助ける立場に至っても、今は「去る」のであろうと推察できる。
 折しも同僚の義父が逝去、の報が昨日入って、本日は高松へ行けなかった。と同時に市長との交渉を4日にやりたいという電話が入る。本来なら蹴ってやりたい。が、そうやると今の立場では「逃げ」」の感覚を生むから、何とかして参加したいと頑張ってる。
 そういえば、昨日スナックへOさんが本当にいい店に連れていってくれた。カウンター越しにママさんとお姉さんが僕を相手にしてくれる。しかも安い。こういった店はなかなか探そうとしてもない、というのが現実なんだから。

2002年 3月 3日(
 いお天気お確認がとれて、朝のうちはのんびりとして、午前中はひょんなことの確認のために職場へ出向く。確認の結果無事に行えていることが分かったので安心して帰宅。
 11時半頃、BR8ESを装備したT-140Vで出かける。これも確認のため、この間ストップしたルートと同じところを通っていくことにする。エンジンこそ止まらなかったが、どことなくおかしい。早期点火の兆候のようなものも感じて来だした。北灘から下波へ。宇和海中学校でプラグの確認。別段可もなく不可も無くだ。ま、プラグコードとキャップを変更してスプリットファイアを装着していない。ここでスプリットファイアSE-405Dに交換。リャリャ!こりゃいい!。全く別のエンジンのように感じる。不思議なものだ。すっかり気をよくして帰宅。プラグは最近の希薄燃焼システムの状態だった。
 とりあえず、僕だけの考えで午後からB7ESを装着して走ることとした。今度は北への道だ。走り初めてすぐ、左のシリンダーが逝きそうになる。そんな馬鹿な、と思い、だましながらエンジン回して脇道に。しばらくすると何でもなかったかのように走り始める。これはムダ火が飛ぶ点火コイルのため、一時期、プラグが少し馴染まない面が出るのかもしれない。後は順調に走行できた。帰宅してプラグを確認。SF-405Dと同じように焼けている。どうやらSRと同様に旧車のT-140Vでも近代的なキャブレターを装着し点火系をトランジスタにするだけで、見事な変化をするものだし、機関は見事に現代のものになるようだ。もちろん、ガソリンがノーリード(無鉛)のハイオクだから、有鉛時代のプラグの焼け方とは若干異なるのは言うまでもない。第一に昔のガソリンはラッカーなどの塗装を侵さなかったではないか。
 夜は久々にPowerBookに向かいwww/Grid 36号の仕上げをしていた。特にオートバイ関係は久々に作図とタイピングのし甲斐があった。ま、どういったものになるかは、「請う、ご期待を!」としておこう。でも、自画自賛かな〜。

2002年 3月 5日(火)雨
 NHK総合テレビで女性歌手が多数出演して歌っている。僕は田川よしみさんが好きなんだが、ディスクは一枚も持っていない。とにかく、新人としてデビューしても一発も行かない内に消えてしまう方々が非常に多い。もちろん田川さんはそこを切り抜けて今のポジションがあるのだけど。
 僕もつい、さっきまで保育士さん達と勤務時間について協議をしていた。ずいぶんと時間を取ったが、よし、これで行こう!、というようなことは女性が多い職種ではなかなか見受けられない。一定合意に至るまで長い。でも、こういった中、数人のリーダーが引っ張る形式を採ると女性はスゴイ力を発揮するものだ、とつくずく感じる。男の世界とは少々異なる状況だ。
 夜は時ならぬなま暖かい風が強く吹く。妙に風雲急を告げるような感じの風だ。僕の職場も全体はかなり厳しい。いわゆる公務職場で、民間の厳しさとは少々違うものがあるが、各法律、制度などで縛られているのが今の宇和島ではフィットしないように感じてならない。4月からの新年度は一体どういったものになるのだろうか、と感じざるを得ないところである。

  泣きぬれて 鶴島城にさまよえば
   さくら新道 まぶたににじむ
    夜の築地に 拾った恋を
     宇和の海辺にすて]ゆく
      あ]伊予の宇和島ブルースよ
 
 宇和島出身の和島 千代子さんの私の宇和島という曲だ。1972年5月のリリースになってる。
 さくら新道は今でも健在だが、ネオンの海を泳ぐほどのにぎわいはない。築地は昔のように海岸端というものはなく、周りは埋め立てられてしまった。築地花街のシンボル「東雲」は先日取り壊された。まさに宇和の海辺に捨てに行くのだが、その海は当時のイメージではない。自動車道が海岸線の埋め立て地を高架道路でまもなく通る。
 1972年から30年後の今、昔の宇和島はさっぱりない。人情も妙にギスギスしていて、お互いが宇和島の行く末を口角泡を飛ばして論議するようなこともない。
 宇和島平成維新なんて、外様の人間だけが集まってシンポジウムなんぞはチャンチャラおかしい。市制80周年記念ったって、びた一文たりとも費やさない。さぞや、80年前の山村市長は英語で「 Oh No! 」と言っているか、「こがいなことでは いけんぜ、もっとがいなことをせんといけんな〜」と言うとるかもしれん。

2002年 3月 6日(水)くもり後はれ
 日は啓蟄、水も温む頃になって土中の虫も這いだしてくるという季節だ。昨日酷評したフォーラム(シンポジウムも同じようなもんだ)が開催される。僕は行くことはなかったが、ま、それなりの時間制約で修了したのであろう。百数十年前の宇和島がどうであったのか?、昨日も記したが、市内の所々で見るところは少ない。テーマの平成維新はむしろ悪い方向へのプロローグではないか?とも感じられるのだが、いかがであろうか。
 午後4時30分からの、市庁舎駐車場でのモチまきはなんだ。一節によると6俵もの量の餅を100人ほどを相手に撒くわけだから、そりゃ一人の持ち帰り量は並大抵なものではない。そしてその後、お上はサブライムホールでの懇親会。下々は「市制施行80周年記念」の一日など知らされないままだ。
 ゼニがない、といいながら、こんなバカげたことを平気でやる。平成13年度の最初の方で市長自ら行事中止!とすれば、この行事の予算を別の面に使えたのに... 、と残念でならない。僕個人でなら20年後の市制施行100周年記念行事のために少しずつ積立金をすべきだ。貧乏でもこれぐらいは出来るはずだ。そして出来得ればその1年間はイヴェントなどは市制施行100周年記念の冠を付けていただきたい。これなら墓場の陰で山村初代市長も満足しているはずだ。僕はその年71歳を迎えるわけだ。生きていられるだろうか。
 午前中に献血をやった。血圧が異常に高い。自覚症状は無いのだが、ジワリと真綿で僕を締めつける前奏曲だ。でも、好きなものは止められないからかなり早い内に「プッツン」の状態に入るのかもしれないな。そういえば数年もすると親父の死んだ歳に近づく。ま、何とか正常値に近づけるように努力しよう。
 夕方はインターネットも混み合う。昼休み、職場でやるときも13:00まではひどい混みようだ。不思議なもので20:00を過ぎるとずいぶんと楽になる。特に288の世界では、そういった時を見計らってでないと電話代がかさむのも事実だ。僕自身はADSLにしてもいいのだが、少し時間をおいている。理由はこうだ。デスクトップマシンに手頃なものが今のところ無い、というのが主なところである。
 そういった中、gooの無料サイトがサービス停止ときた。幸い大元のHoopのサイトへ移行手続きが出来たので事なきを得た。そういった理由で、少しばかりwww/Grid 36のアップを伸ばしている。

2002年 3月 7日(木)はれ
 残業で少々遅くなった。Hoopsへの移行もスムースに終わったようだが、肝心なIDなどは通知が来ない。少々不安なんで「β」としてwww/Grid 36をアップロードした。何かを集中してやると、他のものが全く手を付けられないでいる。仕方がないかな〜、と思う。とりあえずは、こうやってアップロードできたのだから良しとしたい。途中でサイト変更などをするとなると、そのまま移行ということにもなるが、Hoopsからの連絡メールがなかなか来ない。ダイアログでは30分以内だったが、これが3日のうちに来なければ連絡を!ってことだから、明後日以降どうなりますか?
 それにしても忙しい。明日は残業の後、春闘学習会。そういえば今までは民間準拠の公務職場の春闘だったけど、どうも今年は思いっきり僕らに理事者がボディーブローを喰らわせようとしているから、どうやってガードするか?を真剣にやらないと、今年の末にはとんでもないことになりそうだ。そういった意味からは生活をはじめとして全てに渡って「防衛」が主となるような気がしてならない。こんな春闘は初めてだ。
 もっとも、それ以上にここら辺の民間はジリ貧だ。が経営者はそんなには苦労していないような気がしてならない。何しろ「解雇されるかもしれない」という不安感の方が労働側の頭から離れないんだから。これは「辞めさせてやる」を決定できる経営者の方が絶対に強い。多くの企業では労働者は組織されていないんだから、一人で経営側に立ち向かったところでつぶされるだけだ。ホントだよ。そういった経営のここら辺の企業状況に我々を準拠させようとするのだから、逆じゃないの?って言いたいわけよ。警察官に向かって「もっと仕事しろよ、高い給料もらってんだから」と県警本部長なり県知事にモンク言えるかって。どうして宇和島市の吏員だけにこんなモンクが出るんだろうか。僕なら堂々と言ってやるよ「お前さんの給料削ってでも会社の職員に分配したら?」って。ま、市のトップは自らそれをやるそうだが... 。市議会議員の報酬も県会議員の報酬のように下げればいいんだ。ま、縦割りの社会を一般市民が理解できていない現状では何を言っても無理か。行革はやっても行政懇談会っていうのはない。正に僕らは四面楚歌だ。

2002年 3月 8日(金)はれ
 よいよい、伊予鉄高島屋だって?。僕はこれって非常に好い加減なんじゃないかって。そもそも、そごうがダメになったとき、独自の名前を付けたじゃないか。それをそごうから高島屋かい。大坂ではその隣に大丸があるぜ、って。
 資本がらみとか後々の世界のためには、もちろん必要だが、それ以上にもっと大切な「地域住民に対しての唯一の百貨店」とアピールしていない。本当にバカげている。今日はパラリンピックの開会式後の滑降だったが荒天でダメだった。がそうやって一途にやっている関係を知ると、百貨店も何もかも許し得がたいものになってくるのである。
 実に一週間ぶりに酒道場へ出向く。そこで聞くのはWiindowsのこと、市役所のこと、とWBAボクシングのタイトルマッチを肴に大論争している。僕もその中にいたのだが、どうもしっくり来ない。
 よくよく考えれば、「お前よくオープン戦に行けるな?」というヒガミ、誹謗中傷に受け取られても過言ではない。それほど僕らの職には言い分があるのだろうか。それじゃ仕事に就いていただけますか?」とオープンで仕事の内容を最初に教えただけで「知りません」を敢えて通さなければ、今の職場は上手く成り立っていかない。それほど今の若い奴は世間の厳しさを知らないんだ。つまり、「クソ〜、今にやっつけてやる」と上司を見上げ、周りのけ落としてやりそうな者を何とか排除したい、というのが気分だろう。
 そういった中で、「この人はなかなか頑張ってらっしゃる」とした者だけが一般職で昇格になったり昇給したりするわけだ。
 こういったことを考えて公務員職場を見つめたら、おそらく「平の」一般本人は何とかしたい... と考えざるを得ないのではないか、考えるのである。

2002年 3月11日(月)はれ
 うやくHOOPSからアップロード先の通知がやってきた。相当に混み合っているらしい。どうやら僕も今日になって質問したものだし、その返答に30分とかからなかったから、スタッフ全体でgooからの移行を受付しているのかもしれない。www/Gridのアップロード先は一部数字を変更するだけでよかった。そのまま移行できていることは先に確認しているから、残るは僕のパスワードがまだ未登録、というわけである。
 そうそう、このPowerBookの2000年モデルの中古が相当少ないようだ。もちろん、G4でもいいんだが、僕の場合、アナログソースをCD-Rに焼きつけるとき、どちらかというとマイク入力があった方がいい。もっと端的に言うと34年前に死んだ父が生前にオープンリールに吹き込んでいた肉声をそのままモノラル-ステレオ変換して直接AIFFのファイルにすることが出来る。USBから入力するようにすればそのシステムだけで別接続になるからスマートじゃない。2000年モデルはFireWireの端子もUSBの端子も2つ付いているし、SCSIはカード。こうやって考えるとG4のPowerBookよりもG4 Macに近いように感じるのだがいかがだろうか。
 ま、夏のボーナスで何とか2000年モデルの500MHzをゲッとしたいところだ。結構400MHzは酷使している。毎日のように職場へ持っていってるし、家でも使っている。タイピングしてると、どことなくいいものを感じる。入れ込みが強いためかな〜。

2002年 3月16日()くもり後はれ
 日で仕事は終わり、忙しい中トライアンフを車検に出したり、思わぬ火事に遭遇したり精根尽き果てた。でも、ちっとも安堵の気分が無い。不思議なことだ。まぁ、電話の向こうは鬼ばかり、というのが少なくなったこともあるが、実際に顔を見ないで話をするのは大嫌いだ。そのうちに... 、と言っておいて僕は関係の方々とは実際に対面している。そうしないと存在感が全く薄いように感じられてならない。
 最近ではコヴェントリーの清水さんにお会いし、ようやくこの人がこの歳でレースに出てらっしゃる、という実際感が明確になる。モトコの本橋さんなどもこの方があの... 、と妻共々共感した次第だ。そういった意味合いから僕は会話などの電話が大嫌いで、電話をするのは電話での発注などに限られている。若い方々が、わずか数百メートルの間ででも確認の携帯電話でのやりとりなどをやってると「バッカみたい」と感じてしまう。職場でも庁内LANで会議室の申込みなどをはじめ庁内への通知文書の配信をやっているが、管理者が休暇などの時は誰がこのメールを覗くんだ?。1課に1台の状況では大人数の課はとても無理だし、ここ数年は個人個人にコンピューターを貸与の世界にはならない。バカげたIT化だ。もっともご時世柄「ペーパーレス化」といっているが、システムがぶっ飛んだらどうするんだろう。バックアップシステムが完璧とは言えない。といいながら、僕もインターネットで電話回線を利用している。ま、これはチャットはキライだし、文章画像の世界だから許されるのかな。
 そんなもんで、任された仕事を月曜日に間に合わせるために、今日も朝から職場に出向いてPowerBookに向かっていた。バックはiTunesでオールドポップスを聞きながらだった。誰も居ない職場で仕事をこなしていると、向こう9年間同じようなことをこなすのか、と思うと一抹の不安さえ感じる。
 午後になってSRのオイル交換を行う。末広モータースへトライアンフの車検費用を支払いにいった手前、オイルオイルと探していると、ザーレンの15W50っていうのがある。こいつをチョイスして実験してみたくなったので交換をお願いする。メカニックは古参の方だったが、ご自身が原チャリで通勤し、オイル交換の旅にオイルが汚れて仕方がない、とおっしゃってた。
 SRには2.1リッターが入る。その足で宇和のT君宅まで出向き、クラッチカバーの下側に穴を開けてOKとし、彼の最新のLE8Tの音を聞かせていただく。フルレンジとウーハーの組み合わせだが、なかなか心にしみいる音だったので、思わず聞き込んでしまった。
 そういった具合で、夜は酒道場のマスターの話を絶対に聞かなければならない、という目的のため出向く。そこで聞いたのは唖然とすることであった。詳しくは書かないが、一高校卒業生が、一念発起、この分野でやるんだ!、と勢い込んでみても、その意にかなわぬこともある場合は多い。しかし、君ならできる、と多くの方々が期待をして本人もその気で臨んで行ったものの、実際はあまりに厳しく大きいものであった。それに時には流されてもいい、何とかそこを乗り越える克己心が全くなくなってのことだったらしい。わずかの期間だが、高校生の間に何とか実社会の一部でも体験させなくてはならないのではないか。僕も高校3年生のとき、1年間牛乳配達やった。一人っ子の僕はすぐに辞めるだろう、と思われていたらしいが、そうではなかった。
 ということで、高校3年生の夏休み、アルバイト賃金は70,OOO円ででもここで頑張るか?に、「ぜひお願いします」をいい、苦しくったってやり遂げた我が子のことを僕は口に出すことは出来なかった。

2002年 3月18日(月)はれ
 前中の薄曇りのように、未明から身体の状態が尋常ではない。通常だとこういったことは別に問題があるわけではないのだが、今日は何かにせき立てられるような感じがずっとつきまとっていた。なかなか下がらない脈拍、数件を同一に進行する職務、結局午後4時ぐらいに一段落したのだが、何かおかしい気分は消えなかった。
 おまけに、心から(ぜひ出席)といった意味合いもない送別会での酒宴があったし、ホッとする間もなく、ことはおやすみの時間に及ぶ。宇和のT君にギブソンを貸与することの用意も妻に押しつけてしまったし、万一留守の場合は玄関先から勝手に持っていってくれ、と電話する... 、と確かにその電話をしたかどうかなど、てんでやることなすこと上手く行かない状態の一日であった。
 人の身体というものは、一日として同じ時はない。原因は定かではないが、現代社会の病める一面かもしれない。スペイン語諸国でいわれる「アスタマニャーナ」(全ては明日)のいい意味でのものは今の日本にはない。むしろ、今日の内に、を前面に示していると言わざるを得ない。
 夜半の労働金庫の会議の後、懇親会で大きく盛り上がった。でも、この場はこの場っていう方向付けで終わってしまうのが常だ。何とか違う職場との交流を今後は深めなければならない、と感じた次第。

2002年 3月24日()くもり時々はれ
 日は花冷え、強風の中、五色台へ四国自動二輪交友会参加のためにSRを走らせる。非力なSRは強風に弱いと判断して一般道を走る。結局6時間半を費やして到着。思いっきり飲んで、思いっきり眠った。そもそも職場の何やかやで気の収まるときがない毎日だったので、体調不良に加えてストレスが相当に溜まっている状態であった。もっとも、この間まで「電話の向こうは鬼ばかり」の毎日であったことは言うまでもない。
 明けて本日、どうも天候がおかしい。帰路へ向けて出発寸前から風が出始める。少しばかり雨の不安も残る。やはり一般道か?、ということで国道11号線を通る。今日は昨日のような交通事故もなくスムースだった。56号線に入ってようやく帰ってきた、という感覚になる。
 SRは快調だが、シートは完全に交換だ。ヨーロッパ向けの純正シートでもいいようだが、やはり体格差から来るノウハウはメーカーサイドに委ねるとして、シートはもう少し低いものを選ぶ必要がある。カンリンのフライホイールはノーマルに戻した方がいいようだ。下りで加速しない、など、トルクがアップするより、スポイルするものの方が多いように感じる。
 オイルはままOKだが、今日のように気温が14℃ぐらいではどうもオイル自体の性能を出せないようだ。したがって、オールシーズンとするなら10W50にする方がいいのかもしれない。
 クラッチの調整はレバーに指をかけ、第2間接から思いっきり曲げた指を少し力を入れて握った状態でクラッチが切れるように調整すべきだろうな。微妙に切れる・切れないの判断が難しいSRのクラッチだが、この方法なら比較的スムースにワイヤーの遊びが取れるのではなかろうか。
 こうまでしてSRを走らせているのだが、トライアンフのようにスパッと割り切れるところが少ない。良くも悪くも国産車!、とすべきうだろうか。

2002年 3月26日(火)はれ後くもり
 しばかり割り切れないような一日が終わろうとしている。NHKテレビの「わが心の旅」の心境そのままだ。午後3時30分頃、我が職場の人事異動の内示があった。ここまでは通常のことで何とも感じなかった。が、蓋を開けると僕の感じるその異動は凄まじいものだ。
 僕は人事異動なんぞ割り切ればいい、と感じているが、その裏には「お互いいっしょにガンバロウ」の心がある。今回はそういったものが一切感じられない状況だった。人員の配置は新聞紙上で確認いただくとして、たとえば、市長直属の伝達調整室のような新規の「室」ができる。それはそれで結構なことだ。が、そこの主は「1人」しかいないのである。恒常勤務の地公法22条職員も居ない。スタッフ制度とかいって、どこからかの課からか数人を交代で引っ張ってきて、問い合わせにはその専門である係員がそれに当たる。市長の考えはその室を通して市民に知らせる、といった方法を採るらしい。「アホカイナ」と言わざるを得ない。その方法が良いとしても、職員側には何も知らされていない中、6日後には立ち上げをしなければならない。こんなのは本来なら昨年の9月頃から検討課題だったはずだ。いくら、えひめ丸事故の件があったとしても、あれの主たるものは「愛媛県」で宇和島市長がせせり出すことはあれほど必要ないはずだったのである。それゆえ、準備不足は言うまでもない。
 こういった状況の中に加えて、採用試験に合格し採用通知があった職員候補が次々と入庁拒否の姿勢を取ってしまう、と聞く。全く宇和島市の行政職がバカにされている。ゼニの出し惜しみを最上課題に上げているからかしら、補欠の採用はないらしい。これでは僕は「市民の付託に応える公共サービス」を目指している職員の仕事は大きくスポイルされるのではないか、と思うのである。本年を主として大量に出る退職者の年金などを今の職員数で背負っていけるのか、柴田市政時代に腰から上だけが先行していた検察庁、裁判所の移転問題が堂々と全面に出て、あたかもそれが早期に解決するかのごとく市立病院の改築を行おうとしている。昨年の今頃は白紙になっていた問題が再燃しているのである。
 僕は老齢の一般職員に過ぎない。今の市長を側面から応援した一人でもある。が、今の市長に対してはあまりに「民間」の考えがが先行しすぎる。大手民間の悪いところもあるし、良い点をそのまま公務サイドへ導入することもできない面もある。合わせて市内のシャッター街の意見、ここら辺のちょっとした中小企業の状況を市の吏員全てに「民間では、民間では... 」と押しつけるのはいかがと思う。民間では喫茶店で交渉を纏めることもあろう。が、我々がそれをやろうとすると、どうだろう?
 合併にしても宇和島市が「南予の(砂上)中核都市」であるから、周りも引っ付きたいのだろうか。当の宇和島市では市民に対して「合併」のガの字も一向に知らされていないし、公民館単位ででもいいから合併のアウトラインさえ説明会が開催されない。我々職員に対してでも、宇和島市が宇和島市として存在し、これからどういった方向付けでどういった方法を講じ、どういった成果が出そうだ、そのために本年はこういったことを主としてやりたい、というのは市長が当選し、我々に最初に言った言葉を最後に聞いていない、というのが行政に携わる仕事をしている側の言い分である。
 残り6日間で平成13年度が終わる。一夜明けて辞令交付から始まる一連の年度初めの時、昨年のフレッシュさは姿を消して、末期症状をどうやって克服するかの身体状況を抱えた立場での1年間が始まるのではないだろうか。
 大きなことをWEB上で吐いたが、決してウソではない。宇和島市全体の底上げが今こそ必要なんだが、行政にそれを求めるのはいい加減に止めなさい、ということも市民に申し上げたい。
 そういった状況が今の宇和島市ではないだろうか。

2002年 3月29日(金)雨後くもり
 実上の平成13年度が終わった。多くの退職者が職場から去った。不思議な感覚だな、と感じる。僕の場合は9年後に同じ状況になる。しかし、人事異動の内示が出てからこの2日間は大変だった。本日午後4時までこのことは続いた。
 昨日は職場の退職者の送別会。これが職場の異動による送別会も兼ねたものだから、その内容が相当にちぐはぐなものになってしまって取り仕切り人の僕としては前々酔っぱらうこともなく終わってしまった。おまけに想像以上の酒の消費があって、予算オーバー直前で無理矢理お開きを宣言させていただいた。ほぼ2/3のメンバーが二次会へ行く始末。予定とは全く違う方向で終わった。
 二日酔いではない気分の悪さで明けた今日は早朝からの情報配布のため、模様替えの雑然とした職場を回る。一段落する間もなく退職者の送別の式。その後は保育園の勤務時間の最終協議。この結論が出たのが午後4時、という次第だ。ヘトヘトに疲れて帰るなりバタンキュー。しばらくの仮眠の後、こうやってタイピングしている。
 3日後、少ない新規採用職員と人事異動に関わる新人さんとともに新しい年度がスタートするのだが、本当に波乱含みでのスタートとなりそうだ。


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