2002. 7. 1〜 9.30までの日記

2002年 7月 1日(月)くもり
 ともおかしなお天気だ。と僕だけが感じることかもしれない。何しろ夏風邪とやらに罹って、咳が絶え間なく出る。おかしいぐらいに。ま、そういったところで、こっちもどことなくおかしい。それゆえ、天候もおかしい... 。いや、やはりそうではない。まるでサウナのような外の状態だから、おかしいのは事実だ。こういった時に一発降ってくれればいいのだが、これが分厚い雲があるだけで降らない。
 そういった気分で、昨日はサッカーの試合が終了したら、すぐさまバタンキューとなってしまった。そのため、気分の悪い中、早朝に1日付けでのアップロードするものをやった次第だ。本来なら日記もずっとため込んでいたのだが、記載できないままになってしまっている次第だ。
 またもや昨日の話だが、高校野球(選手権)愛媛県予選の組み合わせがあった。僕は実のところ抽選結果という予想が出来ないドラマをずいぶんと見させていただいたような感じがする。市内の丸山で行われるゲームは観戦したい(母校の宇和島南、息子の吉田)と思うが、万一のことを十分に感じさせられるような“予感”がしないわけでもないのだ。それに比べてワールドカップの特集のような番組は何だろうか?。僕ぁアホちゃいまんねん、といいたい。いいプレーを見せられるが、そのプロセスは一切出さない。どういった経緯から1点をゲットできたか、これはNHKでも特集番組だろう。
 それよりも、Jリーグってものが一層つまらなくなることを予想しなくてはならないことを、日本のサッカーファンはよっく注目しておくことだ。僕の心配は、ワールドカップで見たようなプレーはJリーグではほとんど出ない、ということだ。Jリーグがプロ野球を追い越すまでには相当な時間が必要であろうことを、日本のサッカー関係者はもっと認識すべきであろう。
 政治にしてもそうだ。郵政の民営化を小泉君が「今の考えのまま通してほしい」といっているのに麻生のクソボケなどがトップに立って「修正案」をいってきている。麻生、お前は郵政大臣やったことあるか?この面は小泉君の方に一部実際面ででも分はあるが、麻生のガキに至っては、自転車で郵便物すら配った覚えはないのだろう。僕より年上かもしれないが、自分でこういった配達などを行えば、麻生の言う言葉は「あっ、そー」になってしまう。ま、小泉はそういった郵政の根本を変えようとしているのだが、今になってお仲間うちから批判を浴びりゃ、たまったものではないだろうな、と感じた。

2002年 7月 2日(火)はれ
 日は大きく天候がおかしかったが、今朝は少しばかり晴れ間が見えた。昨日の湿気と朝の日差しが一体になって、宇和島の夏を満喫させてもらったのはいいが、風邪ひきの我が身には辛い。
 昨日は政治家のことを少々記載したけど、最終で言いたかったのはそこに働く者のことを一切考えずに何かをやってしまう。これが許せない、ということなのだ。このような観点から宇和島を見ると、以前にも記載したが、これと同じような考え方になってしまっているのである。バカらしい、と僕は思うのだが、市民と対話していないし、職場が市民から槍玉に挙げられているから反論も出来ないだろうな。ますます旧態依然の世界になってしまっているようでならない。
 夕刻はNHKのローカル番組「伊予時てくてく」に職場の牛鬼保存会の牛鬼が出演するので、ニコンF-2を肩に出かける。久々の重い一眼レフだ。もう通常はキャノンのオートボーイで済ませているから。
 ま、時間の都合上フラッシュは使用禁止なのでISO 400のフィルムでも本番では少々辛い。それゆえ、大半は30分前のリハーサルが基準になる。話は変わって、本番中は、主演は永井さんをはじめとしたキャスター達だが、実は陰で動いている方々が主役である。2人のキャスター、水中カメラマン、漁師、それに牛鬼の担ぎ手に対して、番組製作は10人程度のスタッフが支えている。たかが15分の番組にもかかわらずだ。しかも今回はNHKにしては、ギャラリーの動きはほとんどフリーの状況であった。僕は、どうもこういった姿を見るとうれしくなるし、この人達は絶対に自分の信念を持ってやっているのだろうな、と思わざるをえなくなってくるんだ。同時に、自分も時には前面に出るけど、大半は一歩下がって自分を自分として他人にも意識させている。
 夜のプロジェクトXは食い入るように見た。そうなんだ、僕の持っているカシオのQV-10はこの人達が創ったんだ。ましてや、村上という社員のモデルさんが即座に記録される自分の姿が映し出されるモニターを見て「おもしろい」と言った、という下りだ。末高さん達の技術者はもちろんのこと、秘密裏に行われたデジタルカメラ開発のサポート役が意外なところにいるものだ、ということも初めて分かった。QV-10は今のデジカメに比べて消費電力は多いかもしれないが、あらゆる点から考えて、僕はこのQV-10を捨てる気にはならない。もちろん、今のデジカメを購入してもこのQV-10は持ち続けるであろう。

2002年 7月 4日(木)はれ時々くもり
 わじま牛鬼祭り関係の職場からガイヤ、うわじま踊り、走り込みなどの参加チーム、参加者数などを教えてもらったのだが、走り込みの参加者の少なさに一抹の不安を感じてしまった。
 冒頭「うわじま牛鬼祭り」と出したけど、僕ぐらいの年齢の方なら「和霊大祭」がメインで古くは「商工港祭り」が乗っかって形づくられているようなものなのだ。本来は7月23日が和霊様の宵宮、24日がお祭りなんだ。そのフィナーレを飾るのが「走り込み」なのである。かつては昼は牛鬼、夜は和霊様近辺の氏子が御輿を担ぎ、御輿の露払いと警護にあたるのが走り込みだったはずだ。その走り込みの参加団体がわずかに9団体なのである。
 一方、当時の「うわじま祭り」がマンネリ化して低調なために何とかしなくては、と前日の22日にガイヤ・カーニバルと銘打って、そのメインにGaiya On The Roadとそのダンスをくっつけてやったところ、大ヒット。本年は67団体3000人のデレゲーションとなる。
 宇和島踊りも少しずつ人気を回復しつつあって、24団体1300人を数えるになった。このことに関して僕はうれしいこと、と思うのだが、「うわじま牛鬼祭り」と名乗って宗教色の強い祭りを一方的に乗っ取る方法がはたしていいものかどうか?。もちろん渾然一体になったものとすればいいかもしれないが、妙に和霊様のお祭りが前面に出るべきなのに、今では後ろへ隠れてしまっているようでならないのである。
 で、実際は...?。そう、また来年、慰労会でお疲れさま、で終わってしまって、今年の冬辺りから来年はこういったものにしたい、と一つの席を設けて協議してほしい、と思わざるを得ないのである。
 実は今相当苦労してタイプしている。全く思いもかけないことだがPower Book G3のハードディスクがクラッシュしてしまった。大変申し訳ないが、しばらくwww/Grid No.40は今月中にアップロードできないことを申し上げておきたい。

2002年 7月 7日()はれ時々くもり
 夕の今日なのに、とうとう会えず仕舞いであった。早朝から、Power Book G3 の件で色々考えていたが、SRのマフラーの確認と併せてエレクトリックパーツ高知まで出向くことにした。
 相当快調なSR500は往復とも変化はなかった。このことはいずれ報告したい。さ、エレパでは東芝の30GBのハードディスクを購入してきた。症状を告げると、もしかこもった熱が災いしているのかもしれませんね、とメカニックの話。そういえば、最近はメモリー下部が相当に熱くなっているのを確認している。
 帰宅してG3に装着したハードディスクにパーティションを切ってインストールしよう... とCD-ROMを起動させたが、ハードディスクそのものをまるで認識しない。ハードディスクはコネクターの装着不良だったが、ディスクが回転するもシークしない。
 メモリー部分のCPUカードを引っ張りはがそうとして引き上げると、合成樹脂ヒンジがパラパラと細かく切れてしまった。数回同じCPUのカードを確認したが、ウンともスンとも言わなかった。
 もはやこれまで。一瞬何かが脳裏を駆けめぐった。'99モデルのPower Book G3の時から放熱問題は僕が言い続けてきたことだ。今回は僕のマシンに起こった。どんなに考えても、修理するとなると、最悪でもすごい金がかかる。このことから、Power Book G3を捨てることとした。
 もったいないような、何か後ろめたい気分が走る。ここまで3年間すごく活躍してくれた。この際だから500MHzを購入、という手もあるにはある。が、同じ熱の問題は冷却台などが必要なのは言うまでもない。通風をよくしようたって、内部の熱はヒートシンクを装着していても、あんな小さいファンでは無理のようだ。
 しばし、どうしたものか頭を冷やして考えてみたい。この文章だってDuo 2300cだし、テキストエディターのようなものだったら、意外にもPower Book 150が快調なんだ。そういったことからも、次の機種をなんとかしたい、というのが今の偽らざるところだ。一日500円での生活をやれ、と言われてもいとわない覚悟(爆)なのである。

2002年 7月 8日(火)雨後くもり
 ったくヤリキレナイ気分で朝を迎えた。というのも、NHKラジオの深夜便が途中で放送が無くなっていて、気づいたのが3時過ぎ。何をするまでもなくじっとしていたら眠ってしまい、5時半に目覚めた。
 雨模様の天気は職場へ到着すると同時に大きい雨になってきた。台風が近い。日頃の愛用のマシンが無くなるとこんなにも悲しいものなのか、ということをつくづく知った。周りの空気が違うのだ。どうしても職場のPB540cではATOKと英語の切り替えは相当に遅い。キータッチがよくないこともあって取りこぼしが頻繁だ。数行の文章でも結構な時間がかかってしまう。時間がどんどん過ぎてしまう。
 職場に業務用の大きいシステムが明日入るので、今日のうちに金曜日に使う資料づくりを行っていた。室内の乾燥した冷気と、湿気の多い外気とのギャップは窓ガラスに水滴を結ぶ。ひどい状況だ。
 そういった中、不動のPower Book G3をMt MouthのマスターYさんへ手渡す。今の心境は安く修理できればいいが、ということだけ。マザーボード交換などになって10万円単位の修理なら思い切ってPower Book G4かiBook2の導入を考えないとならない。少しでも僕のリスクを少なくするならiBookの12インチのコンボドライブだろうか。これなら毎日のように僕の傍らで働いてくれそうな気がする。形などの入れ込みは今は考えるまい。強大なヒートシンクとファンモーター、それに強い筐体は今の僕の使用条件にぴったりだ。
 退庁後、一つの会議をこなして帰宅。受信メールの確認をDuo 2300cで行う。一瞬職場で導入を考えているeMacがほしくなったが、今はそれを置くスペースがない。
 昨日同様にHoopsからのメールを受け取るがまったくラチがあかない。今さらGoo?、と思わず考えてしまった。「Gooのメールサイトへ送っている」、というのだ。そんなバカな?と思いつつアクセスを試みる。「ようこそBoneさん、39件の最新メールが届いています」といった表示。何のことはない、無料のホームページだけが異動しただけに過ぎず、他は今でもGooのユーザーなんだ。Hoopsから送られたメールを確認。今度ばかりは保存はもちろん、IDほか全てを書き留めて置いた。Fetchでディレクトリを開くと39号のファイルが見事に残っていた。
 ようやく復旧への足がかりがつかめた。と同時に一気に脱力感が支配した。ともかく今日はここまでだ。まずは一安心。が、最新のマシンがない。ちょうど夜にNHKローカルで放映された「正岡子規の野球」のように、www/Grid 40へ向けての一歩が始まった。

2002年 7月14日()くもり一時雨
 の台風が近い。僕は自分の6畳の部屋でじっとしている。昨日の須賀川の清掃は参加しなかった。これがどうだって言うんだ。勤務評定に引っかかる?。そんなのなら祭りに出るな!。祭りは出たい... と、というのならしっかり出場しろ、それによって「人様にも喜んでもらえたし、自分にもいいものが得られた」としたなら、これが真のボランティアだ。
 で、掃除のことは「ボランティア募集」とおぼしき手合いのいい無料の奉仕作業だ。僕の住むところなら、丸の内の和霊神社を整備していただきたいところなんだ。
 ま、そういったところで寝苦しい朝を迎える。幸いご近所の建築作業は休日だ。僕はどうしたものか?と考えたが、この際だから、ここでアップロードを終えようと考えた。
 実は、このことは金曜日に遡る。Duo 2300cの動きがおかしい、と気づいたのは金曜日だ。Power Book G3もぶっ飛んだ。おまけにフロッピーディスクの保存ファイルもディスクがぶっ飛んで終わった。そういった中での作業が1週間続いた。メール関係も復旧に数日かかっている。加えてDuo 2300cの動きがおかしいときている。
 考えに考えた末、昨日OSを7.6.1〜8.1にアップ。これによってすべての動きが過発になってきた。それでようやくwww/Grid 40のアップロードができた次第だ。
 多くのぶっ飛んだのを思い出しながらもう一度文章化する、という相当な作業なんだが、これも終了することができた。いつも通りのアップロードだ。もちろん僕のミスから出たことだが、本文中では大変さは感じることができないだろう。それはそれでいいと思う。
 夕刻から酒道場で数日間の慰労を個人的に行った。同席していた方がどうも絵心があるらしい。マスターへのプレゼントの水墨画を見てそれを納得した。彼は今年上野の何とかという美術展に入賞し、これからの道が開ける... 、ということらしい。
 しかし、無理とは考えても、僕はこういった場所に少しメジャーに近づいた。が、彼は今の生活をどうも変える様子がない。僕はここだ、と考える。プロはプロでも、絵だけで飯が食っていけるかどうか疑問だ。モンマルトルの広場ででも同様だろう。
 ところが、日本では多くの画家先生がメジャーデビューした途端に浮かぶか沈むかの世界だ。僕は彼がこのままこの宇和島で何らかの活動をしてほしい、と思わざるを得ない。僕の友人で同級生のMは未だに作品にI was born in Uwajima... と記載している。近所のYは訳の分からない絵を描く。直感で受ける以上に、作品に込められた内容を、作品に目を近づけさせることを要求している。「あほかいな」の世界だ。このことがいいかもしれないが、Yの考え方は僕は批判する。もうお一方Oという著名な画家がいらっしゃるが、彼のことをここでとやかく言っても致し方ない。
 というところで、ライブの作品ということを主とすれば、僕は酒道場で本日お会いした方の生き方が必要なのではないか、と思わざるを得ないのである。
 僕のwww/Gridがようやくにして復活できた。しかし、ここに費やした時間が大きすぎて、職場での情報などの文章は全く遅れてしまっている。こういったことを考えると、最新の機種が僕の手元には数台必要、という結果になるのかもしれない。

2002年 7月20日()くもり時々はれ
 は本当にくだらない署名活動のために松山に出かける。有事法制反対の署名でも嫌と言うほど味わっている我々に対する松山の市民の態度。ま、自分たちがどうかなったときに、個々人に影響が出るかが分かることになるのだが、その一歩手前は今の松山市民には一切分からないのだろう。加戸県政、中村市政にうまくごまかされているのだろうな、と思わざるを得ない。宇和島でも石橋市長にいじめられている僕だけど、松山は市民全体がうまくごまかされているように思われてならない。
 男女のいいカップルでも、こういった状態だし、数年後結婚して子供ができて、その頃は松山市も住民は背番号登録制だ。合併後の旧近隣町村に銭を出さないとならないし、市民からの要求にメッチャクソ対応できないかもしれない。そういったところで、そのカップルは「あなたのことですから、私たちは知りません」という行政サイドの言い分に納得せざるを得ないことになっているのだろうけど、それぐらいのことを「今」現実問題としてわかりゃしないのだろう。
 そこが小泉君のねらいだろう。「これなら!」と国民に思わせておいて、自分勝手にことを進展しやがる。気にくわないところは自分が乗り出すまでのことはない。言い換えれば「できないのなら新しいの(人)を用意しますよ」といわんばかりに。小泉君のメールマガジンに記載されていることにはなっていない。
 嘘じゃない。宇和島だって、九島を「東京の夢の島」にするのか?。柴田前市長が言った他愛のないことが現実になろうとしている。宮下の終末処理施設は廃棄になるのは事実だ。この財政逼迫した今、合併特例債をあてにせず終末処理施設はどこに造るのか?。こういったことは市長の直属の担当が十分に機能していない。
 九島の住民が本当にそれを希望するか?。道路を広げ、橋を架け、終末部分を受け入れる。そういったアセスメントすらできていないし、地元の声も聞き入れられていないようだ。
 何人か中央のエライサンが来たらしい。その人たちが対岸の戎山の造成地をどう感じたか?。僕個人なら、その戎山の造成地に終末処理場を持ってくるべきだ、と強く思う。
 九島の開発を今やって本当に有利かどうか?。離島振興法の補助金は出なくなる。九島のフェリーボートはどうなる。そこに働く人はどうだ。橋はできた。来るのは産廃の自動車ばかり。こういった負の部分は一切出ない、というのがパターンだ。
 合併でも同様だ。僕は決して負の希望ばかり言っているのではない。そうなることが分かっているのだから、じゃ、どうしたらいいのだろう?を市民と一丸となって考えようとしない。市長が常に言ってきていることでトップに持ってきていた市立宇和島病院の改築計画はどこまで進んでいるのだろうか。九島のことも「今は計画すら銭がないからできない」と明確にしない。
 市民のみなさんがおっしゃることですから、と希望を持たせるように受け答えをする。こういった八方美人的なこと、とそれに携わる我々は締め上げる。こういったこが安上がりの行政をやろうとする石橋君の民間企業時代に身につけた考えだろうか。

2002年 7月21日()はれ時々くもり
 は比較的涼しい時であった。間もなくいつもの熱帯モンスーンに似た天候がやって来る。幸いにも風がいつもより多く吹くのでこの点が助かる。日中でも日陰が多くなるとこの面では自然の冷気は人工の冷気に勝る。ごく普通の光景が不思議に感じてならない。これが土の地道が残っているのなら、涼しさは一層際だったものになるのは理科の実験から言うまでもないことだ。
 そんなこんなで本日は一日中、マシンとOSの関係を実験していた。Duo 2300cはOS 8.1にしている。じゃ、獅子奮迅の150はどうしたものか?。これはインターネット・スターターキットを組み込んだ。ブラウザだけをOSに対応する新しいものに変更すればいい。次いで... 、と考えたが、どれをどうすることは、そのとき感じていなかった。迂闊でも何でもない。第一にインターネットの関係なんて、表面上はそんなに難しいものではないからだ。
 しからば、Power Book 540cもOS 8.1にしてしまえばいい。そうすれば、Ethernetも職場で使用できるから好都合なんだ。問題は、それがCPUのMC68040で過不足無くいけるかどうか、というところにあった。
 午後から職場で使用しているPower Book 540cを持ち帰る。Duo 2300cより簡単にアップデートできた。実際に稼働してびっくりしたのは、「速い」のである。そんなバカな?。多くの著作には7.5.5が一番いい、と書かれているではないか。
 もう躊躇することはなかった。迷わずPower Book 540cもOS 8.1にアップデートを行った。結果はおして知るべし。その通りだったのである。
 さ、お祭りが終わってからが最初の職場での540cの使用だが問題は出ないであろう。その上にEthernetに関しても問題がない。マシンがマシンだからどうのこうのないが、今一度、この時代のOSを再検討するところまで来ているのではないだろうか、と思わざるには得られないのだ。

2002年 7月24日(水)はれ
 天気、僕はこの日は常々和霊神社へ詣でている。今日も山小でうどんを食べた後詣でた。しかし、その道中はすさまじいものがあった。とにかく「人」が居ないのである。本当のことだ。以前だと多くの方々が朝のひととき、和霊様のこの日に詣でていた。その人々が居ないのである。
 商店街でも昨日は子供から大人まで楽しめた。が、後かたづけも終わって迎えた朝は人が居ない。あの燃え上がるような熱気が全く感じられないのである。
 外は走り込みが始まったようだ。花火が勢いよく上がる。そういえば誰かが言っていたが、今年は花火屋を変えてこの結果だから大成功、というのらしい。
 そして運命の一瞬!。そう、そんなに力入れる必要はない。「Power Book G3の修理が完了した」、というMT.Mouseからの通知。OSもインストールしているので、手間賃の4,000円でいいよ、というのである。狐につままれたような話。「で、どこが悪かったの?」と聞くと、「どこが悪いということはない。内部リセットを行った」という。「内部リセット?」、同僚のM君に聞くと、バラしてでもやった方が... 、といったが、ま、この程度で助かった、として今回の件を受け入れるとした。
 しばらくは職場に置いておいて X 関係のことから何から最初からじっくりやってみたい。でないと、本当に使えるかどうか、こういったおかしいこともはじめの一歩なんだ。
 花火も終わった。御輿も社殿に戻った。また来年までの1年を良き民たちの詣でを迎え入れられるのだろう。今年の祭りがどうであったのか?、それは祭りに携わった方々の意見集約で来年へのステップになるだろう。が、その声の中に民の多くの声が入れられるかどうか、そこがいつもネックになる。

2002年 7月26日(木)くもり後雨
 Power Book G3の急速なレストアが始まる。しかし、結構な時間がかかってしまう。理由は簡単、9.2.2と X とを両方ともそこそこの環境にしなければならないからだ。不思議なことに X の方が先に片づけることができた。最終は家にあるDuo 2300cのQuickTimeを5.0にするところまで行った。どうもビジュアル系がおかしな動きを助長していたようだから、8.1で行けるかどうか不安だったが、ま、インストールしたところ336のモデムを使用して20分ぐらいでインストールを完了した。思った通り、すべてが快調に動き出した。特にフォントの関係などから、文章のタイピングもジワ〜っと来るようなところが少なくなった。そういえば、少し古めのMacでMC 68040からPPC 604のCPUでは8.1の利用が多いようだ。うまく表現できないが、8.5にするとOSの方が先走るところが多く見受けられるのではないだろうか。
 昼過ぎから台風の強風範囲に宇和島が入り、強い風にびっくり。今朝は「祭りの余韻の余の字も見受けられない街」を感じたのだが、この風雨で一層強調されたようだ。来年の祭りはどうなるのだろうかな。先が全く見えない。

2002年 7月28日()はれ一時くもり
 いとは感じないような未明。4時過ぎ、NHKラジオは心の時代をやっている。うとうとしながら気づくと6時半。ラジオ体操の全国版を帯広からやっている。そういった中、お墓の掃除に出かける。自然の摂理とはいえ、相当な雑草に閉口しながら柔らかくなった土から根と一緒に取り去るのだが、おそらくはお盆の前にはまた掃除に来なくてはならないのであろう。
 今、利家と松をやっている。もはや現代劇になっていてつまらない。朝は中学生日記を最近よく見る。一時期、この番組の行く末を危惧したが、最近になって30分が異常に長く感じる。それだけ番組自体が視聴者に与えるものが大きいのだろう。僕はここに出る先生方の姿をこの愛媛の教育現場で知りたい。が、これをまともにやると、保守王国、最初に勤務評定をやった愛媛の教育現場では好ましからざる教師として左遷せられるのが道筋になっている。僕はこのことはいち早く教育実習、教員採用試験で痛感している。
 そんな中、例のF社の歴史教科書の採択に反対する方々が署名活動されていたが、これは失敗だろうな。そうする、その結果をどうやって県教委へ差し出すか、その後はどうするかまでの大きいプロジェクトのノウハウを持ってないグループと思われるからだ。この中には軍師が絶対に必要だ。そして草の者も。大変僕としては不本意なやり方とは思われようが、時には官憲サイドにも食い込まねばならない。それほどの問題をはらんでいるんだから。でなければ、県の施設に教育勅語なんて今時堂々と掲示しているか?。ここ宇和島ではそれが存在する。僕は決して悪いとはいわない。が、その裏にある、一つの生活の糧を教師という職で得ている一介のサラリーマンにすぎない教師自身のその方が社会の中でどうなんだ?、ということから教育ってものは始まるはずだ。F社の教科書使って、生徒諸君に「これは間違っているな」と堂々と授業ができるよう改訂の学習指導要領は謳っている、と僕は理解している。
 夕刻、早めの入浴を終えて酒道場へ出向く。僕は不思議と人間磁石的なところがある。マスター、女将さんと少々話をしようと思っていたら、急にお客が来て、帰り際には同級生のF君まで来る始末。これまで、と店を出た。
 その後、東洋市場でところてんとざるそば買ってこれを食す。ところが妻がHのすしを買ってきてる。かねがね、旧店舗のHヘ良かったが、今のHのすしは食べる気がしない。はっきり言って「まずい」。すしの味ではない。すし的味付けの飯だ。僕の味覚からするとこうだけど... 。
 これに千円単位の金額を支払うことが、食する前に「もったいない」が先に来てしまうのだ。京仕立てといいながら、妙に味がタルイのである。
 ま、冷蔵庫に入れるわけにもいかにので、窓際に吊して、明日の昼食に回すこととする。不思議だが、このときの方が美味い。酢の配合と飯の状況がうまくいっていないのだろうな、と素人ながら考えてしまうのだ。
 どうも最近人付き合いが悪い。そろそろ老人への一歩を踏み入れようとしているのかもしれない。

2002年 7月30日(火)はれ時々くもり
 来は宇和島道の土砂災害が先のはずだが、僕は別にそんなに恐れはしない。現実にはそんなことは気にならないことなんだ。それよりも、古いPower Bookそのものが作動自体を含め、妙に旧態依然としているところが多い、と知るところだ。Duoに至ってはWeb ブラウザ自体のバージョンでもクリティカルに反応する。この辺がPPC 603eというCPUのをあきらめざるを得ないのではないか、と感じている。
 さてと、夕刻から「外から見た宇和島」と題する講演会が催された。僕は講演前に講師に会って「こりゃダメだ」と思った。現在80才らしいが風貌や考えからそれは感じられないが、意見を押し通し始めると、まずは若い人たちには受けなくなる。
 何しろ旧宇和海村のこととはいえ、タバコぺーパークラフトの段畑を講師は「こんなにやっているところはないでしょう」、という。実際は推して知るべし。実地では芋を売った。
 理事者と市民の言い分は分かるが、いくら講師が宇和島出身でも「宇和島の宇和島」を知らない方がどうの、こうの言ったところでダメだ。それを今の宇和島市民の多くが知っていないのだ。で、どうしたら宇和島にプラスになるのだろうか、を投げかけてほしいのだが、それもままならない。
 いったい宇和島って何だろう?。相当将来まで解決しそうにない。
 こういった、今の宇和島に何をどうして何とやら、その一歩からどうするか、を考えねばならない。それが「トッポ話」でもいいのだ。
 こう考えると、合併は失敗だったかもしれない、と言う気分が脳裏を横切るのである。

2002年 8月 2日(金)はれ
 んでもなく暑く長い一日が終わろうとしている。間もなく広島に原爆が投下されて57年目になる。7月31日は反核平和の火リレーが行われ、僕も走った。確かにあの日もこんなような炎天下の一日になるはずだった、と想像した。1kmほど走るのだが、何となく苦しさが分かる。ずいぶんと歳をとったな、と思わざるを得ない。
 昨日は日振島へ仕事で出かける。ピンピン飛ぶ吸血虫にやられた。猫ノミだ。古い家で猫が住み着いているからだが、我が家では免疫になっているのかしら、靴下のフリース編みの部分だけ注意して始末した。後は日中暑いけど日向に数分居れば一発でOKなる。
 そういった大変な数日の後で今日を迎えたのだが、おかしなところから呼び出し電話に奔走させらられた。先方が先方なので、今日はダメですと言えない立場。あわてて出向くとこれが30分で終了。核心部分はやはり対面で、ということゆえのこと、致し方あるまい。
 夕刻、この件でちょいと帰宅が遅くなる。とどうだ、午後7時前なのに、加戸知事がクラブKに入る姿を見かけた。黒いプレジデントでスーツ着用のエグゼクティブだったし、こういったところにも公用車で乗り付けるのか、ということに妙にやりきれない気分になってしまった。夕食会としての席がはねたのなら、僕ならこれからはお呼ばれであっても私用だ、としてその立ち居振る舞いを行うが、いかがだろうか。この辺のところが永田町の面々も同じことをやっているのだろう。
 いい加減静かにさせてくれ、と言わんばかりになったときに、K氏から「戦艦大和の写真が入手できた」という電話。職場のS氏がほしいというのでK氏に1年ほど前から打診していたのだ。
 もういいか、と思うと、今度はT君から「20日のベンチャーズ公演はどうする?」という電話。行きたいが松山までなので今回は遠慮させてもらった。
 ようやく落ち着いてメールの確認すると、これが10件以上たまっている。遅いダイアルアップだからダウンロードするだけでも15分もかかる始末。何をかいわんや、である。本当のところ、ADSLにしたいんだよな。
 で、この日記をアップロードして終了だ。朝の6時からの1日がようやく終わった。

2002年 8月 3日()はれ
 のところ、スッポンポンでお休みしているものだから午前4時前後に思わず窓を閉める。ついでに扇風機も切る。ご存じのように、職場でのウィークデーは冷房被害に見舞われている。しかも暖かい方に。不思議なことだが、職場のそれは各々の送風機が頭を持っていて、どこかの送風機の下側がおかしい温度変化を示すと即座にその周囲の送風機が温風だの冷風だのを浴びせかける仕組みになっている、そういったエアコンを装備しているのだ。
 特に数年来馴染んできたエアフィルターを交換した後は、センサーが一瞬たじろぐ。その結果が、先に述べたとおり、暖かい方向で僕の席の周囲をエアコンが支配するのだ。本当だよ。その技術は昭和51年当時最新だったんだから。
 ま、そういったことがあって、今は12〜3年前から僕の部屋は扇風機オンリーだ。別に不自由はしない。以前だとお隣が屋上に緑物を栽培されてたから、その水やりでいくらか涼風が舞い込んだが、この間の火事以降無くなってしまったので、涼を感じるのは午後8時を過ぎてからだ。
 昨日記載した光景は少々物議を醸しだした。その真意をつかみ取るまでには行かなかったが、結構気にとめていらっしゃる方が多い。事実、すっぱ抜きの記事で「知事、公費で飲食」。サブタイトルは記載するまい。こういったのが出るとどうだろうか。郷土の E 新聞は出さない、否、出せないだろうな。記者の首がかかるから。
 宇和島にはオンブズマンが居ない。九島のエコアイランド構想、これに対して戎山の造成地のことは一切でない。市立病院の建て替えに大きく関係の出る検察庁ほかの移転、これらはその事業一体で進めるべきなんだが、それすらできない。
 市長は加戸知事の元で九島のエコアイランド構想をもうしゃべってしまっている。九島に橋が架かって、道路が2車線になったところで、地元住民は本当にいいのだろうか?。確かに行政に関わっている僕としては真に突っ込むことができない。
 が、合併で「宇和島市」は無くなりますよ、ということを市民の何人が知っているか?。九島のエコアイランド構想はこういったことよりもっと重要なことなんだが、真意を全く知らされないままで事業が行われるからダメなんだ。明倫町の土地の問題と同じようなことを九島にしても将来に尾を引きそうに感じられてならないのである。
 市長も銭を使うなという。「宇和島市役所優先」の職員いじめばかりに注意するのではなく、もっともっと大切な住民意識を無視した行政をやらないでほしい、と願うばかりだ。そうしないと、宇和島は潰れる。
 赤字再建団体になってもいいのだ。それより、「宇和島のいい面を潰しつつ、やってしまった」という、その結果が僕は一番怖いのである。そのときには住民は各が「我が道を行く」となって、宇和島は崩壊する。人口が60,000前後であっても、かつての進取の希望にあふれた宇和島には一切帰ってこない。宇和青果の跡地から始まって、国の施設の移転など、前市長の考えを優先させた腰から上のことが実際になろうとしているのである。宇和島自動車は「ダメ」という文書回答をしたが、それ以外は確実に進行していることだ。当の国の施設を本当に移転して、住民サービスに対応できるかどうか、これもはなはだ疑問である。宇和島市のことを考えると、よほど気をつけないと... 。まずは市職員から見本を示せ、と言われて多くのハンディキャップを背負った。一般の銭がない上に公務サイドまで銭を削られたらどうなるかを、市民も分かっていただけたはずだ。僕でさえ支出防衛に走るのは言うまでもない。
 市長以下の管理職の賃金は下げたが、市民の代弁者の議員報酬は未だにそのまま据え置かれている。当選して数年になるのに一度も質問しない議員も多い。こんな議員に月40万円近い報酬を払う必要はないし、議員としての存在は必要ないのである。
 思わず言いたいことを申し上げたが、これが現実だ。昨日、旧愛媛丸の係留地神奈川から水産高校のPTAの方々が宇和島水産高校の記念碑に献花された。この方々をたまたま宇和島に来ていた加戸君は、この方々に謝辞を述べるとともに対面して何がしか話をすべきではないか。もしクラブKに行かずこの方々と懇談していれば、印象は相当に違ったものになっていたはずだ。それほど愛媛丸の件は根深い。ましてや係留地の関係者が居らっしてるのだから。
 決して誹謗中傷ではない。数分でいいんだ。僕が今の水産高校の校長なら、対面させようとやるだろうし、何とか連絡を付けようとするがな。
 ま、思う以上に愛媛県政もそんなにいいものではない。山登坂ダムのようにいつまでも引っ張らず「ヤーメタ」がどうして言えない。それより、石手川ダムの上に砂防目的としたダムを造った方が... 、ま、そうはならないのだろう。県都松山のことではあっても、河川は愛媛県だ。2年後には夏目漱石も野口英世に変わる。文章でダメなら病理の世界で愛媛を堂々としたものに変えてほしいな。たとえ貧乏な県であっても。

2002年  8月 6日(火)はれ
 57年前広島に原爆が落とされた。広島市長のおっしゃるとおり、毎年のこの日に行われるフォーラムなどの活発さは別として、日本人民全体が、この、あの時の惨事が非常に希薄になって来つつある。僕のように、実は原爆は接地して爆発したものではないんだ、ということから始まって核融合の云々の一端を知りはじめたときから、「恐怖」を感じはじめたわけだが、今の若い方々、幼い方々はそういった「死」というこわさを知らない。これは誰がどうということなく、現実に「それがあるかもしれない」を身を持って知った東海村の惨事ででも、今となっては遥か過去のことになっているに過ぎないのである。
 世界では、インド・パキスタンのように、実際にこの間核を保有した国もある。臨海前かもしれないが、実際に広島・長崎の一個人に与える見えないものが原因での病気にかかり「死」に至る恐怖を体験しなければならないのだろうか。
 しかも、チェルノブイリでの惨事は遠い記憶の中になってしまっているような、そういった社会の状況になってしまっている。
 仮に伊方でこれが起きたらどうだろうか?。ことは空気を通じてぐらいではない。そこの海水を含んだプランクトンを飲み込んだ魚は第五福竜丸ででも分かっているとおり、松山をはじめ遠くにバラ撒かれるのはお分かりだろう。
 原爆と違い汚染レベルは小さいかもしれないが、被害はチェルノブイリと同様の結果が待ち受けているのは明白なんだ。
 国では有事立法云々を言っている。どうだろうか、日本国民は一億艘奴隷か?。背番号いっぱい付けられて、日々の生活をやってる。北海道に出張中の方が宇和島の住民票を籍はそこだから、と取得するだろうか。
 僕は、これは単に認識番号(プラトーン)か、日本国民であるとしたIDカードに止めておくべきだ(った)と感じてならない。免許証番号でさえ有効だ。これ一つとってもID番号になりうる。それを上回る多数のこと何から何までを一つの個人番号で処理するのは57年前までの大本営のやり方を踏襲するものと何ら変わらない。
 小泉という一人の人物がトップにいてのらりくらりやられる間、その取りまきまでも葬り去らねばこれは治りゃしない。バカげている考えかもしれないが、痛みを伴った結果、痛みを伴わせた者に再び痛みをお返しする、そういった方策をとらないとならないのだが、ま、日本国民総てが「バ〜カ」と世界から知らされるまでは無理だろう。
 それほど、進んでいるようでベースは旧態依然、それ以上に57年前までのあの日々をやっているようでならないのである。

2002年 8月 8日(木)はれ一時雨
 暑いが、日中に少しばかりお湿りがあると、結構しのぎやすいものである。僕の服装はユニクロのボタンダウンの半袖とチノパンツとソックス。それに下着だ。シャツは厚めのオックスフォード生地だが、なかなか調子がいい。
 事実、本日は午後仕事で寄松を歩き回った。これはこれで仕事ゆえ致し方ないし、早いところ冷房の効いた職場へ、となるが、この間記載したように一部分は暑いのである。
 夕刻まではいつもの通りだ。が、なにやかや記載しようとしていたところ、遅くなった愛媛新聞の朝刊に目を通しながら一瞬焦った。「平成14年8月8日付愛媛新聞5面」、そこに出た写真がこれだ。紙面の写真をQV-10で複写し、若干の修正を加え、紙面のものに近づけたものだ。どうだろうか、おかしいと思わないだろうか。
 素人の勘ぐりで申し訳ないが、写真全体はデジカメのニコンのDいくつだろう。あまりにシャープネスを効かせたか手前の女性が浮かび上がりすぎる。二人のアイスキャンデーの向こうの麦わら帽子の男性とスロープ状の茶色の建造物、それらの影が微妙に違和感を感じられないだろうか。ピントがほぼ均一にとれる可能性が強いデジカメの特性かもしれないが、写真全体に違和感が感じられる。

 僕が感じるのは、これって「合成?」ということだ。愛媛新聞の名誉にかけて「そういったことはありません」と返答されそうだが、不思議な写真だ、ということは疑いがない。
 あまりにディジタルの世界へ入り込むと結構思わぬところでポカが出るのだ。失礼だが先日のバラバラ殺人事件で、被害者の勤めていた店が渦巻き状のモザイクかけて愛媛新聞に出ていたが、修正するもしないも実に簡単、紙面のその写真から目を離せば渦巻きが気にならなくなり容易に場所が特定できるのだ。
 僕はこれらのことに文句を言うものではないが、一つの「デジタルカメラ」とその処理によっては、真実の写真ではなくなる可能性を十分にはらんでいる、ということを新聞記者に知っていただきたい、ということである。予算的に少ない人員配置だろうが、一人の記者が何でもやろうとすると結果如何によっては大きなペナルティーが待っているかもしれないし、新聞自体の信用性にも関わる、ということをキャップほか十分認識していただきたい、と思うものである。

2002年  8月 14日(水)はれ一時雨
 盆も二日目だが職場に居る僕も目からすると帰省客も少ないようだ。その証拠と言うわけではないが、近所のレストランRも人出がいつもと同じ。それ以上に道交法の改正以降客は少ない。
 そういえば、宇和島ではこの時期のイヴェントが無いのだよな。以前はお盆の帰省客を狙ったやっつけのようなもの、夏期のバーゲンセールなんてものも確実に存在したが、今は大手スーパーが新聞の折り込みチラシに出しているようなものだけで、個人レベルのお店などでは無くなってしまった。
 昔はお盆に支払い、とかいうものもあったが、現在ではカード決済などで十分対応できるし、貯金なんぞしなくても借金して即入手出来る世の中になってしまっているから、年中行事としてのお盆の墓参りも、宇和島に住んでいる長男とかが行っているだけで、ゆくゆくは見向きもされない状況に陥ってしまうのであろう。午前中にお墓へ行ってそう感じた。
 僕が死んだときには、入れる墓はあるけれど、誰も来なくなって寺に没収となっていまうのではないだろうか。こういった不安は合併後の新市になっても一向に減ることはないだろう。経済圏が膨らむと同時に働く場が減ってしまうのだから、地元に特色が見いだされない今の状況ではこの辺は冷え込むばかりだ。

2002年 8月15日(木)はれ(朝のうち雨)
 日は先祖の御霊がお帰りになる日だ。わずか3日間だったが、ずいぶんと多くのことを考えさせられた。お寺関係では、母方のお残りになった方々へは参拝を遠慮した。理由の如何は問われるな、墓標があっても近い縁者はこの墓に眠っていない。しかも水差しが無いから、この墓は無縁なんです。
 が、死亡された年数が違う、というだけで宇和島に残された方々は、僕がお祭りするべきかどうか考えたあげくの行為だ。
 話はかわって、九島のエコアイランドの構想が活発だ。本当に地域住民は腹を割った話を重ね、この構想を納得し理解できているのだろうか、はなはだ疑問だ。
 そもそも、こういったことに至ったのは、今の市長が全く酒が飲めない。したがって、多くの意見が交わされる酒の席に市長が肝心な時に居ないものだからどうのこうの言えない。僕の知っている高光のK氏のように、酒が飲めなくてもファンタを飲んで素面ながら酔った気分になって、その席の方々と意見交換し、二次会まで一気に行く、そういった気概は今の市長にない。
 幸い助役は酒豪だが、今の市勢の中ではご自身の考えを「酒の席で申し訳ないが」といった雰囲気にはならない。
 こういった中で、大きい事業が住民不在のままで推進されようとしている。僕はこれは恐ろしいことだ、と思わざるを得ない。九島の「夢の島構想」しかり、市立病院の改築しかりなのである。
 いずれも市長が一応の会を終わって地域住民と酒を酌み交わしながら十分にうち解けて懇親するか、というと、これが全くできない。酒が飲めなくてもウーロン茶片手に前述のような状況で延々2〜3時間はやるべきだ。
 立場は違うが当然僕もやるときにはやっているんだから、一般市民もそれにならわなければならないのだが、税金泥棒と言われかねない。僕は自信を持って「どうぞ職場に来てください。そして炎天下一緒に家屋調査の仕事を見てください」と言うことができる。が、その状況を市長は十把一絡げで「仕事が生ぬるい」と言うし、「こういったことをしている」と逐次説明しない今の市側の体制では一個人の一般職の職員が熱弁を振るってもダメなのだろうな。
 太平洋戦争終戦から57年目の今日、日本国内は全くまとまりを欠いている。

2002年 8月18日()はれ一時くもり
 当はね、昨日これを記したかったわけなんだ。松山へ所用でSRで出かけた。いつもと違うSRに少々どぎまぎしながらのライディングであったが、別項でこのことは次号あたりに申し上げることとしよう。
 本日えらく気になったのは利家と松でのことである。柴田勝家が戦で敗れるのだが、その一端は先週の番組でのこと。が、戦いに負けた後の各々の武将とその取り巻きの身の振り方が今週の偉く気になった点である。
 今の僕の様子だといいものはいい、悪いものは悪いという観点からか、たとえ負けたにせよ、敵は敵という立場がずっと残ってしまう点にある。仮に、いがみ合って戦になって僕が負けた場合には負けた以降も延々と遺恨が残る、そういった状況下に今の僕は在る、と感じざるを得ないのである。
 闘いの後はどうしても心が開かれないままで、苦渋の握手をせざるを得ない気分である。秀吉の立場であったにせよ、あれほど堂々と前面に出ることはない。秀吉のみそ汁を注ぐ利家の立場とはまるで異なり、納得ずくで「昨日の敵は今日の友」にはならない。トップにいてもいつもセカンドポジションに居るような、それほど僕は人がいいのかもしれない。
 また、今の僕の状況で日々の生業が続けられるのも、のその裏のには妻が重要なポジションに位置しているということがあるのだろうな、と感じる。例えようが悪いが、このことはMac OS Xの「不可視ファイル」と同じだ。番組中の松はある程度前面に出るが、我妻は一切出ない。その上で、僕をプロポの6チャンネルあたりでコントロールしているようでならない。決してノロケでも何でもなく、よく振り返ってみるとそう感じるのである。
 話変わって、甲子園での高校野球は四国の全県代表チームがベスト8に残ってしまった。明日からの組み合わせでも四国勢同士の対戦にならず良かったが、川之江の9回は少々勝ち急ぎのように思われる。この点は反省だろうな。しかし、明日以降、何ともすさまじいことになってきた。 

2002年 8月20日(火)はれ
 群の天気、朝夕は少し涼しくなった。昨日の夕刻、SR500のキャブに手を入れて一定の結果を得たので、今日はその続きを行う。いつもだと、焦ってしまい方針さえ見失うところだが、仕事が暇なのを口実にいろいろ紙面に記載して推論を付けて実験を行うこととし、うまくいくと、本日の実験で90%以上の結果が残せるのではないか、というところまでになった。あくまで机上の推論だ。
 午後5時20分から作業開始。タンクをはずし、キャブレターを斜めにしてダイアフラムと制御スプリングを取り替える。それに付随して今回はメインジェットを交換したからテスト走行は午後6時からになった。妻は僕が帰るやいなや脱兎のごとくオートバイに取りかかるのを見て、夕食すら作らず出て行く始末。「また始まった」と感じているのだろう。
 走り出すと、とんでもないことになってきた、と一発で感じる。コースはいつものテストコース。帰宅の自動車の列の切れ目を縫って高速もテストするが、一瞬たじろぐも80km/h程度だと余力すら感じる。タイヤの減りなどから立ち上がりは緩やかだが、120km/h近くは行く。アイドリングも1100rpm辺りで落ち着いている。若干「もう少し... 」という感じはあるが、長い距離を走らないと結果が出ない。しばらくはこの状態で様子を見たい。
 とにかく成功だ。テスト走行から帰って、2時間ほど市内を歩き回っていた。夜のとばりが降りても飲屋街には人手が少なく、近所のNHで総合の飲み食いが安い金額でできるから、団体となっても高額ワリカンの二次会は無いのだろう。二つの団体とすれ違う。台湾エステの呼び込み女性など、僕を100m以上も走って追いかけてきてパンフレットを渡そうとする。コチトラ家に帰るの、といったところで食い下がるから、家に帰るのが悪いか!という始末だ。
 思わぬところでこの街の発展性が一切無い、と感じてしまった。宇和島に「寝泊まり」するにはいい街だが「生活する」にはちょいと難しい。真に宇和島の発展なんぞ考えている連中はこの市中におそらく居ないだろう。合併しても同様のことはまだまだ続きそうだ。

2002年 8月22日(木)はれ
 明に思わずケットを掛けたくなってしまう、そんな季節になった。でも、これは嘘に違いない。まだまだ夏が踏ん張っているはずだから。
 そういえば、今年は全く泳いでいない。まず、この辺の海では泳ぐ気がしない。養殖魚に与える餌の油分が混入してる。これは日振島でも同様だ。かといって、プールもチト閉口してしまう。児童生徒で満員に近く自由に泳ぐことができないからだ。
 自分のホームページのトップを見ていると何かしら気になって、仕事の終わった後職場で変更を試みたが、Netscapeで作り替えすると上手くいかない。もちろんOSを9.2.2に戻してNetscapeも4.7でやっても同じだ。1時間半はかかっていたが、どうもいい方向性が見いだせない。で、我が家に引き上げたのだが、やりだした手前、気になって仕方がなく、まずはダウンロードして、そのコピーしたものにJeditを使って、一つずつタグをタイプし、Netscapeで開きながら2時間半ほどかかってまとめた。Duo 2300cでやったものだから、画面の狭さに少々閉口。こんなのならMC68040のMacと17インチのマシンを使ってやった方が遙かにサクサク動く。Quadra 700でずっとやっていて、途中Power Quadra 700に換わったが、それでも快調であった。
 いずれにしても早いところFetchのOS X用の国内版が出てほしいのだが、一向に気配がない。アップロードするまでの修正が大きいものになるとOS Xでのクラシック環境では少々不安定だ。
 IEのやり方はよく知らないのだが、みなさん方はどうやってアップロードしているのかしら?。といったところでWindows陣営が大半だから言ったところでどうしようもないか。
 

2002年 8月28日(水)晴れ一時雨
 明に雨が降った。この雨で農家も潤うかな?といった程度であったが、相当に外気は冷える。もはや真夏ではない。この雨は日中にも一時期サーっとくるが、すぐさま上がる。同僚に「松山は?」と聞かれたので「知るもんか、危機感を感じていない奴等には雨なんていらない」と応えておいた。ひどいヤツと言われようがかまやしない。事実じゃないか。8年前より2カ月ほど後で起こった今の雨不足だが、あのときと違って松山市民の多くは気にもしていない様子だから、僕はそう思ったまま言ったまでだ。古い宇和島なら雨ごいの神楽でも奉納して雨を呼ぶ祈願祭などを行っているところだ。神仏は関係ないとはいえ、やはり神がかりなことでも行うのが人情というものだ。
 職場にもよからぬ噂がたち始めている。合併のアンケートについての雑談で、今の状況なら内部崩壊も起きかねない感じがしてならないのである。何か上司も部下も理事者も一体となって何とかこの状況を切り開きたい、ということからはじまる協力体制を組もうではないか、などは一切ない。  上司からは電話一本で職場長へ、部下にはLANのメールで。上下に一階離れているだけの職場間でこの有様だ。メールでは正式文書ではない、と判断されるからモンクの一つも言えない。一つの件に対して一日の内に数回書き換えのメールも存在する。ペーパーレスなど何のその、インキの無駄遣い、消費電力量などは一切関係ないんだ。「おいおい、バカにするんじゃネ〜ゾ」と言いたくなってしまうのは僕だけではあるまい。
 当の最高責任者がコンピューターを操作できないのかもしれない。否、出来ないなら出来ない、とも出さない。そういったトップの元でぎりぎりの陣容で最大の仕事をしている一般職のことなど「遊んでいる」としか見られていないようでならない。
 それに、上は何からなにまで把握して自分で処理しないとならない、と堅く信じ込んでいるようだから、おいそれと中間管理職が独自に調査研究なんぞ出来ない毎日になっている。そういったことで動きたいにも動けない職場の職員は「ダメ」の烙印を押しつけられる次第だ。決して間違いを言っているのではない。こういった職場環境の中、同様に貧乏同士が合併したって何にもならないのではないか、と考える次第だ。おまけに合併を見越して箱物とか大物を造るようにしているところもある。
 帰りに小富士商会でISO 400のネガカラー12枚撮りを購入。久しぶりにオリンパス・ペンを使ってみたいと思う。ハーフサイズだから合計24枚はOKだ。このカメラってすごくよく撮れるんだ。このことはいずれ本文に記載するとしたい。

2002年 8月29日(木)くもり時々雨
 つもどおりの毎日なんだが、最近は自暴自棄になってしまってどうすることもなく生活しているように思われる。体の不調ということでもない。強いて言うと食物の状況によってはウンチが硬い時があって排便に難儀するぐらいだ。幸いその逆は今夏一切ない。
 今週も知らない間にもう木曜日を迎えている。仕事もほとんど順調だし、何がなんだかわからないことによる鬱憤などが自然に溜まってしまっていたのかもしれない。
 今日は妻が当直勤務である。家の中は猫にも愛想を尽かされているので本当に僕一人である。そういったことを予想しながらの帰り道、家に着く直前からカレーの香りに包まれた。そう、どことなく昔の夕飯前に嗅いだことのある、通常のカレーの臭いだった。急に身震いして「カレーをつくろう」と一目散に帰る。
 台所に立って見回したところが材料がとぼしい。僕一人だし4〜5皿分でいい。ありましたね、じゃがいもは小振りの買い置き、人参はこの間の炊き込みご飯の残り、タマネギは大きいのが1個。ルーはS&Bのゴールデンカレー辛口とハウスのジャワカレー中辛。そして肝心要の肉は安いソーセージの買い置きとした。ニンニクを二片薄くスライス(中の青い芯は胃にきついので取っておく)、これで万端。
 まずは早くつくる意味あいから人参とじゃがいもは比較的小さく切る。ソーセージはポワ〜っと膨らむから、それなりの大きさに切る。タマネギの1/4は最初のベース用として小口に刻む。残りは長手方向に切っておく。
 少し厚めの鍋を用意し、まずはガーリックオイルをつくる。オイルに香りが着いて狐色になったニンニクは出しておこう。その後ベース用のタマネギを色が着くまで炒める。ここでソーセージを加えて炒めておく。一定火が通ったところで皿に取り出しておく。
 オイルを足して人参とじゃがいもを炒める。オイルが回ったところで残りのタマネギを入れて少し炒める。
 皿に出しておいたベースのタマネギとソーセージ、ガーリックオイルを取った後のニンニクを加え、軽く炒める。このときに塩コショウを軽くして、お酒を少々入れておこう。
 ここで水とブイヨンのキューブ1つを加えて20分ほど中火で煮込む。はじめに灰汁が出るので取っておく。その後鍋の蓋を少しずらして煮込むのがコツだ。水は少し多いかな、と思うぐらいがちょうどいい。
 人参とじゃがいもが(芯が少し残る程度まで)煮えた頃て火を止める。ここでルーを入れて十分に溶かす。その後少し(5〜10分)煮込む。この方法はS&Bの箱に記載してある。実際火を止めずにルーを入れて溶かすよりうまくいく。おためしあれ。
 先ほどの水の量と同じく、日本のカレールーの大半はイギリス流にスパイスと小麦粉が入っている。したがって、この時点で濃度を硬めにを整えると、残ったものに再び火を入れるときに水分とルーとの混ざり具合がよろしくない。このときのコツは、あくまでルーの箱に描かれたような濃度で出来上がりを整えることだ。
 思わずカレーの調理方法になってしまったが、これを食してみてびっくりした。旨いの何のって、吹き出る汗をものともせず、結局茶碗に3杯分のご飯を食べることが出来た。食べた後の爽快さと後まで続く気分良さは一体なんだろう。
 僕のつくった簡単カレーでさえ即席ルーの中には野菜のジュースがたっぷり入っている。東南アジアとかインドの人たちが、ほぼ毎日、いわゆるカレーというものを食べていらっしゃる意味がよくわかった。決して辛いだけの香辛料ではなく栄養価に富んだものまで含まれる。ふり返って医食同元とは言わないまでも、日本の方々が朝に食す納豆、味噌汁、漬け物など、乳酸菌の宝庫だのに、多くは食さなくなってしまっているのではないか。
 このように考えると、僕の少し元気の無さはこういった「旨いものをしっかり食べる」という単純なことが無かったためだったのかもしれない。お粗末。

2002年 8月30日(金)雨時々曇り
 風が来ているから天気の表現が非常に難しい。リアルタイムなら今は雨だ。帰宅前に時ならぬ電話。何かと思ったら仕事の予約だ。ま、それはそれでいいのだが、執務時間のことを相手は一切ご存知無い。手紙を入れていたので、その返答を今(5時半)している、という次第。こういったことからも市民へのレクチャーをする必要があるのが今の行政・市民の状況なんだ。決して嘘ではない。民間なら収入に関することだから低姿勢できっと応対する。その逆は今日の天気のような状況だろう。
 ま、そういったことで締めくくった仕事だが、昼休みに市長と語る会と称して総務部から皮切りに行われている場所へ出かけた。
 居ますよね、自分の都合を言うヤツが。そう行ったのに限って傍目には感じないが、その裏では「このセクションは私が取り仕切る」が見え見えなの。フレックスタイムったって、そのところが翌日の午前3時近くなって終わったなら、前の日の午前10時出勤として午後8時15分で一日の業務が終了する。三交代制など採っていないのだから、それ以後の勤務時間は時間外勤務手当か?というところまでは考えが回らないらしい。僕がこの間(7時間)の時間外勤務をやって受け取る金額は21,000円を上回るのである。
 じゃ、やるか?といわれると、僕はごめんだ。職場の移動を訴える。それでもやれ、というなら司法の道を選ばざるを得ない。
 そういったようなつまらない会話が続く中で、最後に僕は南予文化会館の運営のことでチラリと問うてみた。「出向なりの広域の正規職員が居ない中、貸し館業務だけになってしまっているのは箱ものが所在する宇和島の文化の発展は望めないのではないか?」とね。市長はいみじくも言ったよ。「業者委託してもいいから、あそこはそういった使いたい側の方向で行きたい」とね。
 僕は一瞬「文化のは花咲く何とか...」は今の市長の元では一切無い、に違いない。
 帰りに酒道場のマスターのコンピューターの状況を聞きたかったので立ち寄る。レレ、僕と同級生の商工会議所のN課長を始めとした面々が居る。帰ろうかな、と思ったが、ま、いつもの席に座っていると、高光の知人が来店、少しばかり助かった。
 マスターの弁ではCD-Rへの焼き付けはOKだった、と聞く。バンドルソフト(エクスプローラーか)でも出来るんだ、ということも聞く。真面目に「よくやりました」と心の中ではお褒めのコトバをかけた。
 少しデジカメのことを出したが、ここまで来ればもう大丈夫。CDなら音楽処理、デジカメなら画像処理を行えばいい。やり方は同じなんだ。マスターはデジカメからビデオ処理が終わればコンピューターはおしまい、というが、もっともっとやることは一杯ある、と強気で言った。
 ま、使う内にその辺は理解できると思う。何しろ僕より年上だし、世間のこともよく後存知。コンピューターはこの間はじめたにもかかわらず、インターネットカフェのキカイの性能が低すぎることに閉口するなんぞ、使っていないヤツには分かりっこないんだから、今のマスターのキカイをしっかり使ってほしい。僕はサゼストするだけ。あくまでコトバのやりとりだ。マスターのキカイを僕が触れば、僕がやることに逐次質問云々はつきまとう。スクールではないながら突っぱねることもできない。この辺の板挟みには、僕が出ない方がいい、と思っている。
 時間も時間だから帰宅しよう、とするとK課長、K公民館長、Y館長と来店されたので、今日は何かしら縁者が集まることだな〜、と感じ入った。
 帰りがけにマスターから「残りのカレーを食べますか?」と言われ、ニヤリとしたが、これまたマジでそれを食ったが、昨日と同じ状況になってしまった。なおかつ、今日は僕が炊いた飯だから水加減がちょうどいい。相当に満足で夕餉のひとときを楽しんだ次第。
 で、この日記を記しているが、マスターのコトバを思い出すと、僕のページも結構読んでくださっている方が多いのだな、と感じた。

2002年 9月 1日()雨後はれ
 の雨も午後には青空を見せ初めた。午前5時目覚める。昨日同僚の新築祝いの席で、いくらいい酒をといっても5合も飲めば流石に気分が悪い。その席で愚痴をこぼすというわけでもなく、和気藹々のうちに飲んだ酒だからいつもの二日酔いというようなものではない。ウトウトついでに8時頃から行動開始。
 まずはShop Schuneiderをアップ。ついでに久々にトライアンフ関係のホームページをサーフィン。結構いいフィーリングのホームページが多い。新生トライアンフのユーザーも着実に増えつつあるようだ。次号辺りにジョンブル魂にリンクしようか、と思っている。
 雨の止んだのを見計らって、商店街を自転車で流す。休日であっても雨のためかしら人では少ない。明日からは二学期が始まるからまたぞろ人は少なくなるだろうな、ということが予想できる。はっきり申し上げて、生活は楽かもしれないが、ここで生活の糧を得て暮らしていくには、なかなか住みづらい町になってしまったようだ。
 午後はオリンパス・ペンの撮影を兼ねてSRを出して走らせる。なかなかいいフィーリングが確認できた。雨で出られなかった買い物客の自動車が多い。チューリッヒの路面電車の利便性を報じた朝のテレビ番組のようになるには無理な話、と確認できる。
 夜の大河ドラマ利家と松を見ながら、長野県知事選挙の結果テロップが流れる。その後のニュースでも言っていたが、あの不信任決議は何だったのだろうか、と思わざるをえない。あまりに不思議な選挙ではなかったのか、と感じる。僕も不信任以後の選挙戦のことなど全く気にも止めなかった次第だ。田中知事が再びその任に就いてからの長野県が歩む道は相当に困難が予想される、と感じてならない。今日の利家と松のストーリー内容にも似ているような気がしてきた。

2002年 9月 5日(木)はれ後時々くもり
 うしたものか考えたが、別の用事もあって昼から2時間ばかり休暇を取る。まずは来週末に新居浜の若い仲間との交流会を開催するので、その懇親会場、宿泊面でDホテルと交渉。ここは定期客があってかしら、週末はなかなか盛況のようだ。急に行ってうまく行くかどうか心配だったが、ままOKであった。
 職員団体のMacをどうするか、と書記さんと話をして「今までと操作が変わらないのなら、(IIciが)もう15年になるんだから、新品にした方がいい」とのこと、中古にするかどうかの気分が吹っ飛んだ。そういえば、大半が業務に使うのだから、新品の方がリスクが少ない。常々言っているように、この機にMacの良さを知っていただきたい。何しろ、市広報はMacで作られているのだから。
 僕の540cも嫌になるほどのキーの取りこぼしを防ぐために少しばかり加工を施した。幾分か良くなったが、まだまだ検討を要する。何しろキーボードのベースがあまりに薄すぎる。少なくとも150ほどの厚さがほしい。それに少しばかりエンボスを付ければ、もっといいものになったのではないだろうか。一層のことだから、2時間ほどかかったが、総てのキーにWD-40を塗布した。スプレーすると、まずキーと電極板の間に何かが出来てキー入力が困難になる可能性が生じる。
 インターネットにも少しつないでみたが、Duo 2300cよりも少しだが調子がいいのだ。どういった理由かは不明だが、この分で行くと280cがほしくなる。が、最近になってこの手のモデルがヤフオクにも少なくなった。280cを2300cのロジックと入れ替えるとどうなるか、ではなく、そのままMC68040で使ってやった方がいいようにも感じる。不思議なことばかりだが、このMC68040のCPUは意外に使えるように思われてならないのである。
 ここ数日、気温の変化が少々僕の身体を痛める。これに暑い時期の疲れがジワリと押し寄せる。歳とともにこれは防ぐことが難しくなったように思われてならない。ま、致し方ないだろうかな。
 今日は久々にMac日和であった。
 

2002年 9月 6日(金)はれ
 は天気予報を恨むよ。何が50%の確率だ。職場で「100人の内 50人が雨を感じるんだ」というと、同僚から怪訝な顔をされる。でも、僕はこれを信じている。
 そんなことと合わさって来客の多いこと。職場に談話室など無いから場所は職員団体の事務所。一人は1時間の話し合い。もう一件は30分。仕事の最終時間が近づく頃は一体何をしていたのやら?、と感じざるを得ない。
 憤懣やるかたない気分を酒道場で癒す。全くグロッキーだ。職員団体への事務所へは職場から数10メーター離れている。おまけに階段が... 。そういった事をも加味して移動する運動量だけでも相当なものがある。
 そういった中、空き時間を利用してホームページのアップロードを目指してがんばる。一応の修正を加えてOKとした。
 さ、帰宅してテレビで俳句甲子園の特集を見た。高校生諸君が出す俳句の一つ一つを読みながら、僕はついつい次の七・七を謡っている。そう、和歌にしてしまっているのだ。その言葉が出しよい俳句ばかり、といっても過言でない。「五月雨を集めて速し最上川」という芭蕉の句がある。「うねり鋭く我を呑まんと」と加筆できなくもないが、加えるよりは、「・・・最上川」とした方がずっと、何か広がる空間が大きいような気分がする。が、今の世の中ではどうもそういった時空間が感じられないのがマズイ。
 詰めるようでも曖昧として、なおかつ全体で仕上げられている。この辺のところがゲストの井筒監督の言うところなのではないだろうか、と考えるのである。でもって、漫画甲子園ではこういった点が全くない。仮に僕の加えたようなことでも漫画甲子園では評価をしていただける、という点が僕はうれしいんだな。言い過ぎかもしれないが、発祥の地が今回の俳句甲子園の愛媛と漫画甲子園の高知との人間性の違いだろうか。
 その後の茂七の事件簿も子供のこととはいえ考えさせられる。今まさにこういった状況が現実にあるのではないだろうか。もちろん、あれほどの幼児はいないかもしれないが、両親の元で子供の時代の生活をさせていない親も実際はものすごく多いのかもしれない。
 幸い番組では事件として取り扱って、もう一切こういった事をするなよ、ということでケリは付くのだが、どうも今の時代に照らし合わされてくる。虚しさが一杯部屋に充満してしまった。
 アフガニスタンではまたテロだ。その銃撃戦のGUNの音を聞くにつけ、実際の戦争の虚しさを感じる。パパパパ、パーン、パーン、パーン、これが実際だ。銃を持たない日本では多くの国民は知らないサウンドの世界だが、音が鳴り止んだ後の人間の扱いは「物」である。テレビのような人間性のある銃撃戦などは一切無い。やるかやられるかだけの世界だ。日本自体のセルフディフェンスも満足に出来ないのに有事法制なんて背筋が凍る思いがする。

2002年 9月10日(火)はれ一時雨
 うやく秋めいてきた。涼しくもなく、エアコンの状況と外気が同じ温度で推移するから妙に室内が暑く感じる。外はアスファルトの熱とエアコンの熱、自動車の排気など、自然界に存在しない熱が支配する。不思議な時代になったものだ。おまけに狭い日本なんだからなぁ〜。
 先週末からにわかに身辺がザワついてきだした。係長クラスから段階を追って一般職を評価するという。しかも労使の合意無しに。今の市長は民間出だから公務サイドをまるで目の敵のように批判する。毎日の業務でも「高給取りの仕事ではない」とまで言い切る。そういった(株)宇和島市という気分で、ご自身が社長のつもりでいらっしゃるように感じてならない。
 賃金と仕事内容からすると、常に「民間では云々」という。民間たって、この辺の企業と比べるのはいかがと思う。親方の言いなりの企業が大半を占めているのだから、使用されている側はモンクの一つさえ言えない。そういった企業のトップの意見が民間企業の総意だって言われても、それは違いますよ、としか言えない。おまけに我々公務サイドの一般職の意見には「銭がない」の一言を楯に耳を貸そうともしない。
 ゼニがないなら田中長野県知事もおっしゃってたが、市議会議員の定数を削減し報酬を下げて政策費とやらを無くせばいい。今の議員には宇和島市民の代表の一人なんて堂々と胸を張れるのが居やしないのじゃないか。当選後今まで代表質問で壇上に立っていないヤツもいる。こんなものだから、おそらく合併後は広い地域と少ない議員数でがんばってる他の町議に徹底してやられるだろうさ。
 市立病院の医師の給料も研究費も下げればいい。大学病院ではヒヨッコなのに、ここへ来ると、それこそこの辺の民間企業の4倍ほどが毎月懐に入る。そういった医師の大半は数年で宇和島を去る。ずっといらっして、宇和島の医療発展のために尽力していただける方は非常に少ないんだから。
 逆に消防職員は給料を上げるべきだ。これは24時間勤務の連続なんだからいわなくても分かる。
 公共サービスが我々の仕事なんだから、人事評定やったら職場は市民に目を向けなくなって、トップばかりにへつらうわけだろうな。(民間企業は利益優先だから同じように)市役所も職場の経費を切り詰めて安定させるよう、トップのいうようにやれれば、それが成績(給料)に跳ね返るわけだから職員もやる気が出るに違いない、という考え、それに、お粗末極まりない評定項目で、市役所全体としての絶対評価といいながら各係り単位でも評価するのが難しい相対評価しかできないものなのである。
 明日は日英同盟何周年記念何とかで英国大使館からも宇和島に来るらしいが、こういったところにはゼニをかけるんだよな。文化会館は閑古鳥が鳴いているのに、文化の花咲く町という。が、文化会館独自の文化行事の計画は無い、というバカげたことも堂々とまかり通る。九島の「夢の島」もそのうち本物になって、ダイオキシンがどうのこうの、も出てくるだろうさ。
 不合理極まりないのは分かっているが、それでも人事評定をやれ!というヤツには評価されたくない。
 人情味が溢れたかつての宇和島は一体どこへ行ったのだろうか。

2002年 9月15日()くもり
 例の第27回愛媛マスターズ陸上競技選手権の日。あわただしく出かける。実は昨日午前中4時間かかって職員団体のeMacのセットアップと、午後から夜は職員団体の関係で新居浜の方々と懇親会をやったもので、本日の早朝出発は身体の冷えなどが考えられ、不本意ながら、という感覚で松山へ出かける。幸いにもSR500が快調そのもの、テメェの身体状況なんぞすっかり忘れている始末。
 不安だったものは100mの時にやってきた。僕の隣のランナーが身体の揺れでスタートやり直し、そのとき「やばい」と左脚の異変に気付く。2回目でスタート、70mにかかるところでギクという感覚が来て筋肉が伸びきった状態になってしまって、結果は16秒に近いものになってしまった。
 それゆえ、次の円盤投げは昨年から1.5kgに下がったものの、最後に左脚で踏ん張れないものだから、2kgのときよりも悪い始末だった。ま、同年代の出場者は僕1人だったから1位という不思議な結果であった。一人でも優勝だ。
 このリザルトから、練習不足、とうことは言える。しかしそれだけではない。昨年と比べると、この1年間の身体の衰えは想像以上であった。これがもろに感じられた。もう一点は用具、特にシューズだ。最近の動向からすると、スパイクシューズは我々の年代からすると短距離であっても中長距離用のものを用いた方が力の入り具合がどうもいいようだ。スローイングシューズにしてもやはりゲーム用のものを高価だが購入しておくべくである。
 合成樹脂の400mトラックが無いところの一般の人からすると、このことは負け惜しみか、信じられない、と思うかもしれないが、これは事実である。70歳代の方々でもスパイクシューズは最新鋭のものを使用されているのである。
 一つ、脚の状態がよくなったところで、再びウォーキングから開始してみたい。わずか1年の経過だが、身体は想像以上に劣化している。もっともネオンの海を泳がなくなったのも、自分のことが出来づらくなってきた、ということもあるが... 。
 SR500が不調だったら、今頃はすっかりしょげ返っているところであろう。

2002年 9月16日(月)はれ後雨
 前3時半、外は星が美しかった。ところが僕は、左脚の痛みで自由が取れずスッポッポンで寝ていたものだから思わず窓を閉めたときに、その星「オリオン」を見たという次第だ。
 夜が明けて、気になっていたトライアンフのタンクの最終仕上げを試みることとした。時間は7時。は夜は何も食っていない。酒道場で一杯やってそのまま気分良く眠れたからに他ならない。実は左脚で踏ん張れないから、起きるのも大変だったんだ。太股の裏を押さえただけで痛みが走る。正座も困難な状態であった。
 今朝とりあえずステファニーで調理パンを購入して、実にゆっくりと食す、こんなのは久しぶりのことだ。妻がいつもより遅いので洗濯方々タンクの修正にかかる。看板屋からもらってきたアルミベースのカッティングシートでタンクバッジに沿わせてホワイトのラインの縁を広めに取った。
 仕上がって妙な感覚になってしまった。タンクバッジが古いサンダーバードのイラストによく似て来だしたからだ。ちょうどトヨタのカルディナのCM最初のシーンかな。ともかく一応の仕上がりだ。ま、よろしかろう。キャブも違う、点火も最新。決して26年前のままではないのだから。
 eMacも使える状態にした。Windowsでもそうだろうけど、今時コンピューターがあると、少なくともインターネットが必要になってきた時代になってしまった。メールの連絡網はいうに及ばず、アップデータなどはこの方が速くて確実だから。
 午後9時前から雨になった。松山は降るだろうか。この雨も明日の午前中までと聞き及ぶ。アスファルトを濡らす時の臭いがプ〜ンと鼻を突く。まだまだ残暑が厳しい。

2002年 9月21日()はれ
 がかりな職員団体のeMacのハードディスクのパーティションを切る作業にとりかかることにする。まずは手持ちのCD-RドライブでダウンロードしたものをCD-Rに焼き付けをする作業が待っている。
 ところが、これが思わぬ失敗。SCSIカードのドライバーが機能しない。やむなく職場のUSB回路のCD-Rを作動させてOKとした。この間まで問題なかったのにどうしてだろうか。ドライバーの再インストールが秘湯ようであった。このために2時間程度無駄足を食った。
 昼前からeMacにかかる。OS 10.2にアップデートするまでの間、ハード(eMac)の方が「何をぐずぐずしてるの?」と訴えかけてくるような一面も見受けられた。もちろんディスプレー上でだが。
 延々2時間程度eMacに対峙していただろうか。どことなく気が滅入るようなところもない。相手が「ま、ゆっくりしましょうよ」と言っているような風貌がどことなく安堵感を与える。昨日もUSBフロッピーディスクドライブを職場でテストして、書記さんに「持って帰ってコネクターに接続しといて」と言ったとき「出来なければ、そのままにしておく」と断られたが、見事に接続してあった。その彼女がeMacを見た瞬間「かわいい」と言ったのもうなずけるような気がした。
 インストールしてしばしMac OS 10.2.1で動かしていた。「どう?すごくいいでしょ」と語りかけてくるような気がした。もはやクラシック環境のOS 9.2.2には戻れないような気がしてきだした。
 おそらくスティーブはウォズニアクに「パロアルトでのこと、今の世の中はこういったものなのじゃないか」と言っているのではないだろうか。
 9.2.2まではおそらく多くの危険要素をはらんでいたのではないだろうか、と感じられる。導入云々はさておき、X(10・テン)のパブリックデータ版を相当気に入ってしまった僕が言うんだから。
 ベールに包まれてはいるが、中秋の満月、ミソ仕立ての芋の鍋をつつきながら一杯やって気分もいい。間もなく職員団体のeMacがWindowsで仕事をする多くの仲間の中に浸透するはずだ。「世界共通で簡単に使えるコンピューターとは何か?」。ここから再び始まろうとしている。

2002年 9月23日()はれ
 明に強烈なエキゾーストノートによって眠気を遮られる。何だと思ってんだ。4輪が1台、2輪が1台こいつが強烈だ。確かに昨日の未明のパトカーの追跡のことを思うと、テクニックもそれなりのものを持っているし、逃げ場もきちんと心得ているようだ。
 そんなもので、6時近くからお墓へ行く。菊科の雑草がすごくはびこる。タンポポではないのだが、これを取り除く。クローバーに似たものは残しておく。この下には少しだが苔が生えているから、何とか残したいのである。この苔があるところは他の雑草が来ない。
 八面(やつおもて)の母方の墓所へも行くが茅がひどく、釜を持っていっていなかったのでそのままにして帰宅した。墓には遺骨が無いとはいえ、こちらのふがいなさと重なって除草剤を撒かなければならないかな、と感じてしまった。
 そうそう、最近「黒豆納豆」にぞっこんで、毎朝が楽しい。4日ほど続けているのだが、調子がすこぶるいい。少々はまってしまって、仕入れるのが少しばかり難しい状況である。スーパーの棚を見ると、売れる銘柄が一目で分かるから業界もうかつに構えているわけにはいかないのだろう。食するのはごく普通にネバネバさせてご飯にかけて食べている。これに味噌汁でもあれば朝はOKだ。
 昨年の今日は大洲へトライアンフを引き取りに出かけている頃だ。あれから1年が経過したのだからな〜、早いものである。そのトライアンフのタンクの塗装が出来上がったので、整備にかからなければならないのだが、どうも何やかやあって集中できない。書店で専門雑誌を立ち読みして2003年の(ヒンクレー)トライアンフ・ボンネビルの写真を見たが、何となく僕のタンクの塗装に近く、思わず吹き出してしまった。エンジン回りと駆動系が僕のボニーと左右が逆だが、今のには乗りたいと思わない。できれば今の三気筒の方に乗りたい。2003年は騒音規制に多くのオートバイがひっかかる。これをクリアーできれば、とすれば、最終的に僕のオートバイとしてトライアンフの三気筒を導入ということになると、2004年モデルからだろうな。そんなに必要ないから、もう今持っているヤツは売っ払って、その1台だけになってしまうのだろうな。
 でも、そうはならないのだ。もちろん、今持っているT-140Vの良さがあまりにも僕に染み着いているから、これはおそらくないだろうけど。それより、コヴェントリーでエンジンをリビルトしていただいた方がいいように思う。どこといって壊れているわけではないし、良さは今でも続いているのだから。
 Macはそうはいかなくなった。Duo2300cがどうもおかしい。現在こういった入力と少しの作業はPB540cが活躍してくれる。今では非力だが、どうも調子がいい。次号で報告する一つ一つのキーのメンテナンスでかなりのところまで行けだした。取りこぼしもほとんどない。トライアンフと違って、これがリファインされてPPCを搭載したものまでは行けた。バッテリーと電源アダプターのコネクター部分が今のものになっていれば、かなりのものになったのではないか、と思わざるを得ない。
 来年はPower Book G3も新しいG4が出るとなると考えないとならないかもしれない。半分は仕事で使うのだからな。

2002年 9月24日(火)はれ
 日は苦言を少々。なんでもWindows XPとかいうバージョンのOSのアップデートがあったらしい。というのも、それを酒道場のマスターから聞いたもので、マスター自体もダウンロードするのに一つだけ、とてつもなく重いものがある、と閉口の様子。 天下のマイクロソフトだからそんなことはあるものか、とMac陣営は感じているのだが、マスターの弁によると数回試みをキャンセルしたらしい。それほど重いということだ。8MBのADSLで1時間25分という数字が出る、という。そんなバカな、とは思いつつ、ここまできたのならやってみたらどうか、という結論に達したが、延々2時間でもダメ。
 とって返して、我が家でホームページ探して唖然!。何とWindows XP Servispack 1というのが1.3GBもあるではないか。しかも11月にはCD-ROMで発売するという。Windows陣営にすれば久々にユーザー軽視のアップデートではないか。思わずいたたまれない気分になってしまった。
 Macなら絶対をつけてもいいほど、こういったものはダウンロードさせない。たかがアップデートで大きくなるような場合は必ず有償無償に関わらず、ディスクなどのメディアでどうぞ、となってしまうのである。Mac OS X 10.2のアップデート版でもCD-ROMが2枚組なのである。
 今回のWindowsのやり方は初めてコンピューターを触る人には最適のXPかもしれないが、電話代を相当遣わせ、なおかつ「CD-ROMで近々リリースします」とはどういった考え方を持ってんだろう、と一瞬考えてしまった。
 その前に、職場から帰りがてら黒豆納豆を探す。新橋センターにない。急遽フジへ行くと臨時休業の札、もう歩くのごめん、とバスに飛び乗ってスーパーサンシャインへ行ってようやく見つけて帰ってきた。
 少し長くなあるけど、最近の世の中はどうもギスギスしていてならない。深夜の暴走族しかり、今朝もそのマフラー部分で太い音を出すように改造(悪)しているクラウンを見つけるのだが、横断歩道の警備にかかっている警察官は何もいわない。朝のブリーフィングの時にこういったものは交通機動隊から外勤に通知してしかるべきだ。こういった簡単なことが本当にやられているのかどうかもはなはだ疑問だ。
 第一に派出所に係官がいないから「電話を本署にしてくれ」とか「メモを記載してくれ」なんて、人口65,000人の町の警察署が取る行為か?って〜の。
 そういえば、そのうるさい自動車と二輪に後ろからサイレンだけ鳴らして追尾するだけの行為だ。彼らの行くところは分かってんだから、待ち伏せしたり、時には実力行使して、そこへ追い込むぐらいのことをやればいい、その時の犯罪者容疑の者がケガをしようと知ったことではない。そうしないと物言わぬ自動車やオートバイが可哀想だ。こういった考えを持ってやるのなら、道路に砂でも撒いとけば?といいたくもなる。そうだ、睡眠妨害で訴えるとするか。被告は騒音まき散らす不特定多数と、警察ね。

2002年 9月26日(木)くもり後一時雨
 夜に火事があったようだ。僕は5時のラジオのニュースで知ったのだが、6時頃から現場に出向く。半分は仕事。が、よく燃えていたのかしら、臭いすらない始末だ。外観だけを保っている姿を見ると妙に寒々したものを感じてしまう。
 夕刻、勤評導入の件で、上部団体を持たない組合と共産党系の組合の代表者が職場の僕んとこへやってきて共闘を組まないか、と再三いってくる。
 おいおい、チョイと待てよ、こちとら、まだそういったところの交渉は理事者とやっていないのだ。ま、残りの二つの組合の意向も聞かないとならないから、少々難しいですよ、と応えておいた。
 はっきり言って、理事者がこう言ってきた、それに対して「反対」と言っているような連中と個人的には、いっしょに闘いたくない。それよりは、僕が交渉の席にいたら「持ち帰って協議して返答したい」といって組合員に通知して、どうすべきかを組合員に執行部が問うて意見集約すべきだ。これさえ出来ていないような組合と共闘を組むなんぞ御免被る、というのが僕に言い分だが... 。
 ま、非組合員の職員にも少々文句を言いたいところもあるんだ。「本当に、このままでいいのか?」ってね。退職金にも年金にも跳ね返ってくる。ましてや副業が出来ない我々なんだから、こうやって職員の賃金に差を付けよという理事者に「議員は市民の代表だから、議員の報酬を下げたい」というギット(この地方で律儀の意)な議員なんて一切いない。そいつらが勤務評定OKで〜す、といえば決定するんだ。
 議会の議事録を図書館などで見ればいいが、答弁者(理事者)を少々詰まらせるような質問する者(議員)はいない。各委員会では国会の予算委員会のようなものは一切無い。結局それまでの水面下でのやりとりが重要になって来るのである。
 そういったことをふまえて、九島のエコアイランド構想なんぞ、白紙に戻すべきだ。向かいの戎山の造成地にどれだけゼニを突っ込んで、前倒しでチャラにしているかトップは知っているのであろうか。
 こういっったちぐはぐな中で9月の定例会が行われているのである。新聞なんぞに出るまとめの記事なんて気にしなくていい。本当はそんなもんではない。もっと言葉のやりとりからア・ウンの呼吸で決まってしまうようなものが一杯あって、その影響を直下に受ける僕のような一般職の身分なんぞ、もっと重要視されてもいいような... 。
 ま、思わずこういったことを記載したが、中島町営のフェリーの乗組員が時間外勤務手当を支払わないのはいけない、として、訴訟を開始した。この内容を狭義に解釈して、10分単位の休息を10回取ればいい、ということを理事者が実際(フェリーを最少人数で運行している)を知らずに決定する。こうの法則で行くとフェリー運航中に休息をとる、という、けっしてできないことを中島町の理事者は平然と言ってのけているのである。それ故の訴訟だ。公務員も結構シビアな状況なんだ、ということを知っていただいたら、と思い記載した。
 ゆくゆくは住民票を取りに行った市民が「メニューボタンを押してください」という交付機を前にして、300円を投入して住民票を受け取る、という時代はすぐそこまできている。これは事実だ。宇和島市の三役と管理職だけが職員。他は民間との委託の職員。そういった時代を理事者は強く望んでいる。退職後の今の管理職の年金は誰が支払うかを知らずに、嗚呼... 。

2002年 9月30日(月)はれ時々くもり
 ろしく速い感じで9月が去っていこうとしている。日中はまだ残暑が続く。今日など朝夕と日中の外気の変化に冷房ぐらいほしい気分であった。
 一昨日辺たりから何やかや心配事を先取りするいつもの僕の悪い癖が出てしまって、腹が以上に張ってしまい、朝は胸が苦しくなってしまい、「ウ〜」としゃがみ込んでしまう始末。この張った腹からガスが出たのが夜になってからだ。とにかくイテイ(胃の上部だったかな)がイテー(爆)。結果は生むが易し、こともなく理事者との交渉を終えることが出来た。普段なら一気に疲れが出てしまうのだが、今はそうも行かない。
 交渉のまとめを行い、WWW/GridのShop Schuneiderをアップするのをすっかり忘れていたので、これを行って帰宅が午後7時を過ぎてしまった。妻は当直勤務、飼い猫も僕を無視しているから、一人の部屋に帰っても気が滅入るだけだ。
 ついでのもち、酒道場のマスターのパソコンのサウンドディバイスを何とかしようと試みるが、一向に無理。このヤマハの何とかというファイルがNEC(バリュースター)のコンピューターにバックアップCDとして存在していない。このサウンドファイルの書き換えをやろうにもシステムが勝手に排除してしまう。再インストールが出来ない。
 ま、一定ハードウェアも使いながら学ばざるをえないが、理解しよいし、こうすればこうなる、というMacの方が断然有利だ。おまけに OS Xからはスクリプトを打って何とかなってしまう面も加味されている。
 いくらWindows XPの良さが分かっても2000などからすると妙に使いづらい、キカイが勝手に支配しているように感じてならないのだ。
 チョイと話が脱線したが、後になって往々に感じることだろう。もっとも、NECではPC98時代から独自の方法を採っている面があって、これが常にWindowsの使用者にも「ウグ〜」となってしまう面があったが、今だにそれは残っているようだ。



inserted by FC2 system