2003.1.1〜3.30 

2003年 1月 1日(水)くもり時々はれ
 当に穏やかな新年を迎えた。大晦日のSR奮闘記の後、紅白の途中で妻はお仲間からの呼び出しで出かけて、実に落ちついた年末。行く年来る年はラジオに切り替えた。本来はこの番組こそが「行く年来る年」として除夜の鐘とともにラジオと同時の全国放送にすべきところなんだが、NHKでさえ安直な方向付けしかできなくなったかな?、と思った次第。
 元旦の今日はいつものサイクリングから始まった。初詣の人出も少ない。昨年と同等か、やや減。賽銭にしてもそんなに高額はなかった。僕はN先生からいただいたラレーで出かける。バイクが赤だから当然、赤いウインドブレーカーにオフホワイトのチノパンツという紅白のスタイル。今の僕にはこれが一番相応しい。心の中には何かやってやろう、とする気持ちでのことだ。
 昼前に護国神社で乾杯して帰宅。丸之内の和霊神社へお参りして、昼食休憩だ。しばらくはNHK総合テレビで楽しんだ。
 夕刻、SRにとりかかる。少しの間であったが、大きな間違いを犯していた。それに気づかなかったことへの反省が大きいな。昨日の続きとして、いずれ報告するとしよう。
 妻が実家へ帰っているので、年明けにもかかわらず家の中は僕一人だ。早いもので、元日が過ぎようとしている。今年も残り364日な〜んちゃって。
 本年もよろしくお願いします。

2003年 1月 6日(月)くもり時々はれ
 日ほどではないが寒いのなんのって、こっちがフリーズしそうになる。職場へ再びPB G3を持参し、WEBの設定を行って、Fetch 4.0.1Jでアップロードを行うのだが、このFetch 4.0.1Jが曲者で、ネットスケープのコンポーザー上でコピー&ペーストをやってOKになっているのだが、実際は画像などが飛んでいる。Fetchに何かあるのかな?と思って、さわっていくと、今度は接続できなくなる始末。
 仕事の合間にやっているものだから、集中できない。午後4時を回って、3.×.×の初期設定を参考にして、ようやく作動するようになった。
 これはこれとして、いよいよ仕事始めなのだが、元日からすでに6日目だから、「おめでとう」の言葉も少ない。外部関係者の挨拶も非常に少ない。これも経済状況の関係か、本文にあるようにウチを見限っている現れか、とも感じてしまった。
 今週末からの連休で、何とかトライアンフに接したい。そのための準備などをやらないとならない。すでに、大阪の西森さんから春のBritish Runを4月にやる、と通知があった。そのときには何とか快調に走るT-140Vを目指したいから。

2003年 1月 8日(水)はれ
 天霹靂の1日であった。まさしく、朝一で「マックお宝鑑定団」のサイトにアクセス。そこで見た新しいPower Book G4の記事、早速アップルのサイトへ。ナナ、ナント、時に午前8時15分。そこで見たPower Bookはすさまじいものがあった。
 以後、ほとんどの時間、アップル・ジャパンのサイトへはアクセス不能に陥った。
 考えても見ろ、17インチワイド画面のノートパソコンなんて誰が考えるか?。このことに度肝を抜かされた。それ以上に僕を釘付けにしたのは12インチTFTのPower Book G4だ。ジョブスもエクスポの基調講演で言っているとおり、全くDuoだ。しかも、もっと、もっと優れたノートパソコンだ。一瞬欲しい、と考えたほどだ。
 一瞬翻って、今持っているPismoの立場を考えると、捨てたものではない、という考えになって来始めた。それほど、Pismo自体は一時期のPower Book G3の一つの完成モデル、と考えていいように感じるのだ。決して古くはない。この瞬間、iBookのことは頭の中から消え去った。
 僕としての次期モデルが確実に決定した。これからのPower Book G4に期待大である。
 本当にすさまじい1日であった。

2002年 1月10日(金)くもり後時々はれ
 日、今日、そして明日と、数日間新年会が続く。特に同僚が死亡した昨年末の忘年会が中止されたためのことかもしれないが、新年会のいい気分とは裏腹に、こと仕事の話が多い会になって、僕自身そういったことを避けようとしているのだが、これがついつい酔った勢いで雄弁になってしまう。が、ここぞというときには、いつものとおり、一歩だけ踏み込むことができる。
 今日も会の終わりになって、市議会議員のY氏が同じ議員のO氏のことを、自分の希望とは違う道を押ませるようにしてきたのだから、現在の立場を少し考えて協力してくれ、と来た。
 僕は顔では笑っているけれど、前回の選挙でも一部表面化したが、市議会議員として次期選挙には立候補しない、という。こんな継続性のない政治活動に対して、その候補者を再び支援することは、僕が率いる組織の分断に繋がるとして、遠慮申し上げる。
 ここで、再び市議選へ立候補ということになれば、僕の組織としての考え方は、組織自体の取り組みは執行部に命じて云々することはできる。
 ところが今回は市議からいきなり県議への立候補など、一地方の職員組織なんぞで継続してバックアップできるわけではない。この地からの立候補者としてではあるが、県議という性格上、県レベルの選挙戦だから仲間内である県の組織がバックアップする、ということにならないと、仮に当選としてなら、我々にはおごり、落選したら、ふがいなさが一気に表面化する。悪い方を採ると、組織の仲間割れは必至だ。
 決して逃げではない。組織として政治介入ということになれば、そこまで考えねばならない。御上が目を光らせようとも、今回ばかりは何にもしたくない。やるなら、組織の名を語ることなく個人のレベルで願いたい。
 知事選の結果予想からしても、群雄割拠ではなく、単に投票率だけが勝負になることは目に見えているのだから、県議選であっても、敢えて劣性の選挙戦に組織で荷担することはできないのである。
 思わず政治、しかも選挙のことをして、その後のことまで記載したが、映画の「善人の条件」に出てくる選挙人をとりまく環境にそっくりの世界になって来そうだ。僕は選挙でのこういったことが大嫌いなんだ。それがなければ、いくら落選してもいいから立候補し続けて、今の年代からすれば、僕が市議会議員ぐらいにはなっているだろう。
 地方自治とは名ばかりの、この辺の政治関係の今後このことはあまり記載しないこととして、話題を変えよう。
 そう、Power Book G4。結局15インチのG4を購入するとして、30万円を越えるのはイタイ。できれば、何とか今のままで15インチモデルの継続生産を願いたいところだが、今後の行方は不明だ。と同時に今日は12インチモデルの発熱のレポートを見た。フッと思い出したのは今のPismoと1年前のモデルを比べた結果、僕がPismoを選んだのは、この発熱の問題ではなかったのか、といったことを思い出した。G4マシンで筐体の小さいモデルは、まだまだ海千山千の状況であることは間違いない。
 一つの完成されたカテゴリーを有するモデルとしての15インチモデルはなかなか優れものなんだ、ということが理解できるのではないだろうか。

2003年 1月13日(月)晴れ後くもり
 去6年間にわたるSR500の総ての面での僕の実験を終えた。乗っているSRは相当にいいものになっている。しかし、トライアンフのような律儀なというか、欧米人特有の悪いところは悪い、としたものは未だに一枚のベールがかかっており、常に内部に入って確認することはできないままでいる。
 やったことは、ほんの些細なことだ。しかし、ここまでになったのは、僕がsic'n SRを何とかするに連綿と記載した。振り返って、今日までの数日間を考えれば、アホみたい、と思ってしまう。
 とにかく、ニアノーマルのSR500としてはいい状態になってきたのには違いない。

2003年 1月14日(火)
 日も記載したように、一昨日、昨日とSR500の調整に大半を費やした。連日の好結果にうれしさを隠せず、祝杯を上げまくった。その結果、何というか付き物がすっかり落ちてしまった気分になって、一気に脱力してしまった。結果からすれば簡単なことだが、その間の走行テストなどは相当なものがある、ということなのであろう。ま、SRの件は次号でのレポートとする。
 本日も仕事のことが頭を巡るが、直ちに消える。それほど気分的には良好になってきているのだが、次に控えているトライアンフのことになると少々気分が重い。実際問題として、金銭面では何とかなるが、青空工房では天候次第のため、継続作業は如何ともしがたい。
 追い立てられるようなものではないが、そこそこ改造して安定性を増すオートバイということと、今後の状況からしても、この際だから、トライアンフは一気にケリをつけたいところである。
 帰宅してみると千葉に在住の山本氏からの連絡文書が届いていた。僕のホームページには記載していないが、氏はオーディオ武者修行として、現在も活躍中だ。もう10年に近い昔になるが、高知に845という喫茶店を経営され、名付け元の真空管の845を使用したアンプで音楽を楽しんでいらっしゃった頃から宇和のT君とよく出かけていた。その頃からのおつきあいである。
 ラジオ技術誌の昨年12月号と本年1月号の山本氏が出していた平板バッフルスピーカーを主としたコンテスト記事のコピーだったけど、僕にはごく普通に、「あー、こんな音での音楽だな」と分かる。一言で言うと自然な音なんだ。無味乾燥という意味ではなく、レコードの中に込められた音達を包み隠さずリスナーに聞かせる、という、そういった再生音楽だ。
 このインプレもコピーされていたが、大して気にはならなかった。僕がチョコっと紹介しているように、コードを高価なものに変えたぐらいではダメだし、いまだにそういった記事を専門雑誌に出すことはおかしいんですよ、ということが一層明確に感じられるようになったのだろうなと、そのインプレは語っているようだった。
 アナログでもディジタルでも、いい音でレコードの中に入っているものをそのまま過不足なく出すという、この面は普遍なはずだのに、部屋とか、それにフィットしたその再生装置などのことは最近の記事では一切出されない。
 僕としては、ここんとこが前面に出されているようなもの本来の行き方なのに、今は無視されているように感じるな。
 この街に住んでいるF氏もその一人で、金銭労力を相当につぎ込んではいるが、連綿とやっていることは音を主としたオーディオに過ぎない。本来のオーディオっていうのは再生音をいかによりよいものにするか、の世界で、再生音楽をよりよく再生し、聞く人を楽しませることに力入れることだ。そこの見極めが早く分かれば、僕の言うことが分かるはずなんだけど、嗚呼... 。

2003年 1月16日(木)はれ後くもり
 うやく自然に戻った感じがする。昨日で本年の松も明けた。ところが本日の天候は一転してくもりの日になってしまった。おまけに朝の最低はマイナスの気温を迎えてしまった。
 僕の腕時計がおかしな動きをし始めた。廉価なシチズン傘下の秒針を刻むタイプなのだが、陳列してあるものの総てが同じ時刻を刻んでいたので購入した。以前にこの時計のことを記載したが、今日ばかりは「バッテリー?」と考えた。登庁すると止まっている。確かに、家を出るときにも止まっていたので時間を合わせたはずなのに... 、と思った。いたしかたないな、と考えてそのままにしておくと動き始めている。オイオイ、バカにしないでね、と思い、時刻修正すると、事も無げに快調に時刻を刻んでいる。
 一瞬、気温の変化で、秒針・短針・長針のムーブメントの一部が気温によって固着するのだろうか?、と考えてしまった。ばかげているけど、これ以外に考えられない。主に水晶発振器を動かすための電源だから、余力が「気温」などに使われるとすれば2度のストップが分かるようでもある。
 夜半になって気温が再び下がってきた。しかしながら、今日は保温につとめてみることとした。明朝動かなければ、平常で動くことは無視して、おそらくはバッテリーかもしれない、と判断する。バッテリーを交換して3年目に入ろうとしているから。

2003年 1月17日(金)はれ
 い、穏やかな一日であった。まともに振り返ってみて、8年前の神戸・淡路島とその周辺は相当な被害を出した。このことはここで触れないでおく。そうしないと思い出がドバ〜っと吹き出してどうにもならないから... 。
 ここでは、とにかく今を一生懸命生きている方々の努力を願うだけだ。晴れの特異日に近い今日、そういえば、あの日は珍しく、くもりの日だった。
 さて、夕刻からは職場の新年会の席である。久しぶりに自分で無理を承知で、早くから冷や酒をあおった。何がそうさせたか?。簡単なことだ。鍋がそこにあったから。
 今回は河豚だったが、水炊き、寄せ鍋にしても、数十人の席では鍋は相応しくない、と僕は常々感じている。真に今回がそれであった。そこそこ、まとまった席では鍋を囲んでになるが、一定時間を過ぎれば、そんなのはどうでもいい世界になってしまう。鍋の世界のもう一つの面を見せてぃただいた。
 そう、僕自身もお酌などする気分には一切ならないから自席に留まって、鍋以外の肴でお酒を楽しんでいた。フっと気づいたら、僕は十分と感じたからその席を辞した。帰り道、一心に考えていたのだが、新年会を大勢でやるのなら、もっと出費させてもいい。20人を越える席では鍋は無用だ、と感じてしまう。
 どうして僕が先に帰ったか、を巡って、残ったメンバー間で相当な議論が出るであろうし、僕が悪くいわれるであろう。
 どれでも、僕は鍋の席が嫌いなんだ。それだけのこと。やはり、20人もの席では会席か、立食のパーティー形式ならシェフ立ち会いの元で、オードブルから始まっての会食というところだろう。
 くだらないことだけど、その席によっては、いくら酒の席から離れたくないとしても、僕は早々に切り上げるということだ。ここんとこが多くの方々に分かってもらっていないから、未だにタキシード着て、な〜んてことはこの地には全く無用の世界なんだ。
 それが南予を代表する「宇和島市」であっても... 。

2003年 1月19日()くもり時々雨
 の切れ目を狙って役所へ行ってビラ配りをやる。その後www/Gridのまとめを確認するとしたが、職場のカウンター前が掃除の対象場所になって、止むなく1階で作業をする。
 が、ご存じのように南予マラソンのゴール地点。よりにもよって市長が来るものだから、主催の関係者では無い旨伝えるが、それでも主催の方が一人もいないのは、僕自身がはがゆいため、しばらく関係者を捜す。この間はMacをストップさせたまま。何のことはない。市長本人が勝手に見学に回ったところを見て、作業に戻る。
 よくよく考えると、この大会を含め、市が主催する行事なんぞはすべからく参加料を徴収すべきだ。スポンサーもいっぱい付けよ。それでダメとなれば、市が一歩引いて、共催団体の一つとしておけばいい。そのお膳立ては市で出来るのだから。
 今日は三瓶港校の女子選手諸君によって、久々の強い走りを見せていただいて幾分かは気分がいいが、いくら伝統のある大会でも参加料無しの権威のない大会に成り下がっている南予マラソンなどは止めればいい。継続して行うのなら、主催者側のサポート体制をもっとしっかりすることだ。それさえ出来ない状況になっている宇和島市のことだから、僕は参加料を徴収せよ、といいたい。
 でなければ、このレース=競技であって、豹門柄のおかしげなランニング姿の参加者なんぞこのレースには必要ない。僕が大会関係者なら、即刻出場停止にさせてやるところだ。片方で底辺拡大なんて言っておきながら、こういった輩(その上に遅い)を参加させるのは一生懸命トレーニングを重ねて出場しているアスリートに対して失礼だ。
 宇和島市が行う大半の大会そのものをいつもどおりとする旧態依然の参加者は [やらせてもらうのは当然] の「無料」を基本としている。このバカさ加減をいい加減なくさないと、いくら社会体育であっても今は銭がかかるんですよ、しかもそれが当然という受益者負担の大原則がないがしろにされる。無料だと、運営結果が悪いとなるとすぐさま主催者への反論になってしまうのがオチだろう。やらせる方はたまったものではない。
 今日などもっともっと警備も必要だし、記録の集計もコンピューター化して、朝霧湖マラソン程度の速報ぐらいはやらないとならない。ゲスト選手を招聘すれば、一層選手もギャラリーも集まる。もっとゼニをとっていい方向に向けなくっちゃ... 。
 そのための参加料としては、中学なら各学年3,000円。選手一人500円。高校なら参加校1校3,000円、選手一人1,000円。一般は所属関係なく一人3,000円。これが今の一般にいう参加料だ。それでも安すぎる。
 それで、参加者が少ないとなれば、以後、開催しなければいい。それほどこの大会自体がつまらないものになっているのだから。決して僕がうそを言っているのではない。市内の中学など部活として陸上競技を教えない学校などの生徒は出場しなくてもいい。それぐらいの厳しい姿勢を主催者が示さないと、いつまで経っても、地方の長距離走の運動会のままだ。

2003年 1月26日()くもり後一時雨
 事選挙、朝は早くから投票所へ仕事で出かける。投票率なんて相当に低い。ご近所の方さえ投票所で一切お目にかからない。それほどのものだ。
 こういった調子で帰宅して一息ついたところで、NHKテレビは「現職の当選が確実になった」と発表する。県の選管からの報告はないにもかかわらず、独自の調査で当選確実になった、ときた。選挙結果に対して多くは語らないし、信任投票というものがないのは理解できるが、こういった選挙を真の選挙といえるかどうかをよく考えてほしい。
 さて、前回の日記から1週間が経過した。理解できないかもしれないが、トライアンフの整備の後、神経を主とした猛烈な痛みが体中を支配してしまった。最初は報告したように右の胸筋、左の肩の筋肉、次は左の脚、そして右の胸筋、そして右の脚、ついには両腕と両下腿の痒みを伴う発疹などが出てきたのだ。日頃の不摂生か、と思ったがそうでもない。酒のせいか、と思うも違う。衣服でもない。
 一昨日、昨日はとうとう、ジ〜ンとする両脚の痛みに立っているのがやっと、というまでになってしまった。この痛さは変わらないものの、力を入れようとしても入らないのだ。
 また、背伸びが出来ないのだ。五十肩でもない。腕を上げて背伸びをしようにも、スプリングで押さえてある感じがする。一体どうなっているのだろうか。
 そんなわけで、先週末までは仕事にも身が入らず、専門医で徹底検査か、とも思っていた。もちろん風邪とも違う。
 昨日はこういったこともあって、丸穂温泉(銭湯)へ出かけた。やはりスパとおぼしきところは家の風呂と違って入浴そのものによって身体状況がいい方向に向く。不思議なことだ。自然に体が冷めるのを待って布団に入ってびっくりした。布団の中で背伸びをしても十分にいけることに気づく。しかし、上体に比べて下半身が寒い。今日(26日)のことがあるので、知らない間に眠ってしまっていた。
 今朝、背伸びをしてびっくり、痛い箇所がつかめだした。そう、どうも古傷の坐骨神経痛と副鼻腔炎から来たもののようであった。それに低い気温が加わって、身体が勝手に防御しようとしていたのではないか、と考えた次第だ。
 一面では知らない間の偏食と運動不足が最大の要因かもしれない。こつこつと体を動かしていないとオートバイにも乗れなくなってしまいそうだし、再び身体活動をやってみようか、と真剣に考え始めている。

2003年 1月27日(月)雨後くもり
 から久しぶりの強い雨が降る。須賀川ダムもOKだろう。気分は少しばかり重い。どうすることもできない。何しろ昨日の選挙結果だ。開票前に当確通知だったから。
 まずは、その選挙結果からだが、負けた和田氏はもっと朗々と語ってもいい、と感じるけど、記者会見で後ろに座っている連中の顔色とか態度を見ると、こいつらがいる限り、この組織から和田氏が出馬しても「絶対に」当選しない、と感じた。
 応援部隊のおえらいさん方があの態度だ。これで負けた和田氏は、言いたくはないが支持者の数確認だけに立たされたピエロだ。昨日の記者会見では、和田氏は支持者の代表などを周りに立たせて挨拶をするべきだ。
 本日の愛媛新聞の写真を見れば、僕の言う意味あいはすぐさま分かる、と思う。本当は和田さんの力不足ではなく、応援部隊が少なくとも数年前から県民に「頼むぞ」といい続けていないと勝てるわけがない。その実体を知らないために負けたに過ぎず、事前に一生懸命動いていれば、もっと得票出来ていたはずだ。選挙でも勝つか負けるかの世界なんだから、そこそこのことはやっておかなくてはならない。
 そういったことで、今朝ぎりぎりで職場に出ると、「ご苦労でした」の一言もない。これはこれで、選挙手当が出る、ということから許しもしよう。
 が、「この選挙手当は少々高額ではないか?」と、トップが決済をためらった、という噂が出た。続けて「選挙費用をもっと落として一人1,000円ぐらいでやって、あとは別の面に使えばいい」とも... 。
 大半の市民は「そのとおり」というはずだ。しかし、これは「絶対にできない」の。
 その一番が今回の県知事、これは県の選挙だから、県の職員にやってもらえばいいのはお解りのコンコンチキ。それが出来ないための市町村が協力する。この選挙の費用は概ね○○○○円を市町村に振り分ける。こういったことから、選挙が出来るのである。 立候補してもお金が必要で、一定得票数がなければ没収になるんです。
 別に我々選挙に従事した者が選挙手当の額云々言っているのではない。仮に投票率85%としたら、おそらく休憩なんぞ取ることなく選挙の事務従事者である我々は働き続けることになるのは明白だ。それに対して一日1,000円で従事できるか。2食の食事、諸雑費など、自腹を切る必要もあるんだ。
 従って、選挙をスムースにするために過不足無く人員を配置し、そのための今回は費用もあらかじめ県の方で算出してあるだけしか市町村に渡っていないのである。
 そういったことも知らず、あからさまに費用捻出を拒む。はっきり言って「無知」。目的外使用がどういった結果を見るかは多くの自治体で分かり切っているはずだ。
 今回はシブシブOKしたらしかったが、内心はいつものとおり「おかしい」となっている。
 それなら、次の市議選におっしゃるところの「選挙費用」の考えを押しつければいい。そうなったら僕個人は「選挙事務はお断りします」となる。もちろん、僕一人ではなく、多くの職員はそうするだろう。選挙が出来ない状態になるのだ。たとえ今回の知事選のようにつまらない選挙でも13時間半も拘束されるんだ。それ故の費用も選挙手当に含まれている。
 ま、うわさとしても、彼には行政運営能力は「無い」。それ以上に「貧しい考え」ばかり。
 今日も本来なら選挙手当は「あんな選挙だったが、貴重な日曜日に事務をやっているのだから、早く支出してやれよ」と、するのがこの街のトップだろう。でも、そういったことは一切無く、ご自身の思うまま「高すぎる」とか「おかしい」を連発していたんだろう。本人は選挙の立会人になって13時間拘束されたことはあるのだろうかなぁ。
 噂ですよ、噂ね... 。
 彼のとりまき民間ボスがいろいろ言ってるのだろうけど、まずは、そのボスに対して、「社長いくらもらってます?」「給料上げて、税金をたくさん納めてください」なんて言ってみろ、このように、今の宇和島は何をどうするか、を真剣に考えないとダメですよ、となっているのに、とにかく職員いじめばっかりだ。
 そういえば、午後7時過ぎ、市議会A議員が木藤時計店前の横断歩道を赤信号で渡った。奥方とおぼしき人と御付きの人も渡った。明らかに「交通違反」だ。
 そういったことをとやかく言うのではない。その行為の裏にある心に僕は問いたいのだ。
 旦那が渡ったら奥方は注意するのが本来の姿であろう。見られていようといまいと。
 奥様は国際ソロなんとかミストの偉いさんだろ〜。旦那は市議会議員だろう。市民の代弁者の一人として、この交差点で10数年前幼い兄妹が路線バスにひかれて死んだ、という事実を知っているかどうか、という点にも引っかかるんだ。そのために設置された信号なんだ。
 夜のことだから、一杯ひっかけていらっしゃるかもしれない。外勤の当直警察官に見つかっていなくても、その「心」へは、議員なら議員として、ソロなんとかミストならその名前のとおり、多くの方が範としたり、善行する者としての立場とはとうてい言えないお粗末になってしまう。
 まぁ、あのときはあのとき、として、なぁなぁだろうし、これが現実だろうけれど、ソロなんとかミストなどの団体は金銭面、物質面だけの援助ではなく、そろそろ金銭面以外の援助もやらないとならないのではないだろうか。日本にも核弾頭が飛んでくる世の中になっているのだから... 。

2003年 1月29日(水)雪後くもり
 しぶりに、この地は雪になった。おまけに相当に北の風が強い。誰かが言っていたが雪が降ると妙にウキウキするって... 。そうだろうな、僕の小さいときはこういった天候はしょっちゅう(いつものこと)だったし、小学校時分は雪合戦が正課体育の時間にやったこともあった。
 今日も見る間に路面が白くなってくるほどだから、ここ数年の同じ時期では寒い日が多いということだ。僕は方言よろしく「ひやい」と言う。こういった言葉はネイティブ・ウワジマンは率先して使わなければならない。そうやろが、こがいなひやい日に寒いやなんか言うな、とすべきなんだ。そがいにひやかった。がいなかったんやけん。
 妻は当直勤務だ。家に帰っても僕一人は分かっている。そうなれば一人の夕食を高級な(あくまで)気分にしよう、というわけで、本日は湯豆腐でお酒を楽しむこととした。もちろんこれだけでは少々酒の肴が乏しいため、肴も和洋折衷、フジでメンチカツと生野菜を買ってきた。
 土鍋でことことやりながら、お燗をやると、これは最高の気分だ。残念ながら雪見酒には及ばないが、しばしの憩いを楽しむ。
 湯豆腐のベースは日高の昆布出汁だから、残りは当然雑炊となる。茶碗一杯のご飯が丁度いい量になる。考えてもみろ、水分補給もこういったところでやらないとならない。
 かれこれ2時間。実に有意義なひとときであった。

2003年 2月 1日(土)はれ後くもり
 が出ている間はいいが曇ると途端に冬がやってくる。本日はNHKテレビ開局50周年の日ということで、興味のある番組は見ていた。今の時間も続いている。どうせ... 、という気持ちでは合ったが、見ながら僕もずいぶんと歳をとったと感じている。
 午前中、eMateのバッテリーで起こった不可思議な現象の検証をしていたが、思わぬところでそれが分かった。
 午後からしばらくの間SRを走らせる。最後にBPR7ESを装着し、なかなかの結果を得た。こうなると、デンソーのW22EPR-Uというプラグをテストしてみたくなる。ノーマルの点火コイルそのものの性能はなかなか素質がいい、と感じた。
 夜は、Duoをさわっていたところ、とうとう液晶が明るくならなくなって、この際だから使用中止ということにした。同様に100もお蔵入りとした。後日余力ができればDuoは2300cを手元に置いておきたい。
 おかしなことだが、キカイにも以心伝心というものがあるのだろうか?、二機種をお蔵入りにした途端、540cの設定がデフォルトになってしまっていた。

2003年 2月 6日(木)はれ
 休みにwww/Grid No.47をアップロードする。Mac OS Xの環境でもそんなに苦労することはなくなった。唯一ダメなのはGifなどが、ベース時点でコピー・ペーストしてOKなのだが、アップロードした後で確認すると、ある種のブラウザーでは認識しない。Netscapeで作ってはいるが、そのために数種のブラウザーソフトで確認をする手間が少しばかりつらいところかな。
 実は4年前の2月に No.0のプレリリース版をアップロードしているのだ。何やかや言いたい放題の僕のページだが、年に6,000人もの方々が訪問されている。うれしい限りだ。オートバイとかは今のモデルではないが、SRなどはベースそのものが変わらないものだし、ノーマル然としたところで留めているのでどことなく訪問される方が多いのかもしれない。
 コンピューターにしても、数十万の金をつぎ込むほど今は状況が良くない。それに何でもそうだが、関係雑誌などでは最近では少し以前のマシンでも少し手を入れると十分今のモデルに対抗できるんですよ、といった記事が非常に少なくなっている。
 話は少しそれるが、動かないものでも何とか動かしてしまうアメリカの方々と違って、そこそこ40年ぐらいで世界の日本になったが、ベースは相変わらずチープな世界なんだろう。だからアメリカの方々のように「これ一筋」のものが今の日本の人の多くに欠如してのではないか、と感じざるを得ない。

2003年 2月 9日()くもり後はれ
 てきな一日であった。朝の内は曇っていたので、非木造の我が家は外の方が暖かいという不思議な現象が起こっていた。
 久々にPower Book 150をバラしてみた。何と上と下の合わせ目が再びバラバラ寸前。あわててアクリル接着剤で補強をした。少し隙間が出来る。それを何とかしたいと考えているところ。併せてメインバッテリーも上蓋をはがしてバラした。ついでに内蔵電池も単4のNi-MHに交換しなくちゃならない。特にピボット部分はこのPower Book 100シリーズ筐体の最大の欠点と思われる。金属と合成樹脂では金属が勝つのは分かっている。この時代は今のPower Bookと違って合成樹脂(ABS)が強度の大半を担っていたのだから、もう少しデスクトップのIIci、Quadra 700のように材質改善をしておくべきであったかもしれない。しかし、Duoはおろか、5300シリーズになっても材質は強固になったが、もろさも加わったという皮肉な結果が待ち受けているのだ。過去のマシンだし、突き詰めることはしないが、これらは近い内に検証しよう。
 午後からSRを引っぱり出す。プラグはデンソーのW20EPR-Uだ。いいのはいいのだが、ちょいとグズルところが出る。そうそう、目的は宇和のT君に「CDプレーヤーから出た信号を増幅0のアンプに一度通して、プリアンプに導けないか?」という相談だ。彼の回答はプレートに電圧をかけずにやればおもしろいかもしれない。12AU7でOKだろう。ただし、ハムが出るかもしれない、と。
 帰りがけにデンソーのプラグをリファイン。ア〜っ、すごい変化だ。BPR6ESのリファインよりもっとすごい変化だ。
 が、焼け方がイマイチだ。考えようによれば、SRの電装として、回路上ではMFバッテリーを装着した方が相応しいのかもしれない。そういえば、保存してある僕の良好な点火プラグの結果は、いずれもバッテリーを装着した時のものだから、これも課題だな。

2003年 2月11日(火)雨後くもり
 用で松山へ。いつもの店で昼食、久々の松山だけど、僕を憶えていてくださっているのかしら、御主人の出血サービスほどの焼きめしを食する。大して美味しいとは感じないが、どことなくいいし安いから、ここにしている。千舟町のサッポロラーメンの店とだけ紹介しておこう。
 ハラ持ち云々ではないが、最近は朝から米の飯を食べている。ことのほか調子がいい。たらふく食らっても太らないことから、先天的に日本人は米の飯を食らうべきかもしれない。
 言いたくはないがBig Mac二個食っても、(テレビで見た横田基地のマクドナルドのハンバーガーの大きさからして)日本の製品はアメリカ本国のBig Macに比べると1/2程度の大きさと量だから、欧米の方々の一食分の小麦の量は、我々が摂る一食分の小麦の量とは大きく異なるはずだし、それよりは一食ずつ、たっぷりの米の飯を摂った方が間食もしなくなるだろうし、実際はいい食餌の方法ではないか、と最近考える次第だ。
 所用を2時間程度で終える。運良く雨も上がって、JRで帰る前に2番の電車に乗って宮田町で降り、ハードオフでラックスのCL35-IIとマランツの真空管アンプが出ていたのを見た後、南海部品まで歩くことにする。そこで宇和島ではどこにもなかったNGKのBPR6ESを二本購入した。
 帰宅して開封。一瞬息をのんだ。今までのNGKとは大きく異なっている。まるで二昔前のチャンピオンプラグを見ているような錯覚に陥った。仕上げが相当に丁寧になっている。一時期、僕が「点火プラグの死ぬ理由」と称していた時期のものとはまるで別物のような気がした。
 そして、注意深く見ると、L字電極の材質が少し厚くなって、被さる部分が中心電極より若干短くカットされ、なおかつ曲がりを強くして、カットされた先端部分に火が飛ぶようにしてある。まさしく、NGKのイリジウムの手法であり、ケルン石塚氏のリファインの理論を取り入れたのではないだろうか、と考えてしまった。
 当然パッケージも今流の碍子部分はDとかCタイプで、ネジの部分はBタイプのプラグディザインにイラストが変えられている。MADE IN JAPANの文字も取り付けイラストが加えられ、文章表記がなくなってNAGOYA JAPANになっている。
 実際がいいものになっているのかどうか、後日試すことにして、今日はおしまいとする。

2003年 2月18日(火)くもり後はれ
 ばらく日記を記載しなかった。理由は非常に単純だ。「書けなかった」んだ。これって理由にならない、とおっしゃるだろうけど、事実なんだ。
 とにかく、記載したい、とPB540cを起動させると、そのかったるさに閉口してしまう。アップロードなどはいつもどおりなんだけれども、どことなく違和感を感じてしまうのである。ふっと思いついてPB150を使用すると、これまた快調に、いいな〜って感じる。全く不思議な世界なんだが、事実だ。
 こうやって派生させていくと、PB G4の12インチモデルがクローズアップされる。が、いぜん報告したとおり、この発熱量は並大抵ではない。
 こんなことがグルグル頭の中を回りだして、タイピングどころではない状況になってしまうのだ。
 今日は寝起きがすごく悪くて、少々遅くなって職場に着いた。おもむろにPismoを起動させる。速いではないか。そういえば金曜日に10.2.4にアップデートしたんだ。少しばかり速くなったのを体感していた。それでも職員団体のeMacよりは遅いが、現時点では十分に満足いく内容になっている。とにかくほぼ8時間作動させたままの毎日が続く。省電力設定は採っているが、 Mac OS Xでは、おかしいほど転けない。昼休みに思いっきりタイプしまくったところ、冒頭のもやもやが消え去った。
 そうそう、23年間払い続けた家の建築費ローンが総て終了した。残額が少なくなって一括払いで実金額(元金)の少なさに安堵する以上に利息の金額の多さに思わずたじろいでしまった。先日支払いが終わった共済分は何と最終に近くなるまで利息と元金が半分ずつ、という信じられないことになっていた。借りた当時、利息が5.35%程度ではなかったんだろうか。振り返るとゾっとする。
 と、いったところで、祝杯を兼ねて本日は発泡酒ではなくビールで一杯やった。やはりビールは効くな。ン!、O-157はホップから抽出したものが効くって報道があった。でも、ビール飲んでも効かないんだろうな。
 ところが韓国の地下鉄火災、北朝鮮から亡命者、昨日の川之江の高速道での事故の死者が増えたこと、気分の良さに水を差してほしくない。

2003年 2月21日(金)はれ後くもり
 、眠気が突然やってきた。NHKテレビの二人のビッグショーでふっと我に返ったが、すっかり疲れが出てしまったようだ。
 今日自体にしても、午後から城川町へ行って、帰って職員団体のことを少しばかりやって、という状況だし、振り返ると滅茶苦茶一週間なんてモノの過ぎるのが速い、と思わざるを得ない。この間「お正月」といっていたが、2月も残すところ8日間しかないのである。残り313日が今年の日数だ。年末年始は今年と全く同じ休みの日数になる、などど、つまらないことを考えている。
 日中はいい天気だったが、そろそろ雲が厚くなってきて、明日はまた雨模様である。少し気分としていいものが少ない。こういった天候だからトライアンフも全く手が付けられない状態である。
 職場でPower Book G3を使って、家庭で540cを使っていると、落差に愕然とし始める。今の時期、真面目に考えて1400csなどをチョイスするのがいいのではないか、と考え始めた。かなり安い金額で入手できる。大きさからしてもそんなにかさばらないし、スタイル的にも僕の持っているPB G3に近い。大きい役目を持たせるわけでもないし、欲張ってG3カードなんてことも考えの中にないわけではないが、540cよりは使える道は広がっているように感じる。
 そう、オールマイティーなものは必要ないんだ。パーソナルな面で、僕の持っているソフト、ハードなどの資産を生かせるためのものとして、常に持ち歩ける最大の大きさが、ちょうど1400ぐらいだから、というのが最大の理由である。
 明日・明後日は何もしないでのんびりするか... 。

2003年 2月22日(土)雨後くもり
 々によく眠った。眠りの深さと時間併用でだ。そういったものだから、すこぶる調子がいい。一瞬の間だけど、眠りから醒めると今週の言い様のないものがすっかり忘れ去っていることに気づく。眠りの深さと時間併用の効果はすばらしいものだ。
 午前中にどうしても片づけておかないとならないものがあって職場へ出向く。やむを得ず、昼までかかってしまったが、一度帰宅して20日にオープンしたOAシステムプラザへ出かける。広告に出ていたものを入手するつもりで印鑑も準備していた。
 バスで出かける。高校生の会話を静かに聞いていたが、僕の時代からするとえらくヤワだな、と感じてしまう。それほど自由になった。代わりにその年代で身につけておくべき諸々のものとか、律するところとか責任とかが希薄になってしまっているのかもしれない。
 OAシステムプラザでは目当てのものは1999年モデルのPower Book G3であった。こいつのいいところはDVDがハード面で操作されるところにある。綺麗なリースアップ製品だったが、Pismoでないのでキャンセル。
 それにしてもすごいお客の数だ。店員との会話のやりとりを聞いていると、コンピューターのコの字も知らないままでも、何とか新しい電脳の世界が開けるのではないか、といった類のものが多いことに気づく。僕はこれこそが専門ショップなんだろうな、そのコンピューターの専門ショップが今まで宇和島になかった、というのが不思議なことだったのだ。真面目な意味で北は東宇和郡、大洲から南は高知の宿毛と幡多郡内からこのショップにお客が来る、といったところだ。しかもWindows一辺倒ではない。我がMacも堂々と出ているし、Linuxもハードではベアボーンから始められる。
 That^sのCDRメディアとUSBケーブルを買って帰った。帰りはバス停まで歩き、といったところだったが、末日聖徒イエスキリスト教教会のエルダー達と話をしながらであったので、結局歩いて帰った。
 雨の一日にしてはずいぶんとおもしろい日であった。

2003年 2月25日(火)はれ
 しぶりに残業になった。わずか2時間だが、夕刻からの仕事を朝の始業時に命令されるとなると、実際のところ「やれやれ」という気分になる。その上に、職員団体としては反対しているが、賃金に反映させないという合意に基づいて人事評価を行わせているが、何でも市長命令とかで、突然にフィードバックをやれ、ってことで課長から結果を聞き及んだ。
 他人が僕を見て、どういった評価をしているのかを聞くのはなかなかおもしろいものだ。ずいぶんと僕自身が考えていることと逆の評価になっている。今回評価が低かった点は表現性、理解力、スピードの三点らしい。
 なるほど、僕が働き初めてから最近まで「公務に就いているものは前面に出るな」という教えだったし、相手から喧嘩を売られても手出しなど出来ず、じっと耐えるだけ、仕事のスピードっていっても速度を競う仕事内容でもない。ま、(絶対に出来ない)絶対評価が前提になっているからそんな評価が出るのだろうな、と考えて気にはとめていない。
 けれども、こと仕事に関しての人事評価だから、この人事評価を逆手にとって、よく見られようと悪用するのが必ず居るんだよな。
 公務職場ではいろいろ問題はあろうけど、第三者から見た僕自身のことはずいぶんと参考になる。
 少し秘密にしていたこととして、昨日Duo 280cを見つけ発注していたのだが、僕より早く注文を入れたのが居て没になった、という。確かに綺麗なマシンで安価だったから発注したのだったけど、没のメールを受け取ったとき、頭の中を風が流れた。
 この間も古いPower Bookはもう止めたとしたし、特に古めのPower Bookは現実にはほとんどのものが今の流れに着いていけないものになりつつある。
 そういえば、メールの確認とワープロなどの簡単なものに主として使っているPower Book 540cの方が調子がいい。このキーボードをASCII配列に交換しただけの方が、今の僕にとってはもっと使い勝手がよくなるはずだ。こんなことさえ上の空になっている。ノスタルジアは一切必要ない。思い入れが強くて、もう一台入手して... 、というものは現役としているPismo程度だ。
 そう感じている僕でも、G4の12インチの熱問題が解決すれば... 、と考え始めているのだし、今回Duo 280cが没になったのは、古いのはもう止めなさいよ、という天の戒めだったのかもしれない。

2003年 3月 2日()はれ
 山へ連合の春闘集会に職場のK氏のワゴン・アールで出かける。最初はいいマシンと思っていたが、ものの30kmも走るとパッセンジャーシートの僕はえらく疲れを感じる。知らない間にエンジン音も高くなってきて、熱ダレを起こしているような感じになっているような感じで回っている。ブレーキもまるでカックンブレーキの感じになってくる。同じようなタイプの我が家のムーブとは大きく異なる。自動車でも実際に乗ってみなけりゃわからないものだ。
 松山では珍しく新型のフェアレディーZを見かける。お馴染みのシルバーカラーだが、噂に違わず、なかなかいい。何というか、日産は走ってこそ「自動車」の世界に大きく矛先を方向転換したようだ。新型のフェアレディーZ、止まっているだけなら「ダサイ」が先に来るはずだ。ところが、走っている姿を見ると、「どんな人がドライビングしているのだろう?」とキャビンの中まで気になってしまう。
 こういったことは、今のシーマ辺りから始まりだしたように感じる。トヨタの今のセルシオ見てると、シーマの親玉のように思う。これこそ二番煎じだろうな。トヨタも奥田の××を早いとこ抹殺しなけりゃF-1なんぞで勝てやしないはずだ。カローラがダメになったのも意外に奥田が要因じゃないか、と。
 でもって、ゴーン社長自らが組合にベースアップ回答をするなんぞ、武人の魂というか、気骨のあるところ、本来の日本の経営者というか上に立つ者の資質を見つける気がするのだが、儲けていても社員をいじめたりしている今の経団連(また奥田が出てくる)の行き方とか、小泉を筆頭とした日本の政治の行き方には納得できない。
 全く別の面からの春闘になってしまった。

2003年 3月 5日(水)はれ後くもり
 当に自由な時間がとれない。明日は天候が悪くなる。先週末と日曜日は全く動きが取れなかったから、四国自動二輪交友会を前にして、SRの最終点検は今日しかないと判断して、早朝から電装回りの点検とコンデンサーをバッテリーに換装し、午後から休暇を取ってオイル交換を行った。
 バッテリーに変更しての変化はすさまじい。DT-200 WRのコンデンサーはSR500にはフィットしていなかった、とすべきか。報告はプラグの状態も含めていずれ... 。
 オイルはザーレンからカワサキのSFに交換した。ザーレンはなかなか良かったが、オイルを抜くときに一部成分分離した状態を発見。やはり3500kmまでしか持たなかった。その距離の前後から急激にオイルの能力が減退する。カワサキのオイルに交換した途端、このことが分かった。走行してみると交換してくれた永井モータースのK君の言うことも分かるような気がする。報告はは次回のオイル交換までのタームを終了してからだ。
 たったこれだけのことでも2時間は必要だ。今時の天候を本当に恨む。少々春寒の毎日が続く。今度は職場の乾燥しきった空調と外の乾燥した空気と合体して僕自身が時ならぬ脱水状況に陥る。幸い花粉症には縁遠いが、知らない間に僕の体を痛めつける。我が家が冷暖房していなくて助かった。

2003年 3月 6日(木)雨後くもり
 っかりやる気をなくしてしまっている。「しんどい」がついつい出てしまう。何がどうなって「しんどい」のか分からない。仕事がどうのこうのということでもない。何かがおかしいのだ。それがワカラン。日付も忘れてしまって、昨日から慌てて作った文章なども出る始末。
 そんな中でwww/Gridのアップをやる。ところが難題続出。ディレクトリにリンクしないファイルが続出する。エ〜ッ、ディレクトリに乗せるまでは上手く行くのにどうしてだ。
 そんなこんなで退庁後から1時間以上過ぎたときに、リンクが健在なファイルを見つけた。何とhttp://wwwからの一連の文字が配置されているものはリンクしている。ネットスケープでリンクさせているのに不必要な文字が入り込んでいる。そんなバカな... 。ためしに少ない文章のをリンクするとき、ダイアログの不必要な部分を消してhttp://wwwを手書きというか、タイプしてやると見事に動く。
 FTPのFetchが悪いのか、ネットスケープ7が悪いのかはっきりしない。結局、この方法でリンクできない総てのファイルをリンクさせて事なきを得たが、時計はすでに午後8時に近づいている。ほぼ2時間半も費やしてしまった。こうまでするのなら、アップロードの時はごく普通のPower BookとFetchも3.0.3、ネットスケープも4.7の方が使いやすいように感じた。
 家に帰るとガックリ感が一気に出て来た。間髪を入れずに、8日に四国自動二輪交友会に同行する野村のT君から待ち合わせ時間をメールで通知していたが、というお叱りの電話。反論もできず、メールで再び確認して返信する始末だ。
 ボケ〜っとしていたときNHKテレビのドキュメントで、浪速の「おかん」達ががんばっている姿を見て、一人で笑ってしまった。というよりは共感したので笑ったんだし、いいタイミングでこの番組を見たものだ、と思った。
 10時前、春一番ともいうような風が吹いた。もう春がそこまで来ている。

2003年 3月 7日(金)くもり
 日は仲間に無視されてしまった。職員団体なんて、こんなように薄っぺらいものなんだ!。一人で右往左往しているのが、回りは滑稽なんだろう、って一瞬感じてしまった。言い様のない気分が支配し、一杯やりたくなって肴屋へ立ち寄って気分良くなって帰宅した。
 そうそう、第一、朝の新聞から今日の一件が予想されたのかもしれない。その最初はトヨタのF-1の写真だ。見た瞬間、こんなマシンではF-1は勝てないな、と感じた、と同時に文章そのものがな... 。
 南十字星に導かれるように、ってか。導かれる前にお前らが導き出す何かをF-1で結果出さないとならないのではないか、と感じる。
 ま、社運を賭けて何とか結果を出したい、としている(あえて)トヨタ・ジャパンと、真にモータースポーツと考え、ヨーロッパでは結構知名度の低い立場で、トヨタ・ヨーロッパが真に日本の考え方との融和策を持ち出し、その中でいかにモータースポーツをやっている、という気分を高められたかどうか、オーストラリアGPでその結果が出るのだろう。
 しかし、トヨタはおそらく勝てない。
 上記のこと以上に、トヨタの車には人間が大きく拘わっていない部分が多すぎる。
 その点、ホンダの行き方というか生き方、在り方が真に今問われるのではないだろうか。その証拠にビルヌーブがドライビングしても勝てない。それでも出ているのは真にスポーツマインドをホンダのチームが持ち続けているからだろう。あれだけ常勝だったホンダがF-1を撤退して復帰するまでの数年間は大きいハンディキャップだったに違いないし、勝てないホンダであってもF-1を戦っていることに注目すべきだ。
 F-1はヨーロッパが主だろうけど、欧米人の純な「スポーツ」に対する気分は、二人居れば「競争」になる日本人の性格とは異にする。トヨタが、そのことが理解できるまでは、時代が時代だから相当長期間に渡って続くだろう。その間は勝てやしない。
 もう一件は市の収入役が辞する件だ。これはこれでいいけど、次に就任が予想される人物のこと考えると、この街の行政もそろそろ終演かな、と感じる。なぜ終演としたのは、皆様方の予想にゆだねるとして、合併を前に4月からは一層冷え込みが予想されるのだろうな、と感じる。

2003年 3月12日(水)はれ
 曜日に鳴門へ四国自動二輪交友会に出かけて日曜日に帰ってきたのはいいのだが、仕事と仕事外の諸々の会議などが目白押しに僕の手帳とメッセージパッドのDatesを埋め尽くした。特に昨日は午後2時半から会議を4つほどこなした。当然、そこで終わらず、その後のことを本日の日中にこなして、夜は別の会議を三間町で行って、午後9時前に帰宅した。その始末を明日から始めなければならない。
 流石に昨日はイライラが抜けきらず、肴屋で一杯やって帰宅後バタンキューになってしまった。このような毎日が続くとテンションを一定に保っていること自体が相当に堪える。内容自体が異なることを同時進行しなければならないから... 。
 三間に出向いたとき、道の駅が完成しつつあった。高速道路のジャンクションもまだ出来ていない中、しかも市町村合併の前にこんな施設を造って大丈夫だろうか、と思うほどのものだ。そういえば、僕が常日頃記載している不安は少しずつ現実味を増して来始めたようだ。夜の街は言うに及ばず、日中の商店街の様子など、少しばかり表現しづらい。平日の日中見かける人々の年齢層は高齢者と児童生徒だけだ。高齢者は間もなく姿を消すであろう。その後を追う僕の年代は市内にはそれほど多くない。結果はお解りのことと思うが、宇和島市、否、新市の中心部分の人が居なくなってしまうのだ。その前兆がそこかしこに見受けられる、ってこと。
 一体どうなるんでしょうね。近い将来、あの当時、そんなことを言ってた奴が居たな〜、という、おじさんの戯れ言だけかもしれない。

2003年 3月14日(金)はれ後雨
 日、何気なく今日のホワイトデーのことを考えていたとき、急に思いついて図書カードを贈ることにした。もちろん女性に、それも3人の。
 で、今日を迎えたのだが、贈られた彼女のいい気分が伝わって、うれしかった。そういった気分が続いていたとき、忙しい仕事の中で、本当に何気なく「Side Mac」のホームページを覗いたのが、そもそもの始まりとなった。そこに2台のPPC Duo 280cを見つけたのだ。Power PCのステッカーがディスプレーのトップに見て取れたから、280cのアップグレード版は間違いがない。両者の違いはハードディスクの容量と程度の差だけで、金額は同じであった。送料を加えても2万円でおつりが来る。即購入の決断をした。そう、確かな理由はない。知らない間にオーダーホームに記載して送信ボタンを押していた、というのが正直なところだ。
 帰宅してOKのメールが届いていた。迅速な対応にうれしい限りだ。この日曜日には届くかもしれない。僕のホームページの記載はどういったものにすべきだろうか。
 僕にとってもホワイトデーの今日であった。

2003年 3月16日()雨
 雨は上がった。一日中降ったり止んだり、夕方の雨は大きい物があった。これが松山だったら結構いいことになっているんじゃないか、と感じてしまった。
 朝も、というか、昨日は松山から深夜に帰ってきたから、どうも時間の観念がすっきりしない。本日は「歌いつぐ愛・えひめ丸コンサート」の当日なんだ。スタッフは午前9時集合。何が何やら分からないままにリハの時間を迎えてしまう。
 こんなんでお客は来るんかあいな?、と思っていたが、蓋を開けると400人以上の観客動員は達成できた。
 何たって、僕の心を打ったのは地元のアマチュアフォークシンガーF君の「昭和の時代」であった。最初の出だしから、母親が父親にブン殴られるところに至ってはそうだったよな... 、と感じてしまう。結局、彼も宇和島にいるのに宇和島でのコンサートは今回が最初だ、という始末だ。
 スタッフの一員として、打ち上げまでつきあったが、こんなんかな?、と思うだけ。ハイドシェックの時のような、「やったぞ」という気分が無い。なにか総合性に流された気分になってしまう。
 事務局長は今後も10年ほどはやる、と言っていたが、実施に至っては、なかなか難しい。どうして水産高校の生徒諸君が来ていないのだろう?。
 我々が歌で語り継ぐとして始めたことにも拘わらず、今の今になって「学校は学校の方針で... 」とされている通常の方向性だけにしたいのだろう、という県の教育行政の方針が、このことは「済んだ」のだ、としていることがあまりに見て取れる。そのうち、あの日は単にあの日に過ぎない、となってしまうのかもしれない。
 そういえば当事者の校長も異動したよな。起こった事実が対アメリカ海軍であって相当な問題を持っていた。その中で、和解の弁護団のことも含め、この事件の一切合切が形骸化してしまうことの危険性が分かっていない。粗方けりが付いたらこれまで、とするのが「愛媛県の行政」方針なのかもしれない。
 僕が考えただけでもこれだから、このコンサートを10年も続けるとするには相当の覚悟が必要なんだ、ということうを努々忘れることのないようにしないとならない。
 はたして10年も経過したら、ハワイにある慰霊碑の碑文に刻まれた日米のことの真の内容について、その時点から掘り起こせることになるのだろうか、はなはだ不安なのである。

2003年 3月20日(木)はれ
 うやくアメリカがイラクへ一発ぶち込んだ。なんだなんだ、日本では湾岸戦争を今でも相当に引きずってるんじゃないか?と思われることが多い。
 攻撃されても日本では一切関係ない。在日のアラブの人々、イスラム文化圏の方々、日本人が攻撃しないまでも、僕はこの方々をまずセーブする方策が肝心だ、と感じる。同じイスラムの方々でもイガミ合いは必ず存在するからだ。
 僕は間違ったことは言っていないつもりだ。アメリカの言い分ではピンポイントで目標部分を攻撃し、一気に宮殿に乗り込む。これ正解。
 しかし、かっこいいことばかりではない。先に記したことからすると正面から一気に攻撃ということになると、まるで203高地の戦いになりそうだ。
 僕はね、イラクは昔言われた共産党一党独裁に似た「専制君主制」と思われる国だから、国民は多くのことを知らされず、の世界にいるのと同じだろう、と感じるのだ。だからアメリカが憎い、と知らない間に仕向けられているのではないか、と感じるのだ。
 アメリカ側でも「出征兵士の死」は軍葬など行われるかもしれないが、死はあくまで死だ。そこのところの考え方は大国の人々がどう考えているかを日本国民は知る由もない。イラクにしても、旧日本帝国軍隊のように、全体がサダム君に忠誠を誓うなどは考えられない。
 そう言った意味からすると、もはや戦争拒否は出来ないが、何とか早く集結し、責任はあるが自由な雰囲気を一刻も早くイラクの多くの方々に知らしめるべきではないか、とも感じる。
 一体アメリカ側、イラク側の状態はどうなっているんだろう?。いつもこの点に苛まされる。国境付近なら、そこそこ情報は入るであろうが、極東の我々には一切不明の世界なのである。情報分析すら出来ない状態だ。この手の情報にはウンザリだし、僕の知る限りはベトナム戦争当時の情報と全く同じだ。
 日本国内の現実はどうか?私鉄の春闘が終結しスト回避など、今年の一般市民はどういった暮らしになるのか、生活費において、その予想が少し見えてきたように思えるし、イラクで起こっていることなどほとんど関係のない空気が支配しているのが現実ではないだろうか。しかも何とか貧乏の状況だ。
 で、国会でも少し前に民主党なんぞがモンクを言ってはいるが、小泉とその内閣が一切無視している。反論はあるだろうけど有事法制も制定したところで、国民の大半が戦争経験者ではないし、骨抜きの無力化された平和教育だ。自らを守るとか、どうすれば敵を破るかなど、小さい頃からの「喧嘩」運動会での騎馬戦、棒倒しなどは行われない状態になってしまっている日本では絵空事の法律に過ぎないのではないか、と感じてしまう。
 遠足も雨が降れば中止になるような学校教育が蔓延している中、軍事訓練的な授業、自然の中で一週間程度の体験生活授業なども必要なのではないか、と感じる。もっとも、それを経験していない方々が教師の大半だから実現できないのも無理からあんことではあるが。

2003年 3月21日(金)はれ
 分の日、朝からDuoにかかりっきりになっていた。午後からは現段階でのSRの最終テストを終えた。
 僕はF-4ファントムが好きだ。このジェット戦闘機、戦闘爆撃機、偵察機、と種類の多い戦闘機が好きだ。妙に人間とキカイが対等につき合える最後の飛行機ではないだろうか。
 僕は戦争は反対だ。しかし、力の行使は別として、何かが間違っている、とすれば力の行使は致し方ない。この経験が乏しい方々は絶対暴力(戦争)反対、と言い切るであろう。
 しかし、そうかな?と考えてしまう。言い分にしてもそうだ。あえて言うが「チビ」はいいんだな。「ブス」は「不素」っていう表現があるからいいんだな。では、「びっこ」はどうしていけないんだ。「つんぼ」、「おし」などを含む通常の表現がどうしていけない、という問題に発展する。特に加山雄三の「子犬の哀れさ」を出すために「びっこの子犬」と題した楽曲があるのに、今では全く聞くことが出来ない。不思議な世界だ。戦争関係もそんなに変わりゃしない。
 別に差別云々ではないんだ。あまりに何かが真意の先に来ると、日本語が持つ本来の意味までも死語にいたらしめる結果が待っている。僕はそれはおかしい、として、差別ではない世界で使いたいものだ。
 何の話だったっけ、そうだそうだ、僕は(太平洋戦争、これも限定だそうで第二次世界大戦)戦後の生まれだ。それで戦争の悲惨さなんて一切分からない。が、ベトナム戦争とほぼリアルタイムで生きてきた。事実はどうだったか、それは、その戦後でしか分からなかった。
 仕掛けたアメリカ政府の考えていることは一切出されない。イラクの状況はもとより、それ以上に分からないことだらけだ。
 そんな中、おしんの少女編の最終回を迎えて、それを見ながら僕は涙が出てしまった。この「おしん」が放映された時でさえ、暴力云々いわれていたのに、それでも、出来る限り忠実に「おしん」の時代を出していたではないか。それに共鳴した人が多かった。そしてアーカイブスとして再び放映されている。それに再び共鳴を受ける人々は当初放映された当時の方々ではないはずだ。何だろうか。僕は人が人として、ごく自然に立ち居振る舞いをする、それが出来ない、いや、出来なくしているのではないか、と最近思い始めた。
 しかし、「おしん」最終回は大きく僕を泣かせた。そうさな、僕は50も過ぎたし、息子が出来て少年時代をともに過ごしてきた時と違う、孫をも迎える時に至っている。冒頭にイラク線であっても出征兵士の多くは僕の息子と同年代が一平卒として出征しているんだ。ようやく成長した我が子の苦痛が分かり始めるようなとき、それが一層僕の心を揺り動かしているのかもしれない。

2003年 3月24日(金)くもり時々雨
 からとんでもないお客に右往左往だ。というのもこっちは別に悪くないんだが、相手の受け取りようだな、それを狭義に解釈されると、こっちは公だから相当にシビアに対処しなくてはならない。そういった意味もあって課長補佐と午後に訪問したのだが、ま、事なきを得た。
 もう一つは馬鹿げた話だから記載はしないが、とにかく、課員の我々をロボットかキカイのように扱っていることだ。話の内容で気にする必要はないかもしれない。けれども、こっちは大義名分がある。そのことはここでは出さずに、仕組みを話すに留めた。役所の職員の大半は一般に思われていようにいいものではない。実際にパイロットとかアテンダントの職務は言いようのない厳しさがある。それに足しての報酬だ。それ以後はこの間終わった「Good Luk」に詳しい。
 こんな気分だから、一杯やる。そこのアルバイトで中国から来た中国からの留学生であるその彼女の口から、学費を稼ぎ出している、ってことを聞いたときは愕然とした。今まで愛短の学生は中国国内でも裕福な子女だから日本の片田舎に来られるんだ、と思ってたが、それは一部の留学生の世界のようだ。
 中国語と英語の表現の仕方云々を和気あいあいのうちに話して帰宅する。途中、末日聖徒イエスキリスト教教会の宣教師に対面。久々に話をしたが、彼らは20歳という。欧米人特有の老けた感じはするが、それでも単身でこの宇和島くんだりまで来て勉学にいそしんでいたり、自らの使命的な仕事に時間の多くを費やしている。
 宣教師と話をしながら、日本人は単身で欧米諸国へ旅行できませんよ、どうして?、不思議だが英語がしゃべれないため、という答えなんだ、というと怪訝そうな顔をしていた。事実、アルバイトの中国の彼女も、宣教師も日本語はほとんど知らない世界だった。そういった土地で、今一生懸命生きている。
 僕は自分の仕事があほくさくなったし、そんなに力入れて「自分が法律」に近づけようともしていた。おかしいかもしれないが事実だ。
 ここまで来ると行政としては、この際だから、日本語教室などの教室を造ったり、不合理さを無くすることが大切ではないか、と感じた。

2003年 3月27日(木)はれ一時雨後はれ
 さに今日の天候そのものの一日であった宇和島市の人事異動。
 自分が変わらなかったから、というわけではないが、あまりに人事に偏った異動をやると、仕事そのものが前へ向いて行かなくなる、という状況を呈した。
 どの課がそうか、とは言わないが、大きな目玉イベント関係にたずさわっているところ、としよう。仕事をしようたってメンバーが初心者で、動かそうにも動かせない。おまけに課長の上のポジションが動くような人でもない状況だから、こういった予想が出来るのである。もち、すでにそのイベント向けて何をどうしよう、というのはやっているんだが、肝心要の本番までが順調に運ぶとはとても思えない。
 そういった気分が多かった中での人事異動だった。待てよ?、これって昨日の午後3時には内示として存在していたのではないか?。しかし、僕が松山から電話したところ、この内示はなかったらしい。事実、本日9時前の庁内メールで確認しても「平成14年度分」だったのである。
 過去何度も言ってきた人事異動内示の時期だが、上層部の一部、否、大半は市長の無能さから出ていることだろう。市長が部下を信頼していないからこういったことになるんだ。この4月からや〜めた、とした職員に対して法律違反の代休制度を昨年1年間平然とやらかす。職員側はその1年間のリサーチをしないと文句が言えない。労働基準監督署にも申し出が出来ない。当局はこのことを知りながら、これを1年間やらせたんだから、おそらく結果が「や〜めた」でも代休も取れない、時間外勤務手当も取れなかった職員の補償はどうなるんだろうか。この時代、サービス残業が過ぎると自殺者も出かねない。
 市長攻撃ではないが、あまりに「民間、民間」と言いたおすと、職員から反発を食らうのはハッキリしている。おそらく今の状態では、次期市長選に出馬しても落選するだろう
 このようなことは僕の心情からすると書きたくない。しかし、市役所には誰一人として、「市長の仰せのままに」の考えが抜けきれない「バカ職員」が多い。言ったところでどうにもならない、とする職員がもっと多い。それを利用してポジション上げる輩も多いから始末が悪い、が、事実なのかもしれない。
 で、僕は、この街は今の市長のままなら、衰退は免れない、と感じるところだ。
 午後8時近く、市庁舎の4階、辰の川沿いの部屋に明かりが灯っていれば、市長は市長室で何かやっている。そう、マジで市のトップが一人で仕事しているのだ。本来、それは担当課 で行うべきものと感じるのだが、信頼されていないのか、自分が総てを掌握していないとならないのか... 。
 これをよしとするのなら、まだまだ言い足りないことはあるんだが、長野県知事室のように、市長室は1階に回してほしい。
 最後に、このままでは、おそらく合併前に宇和島市なんて「沈没してしまった方がいいんだ」ということになりかねない。三間のあの建物はどうするんだ。津島が計画している大きい箱ものはどうするんだ、吉田の○△はどうするんだ?。それに加えて宇和島が持っている大借金はどうするんだ?。
「宇和島」を強力に制定する意志を発揮している市長だが、「うわじま」でもいいんじゃないの?、と感じているのだが... 。
 それよりも、合併した後どうなるのかって、市民のみなさん解っていますか?。

2003年 3月30日()はれ一時くもり
 の間は、さんざん市とか市長の悪口書いて、おかしいヤッチャ?、と感じている人も多いだろう。僕はそんなに深くは考えてないよ。むしろ、こういったことをweb上でお知らせして、このページを見られている全国の方々に「合併とはいかなる結果になるんだ?」といったようなことを知っていただきたいだけだ。決して有利に働くことはない。むしいろ、悪くなるばかりだろう。
 特にゼニの無い自治体、それが対等で合併、といえども今の宇和島市がイニシアチブを取るという、この現実。3町の方々は本当にいいのかな〜?、とマジで感じてしまう。その証拠に今日の合併協議会で「宇和島市」になってしまったろう、これが対等合併か?。
 新市名に対して、宇和島の旧市内では自治会で「宇和島市」の組織ぐるみといわんばかりの推薦表をとりまとめることまでやったのだから。
 明後日から新しい年度だ。僕もそろそろ仕事を辞めるときかな?、と考えることがしばしば出てくる。若いのに着いていけないとか、そんなのが理由ではないのだ。こういったことをいうと、今までは○○新聞のHさんに「もっと自信を持て」とさんざん言われたが、職場が八幡浜になって、彼ともここ1年ほど会っていない。
 今日も孤独な1日であった。でも、朝の内からトライアンフのフューエルパイプの取り回しに散々苦労したし、QV-10のACの修理したり、結構細々したことがあるわけだ。だから、集中して「この作業」という決定が出来ない。そういえば、先週はお墓の掃除をしたんだよな。孤立してるけど結構忙しいのだ。 
 妻は当直明にもかかわらず、お花見だそうで、朝の内から出かけて、深夜のご帰還だろう。洗濯はおこなっていたようだが、僕としては炊さんをしなければならない。コシヒカリより少々安いから「秋田小町」の水加減を少しばかり考える飯炊き、栄養バランスを考えての昼飯と夕食、自分で飯つくるのも結構おもしろい。
 3時前より、SRを出して宇和のT君宅まで走る。そこでアンプのことなど話して帰ってくる。帰り道、自分のライディング姿を旧宇和島造船の「Sさん」が乗るCB-750の姿とオーバーラップさせていた。僕にはいつまで経ってもクラウチングスタイルのライディングフォームだし、この歳になっても堂々とアップハンドルでは乗れない。困った性だ。冒頭の仕事を辞めたい気分が無ければ、55歳ぐらいで、とんでもないオートバイを購入したいところだ。あくまでクラウチングスタイルだから、そう、今の感覚ならロードゴーイングレーサーだろうな。それも今流のおきゃんな新しいのではいけない。女性にたとえると、少なくとも飲み友達というか、妻以外で一晩でも一緒に過ごせるような感じの方、しかも現役の職業婦人、そういった感じのオートバイでなければならない。
 が、宮本武蔵の「一乗寺・下がり松の決闘」を見ると、相当に「決断」を迫られそうだ。あんな小さい子を一刀両断に... 、僕みたいな生き方をしようとすれば、あの時代には生きられない。今の大半の奴がやっていそうな又八の生き方も出来そうにないし、かといって小次郎のようにもならない。吉岡のように大きいのも嫌だ。
 相当に難しい世界に生きているように感じてならない。日本っていう国はもっといい国だったはずなんだし、宇和島はもっと住み良かったな。ネイティブ・ウワジマンはもっと奮起すべきかもしれない。
 
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