2003.04.06〜 06.27

2003年 4月 6日()はれ
 いことばかりは続かないものです。とにかく何なりと日記に記すことがあったのは事実なのですが、そういった気分にならなかったのです。ことは4月1日に始まります。すさまじい予定で1日が終了しました。午後までには人事異動による新しい仲間での仕事が出来つつ... 、そんなものはどこにもなかったのです。内示の後で、一般職はまたしても変更がある、といった次第、数年前までの悪い慣習が再び出て記始めました。
 その後の日々は落ちつかないままで、特に4日は私の電話の応対が悪い、という御人が乗り込んできて、上司ともども「アンタ方はそろっておかしい」と言われる始末。確かに同じことを繰り返されると、私としても、その方のコトバを遮らざるを得ない。ここに諍いが出るわけですね。ま、その御人は十分に納得されたから、本人の口から二度と来ない、と言われたので、安心はしていますが。
 かねがね、私は電話でカタをつけるのは大嫌いで、それゆえ、携帯電話も持っていません。電話ってものを多用すると、対人関係そのものも実体の無いようなものになってしまいそうで、この面が私を電話から遠ざけているように感じます。
 土曜日はひょんなことで知り合った愛短大のK女史に宇和島の山の手をご案内しました。歩いて散策する中で、中国の方と日本の人の意識の違いが感じられて、なかなか興味深いひとときでした。彼女は26歳とおっしゃってましたが、それでも私の歳とは倍半分です。が、母国のことになると、毛沢東はもちろんのこと、孫文、周恩来など、中国にはなくてはならない方々として、若い方の口から出てくるのですから、今でも相当に中国国民の意識の中にあることがすばらしいことだ、と感じました。
 お城山へ登って、本丸の中に入り、追手門の消失を説明するときなど、戦争のことを出すのが私としてはつらかったところです。
 本日は、PB540cのバッテリーが息の根を止めました。もし、Duoの「バッテリー調整」のようなものがあればいいのですが、バッテリー側にチップが取り付けてある500シリーズのバッテリーは心がけて、バッテリーを2カ月に1度、バッテリーを空にする必要があるようです。一瞬のうちにバッテリーはOKでもチップそのものが上手く作動してくれなくなります。近日中に生きている中古を何とか探し出さないとなりません。最悪の場合は再びDuoを作動させる必要が出てくるのでしょうか。
 そういった中で、www/Grid No.49をアップロードしました。なんとかアップロードできたのですが、土曜日にOAシステムプラザへ出かけてPismoの美品を99,800円で見つけました。「買うべきかな」と少し心が動いたのですが、G4の17インチが出るわけですし、人気のある12インチ、チタンの15インチなど、もう少し様子を見ることにしたい、と感じています。
 また、明日からは相当にハードな一週間が始まります。

2003年 4月 9日(水)はれ時々くもり
 場に来た新しい職員の方々と一杯やった後、すごいパワーだったな、と感心する。僕はグラスを持って席を時々変えて彼らの話を聞きながら、一体この人達は将来どういった職員になっていくのだろうか?などど考えていた。
 僕と二回り以上若い方々にもかかわらず、そこそこ話の中に入り込めるのは事実だ。が、あくまで、その内容は現状ではない。少し前までの学生気分での話が大半を占める。僕ともども、それに応じる数年前に職場に来た若い方々は、その点、仕事での応対を行うから必然的に新入職員は構えてしまう。
 僕はこれではダメ、と思いつつ、この新しい人達の過去がどういった教育を受けてきたのだろうか、あるいは、実際の社会状況は解らないまま学校生活を過ごしてきたのではないだろうか、と思ってしまった。
 はっきり言って、アマちゃんばかりだ。この人達がこの1年間で配属された部署でどういった上司からどういった教育を受け、それをどういった形で消化し身につけるのか、寛一、お宮ではないが、来年の日記にでも記載してみたいものだ。

2003年 4月 11日(金)くもり後雨
 本人のむなしさをずいぶんと考えさせられた一日であった。
 僕は昔から日本人のいい加減さに頭にきているところがある。もちろん、僕もその片棒をかついでいるところもあるのだが、それ以上にすさまじいものを持っているようだ。
 そういった意味から今日のローカル版のNHKテレビで学校でやっている「総合教育」云々の番組で、鳴門の教授が何タラ、カンタラ言っていたが、僕は「アンタ、アホ違う?」と言ってやりたい。もちろん番組そのものの姿勢も疑いがあるのは事実だが、彼の言うことは「理想」の域を出ない。こんなんで教授になるのなら、僕なんかは「賃金クラス」がもっと上の教授になるのは明白だ。こいつ(教授)は世界を知らない、と感じられた。
 番組中で低学年が高学年に対して「ゴミの問題」の実践を説いて、どう思うか、というサゼッションを投げかけるものなんだが、その時のセンセイのいい加減さに僕は頭にきた。吉野川の美化の一助としての何かを行うというものだが、実際は吉野川の実態調査もない。
 つまり、面識のない高学年にいきなり突っかかっていって、明白な回答なんぞ出るわけがない。それでも低学年生を行かせて、その様子をモニターするなんていうのは愚の骨頂だ。これをやらせた輩は自分は自分と年端も行かない学生を相手にしての授業をイッショウケンメイ、というところだ。
 ところが、今回の相手はごく普通の小学校生なんだが、もっともっと丁寧にこの番組の主旨などを児童に教えない。
 僕は「ここ」だろうと感じる。番組の時間制限はあるにはあるのだが、こういった根本のところをもっと明らかにしないと、低学年の生徒が高学年に乗り込んでいって襟を正させる、ということだけになる。現実には高学年自らが動くところまでが必要なんだが、これが一切無い。これが総合教育云々という番組だ。
 どうだろうか、親から教えられること、地域から教えられること、それらを学校教育が「ナンセンス」として切ってしまう、というのが、今の教育のようでならない。

2003年 4月 12日()雨後くもり時々はれ
 喜一憂の一日であった。朝は大雨の中、明日の選挙の準備に出かける。その後で職場へ出かけてweb上でPower Book 500シリーズ用のバッテリーユーティリティーを探し回ったのだが、ダウンロードすることが出来なかった。実は今月の初めから540cがバッテリーの充電をしなくなる不調を訴えていたのである。
 午後からSRを引っぱり出してOAシステムプラザへ。今度はPCでも職員団体用にWindowsマシンを一台格安で購入する命題が僕に課せられているからである。開店当初Lavieの格安マシンがあったのだが、あっという間に売れてしまった。そこから1か月、土日に通い続けて、ようやく富士通のマシンをGet出来た。こいつをWindows 2000で作動させようという次第だ。
 夕刻、再び540cを動かす。手持ちのバッテリーを交換しても一向にダメ、で通常の使用状況でのバッテリーを交換したところ「プチッ」という小さい音がして息の根を止めた。手持ちの520c(ボードは540c)からの交換も少し考えものだ。
 で、再びDuoを使うことを前提にして、SCSIカードを背負わせた1GBのハードディスクを乗せ換えし、PPC用の必要なものを再インストールしてOKになった。わずか1時間だ。
 いずれ記載したいが、古いPower Bookの中でどれが使えるか、となると、Duoは別として2400、3400辺りになってしまう。1400では必要なものが後で装着だからだめだ。もう一つの欠点で3400も実はダメなんだが、このことはDuoにも及ぶから、いずでMac'n Fileに記載しよう。
 そういったことで、この文章はPPC Duo 280cで記載し、アップしたという次第だ。

2003年 4月 14日(月)はれ後一時雨
 日の選挙は言い様のない疲れが僕を包み込んだ。サッポロの生絞りをあけた途端に睡魔が襲い、本日6時前まで眠り込んでしまった。一体あの選挙は何だったのだろうか。つまらない選挙であった。低い投票率でトップが大量の票を獲得する。すると残りの一議席をめぐっての戦いは相当シビアだ。こんなのではいい選挙とは言えないな。僕は政治学を専攻したが、今の日本の政治そのものはいいとは絶対に言えない。地方だって同じだ。こういったことからも、次点になった候補は「出馬せずもう一期同じ市議会議員をやってれば... 」と、個人として悔やむ。
 こんなことも手伝ってかもしれないが、朝から仕事に不安を感じだした。始業時から1時間ほど経ったとき、胸がハタついて、若干手が震える。4月からの席替えで、僕自体が管理職のような感じになった配置だ。おまけに課長補佐の机までが遠くなった。相談なんぞ出来やしない。
 それも原因かもしれないが、もっと根本の、仕事上での対人(不特定多数の市民)関係が最近嫌で嫌でならないからだろう。特に相手の状況が全く解らない電話での話し合いがつらい。これらが一段落する時間の午後4時を過ぎると安心する。
 しばらくはこの状況が続く。そして木の芽時になだれ込むのだ。自分のテンションを高めておかないと... 、とはいえ、こんな嫌な緊張感に対処するためとしてはごめんだ。
 ふと、NHKの自然番組でスレンダー・ロリスの生活を見ていると「ホッ」と心が和む。ついつい今流の生活をしていると、ロリスの特徴を自然に身を任せたスローライフを忘れてしまう。こういったところに気付くことがないと「ポッカリ」開いた心を自分自身で病むことになるのだろうか。いや、それとて気付かずに過ごしている。気付いたときは身も心も手の付けられないものになっているのだろうと思う。

2003年 4月 16日(水)はれ
 瞬、仕事休んでやれ、といった気分になったのが午前7時。実は昨日、4日と同じ、電話の向こうは鬼ばかりの電話を僕が受け取ったものだから心の動揺が尋常ではないんだ。処置は僕じゃない者がやっていなかったが、そんなことを相手にいっても始まらない。朝からブルブル震えが止まらない。正直なところ、おかしい!と感じられるはずだ。僕が悪いんじゃない!。でも、それは許されない。が、それに対処する上司の立場に僕がいるわけでもない。そういった、ジレンマとも何ともいいがたいものが僕を2日間苦しめ続けたのだ。
 幸い、午前中に自発的にことが片づいたが、やはり一日中、外線電話の音にびくついていた。バカみたいだ、もちろん、この日記をお読みの方はそう感じられるだろう。もう一つ、あんた歳いくつ?52でしょ。行政組織の中では気にすることはないよ。もっともです。
 しかし、年間の対処人数が50,000人〜100,000人。この方々がもう少し理解あればと考えても、それをヒトラーのようにコントロールできやしない。それゆえ、相手の姿が見えない電話での応対は時としてニア失敗の会話を招きかねないのである。お互いが構えての世界だから冗談半分で解りよく説明もできない。 
 そういったことから、本日は始業ぎりぎりで出かけた。「かなり気にしていたようだから、来ないかもしれない」と思わせる意味も含めていたが、職場のお仲間はそんなことは一向に気にしていない。自分自身を悲劇のヒーローにしているだけだ。
 そんなことで、どうしても一杯やりたかったので肴屋で本当に適量やって帰った。何しろ生中一杯でふらりとしてしまったからだ。
 明日は休みを取った。また、色々言われるかもしれないが、これは休まないと自分がどこかへ追いやられる。が、休みとはいえ、メーデーの道路使用許可願いで警察と打ち合わせ、午後は三間町出張、と休むこともできない。
 職場のこと見回しても、新しい課が1週間で誕生したり、仕事内容がイマイチ把握できなかったり、連休明けに本当にプッツン職員が出現するのかもしれない。そういえば一昨年は勤務して1か月を迎える前に自殺した職員がいたものな〜。
 市長も自分の配下の職員がどうなっているのかを少しばかり知っていただきたいものだ。ま、残り2年もない市長任期だ。次の選挙では落選するのは確... 。

2003年 4月 20日()くもり一時雨
 確実な天気予報の真っ直中に居て、四国の西から東を往復した二日間であった。昨日の朝9時30分にSR500で徳島県海部郡海部町の遊遊NASAへ春のBritish Runミーティングに出かけた。僕にとっては初めての地への旅であった。
 国道320、197号線、高知道、55線を290kmも走った。実に気分良く本当に走ることだけを重視し、英車を愛するという同じオートバイの仲間達に再び出会うことを楽しみに... 。
 午後3時半に着いたものの、懇親会ではいつも見る顔がない。社会情勢などがあって、ずいぶんとミーティングも様変わりした。あの人はどうなったんだろうか?などを口にすることはない。強くは言わないまでも、どうもイギリスのオートバイという、単に形骸化の反動が今になって訪れて来だしたのではないか、と感じられた。今のトライアンフが来ていてもいい状況であるはずだが、それもない。
 本日も昨日同様の時刻に帰途についた。唯一違うのは国道55号線のうち、室戸を通らず、国道439号線を通ったことだ。はっきり言って失敗だった。この道は酷道であった。距離は短いが、かかる時間は同じだった。昨日、遊遊NASAへ到着時とほぼ同じ時刻に帰着。総ての行程を終えた。
 本来ならTriumphで行くべくだったかもしれない。整備が出来ていなかったこととテストランができていなかった。今回は止むなしだ。秋の「英車を愛でる会」は清里だから、日程的には行けない。来年の車検を前に、この夏までにはしっかりと走れる状態にしないとならない。
 妻は当直勤務。一人での夕食、心地よい疲れからか、ビールが美味であった。

2003年 4月 27日()はれ
 かった1日が終わった。宇和島の市議線の結果はともあれ、まずは松山市長選は中村候補が圧勝だった。しかし、当選確実後のインタビューでは、中村新市長は決してかっこいいことは言わなかった。彼は15の項目を公約として掲げている。それに向かって市民の強力、職員の強力を願っている。
 一方、八幡浜は高橋氏が再選となった。インタビューは正に勝者のコトバであった。しかし、それを言わせるだけの実績と市民のサポートがあったからに他ならない。僕はこういった、八幡浜一般市民の考え方が出来る市長はなかなかのものだ、と感じる。次の任期の公約はわずかに3件だ。「伊方町との合併」・「市立病院の改築」・「日本一の魚市場の建設」。まさに長いスパンの公約だ。僕は「市のトップたる者」の考えはこの程度でいい。それに向けてのことは、市民と行政が一体でやればいいのだから。そして、高橋市長は「政策の批判は受けるが、個人の批判は選挙に持ち込むべきではない」といい、「これからの活躍に期待する」と選挙を闘った相手候補に投げかけた。
 ところで今の石橋市政はどうだ。僕は彼を批判する。個人攻撃ではないが、何とかしてくれ、とすでに数人が精神面で病んで病院に通わざるを得ない上に、なおかつ時間外の残業が月に30時間を越えても、休暇も手当も出されていない宇和島市役所の職員の惨状を訴えたい。なおかつ、労働基本法などの法律違反をしても民間のやり方を平気で導入する。それを、さも当然といわんばかりの一般市民も市民で、あまり行政をいじめると市民サービスの低下につながることが解っていないようだ。
 バカな上司が大半を占めているからだろうか、石橋君より年上のくせにサゼストすら出来ない。「市長アンタは間違っている」とは言えないようだ。かといって、トップ集団には暴れん坊将軍の「爺」のように市長に意見する者が皆無だから、こんな結果になったんだろう。
 こうなってくると、中村松山市長が言う「住んでみたい町」を目標にしたって、宇和島には「すぐに出ていきたい町」に来年10月以降なりそうな気がしてならない。そうだろうな、この僕でさえ、職場に行きたくなくなる気にさせるような市政だから。

2003年 5月 3日 ()はれ
 法記念日らしい。僕は深く考えたことはないが、現行憲法はなかなか素晴らしいものをものと考える。自衛隊とか、そういったものは運用で出来るかどうか、憲法からすると日本人民の意識が今問われているのではないだろうか、と思うのだ。
 でもって、あったらしい憲法を創るとしようとする連中は、それに伴う諸法規の云々はどう考えるのかをはじめとして、日本国民に憲法云々が解っているのかどうか、そこから始めないとならないんだが、今の若い連中が日本国憲法が何だ?と真剣に考えるようなことがあるかどうか、はなはだ疑問だ。
 昨日購入した、ダーティー・ハリー3のDVDでキャラハン刑事が「法律を守らせることがいかに難しいか、アンタらは理解しているか」という下りがあるが、日本の法律は国民を守ってやる、ってのが多すぎるな。
 あ、さて〜、今日は恒例の朝霧湖マラソン。僕は走りましたよ。結果は5kmを34分だ。かかりすぎ?、そんなことはない。結果はいずれ報告するとして、何と大阪から参加している人が居る。宇和島で、こんなイヴェント持っているか?。まぁまぁの大会でも公がやると参加料も取りゃしないし、走らせるような場所さえありゃしない。そのうちやってくるだろう宇和島牛鬼祭りにしても、前夜祭のGaiyaはもっと規則を厳しくして、1グループあたり10,000円ぐらい徴収しろっていうの。決して高いことはない。そうでもしないと、Gaiya On The Roadの主旨からは大きく逸脱しているのは確実だろうから、ますます参加者の勝手な方向へ進んでしまう。何しろ基本を忠実に守って演技しているグループは数えるほどしか居ないのが現実だ。
 その上に、祭り本番は県の中学総体といつも一緒になる。祭りの実施委員会でも県教委にハッパかけてもいいはずだ。何しろ松山祭りは日程からはずすんだからな。最上のだんじりも新居浜の太鼓台も。
 朝霧湖マラソンへの足はSR500。最近SRが快調になってきた。叱られるが、スーパーサンダーを再び装着している。突き詰めるところがハイテンションコードから、ってところがミソだわな。が、スーパーサンダーを間違った使い方すると、結果は僕の以前報告したこととなる。まさに、電気は目に見えないから難しい。
 夜はmacromediaへFreehandのweb登録で苦労した。実は僕の失敗が響いていたし、昨年の4月から登録していなかったため、今になって9.0の登録から始めないとならず、パスワードにしても大弱りだった。接続時間1時間、ADSLがうらやましい。もっともPower Book G3の56kモデムでも結構速いのが最近になって解ってきた。Mac OS Xの方でもかなりFit性が良くなっているのじゃないだろうか。

2003年 5月 11日 ()雨後くもり
 、げ、元気で〜す。といったところで、その実はそうでもないんです。ことは3日、朝霧湖マラソンの後から起こりました。右足のくるぶしが接地できないほど痛いのです。ところが、歩く分には影響がない。6日は右足全体がむくんで来だして、河野先生へ診断を仰ぎました。至った状況を話した後、「フ〜ン、そうですか、こういったとき痛風ってこともあって困るんですよね」ときて、「お酒控えてくださいね」、と言われました。
 痛いところをつかれたのですが、翌日の血液検査の結果は「影響無し」。結局のところ、最初の診断どおり「関節炎」ということで、腫れが引くのに1週間ばかり必要だった、ということです。
 それにしても、自分の骨のX線写真、惚れ惚れするぐらいの骨の状況でして、「写真ください」、と思わず口から出そうになりました。
 この1週間、体調が激変しましてね。体の痛みが取れてから妙な感じで毎日を過ごしています。今は止めていますが、ちょうど2〜3年前に漢方薬を飲み始めた頃によく似ています。
 でもって、身体の変化に自分で驚きながら、どうなってんだろう?というところで、快調なのに何かおかしい、というわけなんです。
 話変わって、今日はNHK総合テレビで子どもの授業のことやってました。僕は番組に出た先生に近い先生方に義務教育の多くの時間を受けました。家庭で父母から受けるものよりはるかに学校で教えられたものが支配していたようです。
 今はどうでしょうか、息子の小学校時代、中学校時代、参観授業などで感じるだけでも、テレビに出た先生のような先生にはお目にかからなかったように思います。
 番組中、児童の父親が他界した時のことが出ましたが、高校2年の時に父を失った僕は、妙に感じ入るものがありました。あのとき母から「もう長くはないから... 」と言われていたので、極力明るく振る舞おう、と決めてましたし、葬儀の時も毅然としていました。番組と同様に、そのことを知った上で「君には似合わない」として、翌年の年賀状で励ましのコトバをもらったのを思い出しました。

2003年 5月 12日 (月)くもり時々はれ
 事者側との交渉。あ、こいつら間違っている、と一瞬感じた。言い様のないむなしさが僕を包み込む。まずは未確認新ウイルスだ。よそ様のところはすったもんだしていて、日本は尻馬に乗ったような格好になってしまっている。
 実際はそうだろうか。蚊帳の外の中国の問題なんぞ、日本国民には一向に気にならないような感じだ。
 何でもないようなことに対しても重要な問題を含んでいるところもある。ましてや、お隣の中国で云々の病気の原因なんて、突如として日本に一気に入り込むのは明白な事実だ。そこを水際で防ぐのが、今の対策の本質だろう。はたして、今の日本にその体制があるかどうかは、はなはだ希薄な国民意識ではないだろうか。ましてや、発生原因が一地方都市に及ぶに至っては、今の状態では防ぎようがない。
 話は変わって、今の宇和島に欠けているものは一体なんだろうか。散々考えたさ。まずは中高一貫教育の中学生が4月は確実に「おはようございます」のあいさつをやっていた。今はどうか、そんなのは遥か遠い彼方のこと。ちっぽけなことだけど、学校側からすれば、一応の正課は達した、に過ぎないのであろう。
 そういったことから考えると、市民に一番不足しているのは「笑」だ。今ウワジマンに一番乏しいのは「笑」だろうと思う。これは確実だろう。そこそこの「笑」はそこそこの場にあろう。が、この宇和島で宇和島全体が「笑」を持つ場、物、事柄などは本当にあるのだろうか。
 かつては、宇和島がイニシアティブを取ったような形で、行政を始め、議会も市民も苦しい中でも「笑」はあったように思う。
 今は何もかもが疑心暗鬼はもとより、他人をけ落とす、自分だけ良ければいいのは日常茶飯事。宇和島が計画するものの中で市民全体が「やろうぜ」とするものは一切ない、というのが現実だろう。
 これを社旗通念、としているのがご時世だろうか。僕は一人でも笑っているから。たとえ泥夷といわれても... 。

2003年 5月 18日 ()くもり時々小雨
 日はひょうんなことからPower Book 520cを入手できた。喜んだのもつかの間、どうやらロジックそのものがイカレているのか、ドーターボードとの相性が悪いのか定かではない。異常に綺麗なことからその辺のところがジャンクなんだろうな、と感じてしまった。
 先週一週間は全く腑抜けになったような感じに陥ってしまってひいては八方塞がりのような感じになってしまい、何にも出来なかった。特に金曜日など古い日記を読み返しながら、今の状態とは比べものにならなぐらいに動いていることに気付き、今は一体どうなっているのだろう、と考え込んでしまった。
 昨日はSR I.O.Aからミーティングの案内が来ていたが、折り悪く別の行事と重なって行けない。もちろん、福岡、神戸、横浜と3会場あるのだけど、そこへ行くまでの費用も相当なものになる。北海道、四国は孤立してしまうから不利なところが多いな、と感じてしまう。
 さ、また新しい一週間が始まるが、何とも気合いが入らない。

2003年 5月 20日 (火)くもり後はれ
 い加減こらえてください、と言いたくなるような一日であった。総ての業務が終了したのは午後7時であった。厳密にはこちらのミスだから致し方ないのだが、コンピューターを使用する場合、端末上では変更になっていても、メインコンピューター如何によっては受け付けていないものが存在する。先月もこれがあって少々げんなりだったが、今回は大量に出てきた。数万件の中から数件が浮かび上がる。その後始末に関係者に平身低頭で直接お断りをやるわけだ。
 何も悪くない。(直接ではないけれど)キカイの問題か。残念ながらキカイは「ごめんなさい」を発声しない。操作した人間が問われる。ここが今のコンピューターを使用した仕事における何とも言い様のない悶々なのではないか、と久しぶりに感じた。
 そのお断りに出向くときにSRを使用した。アーシング処理をした当日のテストより格段にいいフィーリングを示した。今月号の僕の記事を参考にアーシングされた方もいらっしゃるかもしれないが、折を見て、フィーリング向上の理由の一端を紹介してみたい。
 総てを終えて、一息ついた後の発泡酒が旨かった。どんどん飲料がすすむ。とうとうプロジェクトX以後まで続いた。そういえば、昨年の今頃はSRに対しての悶絶状態から抜け出せそうにになっていたのではなかったか。毎日のテストに自分でもウンザリの日々から少しずつ原因究明的なものが解ってきた頃だったようだ。
 ひとつ、6月の8日は神戸へでも出かけてみようかな、と考えているが、いかんせん、その日一日のイヴェントだが、結局はその前後の日が無駄になってしまう。これが僕の住むところで感じる悶々だ、とまた記載してしまった。

2003年 5月 24日 ()くもり一時雨
 日から触っていた520、540だけど、結局どうやってもダメ。実際に手にとってバッテリーなどがまだ生きている、というものが入手できるまでPower Book 500シリーズを止めにした。色々と勉強させていただいたマシンでもあるが、どうしてもDuoと対比してしまう。そうなると、やはりDuoをチョイスしてしまうのである。
 そのPPC Duo 280cもATOKシリーズが微妙なところで何かとぶつかって、使い馴れたキー変換ができなくなる。現行マシンのPismoはATOK15を使用しているわけだから、今さらEG Bridgeでもあるまいし、Mac VJE γでもない。
 幸いにしてATOK8は大半の古いマシンにインストールして大丈夫だが、11をインストールするとDuoではどうもマズイのである。特にOS 8.1がネックになっているのかもしれない。
 FTP(フロント・エンド・プロセッサ)という懐かしい名前から使っている僕としては、日本語変換のためのインプット・メソッドとなった今、このソフトウェアで古いマシンで快調なところをスポイルさせたくないのである。
 となれば、そう、純正の「ことえり」があるではないですか。OS 8.1ではことえりも2.0だ。結構使える。要は叱咤激励とカンフル剤をちょいと加えればいいはずだ。まずは、フリーウェアのことえり強化辞書だ。幸いこれもweb上に存在するからダウンロードしてインストール。1時間ほどかけて単語登録を行う。
 でもって、文章をタイプしたのがこの日記というわけだ。
 ATOK8と比べても遜色無い動作と変換で満足できる。何か大きい間違いのようなことを行っていたのではないだろうか、と一瞬考えてしまった。

2003年 5月 27日 (火)くもり後はれ
 こはかとなくゆったりした一日であった。おかし気な電話こかかって来ず、難問奇問の来庁舎も来ず、まったく一つの仕事に集中できた1日であったのだ。それは結構でした、とイヤミったらしい言葉が聞こえてきそうだが、表面上はのんびりしていても、総務課では理事者との交渉日程と内容の確認、団体間では意見調整、昼休みは職場での意見聴取などなど、様々な事柄をこなさなければならない。
 意気揚々帰ってきても、自治会の班長としての市広報の配付、緑の募金集めなど、なかなか落ち着けはしない。
 仕事の合間を縫ってコヴェントリーの清水さんとしばしの間電話で話をする。内容はT-140Vのフロントブレーキをどうするか?ということである。今のところ清水さんから送られてきた純正のフロントフォークが装着されていて、こいつが結構いい調子だ。が、フロントブレーキの状況が思わしくない。「こうやったらいいんだ」と言わんばかりの解答をおっしゃるものだから、にわかに頭の中でフロント周りのイメージが浮かび上がる。6月のボーナスでいよいよチャレンジしよう、と思う。
 この文章はDuoでタイプしている。過不足ないが、またぞろ、iBookだのが候補に上ってきたりしている。いずれにしてもG4 Power Bookの12インチは熱だ。この熱の問題がクリアできなければならない。その結論は関係雑誌の兼ね合いからおそらく10月の何かで決定されるものであろうな、と考えている。

2003年 6月 1日 (月)はれ
 近どうも疲れ気味だ。端的にいうと、1日24時間の基準が、25時間の体内時計になったりしているようで、リセットするも上手くできない、そういった状態だ。このことは無理もないことで、先月の29日から何やかや同時進行させるものが多くあったし、松山にもトンボ帰りをやった。日曜日は久々にトライアンフのフロントディスクブレーキの修正に着手したし、Power Book 520cの再組み立てをやった。
 その都度その都度日記にアップできないぐらい時間が過ぎてしまう。つまり、オートバイでも触らなくても性能が維持できるSR500ってものがあるから、整備する感覚が麻痺しだしているのかもしれない。そういった日々であったのである。
 話はガラリと変わって、発注していたビレッジ・シンガースのCDが入荷した。CD自体の製作技術もずいぶんと向上したものだ、と思いつつ楽曲を耳にして、相当に音の悪さを直感した。CD用にリファインしたディジタル・リマスタリングを行ったとは思われない。同じ曲目で、若干クロストークが多いかな、というLPと比べても音そのものがダメなんだ。
 ま、詳しくはショップ・シュナイダーの中にも記載しているのだが、CDのレーベル面がプリントということを確認したので、台所用中性洗剤を泡立てて洗い流す。次にCDの外周の対角線上に4か所カッターナイフで切り込みを入れる。
 再びプレイ。そうです、そうです。こういった音質です。こうでなくっちゃ!。よりよい方向へ劇的に変化する。レーザービームの赤に対しての補色である緑のストップライト方式は止めたが、CDへ当たって反射したレーザービームはどこへ行くか?。それをCDの最外周で取っ払うための方法としての、カッターナイフによる切り込みだ。勿体無ければ止めようし、実験ならCD-Rでコピーしたものを2枚用意して切り込みを入れたのと入れないのを両方用意してやってみたんさい。

2003年 6月 5日 (木)はれ
 白すると、今日は僕の誕生日だ。祝ってくれるのは、これをタイプしているDuoのA Happy Birthdayのロゴと職員団体の書記さん達だけ。ま、こんなおっちゃんの誕生日なんて気にしなくてもいいことだろう。
 振り返って職場の中で感じるのは、僕と同年代の一般職は数える程しかいないことに気付く。大半は係長とか課長補佐、中には課長っていう肩書きの付いた奴もいる。決してヒガミで言っているのではない。同じ係、課で職員の年令構成が非常に山谷が多いために、どうも職場自体がギクシャクしてしまっている、これを何とかしてほしい、という気持ちが常に僕の心の中にある、ということ。そういったことから、幾つになっても誕生日のお祝いなんてことが歳とともに薄らいでいくのではないかな、と感じられる次第だ。
 で、間もなくwww/Gridもアップロードなんだけど、最終のレイアウトを忙しさにまぎれて出来ていない。そんなイライラの中、先日クラシックボックスさんから520cを購入した。その前のいきさつがあるのはあるのだが、今回の520cは凄まじい程の美品であった。強いて言うと、これが僕の誕生日プレゼントだ。
 夕暮れの空を見ながら、61年前の今日の南太平洋を思い浮かべていた。そう、ミッドウェー海戦で空母の飛龍が最後まで孤軍奮闘して沈没し、帝国日本が敗戦に向けさせられる日になったわけだ。おそらく、あの日もこんなような一日ではなかったのか、と考えてしまった。折しも、有事関連法案が参議院特別委員会を通過した。
 どうだろうか、日本国民の大半は戦争を知らないし、実際にやった、やられた、というような行為がない日常を当然と思って生活している人々が大半だ。僕は戦争は嫌だ。それはベトナム戦争で嫌という程の戦争の嫌な面を知っているからかもしれない。今の若者はそのベトナム戦争すら知らない。

2003年 6月 7日 ()はれ一時雨
 に思い付いてお墓を掃除する。我が家の墓地は選仏寺にあって土だ。過去には芝が侵入したりして、ずいぶんと放ったままにしておいたが、最近になって苔が根付き始めた。雑草が生い茂り、除去に1時間程度かかった。得体の知れない虫に刺されたり、いつもながら辛い思いをする。しかし、僕の生きている間でお墓へ通えるまでは土のままにしておきたい。コンクリートで覆うと、どことなくヨソヨソシイ感じがしてならない。
 帰ってステファニーへパンを買いに行ってしばらくして雨が降ってきた。まるでタイミングを見計らったように。
 午前中はこんな調子だったので、思い切って520cのハードディスクをイニシャライズしてOSを7.5.5にした。俄然快調になってきた。明日までに完全なものにしておきたい。何しろハードディスクの容量が240MBしかないんだから。
 午後からアップロードを行う。ヤノのUSBフロッピードライブを貸し出し中なもので、フロッピーディスクでのデータ変換は如何ともしがたいため、苦肉の作を採る。
 まず、Duoでテキストのままアップロード。それを、(酒の席が続いているため)職場に置いているPismoからダウンロードして編集した後に完全な形でアップロードした次第。職員団体のロジテックのフロッピードライブが認識したりしなかったりで、どうも調子が悪いことも、この作業を助長したようだ。
 丸穂温泉で汗を流して、夜はトライアンフのディスクローターのスペーサー作りを行う。アルミ板にケガキするところまでとした。
 動き回ったが、どことなく充実した1日であった。

2003年 6月10日 (火)くもり時々雨
 夜までの雨が上がったが、風が強く、止むと同時にパラリと雨が降る。午後からもそれは続いた。こういった天候のせいかもせれないが、26年前の同じ日を思い出していた。時の記念日の今日は結婚記念日でもある。
 朝起きてから、ずーっと時間をおって26年前と照らし合わせていた。違いはいっぱいある。妻は当直勤務で家には不在。ネコにも無視されている僕はのんびりと一人で過ごした。これまでずいぶんと変わった。多くの人々が他界した。多くの人がこの地を出ていった。通勤途中でも知人に対面することは少ない。この間見かけた人が半身不随でリハビリやっていたり、このタイプは見かけるが、ずっと前から顔見知りとかいう人は見かけない。こういった現象は最近特に顕著だ。
 職場で、フトしたきっかけから「来年の10月1日」はどうなんだろうか?という話題が起った。新市誕生のその日の午前0時に守衛をたたき起こして婚姻届を出す奴もいるのだろう、という他愛のないものから、新市の行政システムが確実に作動するのだろうか、という2000年問題にも似た不安を唱えるものもいる。
 当の行政サイドでさえ、こんなことを住民から問われても、明確な答えさえ出せない、という全く不安とも、一方ではなるようになるとか、担当者に対して勝手にやってくれ、といいたいような、まことに「見えない・聞こえない・知らされない」状況なのである。
 ヒデとロザンナのロザンナが久々に出演し歌ったNHKの歌謡番組、その中で作曲家の中村さんが歌った「昭和時代の親父達」の歌詞そのものを生きている僕としてはつぎのように思う。
 結婚して11年後、昭和の御代が終わったのだが、その期間と平成の15年間、どちらが良かったか、僕はどんなに考えても前者と思う。この程度のスパンで考えると、これから退職までの8年間、おそらく今よりは良くならない... と、ここでは言っておこう。

2003年 6月11日(水)くもり時々はれ
 しばかり重くなったPPC Duo 280cに代わって、本日から520cを使うことにした。現状ではなかなかいい状況を呈している。唯一の問題はハードディスクの容量だけだ。もちろん、キーボードがASCII配列の英語版なら相当に使えると感じているところだが、ま、高望みはよそう。
 少しの晴れ間だったので午後から時間休を取って、日曜日にやったトライアンフのディスクブレーキローターのスペーサーの修正を試みたかったのだが、来客に次ぐ来客で、当の仕事も1日に自分がやろうとしている量の少しを積み残してしまった。少し残ればいいではないか、と言われるだろうが、退庁後は次の用務が待っているため、それができない。明日もこの時間外の用務があるし、金曜日は仲間が出張で2人少なくなる。結局のところ土曜日まで待たなければならない。あらかじめ毎日の執務時間が決まっている中で、最大のパフォーマンスを発揮し市民サービスに努める。この感覚を市民が理解してくれればいいが、そういうことにもならない。
 日が落ちて帰宅。早速520cに最終のエクステンションをインストールして、僕なりに520cを使える状態にした。実際のところ、変換などはPPC Duo 280cよりも速いという不思議な現象を経験しているところだ。そういったところもあって、本機をしばらくの間、我が家で使ってみることにしたわけである。

2003年 6月13日(金)くもり後はれ
 前4時前、突然目が醒めた。夢見心地とかいった感覚ではない。フッと気づいたという状況だ。NHKラジオの深夜便は歌謡曲をやっていた。心の時代が始まる前のニュースに愕然とした。ニュースの終わり頃、俳優のグレゴリー・ペックさんが他界したという知らせが流れたからだ。
 そう、多くの人は「ローマの休日」でのオードリー・ヘップバーンさんを知っているだろうけど、新聞記者役のグレゴリー・ペックさんはあまり知られていないはずだ。最近ではNHKのBS映画で放映された「ナバロンの要塞」の主役としても出演していた。
 僕の時代だと、子どもの頃から高校生当時の銀幕のスターはどうしても10〜20歳程度は上の世代の人たちだ。ばからしい考えだろうけど、その当時の状況で今の時代を生きていらっしゃる、と勝手に決めこんでいる。
 話が飛ぶが、数年前、F-1でBARホンダが復活するとき、現役のジャック・ビルヌーブ選手と映画「グラン・プリ」の主演であるジェームス・ガーナーさんが当時のスタイルで、1.5リッターのマシンで走ったが、ヘルメットを脱いだガーナーさんの老いを知って少々びっくりした。と同時にヘルメットをかぶったままだと、全く映画のシーンそのままになる。ましてや今サーキットをいまの年齢でF-1マシンを操っていることに驚きすら感じ、僕もこのようにならないといけない、と思っているところである。
 当時のまま、と決め込んでいることも、あながち間違いではない。過去のイメージどおり、実際が「こうでなくっちゃ」というところが無ければ、やはりドロップアウトは免れない、ということであろうか。人間それほどの意識を持っていないと想像以上の老いがやってくるのだろう、と感じだ次第。

2003年 6月15日()雨時々くもり
 夜の雨が続いていたが、夕刻から少し明るさが増した空模様。でも夜は雨。しかし、日中は陽が出ない涼しさもあって結構ラクチンで過ごせた。
 午前中に所用で職場へ行き2時間程度で終って帰宅途中、書店へ立ち寄った。そこへ来ていたお客の話が聞き耳立てたわけではないけど聞こえてきた。
 内容というのは、10年来兄の元へ配達されている雑誌を妹の私がお下がりで読ましてもらっている。その雑誌の表紙の上が少々切れていた。これは店が客を無視しているではないか、と言うのだ。
 店長が配達先の本人には電話でお断りをした後で交換しますから、と伝えたという。一見正当と思われるその客の言動だったが、やりとりを聞くうちに不必要きわまりないお節介と気づき、僕ならその客に対して、それはそれは... と言いつつ、心の中では「アンタに言われるものではないでしょ」と、思いっきりアッカンベーをやってやりたかった気分になった。
 昼食の後、いつものテレビ番組を見て、散歩がてら遠くの書店へ出向く。そこで手にしたのは、例の宇和島圏域の古い時代から今までの写真集だ。金額として11,500円、選考予約していたから気にはしていたが、現物を手にして僕は我が目を疑ったね。仮に5,000円なら購入してもいい、その程度の内容に思えた。立ち読み程度だからそのように感じるのだろう、と言われそうだが、どうもそうではないようにネイティブ・ウワジマンとしては感じる。所詮、トップの編者が外様だとこういった結果になるのがオチかもしれない。
 夕食前に、Power Book 520cを再確認、動きのおかしいところを引っぱり出して修正を行った。これで、ハードディスクの容量を除いて使えるようになった。

2003年 6月17日(火)雨
 のな、坂口君の言うのがもっともだと思う。それに比べて石原君の言うのはどうも薬の恐さを知らずに、利便性だけを語ってそれをあくまで持論であるかのように通そうとするものだ。
 何をいっているのか?と一瞬考えを巡らせる方はよほどの方、否、それは過去のことで、一般の日本の方々は別に気にもならない事項なんだろう、と推察している。
 つまり、「風邪薬をコンビニで売ってもかまわない」というのが石原君の考え。それに対して「副作用などが確実に存在する内容のものは売ってはならない」というのが坂口君の意見だ。

 どうだろう、「どっちが正しい」と一般人に問いかけたら... 。

 一瞬の時を置いて、おそらく返答はヒフティヒフティだろうと思う。仮に風邪薬を採ってみると、僕はよく知っているが総合感冒剤でよく効いたものはサトウのセデスカプセルであった。しかし、タイミングが大切で、それを過ぎて常用服用すると、大変な反動がやってくる。医者で勧められていたダンリッチも大変な喉の渇きを伴う。
 僕はこれらも副作用ではないか、と思う。石原君の考えをコンビニに当てはめると、こういった薬は売られないかもしれないが、大手製薬会社の総合感冒剤としての錠剤は売ることができることになる。一回3錠のところを5錠服用するとどうなるか?。セデス遊びなど悪戯を過去にやったことのある人にはお解りだろうけど、そういった恐さを含んでいるにも関わらず薬剤師も常駐させないコンビニで風邪薬も売ることが出来るんですよ、というのが石原君の考えだ。いくら坂口君が元お医者さんだから、そういったことが言えるとはいえ、薬のなんたるかを知らない石原君は「バカ」としか言いようがないのである。
 明日、小泉君の考えを仰ぐというが、どうして坂口君と石原君の両省がこれまで協議をしなかったのだろうか、ということが前面に出る。それほどのセクト争いでもあるまい。
 何でもかんでも「改革」という名の下に進んで、多くが失敗し改悪になろうとしている。でも、それを肯定も否定もしない。この国がどういった方向性を持って進んでいくのか、小泉君の想像以上に国民の多くはドラスティックで、自分だけよければいいという利己主義の国になってしまっている。
 国会を延長したところで、実際にイラクへ自衛隊を派遣して銃で殺された。自衛隊の主旨から国外でも臨戦態勢は取れないため、反撃すら出来ない。死亡した隊員は名誉の戦死にはほど遠いし、初の戦死か?と報道されるのがオチだろう。残された方は我が国を相手に訴訟すら出来るのではないだろうか。
 およそ、新型肺炎のはびこっている国へ出かけた与党幹部が潜伏期間にもかかわらずマスク一つしただけで帰ってくる。こういった奴等が国を動かしている現実を国民の多くは知りゃしないのである。
 真にこの国をよりよいものにしたい。「国民の一人一人がぜひ何らかのアクションを起こして欲しい... 」と、訴える真の日本を代表する人が出ない限り、この国は民主主義に名を借りた利己主義の国に成り下がってしまっているように思えてならないのである。

2003年 6月21日()くもり時々はれ
 前中に雨が続いたため溜まっていたシーツなどの大物を洗濯する。ついでに汚れが目立つQV-10のケースも。これは台所用洗剤で洗う。ウェットスーツ風の素材なので、乾燥に手間取る。
 その後、黒田旗のぼり店へ出向いて雑談をした後で、国道の電柱撤去を何気なく見ていた。重機を使っての作業、若い人も年輩の人も、その手際の良さなど見ていると、プロ集団だなー、と感じた。僕も道具が乏しいから最近はオートバイにも必要がなければ手を入れないでいる。何とかしなくてはいけない。
 というところで、24年目にして解決できたことがある。トライアンフT-140Vのフロントホイールのベアリングセットナットがはずれずに困っていたが、ベアリング、スピンドルともに抜き去ってしまうという少し荒療治だったが、永井モータースのK君の手によって、ようやくほどけた。
 組付けは僕がやったが、ベアのベアリングではなく、シールベアリングに交換されていたから結構苦労した。ひとまずはOKだろう。
 また、初めてSR400の'03モデルを見た。全般にリファインされているし、以前のSRよりもスリムに見える。騒音関係にも相当に気が配られている。こんなところまで、というドライブスプロケットカバーの取り付けボルト部分もラバーマウントされている始末。すさまじいものだ。
 購入後、直ちに手を入れるのが常だろうけど、今のSRはそれをやると走らなくなる可能性を相当秘めているような気がしてならなかった。そして、これを500cc化したとすれば、やはり走らなくなるな、とも感じた。
 今日から商店街の土曜夜市だ。客が退いた後の午後10時過ぎ、パラ〜っと雨が降った。自然の摂理は凄いもので、わずかながらひんやりした夜風が吹き込む。

2003年 6月23日(月)雨
に濡れながらたたずむ人がいる
 傘の花が咲く土曜の昼下がり
  約束した時間だけが体をすり抜ける
   道行く人は誰一人も見向きもしない
 恋はいつの日も捧げるものだから
じっと耐えるのが務めと信じてる
 
 久々に三好英二の「雨」を記載させていただいた。天気呼予報通りには自然の力をコントロールできやしない。これが何を意味するのか、こんなちっぽけな天候で試合の一つが流れたとか、雨なので数日後にします、はたまた、振り込むのは縁起がいいので、この日に決定させていただきます。
 こういった意味で僕の今の生活がある。結婚当初から3年、長男が出来た、大家がそれでは出ていけ、とくる。そんな約束は一切無いはずですよ、とはいったものの、契約書の中にはその言葉は一切無い。これは広小路のHisako K氏の宅を明け渡すときのことだ。
 ご主人のShigeyoshi氏の死後の始末をしたのはわが妻だ。にもかかわらず、一方的に出ていけ、ときた。こんなヤツの息子が時の市長か、と思わず言い放って、その場を後にし、二度とあのときの家には近づいていない。
 出ていけ通告後わずか2週間、引っ越しの日、次の入居者がそこにいる。そういった中での数時間だった。僕はこれ以来、このKikuchi一族には絶対にOKのそぶりは見せないことにしている。特にHisako氏は恩を徒で返すための利己的な人としか受け取らないことにしている次第だ。
 それから(今の)家を新築する時までの、自然に満ちた大超寺奥での生活が1年。そのときの家は、現在のところ大家さんが取り壊しをされた。大超寺奥のお向かいの友人のS君は元気だそうだ。お隣のHさん、Mさんも元気だ。妻の父親が一気に伐採した大超寺奥のケアキの木は再びこんもりと枝葉を付けている。いろいろのことがあったが、ここは僕の第2の故郷のように感じてならない。
 どうしてこんな世界になったか、そもそも、このサイトに記載していることがあまりにも先鋭すぎているんではないか、ということを訪問者から聞き及ぶ。僕はそんなことは考えていない。知らない言葉なら辞書を引いたり、専門にしている人に聞けばよい、との考え方から出てきたことだ。
 が、今はどうもそうではない。リアルタイムで状況が出なければダメ。レスは必ず行うことなど、サイトの責任者を「今までやったのだから出来る」と平気で言いまくられる。僕は広小路で(店子の状況外としていたものとは違う)として追い出されるに近い行為を受け、人間なんて信じられない、と考え込んだのも事実だし、オートバイで言うSRなどの関連サイトへの質問などがそれに合致しているのではないか、とも感じられた。
 長くなって申し訳ないが、僕はこういったミニマムの個人のおつきあいが、ひいては地域のコミュニケーションの伝達の場になるとか、そういった地域づくりなどは一切無視した中での方向付けではないか、と感じてしまった。
 かく申す僕にしても本日の助役交渉では、相手が相手だから聞きに終始したが、内心では、またしてもトップの市長にはことの真意が伝わらないのかもしれない、と感じた。
 よほど好感の持てる人物だとして、本当は泣き笑いのところもあるのだが、一方的に押しつけられると、多くの考えは消滅してしまうようだ。

2003年 6月27日(金)くもり一時雨
 はいい加減なところもあるしギット(律儀の意)なところもある。どちらかというと若い職員に対して、こんな年寄り(60歳定年退職ならそのとおりとして)も若い者と合わせたり、柔らかい言葉でサゼストするなど、臨機応変の態度をとらなくてはならないのだ。そのための少しばかりのおフザケは進んでやるべきなのである。
 そんな中で、僕のおフザケが歪んで取り入れられるところがある。ことに及んでは相当につらい。間違ったことはないのだが、僕の態度言動が管理職には通じないらしいのである。
 しかし、今夜「たかはし」で一杯やった後(安いよ)、商店街を通って、ガイヤの練習を一生懸命にやっているのか、と思いきや、全くやっていない。
 最初の年、僕たちがオリジナルの振り付けを各グループや職場に教授していたとき、Gaiya On The Roadの歌詞の内容と宇和島の要素を盛り込んだ振り付けに対し、その振り付け師である和田氏に「殺してやる」と暴言を浴びせたくなる始末だったのも事実だ。それほど当時のウワジマンには過酷なパフォーマンスだったのだ。
 ところが数年前から横の動きを主として、「前へ!」が一切見られない振り付けが横行してしまった。加えて、全体の流れなど一切無視し、自分たちだけが目立てばいいという利己的グループも出現している。
 オリジナルの振り付けに近い動作を40分もやればへとへとになる。自分勝手が横行するGaiyaなんて何にもならない。そう言った意味あいからしてGaiyaには出場しないこととした。
 同様に宇和島おどりにしても、少数であるにも関わらず、本来の振り付けの意味を知っている人は少ない。そういった中で僕が本来の踊りを職場の大勢の仲間とやってもつまらないし、今までどおりやったとしても自分が浮き上がってしまってダメだ。過去幾度と無く味わっていることだ。
 こういったことから、Gaiyaは見直し、否、元の振り付け以外は審査などの方策が採られるまで。宇和島おどりは先ほどからのとおり、本来の踊りが出来ない現状では踊らない方がいいと判断した。
 確かに参加して初めて分かることではあろうと思うが、次年へ向けて、Giyahaはオリジナルの振り付けを基本にする、宇和島踊りは振り付けの意味あるところを理解させる、こういった方向に改善されないのなら出ない方がいい、と決めた次第だ。 inserted by FC2 system