2003. 07.05〜09.29

2003年 7月 5日()くもり時々はれ
 早くから気がかりになっていたwww/Grid No.52のアップロードを行う。これが久々のバグ続き。ネットスケープのコンポーザーが時としてうまく作動しなくなってしまうのである。僕のやり方はこうだ。
 まずはFetchでアップロードしてOmni webで確認する。このときに大方のバグが確認でき、ネットスケープで変更する。ところが、7.0.2をそのままにしておいて、7.1の英語版で作業するときに修正できないことが発生する。お題目が修正できても、リンク先としての修正ができないのだ。何度やってもダメ。
 もしかしてSafariなら行けるのかもしれない。読み込みデフォルトのエクスプローラーからのネットスケープに変更する。そしてドラッグ&ドロップ。ブラウザで保存するときにミゴトに変換。ファイルはネットスケープの最新になっている。これで助かった。こういった面からもSafariはなかなか使える、と判断した。
 気分と同様にお天気もよくなってきた。何となく不思議なものだ。ちょっと遅くなった昼食だったし、夜は一杯やるつもりだ。時刻も午後3時に近かったので、軽く(おマンマとおマンマの間だから)「おコンマ」にした。
 ちょいと気になるものがあるので、小富士商会へ行って相談、その後、宮脇の書店へ行って本の確認をして帰宅。ホッとする間もなく、丸穂温泉へ出かける。
 いつもだと湯船から出るとプァ〜っと汗が吹き出る。いつものように鼻からも汗がでる。ところが気温湿度ともそのシチュエーションどおりなのだが、不思議なことに汗が流れ出ない。
 おなかの回りも少々おかしい。脚のおかしな部位の筋肉がおかしい。アッ、あのせいか?!。36年間も自分で強制してきた動作を矯正している。なかなかイメージどおりにならなかったが、ここにきて何とかモノホンになって来だした。このことはそのうち本文で紹介しよう。おそらく間違いがない。
 妻は当直勤務、家の中は僕一人。何となくのんびりしている。夫婦二人でも言葉を交わすのは月に1度か2度だ。飯を食うのも寝るのも別々。それでも夫婦だ。誰に言っても信じてもらえない。でも、どこかで繋がっているんだよな。

2003年 7月 6日()くもり時々はれ
 し気になっていたことが現実に起こった。職場で使っているPismoで操作すると全くおかしいところがないのだが、何気なく自分のホームページのアップロード分をPower Book 520cで確認すると、オートバイの項が大きく文字化けしてしまった。ダウンロードして再びアップロードするとどうにか直ったが、今度は全体がおかしい。
 どこと無くおかしい。急遽、原稿からコンポーザーを使ってHTML文書を作ってアップロードした。職場のPismoで確認したところ、お題目の付け方に問題があったことがわかった。OS Xとネットスケープの7.0では「.html」を付けるかどうか訪ねてきていた。OKとしておいて不精してお題目だけにしていたら、.htmlが付いているのだが、実際アップロードすると、そうはなっていない。特に長いお題目は完全にアウトである。ネットスケープの7.1では、それは回避されているようだが... 。
 今後7.1で試してみて最悪の場合は、ネットスケープでも、4.0.6ぐらいで作ったものをアップロードしなければならない。しかも、それを送信側のMacの同じディレクトリに先に置いてからだ。
 さてと、一日中ムンムンしていた。妻が拾ってきた扇風機を修理して使っているが、廉価ものはそれなりに作りが甘い。風がまともに来ないのだ。
 何だろうか?と見回してみたら、プロペラブレードとフロントガードの間が広い上にブレードのねじれ部分がガードのセンタープレートにかかる。つまり、(船のスクリウとは逆に後回しになる)風の渦の中心部分がガードの外へ出ないのだ。その分、送風がソフトになるのだが風の伝播が悪いのはいただけない。ソフトと弱いとでは大きく異なる。
 そこでガードのセンタープレートをハローウィンのかぼちゃの顔のように大きく穴を開けた。あ〜ら不思議、良好な風が来だした。不気味というか、ヘンテコリンな面構えになった上に風切り音が大きくなったが、気になるほどではない。そういえば以前、紙面時代のGridにサンヨーが5枚羽根のブレード扇風機を始めてリリースしたときに、イギリスの戦闘機であるスピットファイアのマーリンエンジンとグリフォンエンジンにたとえたが、5枚羽根は微弱な風を送るのは苦手のようだ。
 昔の扇風機はブレード中央にはスピンナーが装着してあって、ガードにセンタープレートはなかったはずだ。そして、センタープレートの下の方に細長い切り込みが斜めに3本ほど入った(日立だったか)モデルがあった。そのキャッチフレーズが整流効果をねらったものとか... 。
 暑い夏、僕にとっては扇風機は必需品だ。効率のいい製品を研究してみようか。

2003年 7月8日(火)はれ
 気予報は所詮予報だ。朝、東の空に青い部分が見えて雲が白いから傘は持たずに出かけた。昨日と同様に相当厳しい天候。
 冗談で半袖のシャツから二の腕を見せて「溶けて骨が見える」と言うのだが、そのままにしていると、僕の場合は汗が粒になって吹き出てくるのが分かるから、あながち嘘ではない。外に出る用務もあったが、職場は冷房だし、その差がかなり影響する。思いっきり水分補給をやったために、身体状況はなかなか快調であった。
 とはいうものの、昨夜は本当におかしい思いをした。うとうとしながら11時近くに消灯し、眠りについたのだ。突如「大塚さ〜ん」と階下の入り口から呼ぶ声を聞いた。あわてて「ハーイ」と返事をして眠気眼のままで下へ行って確認するが誰もいない。僕は本当に返事の声を発したのだが... 。マジに不思議な現象であった。
  SR用にパーツが揃いつつある。四国自動二輪交友会で対面した伊予三島のIさんからのお誘い「紙祭り」に出向くため、今のうちに整備をしておく必要があるからだ。
 何がなんだか分からないけど、今のSR400が標準装備をしているものを僕のSR500に装着する企てである。そう、重要な428のチェーンは江沼、スプロケットはサンスターとした。もちろん、減速比はスタンダードのままである。スプロケットの件は解せないんだが、オートショップ・ワタナベのマスターが言うとおりに従った。こういった点がトライアンフのスタンダードチェーンを使用する方法とは大きく異なる点である。昔はチェーンの交換2回に1度スプロケットを交換するのが常だったのだから。
 ここんとこ毎日夕食前の一時、発砲酒とおつまみの世界を堪能している。これがなかなかいい。今は大相撲の名古屋場所を見ながらの一時だ。
 今日は安美錦が武蔵丸を破った相撲が気に入った。一回突き放されても、ぶつかっていく、この気分がいい。実に普通の関取なんだから、この辺のところが僕の気分にちょいと触れる。
 僕もガンバらなきゃ、とね。

2003年 7月10日(木)はれ時々くもり
 口一発、例の誘拐殺人犯が中学1年生、というところが世間での大問題になってしまった。僕ならこうする、としたところからすれば、この子をどうやって戒めなければならないか、ということだろうか。
 ニュース報道などからすると、それもあるだろう、としたところだ。それ以上の様々な問題と、それに対処するにはどうするかをはじめとして多くのものが存在することが分かる。
 僕などは第二次大戦後の占領軍の方向などは一定理解できていた。大きく覆されたのはベトナム戦争の時である。高校生の時、イデオロギーなど持っていないにもかかわらず、少し煽る行為とか、一般とは異なる行動をすると、ある種の政治集団の考えを持ったものの烙印を押される。これが当時の学校教育の在り方だったのだろう。今でもこれは続いているようだ。
 国会の状況を見たり聞いたりしている中でもおかしいところがある。自衛隊をイラクへ向けて派遣するという。あくまで平和活動である。しかし襲われれば、相手を殺すかもしれない、とも言う。
 ここまでになると出兵するっていうことだろう。言語道断だ。小泉のボケは、そんなことはどうでもいい、第二次大戦もそんなに知らず、アメリカを代表する人物、それが以前の大統領の息子が大統領になった途端の行為なんだ。日本はアメリカと友好関係にあるとしての方針としては、はなはだ短絡的といえなくもないのである。
 一般人からすると、現在の「真の戦闘シーン」は知らされない。こういった状況下での日本国民がイラクの「安全な」という地域で平和活動ののための派遣という。彼らが(安全な地帯ではないとして)ダメとすれば、そこでの行為は「殺」の言葉とともに、ほぼ3世代以上にわたって伝えられる。
 そういった意味からすると、僕の考えは「アマちゃん」と切り捨てられる。オイオイ、ちょいと待てよ。今の若者が小学生時代、学校でも家庭でも言い争いの上に取っ組み合いの喧嘩をしたかどうか。先生に思いっきり叱られたかどうか、親から叱られたかどうか、世間の大人から叱られたかどうか、そんな経験は全くないのではないだろうか。
 僕はこんなところに今の不調が見受けられるのではないか、と感じる次第である。

2003年 7月11日(金)はれ後一時雨
 事が終わった後、久々にヤフオクを楽しませてもらった。ブツはPower Book 100だ。モデムが付いて、すべてのものが揃った商品で結構いい状態であった。ハードディスクだけが動かない。バッテリーはダメ。これを除いても、まぁ15,000円までか、との考えで入札を2回繰り返したのだが、最後の30秒でチャラになって、結局15,500円で落札という結果だった。
 僕も100を3台ほど持っているが、とにかくマザーボードの改修がひどい。特にハードディスクに合わせた改修が主のようだが、結局のところPower Book本来の使い方は現時点では出来ない、と断言してもいい。そういった古いキカイだ。したがって、そんなに大きな金額を出す必要もないし、漢字トーク6.0.7.1も100専用の6.0.7.1も手元にあるから、僕は13,000円を越えた時点で下りた。というか、ふっと我に返ったのである。
 決して負け惜しみではなく、少なくともCPUはMC68040以上でなければ、まず現代を生きる過去のマシンにはならない。MC68030なら、Power Mook 150とか、Duo250などのように、その内部に含まれた関連機器でCPUのパフォーマンスにフィットさせ、何とか動かせられる対応が望まれる。
 ことさら、古いコンピューターといえども、そこそこそのままの姿で今なお作業が出来るものでなければならないはずである。僕の言い方がマズイかもしれないが、コレクターではなく古いキカイも動かせられる方には僕の考え方が分かるはずだ。
 オークションもなかなか難しくなった。結果として希望の品を丹念に検索を繰り返して見つけだした方が、ヤフオクで落札するより廉価だったこともしばしば起きるわけである。そして送料もバカにならない。毎回記載するが、下りる時の引き際の潔さを入札者は絶対に持っていなければならないと強く感じる。

2003年 7月16日(火)はれ
 ずは昨日のこと、早起きして胸に秘めたシチュエーションのとおりに事は運ぶ、と考えた高校野球の愛媛県予選。南校と東校の隣同士の戦いだったが、初回のスリーランホームランに我が母校である南校は泣いた。東校はあのピッチャーの球を巧く打ったし、よく研究していたと感じた。同時に選抜甲子園での優勝校の「野球の試合に勝つ」方法なり考え方なりが伝統として残っている。まさにガダルカナルの戦いでの旧日本軍と同様、「敵を知らず、己を知らず」の結果であろう。
 さて、本日は反核平和の火リレーの初日だ。350km以上を東・中・南予を走る。僕もその一員として1区間を走った。以前も記載したが、歩き方を変えたのをはじめとして、走るときの足の運び方を30年来行ってきた方法から一転させた。その結果は、実のところ唖然としてしまった。いつも痛まない関節とか筋肉がおかしい、というところもあるが、総じて疲れないし、実に淡々と走ることが出来た。走り終わってもどこも痛くはない。ようやく本物になったか、と感じた瞬間であった。
 肴屋で一杯の一時を過ごし、家に帰ると名古屋のライムハウスから通販レコードリストが来ていた。メシを食らう時刻だし、伊予三島のIさんにも紙祭りの参加の電話などをしなければならず、リストの確認が遅くなった。小さな文字に目を凝らして見ていると、東芝/EMIのビートルズ・コレクションのLPボックスが数種出ていた。我が家もこのセットは数種あるが、思い入れの強いのはこの東芝/EMIのものだ。レアリティーズの盤だけに少しダメージがある。その意味あいもあって、急遽電話するも、話し中の長いこと。20分後に連絡が取れて無事ゲットできた。
 もともとオークションは嫌いなので、ビートルズ関係から、僕の気にしているディスクはライムハウスさんから購入している。マスターは相当に詳しく、僕の稚拙な問題にも丁寧に答えてくださる。家の失火で失ったものもずいぶんとこのショップで戻ってきたものが多い。その点からすると、ライムハウスさんは僕にとっては一番の信頼がおけるショップと確信する。

2003年 7月20日()くもり一時雨
 かなか素敵な1日であった。昨日は人間が若くして突然死ぬ時は、実際のところ「こんなんだろうな」と思う時々を味わった。一転して本日は午前8時近くまで寝てたから気分爽快。失礼ながら、妻は昨日と今日、飲み会の席が重なっているので、日頃僕をかまってくれていない以上に、僕自身がお三ドンほかをやらなければならない。ま、子どもも独立しているし、僕も食事の用意とか洗濯とか何かは手が付けられる。立場を逆にすれば、そのため妻は安心して夜な夜な出かけられるのかもしれない。
 さて、ここんとこ暫くMac OS Xを少しばかり見直している。Power Book 520cなどでは機種にフィットした時々のOSがどういったものかを検証してみるようなことを行っていた。当然、昨年から、職員団体の機種の関連から何とか10.2を使用してその行方を考えていたが、どう考えてもこの秋からリリースされる10.3になれば、やはり正規に購入しておかなければならない、と本日OAシステムプラザへ出かけたのだ。
 10.2は購入したのだが、それ以上のものが僕を待ち受けていた。事実、今日は朝のうちにPower Book 520cのキーボードにWD-40を塗布する作業を行っていて、すこぶるキー操作が快調になって喜んでいたときであった。
 OAシステムプラザへ出向いて、最初に中古のコーナーへ行く。何と、そこにVisor プラチナの中古があるではないか。しかもターガスのキーボードとともに。金額を見ても飲み屋さんへ2日続けて行く程度の値段だ。しかもATOKも装備してある。
 店内をうろついて、考えをまとめていた。訳知りのヤツならさっさと購入してしまうだろう。同じ仲間のO氏はパームにすっかり入れ込んでる、とも言ってた。考えに考えたあげ句、購入した。
 帰宅して操作する。カリグラフをすっかり忘れている。日本語仕様はキー操作ディスプレーの左側にカリグラフするのですよ、ということも忘れてしまっている。使いながら、パームOSはよかったが、携帯電話に画像を撮し込むことが出来るまでになった今、こういった小さい自分の端末は必要ない、と感じる。ソニーのクリエなんてよくがんばっている、と思わざるを得ない。使いながら、購入しなかった方がよかったかな、と感じたりもした。
 ところが、どことなくおかしいことに気づいた。そう、Pilotとか、Palm IIIなんかになると、通常のホーム画面から立ち上がるため、「使うぞ」という気分になるのだが、このVisorをはじめとした日本語仕様では、スイッチオンなら前回の最終使用画面で立ち上がる。それがHomeボタンを押すと、「そうそう、この画面」という、見慣れた画面になるのである。不思議なもので、そそくさとスケジュールなどカリグラフしている。ATOKの力は偉大で、二連節の変換なら大丈夫だ。失礼ながらJ-OSではこれが辞書の関係とメモリーの関係で難しかった。この心配が一切なくなっている。こういった単純なことではあろうが、機能のベースそのものが進化しているから、これはこれで使えるかもしれない。
 その上に、Mac専用とした古いソフトも使えて、いい感じのPower Bookを一台な〜んて考えたりもし始めた。縁は奇なものというが、今回のVisor購入に際しての考え方はショップ担当者のいう、まさしく「知る人ぞ知る逸品」となるのだろう。
 そして、携帯もそうだが、こと単純にして機能優先ならディスプレーはモノクロで十分なのだ。携帯電話もそうだし、ソニーのクリエを筆頭にPDAそのものの行き方は逸脱しているのではないか、と考えてしまった。

2003年 7月22日(火)はれ時々くもり
 和島まつりに参加して20年以上になるが、直接参加を止めた本年、今日はGaiya On The Roadを見せていただいた。これまで一生懸命になって、本来の振り付けをこなそう、としてがんばってきた僕としては、はっきり言って「ゾッ」とした。
 やる側の独りよがり、見る側の楽しさの欠片もない。いや、最初の年などの行き方からすると現在のGaiya On The Roadは絶対に後退している、と言わざるを得ない。
 何度も言うが、振り付けの和田氏は「ダイナミックに明るく」というイメージに和霊様のイメージを盛り込んで振り付けをされた。その本来の振り付けを踏襲しているグループは全体の1/3程度にしかならないのである。
 横の動きの多さ、ブレークダンス的な振り付けなど、Gaiya On The Roadそのものは単なる自分たちのパフォーマンスのバックミュージックにしかなっていないかのようなグループが大半を占めている。
 帰り際、肴屋に寄ったが、僕と全く同じことを言っていた若い客がいらっした。その方は僕と同じく最初に習って出場した方であった。その上に「よさこいソーラン踊り」のように、外からの出演者が来るようにするためにも、今こそ本来の振り付けを基本にすべきである、とも言ってらっした。僕はまさしく「そのとおり」と大きくうなずいた。
 僕は明日からでもいい、来年の旧宇和島市としての最後の祭りまでには、この「基本型」の振り付けの伝達講習会を行うかたわら、この基本を主としてアレンジするように実施委員会で歯止めをかけるべきである。そうしないと、全国に名を轟かすにはとうてい追いつかない。このことは、たとえ参加チームが減っても行うべきである。

2003年 7月24日(木)くもり時々はれ
 の所、こんなことはここに記載したくない。しかし、数人の方々かもしれないが、来年の「第38回うわじま牛鬼まつり」を見に来る、参加するのなら、これからの僕の言う数行を心して受けとめて置いていただきたい。
 まず、根本は和霊大祭という「和霊神社の夏祭り」がメインだった。それに商工港祭りがくっ付いて、いつの間にかしら本末転倒になってしまった。山家清兵衛公頼をお祭りした本来の祭りである「和霊様のお祭り」というのを十分に理解しておいていただきたいのだ。
 今、午後11時30分。少し前に走り込みの警備の業務から帰宅した。NHKテレビでは「ご近所の何とか」という番組で、お祭り再興を目指すご近所の姿を知る。このことを宇和島に当てはめると、この「第37回うわじま牛鬼まつり」も、実際のところは再興しなければならないのではないか、と感じてしまうのである。
 走り込みの最後の団体が出て、商店街のアーケードは「シャッター街」になってしまう。人っ子一人居ない。煌々と蛍光灯だけがいつもより余計に灯っているだけである。ほんの2時間前まで生き生きしたアーケード街だ。人が和霊神社への道をたどっていなくなると、途端に死の街になってしまう。飲屋街である隣の桜新道でも閑古鳥が鳴いている。これが現実だ。
 多くの参加者から、「今年はいつになく何かおかしい、盛り上がる空気のようなものが一切感じられない」と聞いた。あ〜、僕だけじゃないんだ、と思った。
 それに、通常のパレードのルートが変えられていた。愛媛県警宇和島署長の策略、と僕には感じられた。実際に走り込みの警備をやっていても、祭りを知らない警察官の交通整理なんて愚の骨頂だ。祭りの実施委員長の市長が、県警本部長なりに根回しをしていれば、こんなことはこちらの言い分が通って解決することだ。何もかものデレゲーションが駅前の大通りを通過しないのだから、駅前の商店街連盟からの非難の声は必至であろう。
 花火もアッという間に終わった。人っ子一人居ない商店街アーケード。隣の通りの飲み屋さんも閑古鳥が鳴いている。ほんの数時間前までと今とではあまりに落差が大きい。
 僕は、こういったドラスティックなものをヨシとしない。「お〜、来年もまたがんばろうぜ」とするのは牛鬼の参加者だけではないだろうか。以前のような、「準備は1年前から、後かたづけは明日に回して、この祭りの気分をしばらくは感じていたい」という「宇和島人らしい祭り」に何とか戻さなければならない。そうでないから、いつまでたっても単に「地方祭」で片づけられてしまうのであろう。

2003年 7月27日()はれ時々くもり
 予三島ハーレー会のIさんから四国自動二輪交友会の後、川之江の「紙祭り」に来てみませんか?、とお誘いを受け、宇和島まつりの後でもあるしどうしようか、とも思ったが、やはり好き者、行く、と返答をしておいた。
 実際はハーレーの会だから、SRなんぞで行くのは場違いである。高知からBMWのR69Sが来ていたが、水と油の関係のようなものだ。当然、FX1200も来ていたが、このスポーツスター系でも異端児だ。つまり、FLHの系列こそハーレー、としている方々の集まりである。そのくせ、騒音ばかりで「遅い」オートバイばかり、という一面もあるのだが、ここでは言わないことにしよう。
 ま、のろのろの中、会場へ着いたのだが、僕が恐れ入ったのは、紙の試験場というメインの会場のことであった。こういった「紙」がメインの街づくりの中ではあるが、こういった施設が造れて、なおかつ祭りの場として市民に解放している点にある。当然、商店街でも踊りなどは披露されるから、市内全体での夏祭りなんだ。
 宇和島で、牛鬼宇和島まつりとしたところで、和霊大祭に乗っかっただけのこと、市民全体での祭りの実施は宇和島では陽の目を見ないことになってしまった。おそらく新市となっても無理であろう。
 さて、意気揚々の往復、SR500は快調であった。すでに30000kmを越えるが、所々少しづつ老化が目立ち始めた。国産オートバイの常である、少しづつ傷みが出てくるのだ。どんなに高級なオートバイでも国産車はこの症状は見えてくる。不思議なことだが、1台のオートバイが年とともに加齢の重みというか、そのオートバイの良さがにじみ出るということはほとんどない。多くの国産オートバイが対米市場を狙ったためだろう。一部だが、ヨーロッパで人気のある国産オートバイは独自の道を歩んでいる。しかも継続生産という方法で。
 いかがだろうか、国産オートバイの古いものを今に生かせるとなると、その前に陳腐化したその姿に手が出せないだろう、と感じるはずだ。オートバイのみならず、常に新しいものが覇を争うことで、この国の工業製品はめざましい進歩を遂げてきたのだ。
 現在の経済状況からすれば、そろそろ一歩引いたところでの「一部変更はありますが、基本は変更しません」という製品というのも必要になってきているのではないだろうか。
 帰宅して、丸穂温泉の湯船につかりながら、ふとこんなことを考えてみた。

2003年 9月 3日(水)はれ
 暑厳しき... 、って絶対に嘘だ。ここは35度あまりを記録する。大洲に至っては36度を越えたらしい。体温と同じ条件に置かれた人間はなかなかおもしろい行動のようなものを見せる。40度をオーバーすれば防御態勢をとるから、身体に与える30度を越えるよう、そこへ行くまでの気温に対して自己防衛反応などが重要になってくるのである。
 そんな中、仕事で外へ出向く。「行きたくない」というのが偽らざるところだ。そこそこでクーラーなんぞ我々にはもったいないと言わんばかりにカットしやがる。30分程度仕事でおじゃまするだけだ。僕にはそんなに相手に迷惑かけるなど考えつかないのだが、税金で飯食っている奴にサービスなど必要無いと言わんばかりなのだろう。ま、日中、特に午後の作業はマイってしまう。
 少し不安になっていたDuo 280cに以前装着していた1GBのIDEを、Power Book 520cにDuoに装着していたiGBのIDEにSCSIアダプターを介したものを装着した。ハードディスクのなじみが出始めるまでは少しばかり動きがぎこちないが、そのうち治るだろう。
 作業はものの30分だが、それでも長過ぎるのかもしれない。が、今のiBookでハードディスク交換となれば近代兵器なのにもっと時間とこつが必要、というバカげたことが待っているのだから、おかしい気分になってしまう。
 とりあえずは、520cも280c(いずれもPPC化)のマシンに元気が出てきた。

2003年 9月  4日(木)はれ
 の所、交換したiGBのハードディスクなのだが、ななんと、メールの保存が200件を越えてしまっている。そんな馬鹿な!と思ってはみても、ATOKとことえりの違いよろしく、ごみ箱に入れれば圧縮します、とNetscapeのヴァージョンのままだったから、アイコンに対して気にもかけないことが実際に起こったというべきである。朝の5時から1時間、ようやく今の状態にすることができた。
 夕方からは広見町で近隣の職員団体の当事者との会議を行う。その後で、焼き肉で一杯やってお隣の町の参加者にアッシー君になっていただいて返ってきた。
 ほんの2時間だったが、なかなか楽しいひとときであった。隣町のI君を始め、やや落ち着きを取り戻しだしたことに、嬉しさを感じた。
 にもかかわらず、こういったことをいまの若い方々に僕が「昔はね〜」と言ったところで、話にならないことであろう。
 僕は、いまの若い方々をそうでもないと思っているが、こういった席でもそこそこ楽しみの世界を全面に出していいのではないか、と感じたりもする。仕事と待遇の関係の話ばかりではうんざりするのである。
 たとえば、少しでてきたカメラの話だ。僕はNIKONを使用しているが、アンチニコンっていうのが必ず居るはずだ。そこを発展させて、お互いが知らないところなどを言い合ってみるなどのことが必要なんだ。
 お隣の三間町まで何キロ、の世界にもかかわらず、広見町の商店街は閑古鳥以上にもっとすさまじい。宇和島のそれより、もっと店がしまっているように感じるのだ。この街で大きなイヴェントなどできないのは明白だ。残暑厳しい以上に暑いこの気象状況からはじまって、いまの日常を見ると、ゲンナリ感が強いのである。大きな町づくりをはじめとして、街の衆自らが一体となって、ことに対しなければますますだめになりそうだ。宇和島の恵美須町でも、「どうして辞めないとならないのか」というほどの店がたたまれる、という素朴な疑問におちいらされてしまう。本当に困ってしまうのである。これからの宇和島圏域の暮らしなどがどうなっていくものか、ますますむずかしいものになって行くような感じがしてならない。

2003年 9月 5日(金)はれ
 日暑い日が続く。といったところで、冷夏に見舞われた所では、この辺は毎日30度を超える、といったところで少々信じがたい、と思われるのも致し方ない、そういった日々を送っているのである。本日は東京でも湿度が低かったらしいが、この辺ではまだまだ日中はム〜ンとすることは必至だ。
 戸外での仕事の人は熱中症になるといっても過言ではない。来週辺り運動会の練習なんぞするのなら要注意だ。今の児童生徒諸君は強い奴なんてどこを見渡しても「いない」と言っても過言ではない。ましてや、教える側の先生方も弱ミソが多いのが、またしても心配の種になるのだが。
 話は変わって、購入以来ピントが来ない、手ぶれする、出来上がりがどことなくおかしい、と感じていたeyeplate mega のショットだが、取り扱い説明書をよく読んで、ここではないか、と思われる所の記述を実際に行ったところ、上手く行くようになった。
 この程度のデジカメに多くの要求をするな、と言われそうだが、取り扱い説明書の中の写真とはあまりにかけ離れていたから、もしかすると、製品自体がわるいのではないか、とばかりに交換させよう、とまでしたのだから。
 いずれにしろ、親切に記載されている取り扱い説明書だが、僕が行ってみたことは記載されていない。
 購入後、開封してただちに使われた方は、僕と同じ現象を感じていらっしゃるかもしれない。その場合は、「内蔵メモリーをフォーマット」すれば上手く行くと思う。妙におかしい、と感じる場合はこの操作を行われるといいように感じる。特にPCがMacの方はクリティカルに現れる現象のようだ。
 そして、いざ撮影の段階では必ず「シャッターボタンを押してビーブ音が鳴っても1秒程度ホールドしたまま」にすること。この2点を憶えておいてeyeplate megaを使用されれば、なかなかの仕上がりを示すはずだ。お試しあれ。
 とはいうものの、この方法を見つけるまで20日ほど時間がかかった。

2003年 9月  6日()はれ
 候の挨拶以上の天気のことはさておいて、ここんところ毎日のように日記を記載している。不思議なことだが、トントン拍子で何やかやことが運ぶのである。それ故のこととして、これでもか、っていう自民党の総裁選のような大意は一切存在しない。
 今日は松山でS本部の定期大会だ。この挨拶をするために出向く。弁護士の福田先生が我々公務員サイドのことまで話していただいたことに感謝するとろもに、S団体が今の状態を脱却するには相当に困難なものが待ち受けている、と感じた。
 自治体合併を前にした我々には合併後の予想さえ一切不明だ。その中で合併後のことを話し合えって言ったって土台無理だ。同じくS正団体の職員云々の件を経営側が勝手にやってしまうと病院経営そのものを自分で自分の首を絞めることになるのだけれど、と分かっているのに人減らし方向でやる。「坊主憎けりゃ袈裟さまで憎い」となるのだろうな。
 そうそう、今日は脅しの警察官のニュースが出た。ここ最近、これら一連の上司の平身低頭の挨拶の冒頭を飾るのは「今後二度とこのようなことが起きないよう云々... 」が非常に多い。幸い、今日の本部長は、そういったことは言わなかった。これは特筆できることだ。二度と起こさないように、と言ったところで、再度起きた事件も多々あるのだし、その場合は何と挨拶するのだろう。
 愛媛県知事なら、皆さん御存知の「みかんの光センサーの入札」の一件が三か所にも及んでいるから、今後二度と云々は絶対にない。
 警察を持ち出して申し訳ないが、まぁ、取り締まる側が不祥事やっても、天下りではないが、ワカゾウのキャリアが見ず知らずの県の警察のトップにきたところで、どうなるものではない。
 それこそ机上の考えで動くわけだし、県内各地で活躍する多くの部下の意見など聞くことなんぞ絶対にするものか。もっとも、本部長に意見する一般警察官もいないだろうけど。
 県警本部長が宇和島市にきて、(市長も市長だが)市のトップと話などしたことなど、僕の知る限りでも一切ない。事実上、こんな県警本部長が県知事より上なんだから、愛媛の保守陣営は磐石の体制だろう。それにしては、迷宮事件も多くて、本部長でお越しになる方は割りに合わないかな。
 話を変えて、午前中に「最良の520c」を完成させた。ゆくゆくは小誌に出すけれど、スタイル云々から性能にいたるまで、久々に僕の心を捕らえているマシンだが、残念ながら、使っているのは少数派だ。
 それでも、一時期のPower Bookの良さを今再認識してもいいのではないだろうか、として記載しつづけている。ほんのエポックメーキングなことだったのだが、実際となると、多くの方は僕の言うようにことが運ばない。それでも使いつづける、というのが本来のヘビー・ユーザーではないか、と思うのだが、カセットテープ同様に今では死語になりつつあるのではないか、と感じてしまうのである。
 で、夜の鳥人間コンテスト見ました?。嬉しかったですね。ま、クリエイト以上のものが存在するのですが、逆の考えとすれば、一般人が簡単に入り込めない世界になりつつあることも事実です。同じように岱明
期にあったような自動車レースでのファクトリーとプライベートの激戦などが無くなったのと同様のことになってきていますね。
 などど、ていねいな言葉遣いにならざるを得ない。飛行機はそれ程の優雅さながら、一般は割り込むことすらできない世界、僕はこういったのが嫌いだな。だから、いまだに人の上へ出られないのかもしれない。ま、こんなので人生終わるのもいいだろう。

2003年 9月  7日()はれ
 日は松山だったので、実際には僕の予定は半日ばかり狂ってしまった。そういった意味あいはないのだが、いつも通りに目がさめてしまう。人間を隔離して生活させると、どうも体内時計の25時間単位になってしまうらしいが、この残暑とは名ばかりの酷暑の度合いを強めている中だし、旧暦のままに動いたほうがいいのではないだろうかとも考えてしまう。
 嫌々ながらトライアンフのフロントホイールを取り付けにかかる。午後3時からだが、表は西陽にかかるし風がないから汗まみれになる。ほんの数十分で終わるはずだったんだが、2時間もかかってしまった。途中投げ出したくなってしまったが、そんなはずはない、と気合いを入れる。タオル1本がビッタンコになってしまうのだ。
 最終のスピンドルの出具合調整で、およそ0.5mmにまで追い込んだが、スぺーサーを入れるかは後日のこととした。まずは、国産車では味わえないことだ。
 残るはキャブレター周りのみになった。車体はサビが目立つが、SRに比べると相当に丈夫に感じる。このようなところが銘車と言われるところなんだろう。
 ま、汗だくの件は僕自身も夏期に身体活動をしていないということも一因かもしれない。本日は四国西南地域陸上競技大会の日であった。ほんの15年前まで、僕が担当した実際の仕事であったのだが、最早過去のこと、見に行きたいとも思わなかった。そういえば、本年はあらゆるものから辞退の意思表示をさせていただいている。当然、9月15日の愛媛マスターズもだ。
 このマスターズも、最近はやればやるだけ自らをあらゆる場へ立たさねばならず、本来のマスターズとしての競技者を育成する方向から大きく離れてしまい、主催者役員、審判兼務という、バカげたことを無償奉仕でやらねば大会ができない、という行き方に向けられてしまう。
 僕はマスターズとしてやるのなら、審判にも謝礼金をもう少し多くして、審判として正式にお願いする方向、主催者は主催者として、プログラム編成から当日の運営など、愛媛陸協に依託すればいい。僕はたとえそれが20万円かかってもいいと思う。なぜかって?、代表で会議に出席すれば必ず役員のオハチが回ってくる。懇親会があっても、このことがあってからは会議の出席も遠慮している始末だ。
 とにかく、年間の会費と大会への参加料を上げればいいのだ。「競技者の負担を多くさせてはならない」とはいうが、ランニングシャツとパンツに2万円もかかる世の中だ。年会費を6千円と今の倍にすればいい。僕はそれでも競技自体に主眼を置くアスリートならOKすると思う。
 安上がりの大会にするからこそ、権威が薄れる、というのが、今の実情ではないかな。当然、地域の運動会然としてしまった四国西南地域陸上競技大会でもそうだが、これからは主催者である愛媛新聞社にも応分の負担をさせたり、参加料を3,000円以上は取るべきだ。いくら公が行う競技会でも、もはや「タダ」の大会自体異常である、と断言してもいい。役人は大会運営の経済状態なんぞ分かっちゃいない。そういえば、昨年は雨で準備ができずに中止してしまった。参加料をとっていれば、木曜日辺りからでも準備が出来たはずだ。たとえ、会場が学校教育の場であっても、公が使うのなら1年前からの予定のこと、気にすることはないはずなのである。
 ま、新市になっても、いまだに中心部に十分な体育施設もない有り様、一体どうするんでしょうかね。

2003年 9月 11日(木)はれ時々くもり
 体交渉、今日は、はっきり申し上げる。市民の方々でこの一文を読んで何か感じることがあれば、メールなりで連絡いただきたい。
 僕は職員300人程度の職員団体の代表だ。市長の意を受けた助役と、職員待遇に対して交渉をしている。そういった中、本日は「勧奨退職の件」と退職時の特別昇格の件に関しての交渉だ。
 一般には解りづらいこともあるかもしれないが、今まで勧奨退職、いわゆる「肩たたき」だけど、過去数年間にわたって、年中行事としてのようにこの件は繰り返され、実施されてきた。
 たしかに、職員団体としては60歳定年まで働いてほしい、というのが目的の一つである。が、家庭の状況で辞めざるを得ない、この際だから、けじめを付けて辞める、という人たちが毎年出るのだ。そこまで至ると職員側はどうすることもできない。
 ところが、理事者はここにつけ込んでくる。勧奨退職は今年はしない。それは昨年までやっていたのに今年は行わない。退職員組合に加入するかどうかを含め、理事者も研究協議する、と市長の発言があったにもかかわらず、やらない、としたものを急に今年もやります、と。あんナ〜、もう少し働く者の身になって考えてくれよ、と心の底から言ってやりたかった。
 去年まで退職した職員のこと、今、実質仕事をしている職員の状況などは一切関係ない、金銭面が主としたところで「やる」のか「やらない」のかを言ってくる。それにもかかわら、状況不透明な新市においてもこういった退職勧奨をやりたい、などという始末。
 オイオイ、バカ言ってんじゃないよ、今の今、これからすぐ来ることを交渉しているんだろうが。新市のことはここでは関係ない。しかも、前回の市長との交渉の結果は一切出されず、市長発言に対する当局の考えのまとめも一切出されていない。そういった中で一方的に退職時の号級アップを決定したい、というのである。
 しかも、新規採用職員数にも影響を及ぼす、とまで言い切る。新規採用職員数は過去の合意ができているし、仕事の状況などにおいて、採用時に提示しているのだし、昨年のようにボイコットも起きないように対処しているはずだ。
 僕は反論しながら、一面「こいつらは人間の仮面をかぶった鬼だな」と思った。
 結局物別れに終ったが、本当に宇和島市にはゼニがないのか、どのような人たちが市民の代表で、その人数は不明だが「市民の声が怖い」という。
 我々も市民の声が近けりゃ、仕事の内容を教えることはできる。が、市政に関しての市民の代表、市民の組織の代表などが一切解らないままでは、我々の心の叫びは言いたくても言うことができない。ここなんだよな。
 今の市長は成果そのものだ。その結果悪ければダメとくれば、途端に... 。ここから反省があればいいよ。でも一切ない。締め付けだけが厳しくなる。この状況で市長になんだかんだレクチャーしても無理だ。
 当選直後はこんなことではなかった。いつの頃から「(株)宇和島市」になったのだろう。
 前書きが長くなったが、助役はロボットみたいに理事者のことを言いまくるが、そのくせ、交渉を繰り返しているにもかかわらず、その結果は一切市長に届いていない。そのために、そのことに対処しない市長への不信感がいっそう深まるばかりなのである。決して嘘を言っているのではない。
 うわじま牛鬼まつりで、市長自身が牛鬼の背中に乗るが、降りた後に担ぎはしない。Gaiyaはまだしも、簡単な(だが奥が深い)うわじま踊りに出ることは一切ない。走り込みにも出ない。
 広報の裏面に市長の母校である北海道大学の同窓会でサッカーのゲームに出た(個人の)ことを記載する必要があるのか。僕の一年先輩だから言うのではないが、このような市長に動かされている宇和島市役所の人たち、合併の三町は、それでも宇和島市さんにフィット!というのが大半の考えであるようだし、僕はあきれかえってしまう。
 僕なら、「こういった考えを持ってますよ、これは独自でいきます。関連のことは各セクションに任すとしても、この独自でいくものは一切排除できません」と合併協議会の席すべてに出席して言えばいい。そうすれば、我々も一定納得する。
 それほど、行政に携わるひとり一人は相当にカリカりしていることを努々お忘れなきようお願いして、今日の日記を閉じる。

2003年 9月 15日(月)はれ
 老の日、この3日間のことを思い返していた。松山ではマスターズ陸上やってる。どうしても今年は出場する気にならなかったし、テレビで見ていても、「出たかったな」とは一切感じなかった。トレーニングをしていないとかは別として、1年前とはエライ違い、不思議なことだ。
 結局やることが多いトライアンフにはさわれず終いだった。しかし、この連休でやったことって一杯あったんだが、夜になって、それらを再び思い返してみると、どうも、ここにきてようやく自分探しの旅の船出をし始めているのではないか、と気づき始めた。
 内田自転車さんが店を閉じて2年が過ぎようとしているが、その間、オートバイからもずいぶんと遠ざかったし、自分ながらのオートバイ感というものも宙ぶらりんになってしまっていたようだ。オートバイを例に出したけど、ギターにしてもそうだし、オーディオも写真も、多くの趣味というか、僕の楽しみをやっていなかったように感じてしまうのである。やっていない、というのではなく、熱を入れていなかったということだろうか。
 ところが、13日の土曜日、宮脇書店で気にしていたiPodの参考本を購入し、ヤフオクで夜半にその5GBモデルを実際にゲットできたこと。そして、OAシステムプラザで見てさわったPower Mac G5 である。買う買わないのことは別にして。いやはや、このマシンはすごい。僕の仕事とか日常生活においても、これなら当分の間、使えると直感した。
 これら、全くひょんなことから僕の心の中に大きなものが目覚めてきた。何かしら吹っ切れたようにいろんなものに手を出しだした。
 まるで小学6年、中学1年生の時のようにだ。本日夕刻にN女史からのお下がりで乗っているラレーの自転車のブレーキシューを交換することまで。これなど、インチ工具が必要になる。これらはトライアンフに乗るための準備品目として入手していたものだ。
 昨日はカセットプレーヤーの遊歩人のドライブ関係の修正とテスト。特にテストは結婚してからFMのエアチェックしたテープを流しながら、以前はよくやってたな、と、今の近代録音関係にない良さを感じたりもした。
 僕も半世紀と2年生きてきた。そろそろ、次の夢に向かって前進が始まったのかもしれない。

2003年 9月 17日(水)はれ
 日のMACお宝鑑定団に新しいPower Book G4、しかも15インチモデルがリリースされる通知が報道されていたが、マジで本日Appleのサイトで確認した。今のところのターゲットはアップルストアのBTOモデルだ。僕はビデオの編集なんぞしないから、このモデルで十分だ。
 同僚のM君に言わせると「クロック数が上がっただけ」と厳しいことを言うが、僕としてはATIのグラフィックチップをはじめ、多くのものが旧15インチモデルから受け継いでいるモデル、僕個人として、Appleはこの15インチモデルこそをPower Bookのリファレンスとしているのではないか、と思っている。
 詳細は解っていないために何とも言えないが、このままの状況で展示されれば、即座にパームレストにさわって熱くないことが確認できれば購入を意識してもいいな、と感じている。そう、感じているとしたのは、今後、このモデルのマイナーチェンジが激しくなるとなれば、おいそれと最初のモデルに手を出すことができない。同様に、旧チタンのモデルの方が好ましい場合もあり得るからだ。
 とは言うものの、今持っているG3のPismoが一層いとおしくなってくる。相当昔になるがオートバイのXS650を売却しTX650を購入するときのことを思い出さざるを得ない。あのときの「売るのではなかった」という後悔の念が、ずっと使ってきたもの、これと思って中古で入手したものなどは、よほどのことがない限り「売らない」と決めてきた。
 従って、このPismoをNewerのG4モデルとするのも選択肢の一つかもしれない、など、新しいG4 Power Bookが僕に投げかけたうれしい悩みに一日中揺れ続けてしまった。

2003年 9月 19日(金)はれ
 風が来ようとしている。ヤフオクで落とし、昨日受け取ったiPod 5GB モデルに仕事と我を忘れて、手持ちのCDからiTunesを使用してインストール、というか、同期した。普段だとこれで終わる。修理した遊歩人にしてもカセットテープを数回ランニングさせて異常がなければ、それで終わりだった。
 が、同期して後、アップデートを繰り返したiPodを動かした瞬間、僕の身体がフリーズしてしまった。この暑い中、フリース地のプルオーバーが必要だった。しかし、下半身を包むチノパンツは、僕の震えを止めることはできない(爆)。
 手持ちのボタンタイプのヘッドフォンから流れ出るその楽曲は、まさに素材を生かし、それを口にする客のため、最高の腕をふるいながらも板前そのものを全面にださないような、そんな高級料亭で口にする和食そのものである。そのニュアンスはまさしくオーディオコンポーネントの領域に達している。フルボリウムでも、決して外に漏れる音でもなく、iPodの持つコンパクトさから来ると予想される貧弱な音質は微塵も感じられず、まるで僕の頭蓋がリスニングルームになったような、そんな感慨を感じてしまい、一時、本当に僕自身がフリーズしてしまったんだ。
 あ〜〜っ、これは!?、おそらくスティーブ・ジョブスはこのことをユーザーに訴えたかったのだろう、と感じた。ちょうど(DATが嫌だった)僕がPCM録音して、アナログディスクをすべからくディジタル録音で残す壮大な計画、そう、(単機能の割には高価で買えなかった)ソニーのF1でPCM録音ができたのと同様に、SE/30の回路を通せばアナログ音源は簡単にディジタル化される、と考えていたときが、Macとのつきあい(コンピューター事始め)だったのだが、ここ数年前に現実として、CD-R/Wの世界とともに実際にそのことが僕の元へやってきた、それで、実際にアナログディスクをCD-R/WレコーダーとMacでCD化したものよりも、iPodが持つパフォーマンスが、もっとオーディオライクな音質をリスナーに与えることにすっかり魅せられてしまった。
 今、シャープ5の「春の海」のCDをiPodで聞いている。何とも言えない雰囲気だ。ずっと昔、コンサートで宇和島に来たときに、余興で舞台に上がった僕にプレゼントされた彼らのサイン入りのアナログディスクを聞いているような、すさまじいとか、そんなものを通り越したところでのiPodの音質を楽しみながら、タイプしている。
 信じてもらえないだろうが、僕自身は、これ(iPod)がステレオサウンド誌に取り上げられたりしても、決して不思議ではない、と確信している。アナログとかディジタルとか、そんな棲み分けをヨシとした記載では片づけられない、もはや、そういった時代になっているのに、「ピュア・オーディオ」などと言っている古い輩がはびこっているところこそおかしい、と感じるようになった瞬間でもあった。

2003年 9月 21日()はれ
 しぶりに忘れていた自然と言葉を体験した。午前4時、裸で窓を閉めて寝ていても寒さで目が覚める。あわててTシャツを着るのだが、うとうとしながら、午前6時に起床。一気に窓を開けて外を見ると、澄み切った青空が間もなくやってくる気分に、「あー生きているな」と感じてしまった。そう、「台風一過」だ。
 ステファニーへ行ってパンを購入するのだが、お目当ての品はすでに売り切れ。ということは心配していた小学校の運動会が無事に行えるようだ。いつもと少しバージョンを変えたものを購入し、帰宅して新聞を読みながら予定を練る。この一瞬から、今までずいぶんの期間忘れていたことを、ここに至ってやっている気分になる。
 8時過ぎにニコンFを手にお散歩。歩き方自体も例の武道歩行に変えて数か月、あらゆるところに反動が出ている。
 36年以上無理矢理矯正した歩行=走法を数か月で自然な歩き方に戻すなどは出来っこない。特に高校3年間ずっと、これを来る日も来る日もやり続けたのだから。
 手の指の痛みも、この関係から来ているのかもしれない。関連付けはできないが「水を飲まないトレーニング」をしていたのを、「あれは間違いで水を飲め」と言われたところで、慣れるまで1年以上かかるのは必然、というのに似ている。
 こんなところが市内にもあったのかな、とかいう風景を旅行者になったような気分で撮影し続ける。絞りを変え、シャッター速度を変え、F2を使用するときとはずいぶんと違う「勘ピューター」の世界だ。
 途中、とあるおもしろいシーンを撮影していたら、うまい具合にその対象物がカメラに飛び込んできた。
 お供はiPodの音楽が勤める。iPodの一件以来、ここ最近偶然の一致的なものが僕を大きく支配している。まるで神がかり的なものにも感じる。
 2時間程度歩いた後、自分で作ったミートソースのスパゲッティーの昼食の後、一休み。3時過ぎから、iPodに納めた音楽ファイルの修正を行う。その間にP.T.Kのクリアーモデルの一部を(もはや無くなったメーカーのものだが)スタンダードのブラックに交換。交換しながら、クリアーキーの一つにヒビが入った。さもありなん、クリアーゆえ、パコパコになっているキートップ、可塑剤がぶっ飛んでいるからもろくなってしまうのは当然である。
 よくよく見ると、後期生産型の純正の英語(ASCII)版キーボードとの差は、ベースのアルミ材からパンタグラフの形状、全体の仕上げなど、P.T.Kが、かなわない部分が多く目立つ。このキーボードにここまで入れ込んだのだ、しばらくこの混合状態で使ってみて、クリアキーの黄ばみが今以上に強くなって来だしたら、ブラックのキートップに変えて、最終は純正のキーボードに戻すことにしよう。それが亡きものへのレクイエムだ。
 火星が通称「尻割れ山」の割れ目から上るようになった。NHKの大河ドラマ「宮本武蔵」も源流島の決闘が終わった。ずっと昔、「それからの武蔵」という民放の番組があったが、大いに批判を受けた。僕は子供心に「普通の人になったんだ」という気分で毎週見続けていた。今でもそうだが、「あの人は今... 」として、頂点に上った人のその後をどうしても知りたくなってくる。僕が思うのはスポーツの世界でも何の世界でも、この日本では何の分野においてもトップにいた人の「その後」のことをほとんど無視してしまうような風潮が大きく支配してしまっている。
 思うに、この教育が無いから、今が一番ということだけの国民性がすっかりはびこってしまって、何でも薄っぺらなものにしかならないのだろう、と強く感じる。
 五輪の書も、武蔵が他界する少し前に書き上げたものだ。その後の武蔵の状況は12月まで放映される。よく見て今を生きるために参考にするのがいいのではないだろうか。先に記したように、オリンピックで金メダルを取った後、急に第一線を退いてしまうと、その人の記録はもとより名前さえ忘れられてしまう今の日本だから。
 秋が一気に来ると、ついついこんなことを感じてしまうものかもしれない。

2003年 9月 27日()はれ
 日から自治労愛媛県本部の定期大会へSRで出かけていた。仕様はいつもどおりだが、昨日はスプリットファイアのSF-426Cにプラグを交換した。格段に力強さが出るのだが、妙に荒い感じになって来始める。思いも寄らぬことは松山到着前に出てきた。タベット周りからカラカラカタカタという嫌な音が出始めたのである。
 本日朝、その音は消えていた。会議の間中ずっと原因を探っていた。まずは、オイル。カワサキのSFクラス10W-40の半合成オイルだ。オイルを入れて2700kmぐらい。もう一つはエキゾースト側のロッカースピンドルのオリフィスだろうか。さらにはブローバイガスの通路を拡大。
 これらのことが関係する。本日の帰路は午後3時30分。再びNGKのBPR6ESに交換。往路は国道56号線だったが、今日は双海から長浜周りとした。双海町へ入る前から音が出始める。ところがどうだ、夕暮れ迫る長浜からは音が消えた。
 どうやら、今回はオイルの粘度が急激に減退し始めるのではないか。SRの場合カワサキのオイルはどうも2000kmぐらいで限界だ。そして、油温とともに外気温も影響し始める。往路は出発時から30℃近くだった。帰路は最高でも26〜28℃。油温は正確ではないが85℃以上になる。どうやら、通常の使用なら外気温は25〜27℃より上昇し、渋滞などにはいると油温が95℃以上になるとエキゾーストバルブ側が苦しくなるのではないだろうか。 ただし、SR400ではこの現象は出にくい状態にある。僕が400と500は似て非なるオートバイなんですよ、というところはこの辺にも明確に存在するものである。
 web上でクーリングフィンを紹介しているが、どうやらSR500には7段程度のオイルクーラーを装備した方がオイルの管理なども余裕が出るのではないだろうか、と感じた。エンジン自体の発熱量からしても、冬季でも問題ないのではあるまいか。
 むしろ、SR500にオイルクーラーは必須アイテムなのかもしれない。

2003年 9月 29日(月)はれ
 日ほど馬鹿なことを記載しなければならないのか、と我ながら情けなくなってしまった。
 前兆は午前中の仕事でのこと。最初のお宅で「この人バカ違う?」と感じてしまったことだ。もちろん学校の先生。仕事している間中パソコンに向かって「あ、間違えた」を連発している。オイオイ、我々の仕事をちょいと注目してくれよ、と言いたくもなる。終わりの固定資産税の説明にしても「理解悪いな、こんなのに教えられる児童生徒は、それほどのものだ」と思わざるを得なかった。次に行った家屋の老人が的確に坪単価を想像するものだから、おいそれとこちらの単価予想を言えない。そんな駆け引きが一般人で出来るというのに ... 。
 ま、ヤフオク落札の祝杯と妻が明日当直勤務ということもあって、肴屋(リンクあるよ)へ行った。(マジで乾燥状態の1日だったのだから、喉カラカラだったので)1時間程度のどを潤したのだが、別席にJN中学の先生方が一気にこられた。僕は少々酔っぱらっていたが、この日記をタイプできる程度の心地よさ、アルバイトの中国からの留学生H女史とマスターとも、「学校のことを無視した市長の考えはおかしい」などと、マスターの奥様のことなど、普段の会話を出来るぐらいの状態だ。
 そこで、そこにいた中学校の先生方から寄っていないにもかかわらず聞いた言葉は「宇和島にもマジすか?というところがありますね」と言う言葉だった。「オイオイ、4月からおまえら勤務してんだろう、卑怯みたいに言うな、そこに生活している方々のことをもっと考えろよ」というのが僕の偽らざる感じだった。
 家庭訪問がどうのこうの、宇和島でもこんなところに生活している生徒が居るなんて信じられない、と言う言葉が教員諸氏から出てくる。僕の陸上競技での先輩であるY校長がそこにおわします。「Yさん、あんたがこんなことに対して、的確に教えんとイケンノヨ」と思わず言いたくなってしまった。家庭訪問からすでに半年を経過している。こんな話題は毎日の業務の時、職員間で出ないのだろうか?
 ま、そんなことを聞きながら、「こいつらに教えられる児童生徒は実社会に出たら完全にドロップアウトするのだろうな」と感じた。そして、「この先生方の頭はカリカリの上司一辺倒主義で、一般社会に放り出されたらひとたまりもない」と感じてしまった。事実、そう感じるのは先ほどのことと同様に日常茶飯事のことだ。
 僕は前者の結果を非常に危惧している。こんなセンコウに教えられた児童生徒が万一のことが起きた場合、警察官の尋問で「先生はな〜んにも教えてくれなかった」と発言したらどうなるのだろうか。もっとも、「そういった発言さえ言えない教育」をほぼ100%洗脳されている児童生徒の口から発せられることはないだろう。ましてや、親は今の児童生徒とほぼ同じ教育を、この愛媛の地で受けているのだから。
 僕は冗談半分で言っているんではないんだ。かつて多くの方々から「先生は世間知らずのバカばかり」ということにどれだけ反論したか。僕の中学3年の担任による政治経済を主とした社会科の授業、担任のM先生は「自衛隊は日本に必要か?」の意見交換を主とした授業を2日間も行ってくれた。結果は「今の自衛隊のあり方」になってしまったが、今の先生方が中学生に対してこういったことをやろうものなら「危険分子」の烙印を押され、ほぼ永久に陽の目を見ないままで教員生活を終えることになる。おそらく、世界原水禁はおろか、8月のその時期に広島・長崎へ行くことさえ認めてくれないのであろう。そんな世界だ。
 総じて、今の先生方はアマちゃんなんだ。愛媛県の職員とはいえ、この地に赴任したら、この地の一員として地域活動にも積極的に参加してほしい。
 そういえば、僕のいるこの自治会にも同じような先生がいらっしゃる。弟さんで別の地で教員やってらっしゃる方が長期休暇を利用して帰省された時の動向こそ人間的でならないのだが、長男ご夫妻が教員の愛媛の教育はそれを拒む。僕の恩師でもあり、あれほど飲み助の教育長さえ物言えぬ世界にしてしまっている。
 そういえば、県立南予青年の家には戦前の「教育勅語」が堂々と掲示されている。「それはおかしい」というなかれ。それ以上に今の先生方の多くは世間知らずのアマちゃんなんだ。しかも自ら世間にとけ込むことを嫌う輩が未来に生きる少年少女を教育している。師の上に... 、の教育勅語以下かもしれない。
 これって相当におかしい。昨年、校長職にありながら辞めた先生を知っているが、お仲間うちで言うのではなく、僕はこういったおかしげな教育をしなければならない学校のトップにいること自体が可笑しいとして辞められたのではないだろうか、いや、きっとそうだ。
 おそらく新市になっても教育界で民間の活用は一切無いに等しいのだろう、嗚呼。 inserted by FC2 system