2004.07.04〜09.28

2004年7月4日()はれ後雨
 夜、深夜の午前0時50分、実のところ、この時間帯に眠気もなく起きている自分が妙に おかしかったのだが、母が存命なら、「早よう(早く)寝さい(おやすみ)」と来るところだが、一つのメールによって、そうはいかなくなった。
 仕事上、金曜日の業務がつつがなく終わって、久々に酔っぱらってみたい気になり、町へ繰り出すも、そこそこの水割り数杯で4,000円も取られる気分に もならず、以前見つけた隠れ家「ジーバ」でジントニックを飲んで帰宅した。
 で、メール開封から冒頭の状況に陥った。結果は後日記載することとして、ネットオークションのちょいとした騒々しさに巻き込まれる経験をしたまでだ。
 ということで、本日もどことなく体調がおかしい。困った半分、うれしさ半分の気分だ。明日、職場でこのことを話すと「バカみたい」と言われるんだろう な。
 今、外は風雨が強くなってきている。心配なのは丸穂の崖崩れの現場だ。この現場の一件もいつ収束が来るのか見通しが立たないような状況だ。
 本日は気分を変えて日中、商店街を歩いた。いい気分でアーケードへ入った途端、末日聖徒イエスキリスト教協会の宣教師が「Chotto yorosiidesuka?」といつものパターンで話しかけに来る。「No ! Thank you」のサインを示し別れる。何故かしら僕に声をかけてくる。実際、毎回同じ話で嫌になるんだ。宣教師自体も以前のような面白い連中も来なくなった。4 人ほど来ていたときなど英会話にも行っていたけど、あの頃とはずいぶん違っている。僕は変わらないけど。
 僕から言うと布教なのか何なのか解らない。一度など、商店街で往復2回も声をかけられた。さっき対面して「No ! Thank you」のサインを出したろうが。
 気を取り直して、スーパーなど寄ってみたけど、フロアも縮小されててダメだな。観光客云々もあるけど、市民に対してもスーパーでさえこういった状況だ し、午後6時30分にはシャッター街になってしまうんだから、むなしい気分だけが大きい。
 このことだけを取ってみても、この宇和島の将来は暗いだけで合併しようが何しようが発展には関係ないように感じた。
 そうそう、我々職員を痛めつけた成果かしら、賃金が下から何番目なのに市長の給料は上から何番目になってしまった。こんなのってあるのかよ?!... 。
 まだ、昨深夜の影響が残っているのかな。

2004年7月7日(水)はれ一時くもり
 の川はちょいと見えない。七夕の今日は本当に1年ぶりの再会みたいな気分になった。と いうのは元箱、取り説ほか全てがそろったP.T.Kの良品が届いた。少し前に初期の交換されたモデルも入手でき、動体保存として手元に残すこととした。実 際、商品を手にしても、「こんなものか」の感じが強い。後期純正のASCII配列のキーボードの方がいい。今日アップしたwww/Grid No.64に記載しているとおりである。
 いいことばかりは続かない。職場ではLAN接続でPismoを使っているのだが、今日はSafariの動きがおかしくなって、再インストールを行ったの だが、今度はATOK 16が言うことを効かなくなってしまった。
 幸いATOK 15が職員団体のeMac用にあるので、そのディスクを借用して事なきを得た。(当然僕も正規ユーザーです。)どうやら、G3には15の方が適しているの ではないだろうか、とも考えられる。
 愛媛県も一太郎を否定しているのは、異例にマイナーチェンジを繰り返しているから、一定そのバージョンで使えないのが、その一因ではないだろうか。当然 よく使うワープロはWordとなって、IMはMicrosoftのものを使うわけだ。
 そんなこともあって、職場で大方準備が出来ているはずだったのに、これが出来なくて、アップロードに往生した次第。天候不順、休日がない、で、こんな結 果でアップだから、次はまとめよう、と思う。中身は持ってるが、確認をとる時間がなかった、というのが本当のところである。

2004年7月12日(月)くもり後はれ
 挙は選挙、致し方ない。松山の街頭インタビューで頭に来たのは「山本さんじゃ無理なん じゃないかな〜、自民党のしがらみの中では新人は何も出来やしないから... 」と言う奴がどうしていないんだろう。こういったのがインタビューを受けた中で数十人いると放送で出せないか?。真面目に、山本っていうコイツはクワワセ 者だぞ。
 この間のインタビューで、よく聞く音楽はフォークソング、中でも'70年代のフォークソングだって。
 女将さんの影響か知らないけど、良く聴く音楽としては時代背景からしておかしいじゃないか。22歳の別れったって、お前さんの時代はもう少し後だ。本当 の'70年代はもっとドロドロしたような時代で、そこで大学生活している奴なんかが今の政治を語るんで、山本君には今の政治なんて任されるわけない。
 ま、そんなこんなで終わった選挙だが、この国は一体どういった国になるんだろうか、という不安が僕が感じている一番の問題である。
 酒道場で0さんと話が進んで、僕より年上の方で、一線で活躍されている方を見たり、話をすると実にうれしくなる。同時に「僕が退職した後はどのようにな るんだろう?」と考え込んでしまう。真面目に「退職後は毎日何もしなくてもよくなる」。これで何人の人が呆けてあの世へ旅立ったことか。そろそろ、僕もそ の仲間入りをする歳になってきている。
 久々にライムハウスからリストが届いた。ずいぶんと持っているものが多くなったが、リストの中にはきらりと光るものがある。1点勝負だ。で、うまいもの が入手できた。オークション専門店ではないので、高価なものは相談も出来る。たかがレコード盤なんだけど、針を降ろす瞬間、ボリウム上げて、所定の位置に 就くまでの時間の立ち居振る舞いまで気を付けなければならない、まさにアナログの世界なんだが、最近の若いのはこのマナーを忘れてしまっているように感じ る。
 ほぼリアルタイムのビートルズを語る我々と、今ビートルズの音楽がいい、という輩とでは、それこそアナログモノラルレコードとステレオCDとの差以上の ものがあるようだ。

2004年7月18日()はれ時々くもり
 朝から慌ただしい。それもそのはず、本日は「牛鬼走る」の日である。蓋を開けると案の定なのだが、ま、気分は良かった。これ一回切りかもしれないが、牛 鬼を走らせるというのはなかなかの発想である。本来は練りが主体なのだが... 。
 そういえば、お祭り当日、昔は元結掛(もっといぎ)辺りから御城下の中心まで練って来ていたのだし、この行事を継続しても、これはこれでいいものかもし れない。
 ついでに、ではないが、ニコンのクールピクス2200のテストも行った。このかわいいデジカメのなかなかの実力を感じ取った。残念ながら3200にロー レベル製品がアップして2200はディスクコンになってしまったようだけど、ニコンとしては、この製品を継続生産すべきではなかったか、と考えてしまっ た。僕としてはお勧めの製品、と確信するものとして、今なら20,000円行かない金額で入手可能だから、ぜひご購入のほどを。
 帰宅途中、クラリ〜っときた。1時間ほど眠ってすっきりしたのだが、実は一昨日からPismoの復旧に躍起になっていて、16日は8時から18時まで、 17日は7時半から13時半までを費やして復旧完了。多くのアプリケーションが開いたと同時に閉じてしまう現象が頻繁に起きだしたのが今月の初め頃から で、その原因究明に奔走したが、アプリケーションの異常は感じられなかったため、最終はOS X 10.3の再インストールを試み、それが上手くいかず、OS 9のパーティションにバックアップを取って、再インストールしたという顛末だ。
 気を取りなおして、急速後、夕食前にSR500のライディングポジションを変更した。トライアンフの好調さから、SR500に乗り換えると何か違和感を 感じ始めていたからだ。指定のポジションではいわゆる積極的な乗り込みが出来ない。それを普通と感じていたが、どうも違うことに気付いた次第。明日確認の ランを行うことで、本日は終了である。

2004年7月25日()はれ一時雨
 前と、夕方五尺玉が炸裂したように雷が鳴る。すべからく、この3日間をスコールが洗い 流してしまった。巷はジジババの世界が繰り返される。僕は少しばかりあほくさくなってしまって、早朝から機能の法被を職場へ持っていって、ステファニーで パンを購入して、午前中はのんびりしていた。
 午後からオートバイでも、って思っていたが、思わぬスコールに断念。いや、実際、この3日間はいったい何であったのか?。こんなことを自問自答してい た。
 少なくとも「お祭り」、宇和島祭り、和霊大祭、そのどっちつかずではなかったのか、と感じてしまった。
 前夜祭の22日、くだらない自己満足のグループが大半を占める中、今治の何とかが大賞であった。が、実際にGaiyaの意味合いを知っていることはない だろう。僕はもっと頭に来るのは、「主宰の宇和島市の市長がその席にいない」ということにつきる。
 「宇和島バレー研究所」のGiyaがどれだけの人気があったのか、青年会議所のバカどもはどういったコンセプトでこの前夜祭が始まったのかを考えるべき だし、グァムまで旅行させていた「ミス・パールガイヤコンテスト」なんてどこへいったのだろうか。
 翌23日も踊りには人出も少なかったのだろう。24日、走り込みで僕は警護に就いていたが、警護するものが酔っぱらってしまっていたり、警護する本体の 市役所職員が、安書が近くなると居なくなったり、行政の奴がこういった状態だからなにをか況やである。議会の議員に至っては、商店街を抜けると居なくなる 始末。こいつらに宇和島の政治を任せられるのか、バカ議員どもが... 。
 市長はカッコよくも1mの水深の須賀川に入るだけ。御輿を海上渡御するところまでの走り込みはせず、最終の待ち合わせの須賀橋に遅れながら堂々と来る。 ここまで走ってこない市長には「お前、バカと違うか」と言いたくもなるだろう。高知の「よさこい」なんかだったら懲罰ものだ。
 こんな状態で合併とかすんなり行くわけがない。走り込みでは、本体の90%の奴らが御座船の待つ桟橋には居なかった。少なくとも和霊大祭用務の一方の雄 でもある市職員を束ねる市長はその場に居る必要がある。
 こういった祭りのセオリーなど無視した奴らが企画運営する「牛鬼うわじま祭り」の将来は無いのではないか、と感じた。「よしだ・たくろう」の祭りの後は 一切感じられない。午後6時半で閉まる商店街、ジジババばかりの街。いくら施設を造ったところで、この状況は変わりはしない。その裏にあるところを導き出 さないと、この街はおそらく衰退の一歩を辿るばかりだろう。
 今NHKスペシャルを見ている。中国ではこの分別収集でゼニ儲けをする、分別を徹底的にやる。全てはゼニのためだ。スゴイスゴイ。僕、日本にもこういっ た連中が間もなく出てくるのではないか、と感じている。僕もゴミの山の2畳の部屋で生活している。他人様にはゴミでもみんな捨てられないものばかりだ。
 日本の多くの人間は当然の無駄な行為はそろそろ猛省されてもいいのではないか、と感じるが、分別収集すら出来ない国民、貧乏でも「最低限の裕福な生活」 が基本の日本では無理だろう。
 今回のお祭りは僕にいいものを与えてくれた。そろそろ、この冬当たり「正調うわじま踊り」をやるグループを組織したい、と考えている。

2004年7月26日(月)はれ一時雨
 殻(ドンガラ)に命を吹き込み... 、で僕が乾杯の音頭をとった「市役所牛鬼保存会」の「うわじま牛鬼まつり」の慰労会だった。午後7時過ぎ、それまでに日本酒を4合ほどやって、これ以上に なると酒の味も感じられなくなるのを恐れて帰宅した。
 その間、部長などを通して、「宇和島おどり」ぐらいは正調のおどり、をしましょう。12人いればいいんですから、に賛同をいただいた。彼自身がすでにマ ンネリの一端を知っているのだろう。これはお金もいらないから11月頃からできるのではないか、と感じた。
 部長自体もこういった役所の職員が何らかのことで一体になって外へアピールすることを願っているらしい。間違ってもハワイへ泉田バレエ研究所のメンバー を「Gaiya」で送り込んではいけないのは明白なんだから。そういったことを考えて、まずは「うわじまおどり」を確立したいと考えたからに他ならない。
 牛鬼も会長に申し入れしていたのは、「かい」(竹ボラ)の吹き手養成をしなければならないな、と言っておいた。全体にメンバーが若いんだから、それを教 えるには、その都度出てこれるOBGを招聘しなければならない。すでに僕の年代がそれをやる時期になっているんだから。
 何となく酩酊気味の体に大きな流れ、というか、息吹のようなものを感じた。

2004年7月30日(金)はれ
 もなく夜の帳が降りる。何気なく空を見ているのだが、雲の流れがいつもとは全 く逆方向へ流れている。午後8時前には丸い月が出た。不思議な空模様だ。台風が来る予告だろう。何しろ台風は左回転だから、鬼ヶ城から権現山の方向へ雲が 流れているのである。台風自体もおかしい方向からこの地を狙っているようだ。予報では明後日辺りに日本海へ抜けるらしい。幸いにして、そのルートだと、こ の地は台風の南側に入るから風雨などは少しばかり楽かもしれない。
 かくいう僕は一昨日と昨日は高知へSRで、今日はJRで松山、8月の1日も松山、いずれも職員団体の用務である。本年1月からどうも異常な状態にある気 がしてならない。この街は一体どういった方向へ進むのだろうか。全く今来つつある台風と同じように感じてならない。
 8月を迎えると同時に今度は一気に秋がやって来るのではないだろうか、とも感じる。
 本日の帰路はすばらしい女性たちによって救われた。午後4時18分発の宇和海15号に20分前での並びに駆けつけることが出来た。ホームを照ら す日差しはまだまだキツイ。その中で学生かもしれないが、4人組の大きいスポーツバッグを持った若い女性たちが待っていた。不思議なことにその乗車口だけ 彼女たちが日向で待っている。
 彼女たちの後ろに女性が2人、これまた汗は流れるが、日差しを気にすることなく待っている。他はどうかというと、みんな乗車のマーカー位置に 並んでいない。僕自身こんな日差しは日常茶飯事の夏の光景だから気にもならない。4人組の彼女たちは元気におしゃべりしている。ぼくはうれしくなって、こ の6人の女性たちの後ろに並んだ。
 結局なんだろうか?。やれUVカットだの、日差しはメラニンに影響ありとかの宣伝語句がはびこりすぎていて、結局のところ、夏を乗り切れない 方向付けをして商品宣伝に一役買わされているのではないだろうか、と思わず考えてしまった。4人の女性はほとんどスッピン。残りの2人もファンデーション だけウォータープルーフの用だった。何しろタオル地のハンカチで押さえるように拭うのだから。
 気分良く席について、もっと驚いたのは男で半袖の上に長袖のワイシャツを羽織るようにしてオネンネしている奴を見たときだ。お前日本男児だったら少々の 冷房ぐらいは訓練しておけ!、と言ってやりたかった。
 紛れもなく弱ミソの人間がずいぶんと多くなってきてしまっているようだ。こいつらが親になってまたぞろ、同じような子供を産む。どこかで、DNAの一部 を元に戻さないとならないのではないだろうかな。
 八幡浜で大半が降りたが、6人の女性たちのような人が、僕が死んだ後この国で生き延びるのかもしれない。

2004年8月3日(火)はれ
 からの好天になった。7月末から少しばかり実験してアナ ログ音源をPower Bookに取り込んでいる。間もなくハードディスクがこのファイルで一杯になりそうだ。使っているのはローランド社のエディロールUA-1Xっていう、簡 易型のUSB接続のインターフェース機である。
 カセットテープもプレーヤーは廉価版のアイワ製。これはソニーのOEMだ。コイツがなかなかいい音を発する。付属のヘッドフォーン(ボタン)がすばらし い。アナログディスクプレーヤーはオーディオテクニカ製のサウンドバーガー。これらの機器で音源を各種のファイルにして保存する。音出しはiTunesで ある。
 ところが、困ったことが起き始めて、昨夜PPC 520cがチビ丸子ちゃん現象を呈してきて、とうとう使用を断念。今更ディスプレーを交換して云々もしんどくなってきた。家庭中心の使用を古い機種に任せ ることも困難な状況になってきている。したがって、この日記もPismoでタイプしている始末だ。
 それならPower Bookの新しいのを購入しろ、といわれるのだが、どうも購入する気にならないのである。とりあえずはPismoの中古を1台ゲットしておく必要がある。 iBookの12インチもいいのだが、少しばかり購入に踏み切ることができない。4年前Pismoを購入したときは壊れるまで使うとしていたが、事実その とおりになったものの、酷使して4年目でそろそろお蔵入りになってしまいそうである。
 何やかや考えながらアナログ音源を入力していると、SE/30を購入した頃を思い出してしまう。12年前、Plus YUへアナログ音源をコンピューターに通したらディジタル変換できないか問い合わせをしたのが皮切りだ。そのとき僕はソニーのPCM録音機を買い損ねてい た。ところが今はどうだ、家庭でDVD録画ができるまでになってしまった。何となくむなしさを感じるが、僕としては多量のアナログ音源をCD-Rに焼き付 ける仕事が一生の楽しみになるのかもしれない。

2004年8月6日(金)雨後はれ
 実に台風一過とかそんな甘いものは一切ない。ばかげた世界だ が、僕のとっての59年前のヒロシマを思い浮かべることは困難だ。確かに少々語弊はある。が、あの日・あの時・あの場所で... を今の自分に置き換えてみて、それ以上にその場所に自分を追いやった感じは、失礼ながら全く感じない。
 そう、テレビなどで僕と同じ年代のものがそういった涙を流していると、「これは学校が教えたこと」に過ぎない、と感じてしまった。現実にアメリカ大統領 選挙でタカ派の彼ら にはケリー陣営には取るに足らず、の世界なんだろう、と思ってしまった。しかし、アメリカ国民の中で「真のイラク戦争」を論じれる奴が全米に何人いるのか しら、と考えてしまう。
 市立病院のH氏から愛媛マスターズに出てくれ、といわれている。僕自身は出場する気分はまるでない。それは次の内容からだ。審判の系統なんて、まるでゼ ニなしの県陸協の言うがままにマスターズは成り下がっている。僕が考えるのは壮年過ぎの楽しみの競技会だ。イロイロの立場の方々がいらっしゃる。特に僕の 住む宇和島では400mトラックが無い。人工樹脂のトラックがないなど、同等の自治体からバカにされることこの上ないj状況だ。体育館だけはステージこそ あれ、立派な者ができているけれど... 。
 自分に振り返って、まずは歩行系から.. 。僕は通常膝をへその下に膝を持ってくるようなモデル並みの歩形をここ45年前、コーチに来ていたN氏の言うままにやってきた。彼の言葉に大きく傾倒して いたのを思い出す。
 今の東高校野 球部はどうやっているのか不明である。密かにこれらのことをクリアーしていたようだ。こんなことを言っても仕方がないが、事実である。必ずや、このことが いい報告を出すことには間違いがない。
 いつの時からかしら、審判に猶予を与えてくれ(これは楽しみで"選手の立場"で出場したいる者の気分を裏切る。
簡単に(審判)登録日は、サポーターはいない方がいい。
 どうやら、これで免許皆伝になったようだ。

2004年8月8日() はれ一時くもり
 とも暑い毎日が続く。朝の7時から高串の申生田(さ ろうだ)から高光までクリーンウォークと称する、言ってみりゃ「ウォーキングがてら清掃作業をしませんか?」って、タダで人集めをやって掃除させようとす る魂胆見え見えの作業に過ぎない。結果はどうか?。この国道56号線沿線は予讃本線の線路沿いだけが草が多いだけで、その他はきれいなものだ。バカらしく なってきた。
 朝の作業にはトライアンフで出かけた。 なかなか快調。比較的気温が低いと、#32.5のパイロットジェットでも少し難しいかな、とも感じたが、どうも K&Nのファクトリー仕上げのフィルターオイルが消えかけていることに起因する。本日アップした本文にも記載しているが、この程度の大きさでもオ イルの塗布量だけでも結構クリティカルに反応する。現実としては、もう少し塗布してやった方がいい。
 10時頃からは憲法を守る会のビラ配り。この辺の人々はビラを受け取ってくれるが、受け 取ったはいいけどクシャクシャにする奴とか、若いのに年寄りみた いなカップルが拒否しやがったり。このカップルが首の下と肩口にタトゥーしてやがんの。コイツを消すことは大変な作業になるんだがな... 、と思いつつ、世の中も変わったな〜、と感じたりもした。間もなく8月15日を迎える。59年前のこの日のこともすっかりと薄れてしまった。
 配布途中、カワサキW650に対面。1型だからシート高が高い。バランスがとれないと175cm程度の慎重の方でも、止まる寸前などはオットットとなっ てし まうようだ。その後W3に対面。やはりいいな。音もそこそこあるし、第一にライダーを包み込むような一体感がいい。傍目に映る姿の重要性は、最近のオー ナーには乏しいようだし、オートバイ屋のデザイナーなんて、今ではジャパニーズユニバーサルのようで、スズキのGSX1400とヤマハのXJR1300が 並んだところで区別なんて一般の人間には判りゃしない。そんな点からすると、僕なんか典型的なオールドトライアンフ乗りの姿だ。不思議なことに、どんな新 しいオートバイでも同じ雰囲気にし向けてしまう。それができないオートバイはBMW 650とか、007に出てきた1200のへんてこりんな格好のような僕が乗れない、乗りたくないオートバイだ。
 夕刻からはPismoを分解。少しばかり快調になったが、どうもCPUの下にあるVSLIが熱にあぶられるためではないだろうか、と思うんだけれど。こ れを交換となると数万の出費になってしまう。ま、新しいマシンにするかどうかを含めて検討課題だ。

2004年8月15日()雨後はれ
 からの雨も昼前には上がった。ところが、ムンムンムレムレの午後になってしまった。平和集会へ出かけるが、イマイチぴ〜んと来ない。憲法論議をやっておく必要はあるのだが、政府の方針からそんなことをやってはまかりなラン、という戦前の方向へ向かいつつあるんだけれど、議員の連中も「恐ろしいことをやっているんですよ」という感じが全くないのだろう。
 夕刻、思いついたようにP.T.Kを再び装着してみた。ところがどうだ!。再初期型がジャストフィットし、その性能が並のものではないことを発見した。が、全てはここまでになった。何と、クリックボタンコネクターのマザーボード側のハンダがはずれてしまった。どうやら、全ては熱だったのだろうか、と感じてしまった。
 仕事で使うのだから、早速、明日にでも中古を1代購入するところである。Power Book G4 にすれば?、と必ずお仲間は進言してくれる。そりゃそうであろう。今時G3マシン?、と問われる。
 完全な仕事なら、確かにそのとおりだろうけれど、僕の場合は少し私情が入るし、そのマシンが今のところ使いやすい、という理由からPismoをもう一台購入することになるのである。愛用品が一瞬にしてダメになる。コンピューターには常につきまとう問題のようである。
 昨日はオリンピック柔道の金メダルのことがあったが、日本はなかなかメダルを取れないんじゃにか、ということが浮かび上がった。僕らが知っているローマ、東京、メキシコシティー、ミュンヘン、モントリオールのオリンピックなど、日本チームの活躍なんぞ、世界に冠たるものでも何でもないのだろう。
 終戦というコトバが一般化しているけれど、実際は日本が仕掛けた戦争に負けた日なんだ。ずいぶんと曲げられた教育などで、教え込まれているだろうから、この国は戦うスベも知らず死を待つばかりなのですよ、と... 。
 で、この日記は5300csでタイプしている。しばらくは苦しい毎日が続くのだろうな。わずかにコンピューターが事故死だけのことなんだが。

2004年8月16日(月)はれ
 Pismoが壊れた。相当な痛手と思うのだが、これがこれで何とか救済の手を考える。思い当たるのはマウスを使用することである。が、トラックパッドの操作に慣れた身にはどうも上手くいかない。そういえば、異変に至る前にポインターの動きがおかしかったのを思い出した。
 iBookのソコソコのタイプにするのかPower Book G4にするのか、さほど悩む必要はない。ここ数か月は物入りなんだから、新規購入、あるいは、それに近いものは見送らざるを得ない。結局同じPismoを購入することとした。
 一難去ってまた一難、アテネオリンピックはなかなか予定通りに運ばないようだ。僕が一番うれしかったのは昨日の女子柔道だ。この価値ある銀メダルのことは金より重いと思う。特に準決勝の残り時間1秒前の大逆転勝利は長く語り継がれることと思う。テレビ出演も無いかな?と思っていたが、悪びれることなく出ていただいた。今回の銀メダルの重みは彼女を大きくしたのではないだろうか。男子も同様にすばらしかった。言うことはない。
 ところが、今日の水泳はいいまでも、午後10時の時点で他は完敗であった。勝つ勝つと過度にあおって、負けるとなれば、その真実の一部も国民に知らすことはない。大会が終わって「秘話」のように流される。国民性とはいえ、戦前の教育に近いものがスポーツ界に存在しているのではないだろうか。
 サッカーの山本ジャパンなんぞこれっぽっちも話題に出ない。残り1ゲームあるにもかかわらずである。
 僕はオリンピックのみに賭けているアスリートが世界にいるのだから、その点を考慮すると、国内予選は「一発決定」の方策を採るべきではにだろうか、と今の時点で考え込んでしまった。想像以上に厳しい。

2004年8月19日(木)雨後くもり
 夜から全くおかしい動きの台風15号が風雨をもたらした。おかしな動きだからか、雨が止んでもムンムンする戸外にいささかゲンナリだ。
 午前11時、待望のPismoが到着。早速今までのPismoから主要パーツを移植する。Windows愛用者が怪訝な顔をする。Mac陣営ではごく普通の行為だ。快調なはずだったが、どうもCPU搭載のドーターボードの接続状態がよろしくない。ハードディスクは回るが起動しないのだ。
 そのため、CPU(カード)も移植するに至った。これでOKになった。午後からは快調に作動し始めた。ところが、システムプロファイラで確認すると、元のPismoのシリアルナンバーのままになっている。ヒートシンクは後期モデルだったし、VSLが簡単にフィリップス製に変更されていた。オーストラリア向けの製品だったが、メモリーのステッカーが黄ばんでいたことなどから、このドーターカード部分は初期モデルの方が調子がいいのかもしれない。
 全体にはきれいな製品だったので、これで当分の間は十分使える。
 それにしても、新しいマシンとも感じられず、ごく自然に使うことが出来るのだろう?。いいな。またぞろ、こつこつとこの機種のパーツ集めなりを開始しておかなければならない。当面の目標はG4化することだろうか。そのためにはもう一台必要ということか。これまで入れ込むのも、人様にはお解りにならないであろうな。

2004年8月23日(月)雨一時くもり
 夜、アテネへ向けてマラトンの丘から女子選手がスタートする。結果は波瀾万丈、27ikm近くからスパートした野口選手が最後はヌデレバ選手と12秒差をつけて金メダルに輝いた。
 僕はこのレースは別の面に注目して見ていた。それは解説の有森さんが全く私情をはずした、まるで冷酷な女のような口振りで解説をする。5kmのラップのこと、選手として今はどうするべきなのかを美辞麗句無しに淡々と解説する。
 「この野郎」、と僕は感じたところだったが、野口選手の後ろに大きくなったヌデレバ選手をして「姿が大きくなりましたね」と。「近づきましたよ」。およそ日本の解説者はこうは表現しないはずだ。で、少しばかり頭にきたところだったのだ。
 レースを終えてみると、こういった解説者じゃないと... 、と。理由は簡単だ。彼女は過去2度のオリンピックに出て2位、3位になっている。しかも今回と同じ高温の走路での勝利。その経験を元にレースを一人の解説者として、あえて実際に走っている感覚で喋っていたのではないだろうか、と感じるに至ったところだ。
 土佐選手も坂本選手もよくやった。涙もなかったし、土佐選手など「どうして順位が上がったんですか?」という始末。ラドクリフの36kmでのリタイヤを知らないままだったし、坂本選手は次のオリンピックをねらっている。全員入賞の団体優勝だ。チームとしては強かったのだな、とあらためて感じ入った次第。
 それにしてもすごいレースだった。これでもか、これでもか、とやった成果だろう。少しばかり見習わないとならない。

2004年8月25日(水)はれ
 憂いというか、すっきりしない目覚めであった。というのも、昨日は、このページにもリンクも張っている「味処 肴屋」のマスターの訃報から幕開けしたからだ。新聞を見ていると死亡者欄の所にどこかで聞いたような名前を見つけたことに始まる。
 え、まさか?と感じたのだが、住所から年齢から紛れもなくマスターそのものであった。まだ42歳じゃないか。店は休業中だったけれど、それでも復帰して再開するものだ、と感じていたのだったが、ついに、それも叶わぬことになった。結局、2月の始め頃に店に行ったのが最後になった。
 僕の天井ぐるぐるになったときは、マスターがもがき苦しんでいた頃で、ついつい僕を連れに来たのかもしれないな、と今になって感じてしまったところだ。
 そういった中で今日が始まり、まもなく終わろうとしている。仕事の中でも何かしら集中できないままで終わった。空き時間を利用して花園村への地図づくりをしていた。2年目に行く「ふるさとセンター ねむの木」までの道はどうなっているのだろうか、などと考えてしまう。様々なものがフ〜っと浮かんでは消えする。残り2か月、T-140Vと僕の体をいい状態にしておかなくてはならない。
 10月16・17日を目指して、そろそろ準備にかかりたい、と考えているところだ。

2004年9月1日(水)はれ一時雨
 月30日からの台風16号はすさまじい跡を残して去っていった。
 そういった中、30日の災害調査の仕事を報告する段になって、大いに頭に来た始末。少なくともだ、総務部長が「みなさんの目に映る範囲で床下・床上の判断をして、午後6時ぐらいに報告願いたい」と。
 ヨッシャ分かった、と持参の合羽に着替えて点検。結果は担当地区は無傷であった。31日はその調査員に対して再度確認してくれと来る。部長の30日の言い分なら分かるが、単に主任クラスが上司の指示を仰がずにとりまとめを行った。
 何の保証もない30日の困難な仕事は何であったのか、僕は市の理事者に大いに反省をしていただきたい、と感じたところだ。
 大洲の状態はうちよりもっとひどい。数年前の改修工事の完成は何だったのだろうか。大洲城の一般公開のことは一つ棚上げ、ということにしてはどうだろうか。
 うちも言いたくはないが、雨漏りがするとか出ることだろう。これらは受付できませんのでご理解ください、ていいのではないだろうか。

2004年9月4日()くもり後一時雨
 のところ、これほど脆弱な宇和島市の行政、その中に働く者からしてもイヤになってしまうほどの数日間だったのだ。前回の日記が9月30日のことがメインということからもお分かりだろう。そう、その日からのモヤモヤは本日午前8時30分に晴れた。
 が、余韻が続かない。午後から急に来た雨のため、ダラダラになってしまった。そんな中で意識を明瞭にしておかなくては... 。
 実は昨日午後3時から休暇を取ってトライアンフにかかっていたのだ。オイル交換の後もプッシュロッドチューブ近辺からのオイル漏れは止まっていない。ようやくSUDCO MIKUNIのいいところが分かりかけて、そのためのテスト走行をやっていた。
 で、本日は残念ながら、昼前には雨の予報になっている。昨夜は早めに就寝し、本日は5時半起床、6時30分から途中のセッティング変更を加えて2回テストコースの走行を8時半に終えて、ほぼ満足な結果を得たところだった。次のツメは来週の予定だが、11日は所用でT-140Vにはかかれない。
 ともかく、これで10月の準備は出来たのだが、再びシリンダーヘッドをはずさないとならないかな、と考えている。
 といっても、この程度の作業だと、ガスケットを落ち着かせる日を入れても、連続した晴天なら3日もあれば十分だ。「信じられな〜い」って言ったって、トライアンフはそんな心配がないの。
 ほとんど今のオートバイ並に修理できる。パーツはもとより、ヘッド自体にはバルブが付いているだけのものだし、今回はバルブの摺り合わせもしないから... 。
 雑誌培倶人にヒンクレー・トラのスラクストンがいいように記載されているけれど、僕に言わせれば、どうしてもアラブ系の馬にしか感じられない。僕がヒンクレーのオーナーというか、経営側なら少なくとも750でリリースするのに... 。
 ね、750だと、これでレースにも出られことになるから。すると、サラ系の馬として軽く運動性能もいいものが出来ることになるんだけどな〜、と雨の中、考えてしまった。

2004年9月7日(火)大風に雨
 っ、今日の天候はこんな表現しか出来ない。台風18号はこういった状態で午後6時過ぎに北北東へ行ってしまった。
 まるで見ているよう?。そのとおり、見ていたの、というか、感覚のものだな。先の16号はヤバイと思ったけれど、今回の18号は風が大きいんだろう、と想像していた。幸い大潮でもない。そんな中、風はすさまじいものがあった。こっちが案じるのは、いずれにせよ、風害である。こればかりは想像がつかない。
 すでに、リンゴ農家に近づきつつある台風がもたらせる被害は数年前の時と同じだ。そういった風害を、この南予地方に対応させると、生け簀の破損ぐらいだ。もしかすると、ミカンの収穫に影響が出るかもしれない。漁業でも、農業でもそんなには気にならない。その程度の風の強さだ。
 で、結局のところ、起きるのは隣の樹木がウチの敷地に入り込んだから所有者を教えろ、とかのくだらないものに対処するのみだ。
 少しばかり遅れて退庁したが、帰宅途中見かけたのは、「もう台風って最低。この葉っぱの始末どうしてくれんのよ」といって、ブツクサのままに掃除をしている商店街関係者だけだ。
 これって、平和じゃん。本当の被害だと、もっと深刻なものだ。住む家が流されたとかの重要なことが来るのだけれど、先の16号で出尽くしたのかもしれない。
 だから、僕はこの台風は「アッ、そう」とだけのものだ。次の台風19号が四国にどういった影響を与えるのかを心配した方がいい。その時、雨の領域に入ったなら16号の時の教訓が活かされるかどうか?。それが一番なんだろう。
 僕の被害はメールの音信不通だけであった。ヤフオクの落札後のメールの行方が判明しないまま、悶々のうちに過ぎてしまったのだ。現実に送金確認は出来たが送付先が不明、といったメールが多かった次第だ。
 そろそろ、ケーブル関係をすっきりしたい、映りの悪いテレビチャンネルのためにケーブルテレビに全てを託そうか、と考えた台風の一日であった。

2004年9月12日()くもり時々雨
 く天気がうまくない。天気予報では良い方向へ向かうはずであった。が、この地方独特の天候不順がそうはさせない。このことは分かっているけれども頭に来ることだ。これから冬へ向かうと、もっとひどい状況になってくる。どうしようもない。
 トライアンフに取りかかることは断念した。本文で紹介している拙文の内容が一層むなしいものに感じられる結果が待っているのではないだろうか。本来なら削除ものだが、これは別の意味、そう、全くデータのない世界から導き出すものとしての試行錯誤の結果としてで許していただこう。
 早ければ明日、よければ、近くに半日休んで対処したいと思う。おそらく完結に至るものになると思うところだ。
 さてと、例の飲料を飲み始めて3週間が経過した。どうもすごいことが... 、と思っているのだが、最終週が終わった時点での報告かな。僕と接するみなさん方が異口同音に「お疲れの様子」と言うが、体の異変からすると、そのとおりだろうと思う。
 ここ最近、Power Bookをいじっているが、PPC 520cの使用を断念した。理由は色々あるが、修正を施した5300csの方が何かにつけて確実性が高い。通常なら次は3400なり、2400だろう。が、適度な大きさ、使い心地、整備性というと、5300ぐらいなんだ。
 「それじゃiBookにしたら」、とくるっしょ!。そりゃいいですよ。でも、使う気にならないんだ、今のところはね。やるとしたら、全体をブラックに再塗装するぐらいの気分は持ってるものの、キーボードがそれを許さない。まさに痛し痒し。もっとも熱問題は解決できていない。そのことが僕を向かわせない一番の要因かもしれない。
 商店街のコミュニティ広場で開催されている宇和島の奇才であった河野一水 氏の写真を見た。僕はよく存じ上げているが、マルチ人間の走りのような存在であったんだろう。一部では変人のような気分で見られたこともあるけれど、奇才の死が宇和島にとってどれだけの損失があったかどうか、そんなことは知っちゃいない、というのが今の宇和島人だろうから、僕は亡くなってからこういったことを主として市民に広める、というのは実際の所いかがか、と思う次第だ。
 展示してある牛鬼の置物をみて、「これこそが牛鬼の置物」と、おそらく90%の人が感じるであろう。今の置物に比べるとそれほどの違いがある。こんなところは一切無視っていうところが今の宇和島だ。だから人情も何もない。ましてや、宇和島の現代をすでにつまらない思い出として、作者不在住の「世界の云々」の小説なんてちゃんちゃらおかしい、と言わざるを得ないんだ。
 もっとも、彼の高校生当時から宇和島はつまらない街になり下がっている、とした方が正解かもしれないし、それ故、不在人が思い出として文章に出来るのだろう。

2004年9月18日()くもり時々雨後はれ後一時雨
 して冗談で天気を記載しているのではない。今午後8時前。外は少し雨が来た。それまでは晴れていた。この調子で遡れば、午前5時過ぎからの雨も納得できるのだろう。天候に関しては少々ゲンナリの気分であった。
 そんな中でも何かをやっていなければならない。ま、宿命みたいなものだろうけれどネ。後述するけど、実は天候の関係からトライアンフを先にやって、後はなりゆき、ということにしていたのだが、断続的に来る雨、雨、雨で後回しにせざるを得ない。思いついてPPC 540cの修正に取りかかることにした。
 とりあえずはOS 8.0で構築して、エクステンションなどを移し返して、ほぼ以前の環境になった。が、考えてみれば、8.0でも重い。この際だから、メモリーの容量如何に関わらず、確実に速く応えてくれるOSは7.6のように感じる。特に、この年代の機種で、アップデートを繰り返して行ってきたマシンには有効な手段に思う。
 午後も天候がうまくない。が、2時過ぎから、誰が見てもOKの天候になった。「この時しかない」とばかりに、T-140Vのパイロットを#22.5に変更する。ただちにいつものテストコースへ入れる。大きく変化したマシンの様子からほぼ完全であろうことを確認した。何とか、明日もこの天候が続いてくれんことを願うのみだ。
 すっかり忘れていたが、僕は昨日「祖父」になってしまった。つまり、息子夫婦に長男が誕生したわけだ。本来なら水引に諭吉を持って「おめでとう」なのだろうけど、この天候のため、T-140Vを優先させた。命は新しい者に受け継がれた。この事実からすれば、T-140Vを優先させるのは当然だ。主体は独立した息子夫婦だから。

2004年9月20日(月)はれ時々くもり
 の天気を記載するのにいったいどのくらいの時間を必要としたのだろうか。僕の知っている範囲では今月の15日からだ。この日以降必ず1日に1度以上スコールを味わう。何ともはや、の状態であった。
 さて、本日は昨日と全く同じ状況になった。午前中はコンピューター、午後はT-140Vである。昨日は点火プラグをBR6ESにしてみたのだが、これはテンでダメ。再びB7ESにしてOKとした。残るはプッシュロッドチューブからのオイル漏れだけである。
 さて、初孫に対面したのだが、一体誰の血を色濃く引いているのか、全く解らなくなってきた。その前に義母のお見舞いに顔を出したのだが、そこで聞いたのは孫は「息子によく似ている」ということであった。
 僕自身が本人と対面したところ、こいつは6歳ぐらいになると母親に似てくるな、と確信した。ところが、容姿とは別に手と足の指が異例とも思えるほど長い。息子のやっているバスケットボールの選手を宿命づけられているのか?。僕は僕で、曾祖父(義父)の骨格にそっくりだから、マサイの戦士みたいになるかもしれない、と考えた上で、もしかしたらピアノとか弦楽器に精通する子供になるんじゃないか... 、などと考えてしまった。
 まさに親ばかチャンリンの世界ではあるが、これから幼少期にかけて、この子(息子)が育ったときと同様の社会経験を味わってほしい、というのが僕の偽らざる気分であった。
 そうそう、この意味からすると、午後6時からのNHK総合テレビジョンでの「ホリデー日本」で、5歳の保育園児の富士登山のドキュメンタリーは、息子が過ごした私立宇和島病院の院内さくら保育園でのことが思い出されて、相当に気分良かった。こういった集団生活を今の多くの保育園でやっているかどうか。僕はやっていない、と思うし、なおかつ、危険が伴うから責任の所在が明確でなくなる、などから一切行わないのが常套手段だろう、と思っている。
 敬老の日にこういった番組をやるっていうのも一理あるし、敬老の日だからこそ、高齢社会人がもっと子供とか一般の若者をいたぶるような行為の番組を制作すべきじゃないか。かく言う僕も敬われるのは嫌いだし、死ぬまでやり合う覚悟は出来ている。
 昨日もカワサキのW650とすれ違ったが、モノホンのトライアンフがオメーさんの目の前に居るんだ。相手のひさし付きハーフカップのヘルメット野郎を卑下すると同時に、少しは「これはカワサキW650だ、モンクあっか」と言うぐらいの毅然としたスタイルで乗れっていうの。僕が以前だと折り返して後を付けていたし、「トライアンフより速いぞ」という気概を持っていたものだ。
 同様に、広見町で修理していた水没した大洲のT-120R(1969モデル)、見ていた僕は唖然とした。僕の方が整備が上手だ。
 シリンダーに斜めの筋が走っていてもいいの?。ヘッドはぐったのだから、バルブの摺り合わせやってみたら、と思われる状況。銅板のヘッドガスケットをそのまま使おうとする。
 プッシュロッドチューブの下側にシール材を入れる、つぶれてオイルを防ぐシリコンOリングを今のものに交換してしまっているなど、そうではにんですよ、とサゼッションしたくなってしまった。ぐっと押さえて帰宅した。あれで調子が戻るとは考えられない。
 分解するより、オイルを入れ替えてまずエンジンを始動してみることが先ではないだろうか、というのが僕の本心だが、それを言うのは止めた。
 僕のT-140Vはいい状態になってきた。オイルクーラーを装備したいんだが、ハーレー用のホースアダプターが高価。何とか8mm-9mmのホースアダプターを作らないとならない。なかなか楽しい日々が続くのである。
 

2004年9月23日(木)くもり時々雨
 分の日だけど、お墓へ行く気にもならない天候だ。たまっていたビラ配りとT-140Vのキャブのまとめを午前中に行う。ビラ配りをやっていると、数人の職員が働いている。こんな状況は上司に届かないのだろうか。まさか「賃金不払い残業」ではないと思うが、僕なら、職場の環境を変えてくれ、と言うだろうな。
 昼食は八宝亭まで出向いた。いつものランチだ。今日は鳥の唐揚げだった。何となく満足。というよりは満足すぎるまま帰宅した。
 T-140Vへのオイルクーラー装着に対して少々疑問点があって難儀をしている。フレームのダウンチューブのステアリングヘッドを挟む角度が狭くてUボルトが干渉してしまうのである。一気にコの字ボルトに変更するか、というと、その場合は取り付け位置が下過ぎてしまう。この兼ね合いが難しい、というところで思案中だ。ホースジョイントは宇和島船具で調達できた。残るはこの部分だけなのである。
 明屋書店で「ザ・シェフ」の新しいバージョンのコミックを見つけて、思わず購入した。以前のザ・シェフも全巻そろっている。今回からの新しいのもいつもの辛口の物語であり、僕としても10年あまりの月日はそんなに変わるものじゃない、ということを確認できた次第。
 テレビで「エースを狙え」のsplバージョンをやっていたけど、つまらなかった。どなたかが言ってたが、数十年前に「それからの武蔵」という番組が放映されたとき、「武蔵は巌流島で終わらせていなければならない」とおっしゃってた。昨年の大河ドラマも後半の人気が落ちたし、今日の「エースを狙えspl」も同様に、シリーズドラマで完結させておくべきだったのではないだろうか。
 ありえないとは思うが、昼のニュースから始まった北朝鮮のミサイル発射云々のニュース、実際に東京へでも落ちたらどうなるのだろう。最近の政府はどうもこういった危機管への対処がなっていない、と思う。もっとも、その心配がないと言い続けるのだけれど、それじゃ、実際の情報を逐次国民に知らせる義務があるのではないだろうか。小泉君の今日はどうなっていたのだろうかな、嗚呼... 。

2004年9月26日()くもり一時雨
 う、相変わらずのおかしな天気に少々ウンザリの気分である。お分かりのとおり、一日ですら連続した野外での作業を継続することが出来ない。何と何と沖縄には台風が接近である。間違っても急激に北上することはないだろうけど、何とも大変だ。
 T-140Vへのロックハートのオイルクーラー装着方法が判ったのだが、それをワンオフでやるとすると結構大変だ、ということが理解できた。何とか別の方法を考えているところだが、帯に短し襷に長しである。
 持っているはずのシリンダーヘッドのガスケットだったが、どこを探しても見つからなかった。その代わりに別冊モーターサイクリスト誌に連載されていたW1のレストア方法の切り抜きが出てきて満足。
 というところで、銅製のヘッドガスケットで、イギリスのローバックから個人輸入したあまり使用していないものをガスコンロで焼いて湯船の残り湯に入れてチュンした後、クリーニング。立派に使えるようになった。手持ちの今流のガスケットだと、ロッカーカバーを取り付ける際、一晩夜置いて増し締めだから、銅製の方が好ましいかもしれないな。
 JUSTSYSTEMの予告どおり24日にATOK 17が到着。昨日インストールしたのだが、どうもマズイ。さんざんマニュアルを読んだ後、「もしかしてキーボード?」と感じて、テスト使用のP.T.Kを純正の英語版ASCII配列に戻したら、急にうまく作動し始めた。ATOK 16に少し不満足だったが、17はいいようだ。
 悪いことが続くもので、貰い物の松下のテレビが昇天した。テレビもイマイチだから、どのメーカーと限定できない。液晶も少々な〜。第一に処分費用が高すぎるよ。何とかしないとならないが、決して苦し紛れではなく、ラジオの生活もなかなかおもしろいものがある。大学の下宿を思い出した。48年度の卒業だから、もう31年も前になるんだ。10年前に行った時には下宿の建物があったが、今はどうだろうか。半年後の万博にでも行ってみるか、などと考えていた。

2004年9月28日(火)はれ後雨
 はな、そう9月。しかも10月を迎えようとしているときなんだけれど、一向にそうは感じない。今朝は、まるで梅雨明けを待つような時をフっと思い出してしまった。
 天候上は30℃を越えないものだから真夏日ではない。が、現実には夏場に銭湯へ行って、湯上がりの状況を呈している、そんな気温と湿度だったのだ。
 職場では、市民の苦情などを受け付ける課の担当が自身で処理できないものを、相談もなく苦情主とともにウチの職場に持ってくるものだから、そりゃ、ウチの若いのは相当にコタエテいた。
 そもそも、市民の諸々の困りごと、ヨロズ相談事とかモメ事などを受付けて処理する宇和島市行政の庶務係である課で、オマエサンが担当になって各課との連絡調整に当たるべく任用されてんだろうが!。
 実際には、持ちかけられた問題は他の事業課などとも我々の職務以上に関わっているんだから、そういった事柄をまとめるオマエサンの立場は相当に重要だし、それを関係各課と連絡調整に当たるのがオマエサンのお仕事だろうが。それを関係課ごとに振ってたんじゃラチが開かんのだよ、このバカタレ!、と心の中で叫んでやった。
 なぜって?。オマエサンが連れてきた市民に僕が接したら、その市民に説明するのじゃなく、真に「オマエサン何してんだよ、課長に言ってやろうか」が、現実になりかねないからだ。それゆえ、グッとカウンターへ出ていくのを我慢していた次第。
 ま、職員の多くは、僕の言うことが「そうですよね」ということを知っているし、一向にやり方を変えないオマエサンに実際を言わないけど... 。
 そんな中で、これまたバカさ加減だけど、再び来襲しそうな台風関連で「地震関連対応」をやろうとしている。何度も言うけど、これは揺れが収まってからの対応が主たるものなの。それを通過時に大きい被害をもたらす台風に対しては全くフィットしない。どうして上層部はこれが解らないんだろう。
 明日は暴風域に入る。そんな中でも、おそらく今晩は担当課の管理職連中は泊まっていないだろう。今日でも、ほんの20分でいいのだから、本庁の管理職だけでも集めて台風の対しての対策ブリーフィングをやればいいのに... 。
 先日も1週間のうちに2度の台風が来たにも関わらず、このブリーフィングなどは一切なかった。結果は、台風の被害対策に四苦八苦しているにもかかわらずである。
 市民の大半が「台風直撃」は理解しているはずなのに、いつものように大雨の中、犬の散歩をするヤツ、ラジオ体操に出ていくヤツがたくさんいるのだろう。
 事故が無いのは幸いだが、万一、河川の氾濫とか崖崩れが、ラジオ体操をやってるのや、犬の散歩をしているのを襲ったりするとなれば、このことに対して、僕は悪い意味で、お臍で茶を沸かす出来事ではないだろうか、と思わず失笑してしまう。
 市民の防災意識なんてこの程度のものだ。おまけに、それが地震対応がメインだから、何をか況やである。
 
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