ふたたびオーディオでもやってみるか
最近は音楽を聴くの、みんなオーディオなんだろうか。映像分野のヴィジュアルは一
定アナログ、ディジタルと銀幕に分けられるがそれでも、一部ディジタル面でもアナログを使っている。ヴィデオなんかはアナログ部門の方が断然多い。
一方オーディオという音響部門のソースはメディア自体はディジタルが多い。CDが出てからすさまじいスピードでアナロ
グを駆逐してしまった。もう自家用車の中にCDで聞くカーステレオっていうのは、ごく一般に普及してしまった。
僕もCDっていうものにはごく自然に入ってしまった。雑音がなくっていい。当初言われていた耳の奥が痛い、刺激的な音
がする、こんな経験は一切無かった。システム自体は結構なものをすでに揃えていた。考えると、失火前の状態にするのに80倍ほどの出費を強いられたのは、
僕のオーディオシステムだけだ。脳裏にこびり着いて離れない僕の絶対感覚の「音」を再現するのにこれほどの金額がかかるなんて信じられなかった。駆動する
アンプにもずいぶんと手こずった。ウエスギを入れてから、この件は収まったし、他で聞く音楽っていうものも信じられない気分になってしまった。
たまたま、そういった音があったために僕としてはこのようなアンプから入ってしまったが、先に決定するのはスピーカー
であることは間違いない。
話がそれたけど、そもそも、耳に到達する最終段階での音はディジタルかアナログか?。みんな分かっているだろうか。こ
れはアナログだ。雑誌なんかで略している「DAコンバーター」っていう装置で音となるアナログ変換するわけ。DA、つまりディジタル/アナログ変換装置っ
ていうものだ。
だから、音としての絶対なものが無い方にはオーディオの音なんか関係ないことになる。したがって、iMacにハーマ
ン・カードン製のスピーカーが搭載してあろうと関係ないんだ。
次は音を音楽としてどういった方向付けで耳にして楽しめるか、の要素がある。家がそうだろうし、感性もそうだろう。家
具調度品にしてもしかり、である。
で、「好きな音楽をいい音で楽しみたい」という根本のことが、今忘れられようとしているのではないか。このことが忘れ
られたことが一般化してしまい、ある人は銭に糸目を付けづにエスカレートしてしまうし、真空管なら真空管として作っては壊しの連続で、音楽を楽しむため、
という一貫性がなくなっている方などを目の当たりにすると、僕も事あるごとに「こうなんですよ」といい続けてもダメだな、とオーディオから手を引いた、と
感じている。
そりゃそうだ、オーディオマニアに否定され続けてきたシステムコンポが現在のオーディオセットの主流であり、アナログ
ディスクの復権となれば、それなりにプリアンプ内蔵のコンパクトなアナログプレーヤーが出現する始末。こういったシステムが20畳ほどの部屋で充分に通用
する。全く恐ろしい技術だ。
でも、こういったものでレコード音楽を楽しんでも、どことなくむなしい気分にならないだろうか。わが家にボンジョビな
どを呼べやしない。オーケストラだって無理だ。逆にアーメリングを巨大なソプラノ歌手にだってできる。ビートルズを再結成することもできる。その中でバラ
ンスの取れた音、自分にとっていい音での音楽っていうものを忘れかけている。自然の摂理などを忘れないために昔はフィールドワークなどで自然の音を聞きに
行ったり、アウトでの録音などもやっていた。
こうれだけ発展した近代技術の中で、本来のオーディオの原点を今復活させるべきではないか。僕はそう感じるのだ。けれ
どもマニア然とした大多数の人はそういった方向に目もくれず、いたずらにスピーカーがどうの、アンプがどうのこうの、ケーブルがどうのこうの、とのたま
う。肝心要のオーディオを楽しむ「者」の存在はどうなんだろう。こういった本来のオーディオ関係のことを申し述べる専門雑誌も少なくなってしまった。
今のオーディオにはファナティックスは必要ない。製品をリリースする側も一般家庭に導入して、真にオーディオを楽しむ
には、っていう考え方の人はあまり存在しない。こういった中で再びオーディオをやろうとする。今まで述べたことが否定される。僕の絶対音が否定されるに違
いない。
これじゃ、元の木阿弥かもしれない。はたしてそうだろうか、僕自身をそういったものにそって、自分にとって真にいい
音、万人にとって一定いい音での音楽という、ごく普通の人が、こういった音での音楽を楽しみたいなー、という感覚に沿っていくと自ずと答えは出てくるもの
だ、と信じている。
と、いうところで....。
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